「神がきよめたものを」
- 佐々木 優
- 7月6日
- 読了時間: 5分
2025年7月6日(日)
テキスト:使徒の働き10:37~38(a) (新約聖書255頁)
ペテロは、コルネリウスに、私たちに幻の中で語りかけて下さった御方、イエスさまとはこのような御方ですと伝えていった。その冒頭はバプテスマのヨハネのことから始まる。
37節、38節前半「あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事柄をご存じです。それは、ナザレのイエスのことです。」
バプテスマのヨハネの記事は、4つの福音書全てに(マタイ3:1~17、マルコ1:1~8、ルカ3:1~20、ヨハネ1:6~8、1:19~37)記されています。そして4つの福音書全てが、バプテスマのヨハネの宣教活動は、旧約時代の預言者イザヤの預言の成就なのだと記しています。
バプテスマのヨハネは預言の通りに、荒野に現れ、「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」のことを叫び、宣べ伝えたとあります(マルコ1:4)。
当時のイスラエル民族は、自分たちは神から選ばれた民である故に、何をしても許されるというような間違った選民意識を持っていたようです。、バプテスマのヨハネは、イエス・キリストをメシヤとして迎え入れる心の準備をさせるために、悔い改めて、神に立ち返るよう宣べ伝えたとあります。
バプテスマのヨハネは「らくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」(マルコ1:6)とあるように、旧約時代の最大の預言者とも言えるエリヤの風貌をすることで、この後、旧約聖書で預言されていたメシヤが来るということを示し、悔い改めなければ神さまの怒りが下る(マタイ3:7~12)のだと語りました。そして、それに呼応した多くの人々が、自分の罪を告白して、悔い改めの表明としてのバプテスマを受けたとあります(マルコ1:5)。
前回、福音(良き知らせ)という内容の中心は、ユダヤ人と異邦人を一つにするためにイエスさまが十字架にかかって下さり隔ての壁を打ち壊して下さった(エペソ2:14~17)ということではないか・・。そして、その福音に仕えるためにパウロはイエスさまから声をかけられた(エペソ3:5~7)と述べているということを見ました。
バプテスマのヨハネという人は、神の律法に忠実で、そして激しい性格の持ち主だと思います。
マタイ3:7~10にはこのように記されています。
3:7 ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。
3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
3:9 あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。
3:10 斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。
マタイ11:2~6にはこのように記されています。
11:2 さて、牢獄でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、自分の弟子たちを通じて
11:3 イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」
11:4 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。
11:5 目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。
11:6 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」
バプテスマのヨハネは牢獄に入れられている時(ガリラヤの国主ヘロデ・アンテパスが異母兄弟ヘロデ・ピリポの妻ヘロデヤと不倫関係にあったことを責めたことにより牢獄、後に斬首で殉教)、イエスさまは本当に待ち望んでいたメシヤなのだろうかと疑問を持ちました。それは、バプテスマのヨハネが持っていた神さまのイメージとイエスさまのイメージがかけ離れていたからだと思います。バプテスマのヨハネの神さまイメージはおそらく、神の律法を守れば祝福し、守らなければ罰を下すようなイメージだったのだと思います。しかし、聖書全般から読み取れる神さまは、やさしい天のお父さまであり、むしろゆるゆるな感じの御方なのです。イエスさまはそのような御方でした。
見てきました使徒の働きに戻りますが、ペテロをコルネリウスに会わせるためにイエスさまがペテロに見せた幻の中でイエスさまはペテロに言われました「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」(使徒10:15)「神がきよめた物」とは異邦人のことを指して言っています。ユダヤ教に改宗しているような百人隊長コルネリウスのことだけを指して言っているのではないと思います。ここでは異邦人全般のことを言っているのだと思います。それは、神さまが命を与え、この地上に存在する者とした一人一人は、その存在が愛するという対象だからです。神さまは全ての人(ユダヤ人も異邦人も)をきよい者と見ておられるということだと思います。
バプテスマのヨハネは、「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」のことを叫びました。しかし、その「罪」の概念は、イエスさまが持っておられた概念とは違っていたのだと思います。全ての人は神さまの前に罪ある者なのですが、その意味は、「神さまが愛して下さっているということを知らない・・受け取っていない」ということなのです。「悔い改め」(ギリシャ語メタノイア)とは、「転回する」、「心を変える」、「立ち返る」という意味のことばですが、視点の転換ということも意図していることばなのです。何に転換するのでしょうか・・。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」(使徒10:15)ということに転換するのではないでしょうか・・