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「創造主とのいのちの交わりに戻ってきてほしい」

            

創造主なる神様による天地万物創造の時、最初に造られた人類の先祖アダムは、神様と愛の交わりを持って、いのちの交わりを持って神様と共に生きることによって、この地上で幸いな生涯を送ってほしいとの願いを込められて命を与えられました。

そして、その人間の心の中には、造り主である神様の律法が書き記されました。人間の心の中に書き記された神様の律法とは、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」という戒めと、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(新約聖書マタイの福音書22章34~40節)という戒めに集約され、まとめられます。

これは、神様との交わりのあり方、そして、隣人との交わりのあり方を示したものです。この交わりのあり方を、神様は、最初の人アダムの心の中に、そして、その後の全人類の心の中に書き記されました。それは、外からプログラムされ入力された通りに動くようにと造られた存在ではないことを表しています。私たちの心の中に書き記された律法、すなわち、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という交わりのあり方から、自ら判断をし、自分の意志で、自分の在り方、生き方を選び取っていくということが、天地創造の初めに人間を造られたときの神様のみこころであり、そのみこころは、今も変わることがないのです。それら自由意志も含め、神様はアダムを造られた時、その存在をご覧になり、非常に良かったと語られました。それは、深い思いを寄せてご覧になり、「愛おしい」という表現をされたことばでした。その神様の思いは、その後の人類一人一人に対しても同じです。

自由意志も含め、非常に良かったと表現されたアダムは、取って食べてはならないと神様から示されていた善悪の知識の木の実を取って食べ、自らの意志で、違う生き方をすることを選び取りましたが、その行動さえも、全知全能の神様の予測の中にあり、予測の中にあったアダムの行動が実際になされた後も、アダムの自由意志も含めてその全てが非常に良く、愛おしく思う神様の思いは変わりませんでした。

神様との愛の交わりの中で満たされ、何の欠乏感もなく生きられる者であったアダムでしたが、自らの意志で、違う生き方をすることを選び取ったのです。神様がアダムに与え、尊重しておられたその自由意志で、違う生き方をすることを選び取ったのです。これが、神様に対して人間が最初に犯した罪でした。聖書の中で「罪」とは、的外れの状態を意味することばです。

違う生き方を選び取る前の人間の状態は、考えること、行うことが、神様の律法に一致していて、自然と造り主である神様を愛し、神様を中心として生きるとともに、隣人を自分自身のごとくに愛する状態にありました。これが、神様のかたちに似せて造られた人間の本来の状態でしたが、アダムが選び取った、違う生き方は、その本来の状態とはかけ離れた生き方でした。それは、何事も自分中心に物事を考える生き方であり、まさしく、神様のみこころからは的外れの生き方でした。自分で自分の存在意義を見出し続けなければならない生き方であり、神様との交わりから離れている故の欠乏感を何かの代替えで埋めて生きなければならない生き方でした。孤独感を多々覚えながら生きなければならない生き方でした。

新約聖書ヨハネの手紙第Ⅰ 4章9~10節にはこのように記されています。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

創造主なる神様は、神である一人子なるイエス・キリストに人間の姿を取らせ、この地上に遣わされました。これが、今から約二千年前に現実に起こったクリスマス(キリストの祭りという意味、神が人間として生まれてきてくださったことを祝う日)でした。

イエス・キリストは、私たち人間を本来の姿に回復させてあげたいとの愛の思いで、十字架上で命さえも捨ててくださいました。それは、アダムの選んだ生き方ではなく、「神様と愛の交わりを持って、いのちの交わりを持って神様と共に生きる」生き方に人間が戻るための、神様の方法でした。イエス・キリストの十字架は、アダムのような的外れな生き方と同じ生き方をしている自分から方向転換するための、人間の罪(アダムと同じく的外れの状態であると共に、人間各々が犯す数々の罪の行為)の身代わりの刑であったと信じる者には、神様との愛の交わりの関係に戻ることができるようにしてくださいました。そしてそれは、神である一人子なる御子イエス・キリストを十字架にかけてまでも、「わたしとのいのちの交わりの中に戻ってきてほしい」という神様から私たち人間に対するメッセージでした。神様は人間一人一人の存在を愛して止まないという、人間に対する神様からの究極の愛のメッセージだったのです。

新約聖書コリント人への手紙第Ⅱ 5章19節にはこのように記されています。「神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」

私たちも、神様との愛の交わりの中で満たされ、何の欠乏感もなく生きられる者として、この地上に命を与えられた一人一人です。しかし、アダムと同じく、神様から自由意志を与えられ、その自由意志を尊重されている私たちも、自らの意志で違う生き方をすることを選び取っていたのです。

しかし、神様は、そのような生き方をしてしまう人間を責めようとはされず、アダムに命を与えた時と同じ思いで、人間一人一人の存在そのものを愛して止まず、アダムの選んだ生き方ではなく、「神様と愛の交わりを持って、いのちの交わりを持って、神様の守りの中で神様と共に生きる」生き方に戻ってきてほしいと、聖書を通して語り続けておられるのです。

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