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2022年4月3日(日)

「人にはできないこと」

             テキスト:マルコの福音書10:17~27(新約聖書87頁)

 

 17節:イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」

 並行記事では、この人は、青年(マタイ19:20)であり、指導者(ルカ18:18)であった。彼は地位も名誉も財産も持っていた。当時のユダヤでは、富を得ているというのは、神様から大いに祝されている証拠であり、神様の国に近い者であると考えられていた。しかし彼には、永遠のいのちを受けているという確信はなかったのである。彼は「駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた」とあるように、イエス様に対する深い尊敬の念を抱いていたのだと思われる。そして、何か満たされない心の欠乏に対する探究心も旺盛であった。

 彼は「永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」とイエス様に質問した。

 19節:戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」

 イエス様は、それは神様の神意が示されている律法に記されているではないかと言われた。

 彼は「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」(20節)と言った。

 21節:イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」

 これは、イエス様が律法を要約された2つの柱の1つ「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイ22:39)の実際的な適用であった。そして、「わたしに従って来なさい。」は「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(マタイ22:37)の実際的な適用であった。

 22節:すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。

 多くの財産を持っている彼が、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与え」るということは容易なことではなかった。

 イエス様は、「あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります」と言われ、永遠のいのちが与えられるとは言わなかった。

 聖書から論理的に考えれば、人が律法を完全に守り通すことができれば天国に行けると言える。しかし、イエス様は、彼に律法の実際的な適用を示し、人間が律法を完全に守り通すことはできないということを示されたのである。

 私たちにも同じような形(持っている物をすべて売り払い・・)で、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」の具体的な適用を命令されたならば、それはできませんとなるのではないだろうか・・。

 23節~27節:イエスは、周囲を見回して、弟子たちに言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」弟子たちはイエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて彼らに言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」

 「らくだが針の穴を通る」ことは不可能である。すなわち、人が永遠のいのちを自分のものとして受けることができるのは、ただ神様の御業以外にはないということを言われたのである。それはイエス様の贖いの十字架・復活を信じることによって罪赦され、永遠のいのちを得るという神様からの恵みの福音を受け入れるという道しかないのである。

 熱心な青年は、律法が示すこと以外の何かの行いによって永遠のいのちが得られるのではないかと考えてた。しかし、それは人の行いでは得られないものなのである。

 罪赦され、永遠のいのちを得るということ。それは、「人にはできないこと」なのである。

2022年4月10日(日)

「私たちの代わりに怒りを受けたキリスト」

         テキスト:ローマ人への手紙3:23~26(新約聖書302頁)

 

マルコの福音書15:15~20節にはこのように記されている。

兵士たちは、イエスを中庭に、すなわち、総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。そして、イエスに紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、それから、「ユダヤ人の王様、万歳」と叫んで敬礼し始めた。また、葦の棒でイエスの頭をたたき、唾をかけ、ひざまずいて拝んだ。彼らはイエスをからかってから、紫の衣を脱がせて、元の衣を着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。

イエス様は死刑判決が下された後、むち打ちの刑を受けられた。むち打ちの刑は恐るべき極刑の一部であり、それは残虐な拷問であった。むちは金属や、骨付きの皮製であり、死の一歩手前まで行われ、体からは血が流れた。イエス様は更に、王様が着る紫の衣を着せられ、王冠にみたてたいばらの冠をかぶせられ、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫んで挨拶をされ、葦の棒で頭をたたかれ、つばきをかけられ、ひざまずいて拝んだりされた。からかわれ、頭からは血が流れ、精神的、肉体的な様々な屈辱を受けられた。これだけでも耐えられないような苦痛であるが、イエス様はその後、両手足に釘を打ちつけられ十字架につけられた。十字架は、ローマ帝国における死刑の方法であり、それは、生きたままで十字架につけて、何もしないで、かなり長い時間十字架にかけられ死を待つというものだった。十字架刑の受刑者は、体力がなくなるにつれて、身体を持ち上げて息をすることができなくなり、呼吸困難と血液循環障害を起こして死ぬ。その間、人々の罵声を浴びながら死を迎えるという残酷な刑が十字架刑であった。

イエス・キリストのこの残虐な十字架刑は私たちの罪のためであると聖書は述べている。「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれた」(Ⅰコリント15:3)「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。」(Ⅱコリント5:21)また、本日の聖書箇所には、「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、 神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。」とある。

「宥めのささげ物」とは、旧約聖書で人間の罪に対する神様の怒りが取り除かれるために、血を流してささげる動物の犠牲のことを指す。ここには罪に対して怒る神様がおられ、この怒りがイエス・キリストの十字架の贖い(贖いとは、「買い取ること」を意味する語。この言い回しは当時、特に、奴隷の自由を買うときに使われた。イエス・キリストの贖いの十字架を信じていない者は罪の奴隷)によって取り除かれるということが示されている。罪に対して怒る神様の姿は、「さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。」(マルコ15:33)という異常現象にも表されている。

父なる神様と御子イエス・キリストは、無限、永遠、不変の愛(人間では計り知ることのできない愛)によって結ばれており、十字架刑の時まではその愛が破られるということは、一瞬たりともなかった。しかし、イエス・キリストの十字架刑は、人間が釘づけにされるという苦しみのみならず、父なる神様との断絶が行われたのである。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)それは人類が誰一人として経験したことのない、父なる神様からの断絶状態に置かされたイエス・キリストの叫びだったのである。イエス・キリストは私たちの罪を背負い、神様の怒りを身に受け、神様との断絶刑という究極の刑を受けて下さったのである。

「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、 神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」義認とは、人が神様の前に義と宣言されることによって、神様がご自身と新しい法的関係を確立されることを言うが、神様は、罪ある人間を、イエス・キリストの贖いの死によって、信じる者を義と認めて下さるのである。

2022年4月17日(日)

「信じるに値するイエス・キリストの復活」

    テキスト:マタイの福音書27:62~28:15(新約聖書63頁)

 

 死んだ人が生き返ったなどということは普通は簡単に信じられるものではないだろう。信じるにはそれ相応の信じるに値する証拠が必要である。

 イエス・キリストは、私たちの罪のために(ローマ4:25)十字架にかかり死なれたが、三日目に復活された。その復活の証拠はイエス・キリストの復活を証言している証人たちであり、その証言録が聖書でもある。

 マタイの福音書28:1~4にはこう記されている。「さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった。」

マタイ27:66には「そこで彼らは行って番兵たちとともに石に封印をし、墓の番をした。」とある。その封印はローマの権力と権威を表わす印であった。墓の入口から石を動かすためには封印を破らなければならず、封印を破ればローマの法律によって逆さ十字架の刑に処せられることになっていた。しかし警備にあたっていた番兵たちは逃げ去ってしまったのである。

聖書は、番兵たちは事の次第を祭司長たちに報告したが、祭司長たちは長老たちとともに集まり協議をし、兵士たちに多額の金を与えて、こう述べたと記している。「『弟子たちが夜やって来て、われわれが眠っている間にイエスを盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」(27:13~14)

28:15、そこで、彼らは金をもらって、言われたとおりにした。それで、この話は今日までユダヤ人の間に広まっている。

本日の聖書箇所は、イエス・キリストの復活の証言録の一部である。

コリント人への手紙第一15章3節~6節にはこのように記されている。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。」

イエス・キリストはまずケファ(イエス・キリストの一番弟子ペテロ)に現れた。それから十二弟子に現れ、その後、五百人以上の人々に一度に現れたこともあり、その人々は、コリント人への手紙が書かれた紀元五十年頃にはまだ大勢生き残っていたのである。彼らの証言が嘘ではないことは、彼らがその復活を最初から宣べ伝え、それゆえに殉教したことからも分かる。彼らは復活の証言を取り消すくらいなら、喜んで死を選んでいったのである。

今日のキリスト教会は、イエス・キリストの復活の証人からはじまり増え広がっていった。

信じるに値するイエス・キリストの復活を信じた私たちは、「自分の罪が赦され、義と認められたと確信」(ローマ4:25「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」)し、復活のイエス・キリストのいのちにあって新しい歩みをし(ローマ6:4「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。」)、イエス・キリストの再臨の時に新しいからだを与えられて復活させられる希望を持って生きていくことができるのである。(ピリピ3:20~21「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」)

2022年4月24日(日)

「必要なみことばを思い出させて下さる」

           テキスト:ルカの福音書24:1~11 (新約聖書172頁)

 

 

8節、9節「彼女たちはイエスのことばを思い出した。そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。」女性たちは、イエス様の遺体が墓の中になかったこと、そして、そこに二人の御使いが来て自分たちに語ったことなど、すなわち、1~8節に記されている事柄、すべてを報告した。報告した相手は、十一人とほかの人たち全員となっている。この人たちは原語から見て、全員男性であった。

10節「それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。彼女たちはこれらのことを使徒たちに話した」ここで使われている「話した」という動詞は、未完了形という動詞で、「彼女たちが繰り返し話していた」ことを表している。しかし、11節「この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。」とある。何故、信じなかったのか?女性たちの中には、イエス様の母マリヤもいる。また、イエス様の宣教活動の初めの頃から一緒に行動していたと思われるマグダラのマリヤも、イエス様の弟子のヤコブとヨハネの母もいる。弟子のヤコブとヨハネは自分たちの母の語る言葉なので、軽く扱って、信用しなかったのであろうか?男尊女卑の色濃い時代であったので、それ故、女性の言葉を軽く扱ったのであろうか?それにしても彼らは、3年近く、一緒に行動を共にしたマグダラのマリヤの言うことも信じなかったのである。

女性たちが繰り返し証言し続けるイエス様のよみがえりを信じられないのは、死んだ人間がよみがえるということを信じることがいかに難しいことかを物語っている。「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」(Ⅰコリント12:3)とみことばにあるように、神様が人間に働きかけ信じられるようにしてくださらなければ、十字架刑によって死んだイエス様がよみがえったということを信じることはできないのである。

8節の「彼女たちはイエスのことばを思い出した。」の「思い出す」という動詞は、過去形の受動態という動詞の使われ方がされており、「思い出させられた。」となる。女性たちは、愛するイエス様があっという間に十字架にかけられ亡くなったというあまりの衝撃に、混乱と失意のどん底の最中にあった。更に、イエス様の遺体が墓の中にないことに途方にくれ、そして、二人の御使いを見て恐ろしくなってしまった。神様はそんな女性たちにとって必要なみことばを思い出させてくださったのである。

神様は、イエス・キリストを神であり、罪(神様から的を外していること、及び、犯す数々の行為罪)からの救い主であると信じる者に罪の赦し(神様からの的外れの回復と、犯す数々の行為罪の赦し)と、永遠のいのち(神様との愛の交わりの中で神様と共に生きるいのち)を与えるために、イエス・キリストを十字架にかけ、甦らせた。そのことを信じる者は死を迎えても、魂は神様と共に生き続け、イエス様の再臨の時には新しい体が与えられ、体と魂共々に神様と共に生き続けるのである。そのことを神様は、神様の定めた時に、神様のご計画に従って信じられるようにして下さるのである。

そして、今を生きる私たちクリスチャンに、必要な時(神様の定めた時)に、必要なみことばを思い出させて下さるのである。

2022年5月1日(日)

「霊の目を開き燃やし続けて下さる御方」

                  テキスト:ルカの福音書24:13~35(172頁)

 

13節「ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。」この二人の弟子はクレオパ(18節)と、そしてもう一人は、ここに誰であるかは記されていないが、彼の奥さんであろうと言われている。

14節「そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。」

「話し合う」ということば「ホミレオー」は、単なるうわさ話しではなく、答えを見出そうとする語り合いを意味している。イエス様の弟子集団の中で歩んでいたこの夫婦も、あまりにも突然のイエス様の逮捕、十字架刑による死によって、混乱状態にあり、何が何だか頭の整理がつかないまま失意の中にあったのであろう。イエス様の遺体が墓の中になかったこと、そして、そこに二人の御使いが現れ、イエス様ご自身が語っておられたように、イエス様はよみがえられたのだと語ったということを、マグダラのマリヤ等の女性たちが、繰り返し繰り返し語っても、このクレオパ夫妻もまた、女性たちの証言を信じられなかったのである。

15節「話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。」16節「しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。」とある。「さえぎられていて」は、動詞の未完了受動態という使われ方がされていて、「さえぎられ続けていた」ということを表す他に、「支配され続けていた」、「捕えられ続けていた」、「固執され続けていた」ということを表す。二人の目は「さえぎられ続けていた」故に、イエス様が近づいて共に歩いていても、イエス様だとは分からなかったのである。この「目」は明らかに肉眼の目のことではない。聖書の中に、霊の目ということばはないが、心の目ということばは一か所だけある。ここで使われている目は肉眼の目ではないので、心の目ということで理解したいところではあるが、神様に関する事柄が分からなくなっている、見えなくなっているという状況から考えると、霊の目という理解をした方がよいと思われる。

イエス様は復活の姿を二人に現し、エマオという村に着くまでの道中の間ずっと、二人の霊の目が開かれるようにと働きかけ続けた。しかし、簡単には霊の目は開かれなかった。二人の霊の目は、「捕えられ続けていた」、「固執され続けていた」のである。死んだ人間がよみがえるなどということはありえないという考え方に捕らえられ、固執し続けられ、その考えから抜け出ることができなかったのではないか。あるいは、イエス様がユダヤのリーダーとなるということに期待をかけ従ってきたが、自分の進もうとしていた目標を失い、この後、何をして生きていけばよいのか・・。そんな思いに「捕えられ続けていた」のかもしれない。クレオパ夫妻は復活のイエス様のお姿を見てもイエス様が復活したことが分からなかった。そんな二人にイエス様は、最後の晩餐を思い起こさせるような出来事を視覚を通して見せることによって、31節「彼らの目が開かれ、イエスだと分かった」のである。「開かれ」は受動態という形の動詞であり、まさしく、二人の霊の目を、神様が開いて下さったのである。

32節「二人は話し合った。『道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。』」クレオパ夫妻が失意の中にあり、生きる希望を見出せなかったであろうと思われるその時にも、夫妻の心は内で燃えていたというのである。「心は内で」とあるが、それは、神様との繋がりの部分、霊の部分を指しているのであろう。「燃えていた」の動詞は受動態であり、「燃やされ続けていた」ということである。イエス様が共にいて、夫妻の霊に働きかけ続けていたということであろう。故に、夫妻の霊の部分は燃やされ続けていたのである。

クレオパ夫妻の霊の目が開かれ、イエス様だと分かると、イエス様の姿は見えなくなった(31節)。本来が「神は霊」(ヨハネ4:24)であるから、霊の目が開かれた夫妻に肉眼で見える形で復活の姿を現す必要性がなくなったのであろう。それは、霊の目が開かれた故に、肉眼で見えるところに頼る必要性がなくなったということを示しているのではないか・・。目に見える世界に捕らえられ、自分の考えに固執され続けやすい私たち人間であるが、私たちの霊に働きかけ、燃やし続けようとして下さっているイエス様に目を向け、開かれた霊の目で歩む者でありたい。

2022年5月8日(日)

「罪の赦しを得させる悔い改めがあることを」

        テキスト:ルカの福音書24:36~49 (新約聖書174頁)

 

 エマオの途上で復活されたイエス様にお会いしたクレオパ夫妻は急いでエルサレムに引き返した。そして、イエス様の十一弟子とその仲間が集まり、その日起こったイエス様のよみがえりの驚くべき出来事を互いに話し合っている中に加わり、クレオパ夫妻も復活されたイエス様に出会った驚くべき出来事の報告をした。イースターの日の同じ時間の出来事を記していると考えられるヨハネの福音書20:19以下の記述では、19節に「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。『平安があなたがたにあるように。』」とある。弟子たちは、イエス様と同じく今度は自分たちが逮捕され殺されるかもしれないという不安にかられながら、戦々恐々として、戸に鍵をかけ家の中にこもっていたのである。この時の弟子たちは、よみがえりのイエス様に出会ったという驚きと興奮の最中にはあったが、まだ、復活のイエス様を信じる自分たちも死んでも生き返る(イエス様の再臨時)ということが分かっていなかった故に、今度は自分たちが殺されるかもしれないという恐怖が彼らの心を覆っていたに違いない。

イエス様は戸に鍵がかけられていた部屋の弟子たちが話し合っているその真ん中に突然現れた。復活のイエス様は突然姿を現したり、消したりされた。これは人間の理解を超えている。

ユダヤの指導者たちを恐れていた弟子たちにイエス様は語られた。「平安があなたがたにあるように」このことばの意味には、「神があなたがたにあらゆるよいものを備えて下さるように」という意味がある。ユダヤの指導者たちへの恐れに対するものだけではなく、今後生きていく上での様々な不安に対して神様がよいものを備えて下さるとの励ましのことばだったのであろう。

 37節「彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。」弟子たちは幽霊を見ているのだと思ったのである。復活されたイエス様の目撃談を話してはいても、戸に鍵がかけられていた部屋の、しかも弟子たちが話し合っているその真ん中に突然イエス様が現れたのであるから、弟子たちが驚き恐れて、その現実を受け止められないというのは、ごく自然な反応であろう。しかし、戸をノックした場合の恐怖心(ユダヤの指導者たちが捕らえに来た?)のことを考慮し、イエス様はこのように突然、弟子たちが話し合っているその真ん中に現れたのであろう。

 39節「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」十字架に釘付けにされた手足の傷跡を見せ、更に、焼いた魚を食べる姿を見せることによって、死んだイエス様が肉体をもって復活したことをはっきりと示されたのである。そして、復活は、既に、みことばによって約束されていたことを悟らせるために弟子たちの心を開かれ、みことばを思い出させようとされた。44~47節「そしてイエスは言われた。『わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。』それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。」

 弟子たちに恐れに打ちひしがれているような時間はなかったのである。十字架にかけられ死んでしまったイエス様に対する失望感の最中にあるイスラエルの人々にいち早く、イエス様は死からよみがえられたことを伝える必要があった。神様の人類に対する愛のご計画、「罪の赦しを得させる悔い改め」があることを、イスラエルの人々に、あらゆる国の人々に宣べ伝えなければならなかったのである。そのためにも、イエス様は弟子たちに、ご自身の復活を確信させるため、よみがえりの姿を見せ、復活の事実を示すみことばを悟らせるために心を開いて下さったのである。

2022年5月15日(日)

「各々の性格に寄り添って下さる主」

            テキスト:ヨハネの福音書20:24~29(新約聖書228頁)

 

 24~25節:十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。

 トマスはこのように言ったが、その真意はその言葉通り、「その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」という意味で言ったのではないように思う。他の弟子たちの復活目撃証言を信じていないということではなく、ただ、現実に自分の目で見なければ、自分の中では100%信じたという域には行かないんだということを言いたかったのではないか。また、イエス様が来られた時に自分だけその場に居合わせなかった、あるいは、悲嘆にくれ、弟子仲間に会うことすらできなかったのかもしれないが、イエス様に会えなかった残念な気持ち、寂しさやら、様々な思いもこの表現の中には含まれているように思う。イエス様も最初から弟子たち全員が揃っている時に復活の姿を現したかったのではないかと思うが、なるべく早く、復活の姿を弟子たちに現す必要があることをご存知のイエス様は、復活の日の夕方には、トマスは居合わすことができなかったが復活の姿を現されたのであろう。

 26節:八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。

 「平安があなたがたにあるように」という言葉はユダヤの日常的な挨拶であり、「神があなたがたにあらゆるよいものを備えて下さるように」という意味であるが、イエス様はトマスが居合わすことができなかった時に復活の姿を現された時と同じ現れ方で、そして、同じことばをトマスにかけてあげたかったのではないか。イエス様はトマスが悲嘆にくれ、弟子仲間と共に復活のイエス様に会うことができなかったのかもしれないトマスの様々な思いを知っておられ、そして、その思いに寄り添うように語りかけて下さっているように思える。

 27節:それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

 イエス様はトマスが言った「その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」という言葉の中にある複雑な様々な思いを、そしてトマスという人がどういうタイプの人間であるかを知っているということをトマスに伝えるために、あえて、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。」と言われたのではないか(トマスよ、あなたが言ったことを実行しなさいということではなく)。そして、そのことを伝えた後に、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われたことによって、トマスは「私の主、私の神よ。」(28節)と応えていくことに繋がっていったのではないか。トマスはイエス様の叱責ではなく、イエス様の深い愛に導かれるように信仰告白に導かれたように思う。

  29節:イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

 トマスとの一連のやりとりによって、結果、「見ないで信じる人たちは幸いです。」というイエス様のことばが後代の「見ずにイエス様を神であると信じる者」に残されることになった。

かつてトマスは、イエス様の友人ラザロが病気であるとの知らせが届き、イエス様がユダヤに行こうと言われた時、ついこの間、イエス様を石打ちにして殺そうとしていた場所に戻るのですかと他の弟子たちがしりごみする中、「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」(ヨハネ11:16)と、何のためらいもなく言った。また、イエス様がこの世を去って父のもとへ行くと言われた時(ヨハネ14:1~6)には、その意味が分からなかった故、率直に、「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」と語り、その結果、イエス様のことば、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」を引き出すことになった。トマスは分からないことを分かっているようなふりをする人物ではなかったのであろう。

イエス様はトマスという人がどのような人であるのかをよく知っておられ、そして、トマスに必要な寄り添い方をされ、その心に触れて下さるのである。そして私たち各々にも。

2022年5月22日(日)

「赦しを確信し立ち直っていくペテロ」

テキスト:ヨハネの福音書21:15~17 (新約聖書230頁)

 

イエス様はペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」(15節)と問いかける。「この人たちが愛する以上に」と言われたのは、以前にペテロが語った言葉を思い出させるためであろう。マタイ:26:31~35にこう記されている。

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」

すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。

ペテロは「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」と言った。ルカの福音書では、このペテロの言葉が語られる前に、弟子たちの間で誰が一番偉いだろうかという議論が起こっていたとある(ルカ22:24)。イエス様が十字架にかかるためにエルサレムに向かっていく時、弟子たちのほとんどは、イエス様が武力や奇跡の業によってローマの国を打ち破るのではないか、そして、ユダヤの王の位に就くのではないかと考えていたのであろう。そしてその時には、誰が右大臣左大臣に就くのかということが最大の関心事だったのである。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」とは、私は腰抜けのような弟子ではありませんという自分のアピールであり、だから私をあなたの右大臣にお願いしますという言葉だったのであろう。

イエス様の「あなたはわたしを愛していますか」との問いかけと、ペテロの「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」との控え目な応答(3度否んでしまった経験から「はい愛します」と、きっぱりと答えることができない)が3回繰り返される。

ペテロはイエス様に三度問いかけられたことで「心を痛め」るが(17節)、イエス様は三度問いかけるという3回という回数によって、三度イエス様を知らないと否認してしまった、できれば忘れてしまいたい過去の出来事をあえて思い出させているのであろう。それは、三度否んだことはもう赦されているのだというメッセージだったのであろう。この時のペテロには、イエス様は赦して下さっているという確信が必要だったのである。

ルカ22:31~32にはこう記されている。「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

イエス様はペテロが三度否認することも、そして、イエス様を3度否認することによって自分に嫌気がさし、傷つき、気落ちするが、しかし、立ち直ることを知っておられた。

イエス様は、赦されたことを確信したペテロが、今度は、赦しの神様を語っていくことも知っておられ、「わたしの子羊を飼いなさい。」「わたしの羊を牧しなさい。」「わたしの羊を飼いなさい。」とペテロに語られたのである。

私たちも、全てをご存知である神様であるのに、隠していたいような思いになる罪があるかもしれない。神様は、私たちにその罪を思い出させようとされる。それは、神様の赦しを確信させるため、そして、赦された者として、赦しの神様を伝えていくためである。

2022年5月29日(日)

「聖霊の働きかけを通して分かるその存在」

            テキスト:ヨハネの福音書14:16~17(新約聖書214頁)

 

 ヨハネの福音書3:7~8にはこのように記されている。「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」

イエス様は、人は、風がどこから来てどこへ行くかを知らないのだと言う(この時代であるから)。しかし、風の音を聞くと、これが風であるということを知識として知っているので、風が吹いているのだと思っているのであると。そして、それは、単なる思い込みではなく、確かな事であるように、聖霊なる神様の御業によって人間に新しい命(神様と共に生きる命)が与えられるということも確かなことなのだと言われた。

聖霊なる神様はどのようにして知ることができるのか。それは、聖霊の働きかけを通して知ることができるのである。

16節「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」

「助け主」ギリシャ後パラクレートスは、招き入れる者という意味である。例えば、法廷で誰かのために証言するために招き入れられた人である。誰かが告訴されていて、重い刑罰が予想される場合、その人の言い分を弁護するために招き入れられた弁護人である。パラクレートスは常に、困難や、苦悩や、疑惑や、あるいは当惑のもとにある人を助けるために招き入れられる者である。(『ヨハネ福音書 下』ウイリアム・バークレー著222-223頁)イエス様と同じ本質を持つもう一人の助け主聖霊は、イエス様を神であり、罪からの救い主であると信じる一人一人の内側に住んで下さっている。

17節「この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。」

「助け主」、聖霊は、天に帰られたイエス様に代わって「永遠に私と共にいてくださる」方である。

私たちはこの御方の存在を、その働きかけを通して知ることができるのである。

2022年6月5日(日)

「イエス様を証言する者を助ける聖霊」

             テキスト:使徒の働き2:1~47 (新約聖書233頁)

 

 本日は教会歴のペンテコステ、聖霊降臨を記念し、感謝する日である。

 イスラエルには三大祭があった。第一は「過越の祭り」、第二は「七週の祭り(五旬節:過越から七週間後)」、そして第三は「仮庵の祭り」。この祭りに、イスラエルの壮年男性は必ずエルサレムに巡礼して参加することが義務付けられていた(出エジプト23:14、出エジプト23:17)。

 5節「エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいた」とあるが、「住んでいた」とは「滞在していた」という意味であり、過越の祭りに来て、「七週の祭り」までの約50日間、そのままエルサレムに滞在していたということを表している(二つの祭りのために容易に往復できる距離ではなかった者たちが多くいた)。

 使徒とイエス様の母や兄弟たち、イエス様に従ってきた女性たちが集まっていると、「すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。」(2節3節)今日の私たちがこの超常現象を理解し尽くすことはできないが、「この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。」(6節)とあるように、天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こった故、大ぜいの人々が集まって来たのである。この超常現象は聖霊を象徴しているのであろうが、神様はこのような超常現象をもって、目には見えない聖霊が、イエス様を信じる一人一人の内側に宿ったということが現実に起こったのだと分かるようにして下さったのであろう。

 この超常現象後に、すなわち、聖霊降臨後に使徒たちは、地中海世界全域に離散していたユダヤ人の様々な国の言葉で語り始めた。「皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」(4節)話し始めたその内容は、イエス・キリストの生涯、十字架、復活の出来事だったのであろう。そしてその後のペテロの宣教(イエスの死と復活の意味について語る)によって、約3,000人の人々が信じ、洗礼を受け、使徒たちのグループに加わり、キリストの教会が誕生していった。

 本日の聖書箇所から更に4つの点を覚えたい。

①「神様の約束はその時が来ると成就する」

 イエス様は「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49)と言われた。1節「五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。」使徒たちは約50日間、約束を信じて待っていた。そしてその時が来ると約束は成就した。

②「聖霊はクリスチャンにイエス様を証しさせ、その聖霊の御業は人知を超えている」

 4節「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」集まっていた使徒たちのほとんどがガリラヤ周辺出身であり、使徒たち全員が他国のいろいろなことばで話せるわけがない。しかし聖霊はイエス様の証しを示し、語らせる。しかも聞く人々が分かるように。

③「聖霊はイエス様を証しする者にみことばを思い起こさせて下さる」

ペテロは聴衆の心に響くように、旧約聖書のみことばを語る。それは聖霊がみことばを思い起こさせて下さったのである。

④「聖霊はイエス様を証言する弟子たちを助け、同時に、世の誤りを明らかにする」

ヨハネ16:8には「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。」とある。そしてその通りの事が起こったのである。

36~38節「ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」

2022年6月12日(日)

「初代教会に立ち返って」

             テキスト:使徒の働き2:41~42(新約聖書236頁)

 

 「彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」

 イエス・キリストが復活をして、わずか50日後に、エルサレムに最初のキリスト教会が誕生した。聖霊降臨により、ペテロが群集に対して、イエス・キリストの贖いの十字架・復活を信じることによる罪からの救いを語り、そのことばに心を刺された人々約三千人が、悔い改め、洗礼を受けて、教会の会員として加えられた。これが今日ある教会の形の出発点となった。そして、この時以来、教会は全世界に拡大していった。「教会」の本来の意味は、「呼び出された人々」「召集された人々」である。教会はイエス・キリストに呼び出された人々、召集された人々の群れである(会堂のことではない)。

 教会が誕生した時、最初のクリスチャンたちは、教会に集い、4つのことを守っていたことが分かる。

 1つ目は、「使徒たちの教えを守っていた」ということである。「使徒たちの教え」とは、「新約聖書」のことである。新約聖書は使徒たちによって書かれ、そこには聖書の中心的な教えが記されていた。教会が誕生した時、最初のクリスチャンたちは聖書を学び、そのことばに従って歩んだのである。いつの時代も教会にとって危険なのは、この世の価値観に惑わされていく教会の歩みであろう。また、牧師や教会の言動が常に正しいわけではない。私たちも初代教会に学び、みことばを学び、みことばに立って、みことばに照らし合わせられながら歩む教会でありたい。

 2つ目は、「交わりを持っていた」ということである。そこにはイエス様が力説された、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)に生きる具体的な助け合いがあったのである。「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」(マタイ7:12)このみことばに生きる交わりがあったのである。神様はクリスチャンが孤独に生きることを願っておられない。教会は完全ではなく、罪赦された罪人の集まりであり不完全ではあるが、すべてのクリスチャンが教会の中で神の家族の一員として、互いに兄弟姉妹として、愛の交わりをもって生きることを願っておられる。

 3つ目は、「パンを裂き」とある、今日の教会でも続けられている、聖餐式を守っていたということである。それは、イエス・キリストが十字架につく直前に弟子たちに行うように命じた、パンとぶどう酒(あるいはぶどう液)を用いてイエス・キリストの十字架による救いを覚えることである。罪深い私が、イエス・キリストの生きたからだの器官とされている、イエス・キリストの命が私の内にも通っていることを信じ、感謝するのである。

 4つ目は、共に「祈り」をしていたということである。初代教会のクリスチャンたちは、「主の祈り」を中心にして祈っていたのであろう。聖書のみことばは、私たちが神様から聞く手段であるのに対して、祈りは私たちが神様に語る手段である。聖書から神様の御声を聞き、祈りによって神様に語ることによって、私たちは神様との人格的な交わりの中を生きるのである。

2022年6月19日(日)

「クリスチャンに与えられている富」

             テキスト:マルコの福音書10:28~31(新約聖書88頁)

 

 地位も名誉も、そして、多くの財産を持っていた青年は、律法を守りきっていると自負していた。しかし、何か満たされない心の欠乏に対する探究心から、彼は、「永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」(10:17)とイエス様に質問した。それに対してイエス様は、「戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」(19節)と答えた。すると彼は、それらは少年のころからすべて守ってきたと応える(20節)。そんな彼にイエス様はいつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」(21節)

 22節「すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。」多くの財産を持っている彼が、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与え」るということは容易なことではなかった。

 イエス様は、「あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります」と言われ、永遠のいのちが与えられるとは言わなかった。

 イエス様は彼に、人が永遠のいのちを自分のものとして受けることができるのは、人の行いではなく、ただ神様の御業以外にはないということを教えようとされたのである。

 富める青年とのやりとりを聞いていたペテロが弟子たちを代表するように言った。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」(28節)マタイの福音書では「私たちは何をいただけるでしょうか。」(マタイ19:27)と言っている。ペテロも富める青年と同じような考え方をしていたのであり、自分の払った犠牲の大きさに応じて神様からの報いがあるはずだと考えていた。

 イエス様はペテロたちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。」(29~30節)

 イエス様のために、福音のために、「家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者」とは、イエス様の贖いの十字架・復活を信じることによって罪赦され、永遠のいのちを得たクリスチャンのことを指している。そのクリスチャンは、この世にあって迫害も受けるが、「家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け」すなわち、この世では得ることのできない神の家族による祝福や、神様からの様々な祝福があり、来たるべき世(イエス様の再臨の時)では、永遠のいのちを受けることの約束をして下さった。

 31節「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」

 「先にいる多くの者」とは、本日の箇所で記されている富める青年のことを指し、「後にいる多くの者」とは、イエス様の弟子たちであり、また、「子どものように神の国を受け入れる」(10:15)子どもたちのような者を指している。それは、人の行いでは得ることのできない罪の赦し、永遠のいのちを得る者たち、神様からの恵みの福音を受け入れる者たちのことを指している。その者たちは、神様から与えられる恵みの富を持っているのである。

2022年6月26日(日)

「今をどのように見て生きるのか」

                  テキスト:伝道者の書3:11 (1,141頁)

 

 11節「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」この世界を神様不在の視点で見た時には、醜く忌まわしく悪いことにしか見えないことをも、地上のすべての「時」を支配しておられる神様が、「ご自身の時」に、「すべて」のことを、「美しい」と言える状況に変えてくださるとの約束を信じていく時に、今を喜ぶことができるということである。今をどのような視点から見るかで生き方が変わるのである。自分の人生における労苦も、労苦だけではない違ったものに見えてくるのであるということを示しているのである。

 神様は「人の心に永遠を与えられた。」すなわち、神様の視点でものごとを見ることができる心を与えられたからである。それでも、「人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」(11節後半)とあるように、今ある現実に、どのような神様のご計画があるのかを知り尽くすことは私たちにはできないのであるから、分からないことは分からないままにして、地上のすべての「時」を支配しておられる神様が、「ご自身の時」に、「すべて」のことを、「美しい」と言える状況に変えてくださると期待して生きていきなさいと神様は語っておられるのである。

2022年7月3日(日)

「皆のしもべになることのできない私を知っているイエス様」

             テキスト:マルコの福音書10:32~45(新約聖書88頁)

 

 32~34節:さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」

 弟子たちの先頭に立ってエルサレムに向かって行くイエス様に、弟子たちはただならぬ気配を覚えたようである。そんな弟子たちにイエス様は三度目の受難の予告をする。しかし、弟子たちにその真意は分からず、ヤコブとヨハネに至っては、イエス様がエレサレムに行き、ユダヤの王の位に就く時がいよいよ来るのだと思い、その時には、自分たちを右大臣、左大臣のポストにつけて下さいと願い出る。

 38~39節:しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。

 イエス様が予告された通り、後に、ヤコブは殉教の死を遂げることになる。それは一人の命が失われるという人間にとっては究極の苦しみであろう。しかし、イエス様が受ける受難、父なる神様から完全に断絶されるという苦しみは誰も経験することのできない究極の苦しみなのである。この地上の罪の世界故に、イエス様を信じるが故に、結果的に殉教という悲惨な出来事が起こってしまう現実があるが、しかし、イエス様はご自分に従ってくる者の死を望んではおられない。命を懸けて従って来るようにとは命じていないのである。それが、「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」と、「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります」のことばに表されていると思われる。

 私たち人間は、命を懸けてイエス様に従いますなどと言える者ではないということを謙虚に認める必要があるのではないか・・。イエス様はそんな私たちのことをご存じである。にもかかわらず、私たちは命を懸けて従いますということを演じたり、あるいは、神様は命を懸けて従うことを望んでいますと伝えたりする間違いを犯しやすいのではないか・・。

 42節~45節:そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」

 イエス様は勘違いをしている弟子たちに対して、あなたがたはこのように生きられますか?と問いかけられたのではないか・・。「皆に仕える者になりなさい」「皆のしもべになりなさい」他者のために尽くし、他者の奴隷となる。これをできる者がいるのだろうか・・。イエス様にはそれができた。「贖いの代価」とは、戦争の捕虜や奴隷の自由を買い戻すための身代金を意味する。イエス様はご自分の命を十字架で与え、罪の奴隷となっている人間一人一人を自由にして下さった。

 私たちが辛うじて、「皆に仕える者になりなさい」「皆のしもべになりなさい」の生き方ができるとすれば、私たちのために十字架で命を捨てて下さったイエス様の愛に心を打たれる以外にはないのであろう。

2022年7月10日(日)

「目が見えるようにしてください」

             テキスト:マルコの福音書10:46~52(新約聖書89頁)

 

 エリコはエルサレムから約25㎞離れた地点にあった。イエス様の一行を含めて、過越の祭りに行くために、エルサレムへ向かう多くの人が沿道を埋めていた。

 この盲人が生まれつきの盲目であったかどうかは分からないが、当時、ユダヤの社会では、人が盲目に生まれつくのは、次のいずれかの理由によると考えられていた。「胎児は母の胎内にいる時に罪を犯すことができる」という考えに基づいて、その人に責任があったとする考え方。もう一つは、両親に責任があるとする考え方。

 このような当時の背景を考えると、この盲人も、人々から罪人(けがれた者)扱いをされ、社会からも阻害されていたであろうと考えられる。故に、物ごいをして生きる糧を得ていたのではないか。

 この盲人は、イエス様が病人を治したという奇蹟を耳にしていたのかもしれない。イエス様が目の前を通っていくということを知ると、大声で「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた(47節)。多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、彼は、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ(48節)。イエス様は立ち止まり、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。すると彼は、上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た(50節)。イエス様は彼に、「わたしに何をしてほしいのですか。」(51節)と尋ねた。彼は「先生、目が見えるようにしてください。」と答えた。

 彼が求めることはこの1点だった。彼は苦しく悲しみの人生を送ってきたのであろう。この盲目さえなければと、どれだけ盲目を恨むような思いで生きてきたことだろうか。

 イエス様は彼に「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」(52節)と言われ、彼の盲目を癒された。すると、すぐに彼は、道を進むイエス様について行った。

 イエス様がここで言われた「あなたの信仰があなたを救いました。」の「あなたの信仰」とは、どのような信仰であろうか。それは、子どものように純粋に神様に求める信仰と言えるのではないか。(マルコ10:15参照)

 彼は、周囲の人々が彼を罪人として蔑み、罪人の分際で、イエス様に何をしゃしゃり出て、願い事をしているのか、という情けのない制止にも怯まなかった。彼は、何が何でも盲目から癒されたかったのである。イエス様はそんな彼の思いを無碍にはされない御方なのである。そして、私たちの切なる願いにも同様に応えて下さるのである。

 癒された彼は、あまりの喜びにイエス様について行った。

2022年7月17日(日)

「神様の愛は常に注がれている」

                テキスト:マルコの福音書11:1~11 (新約聖書90頁)

1~3節:さて、一行がエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニアに来たとき、イエスはこう言って二人の弟子を遣わされた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」

イエス様は、ゼカリヤの預言(ゼカリヤ書9:9)の通りに、エルサレムに入城していく。ゼカリヤ9:9は、王であり救い主である方が、ろばの子に乗って来るという預言であり、イエス様は、ご自分が王であり救い主であることを示すために、ろばの子の準備を事前にされ(友人との取り決めで、弟子たちが合言葉「主がお入り用なのです」を言ったなら、まだだれも乗ったことのない子ろばを貸してほしいという取り決めをされていた)、ろばの子に乗ってエルサレムに入城して行った。

過越の祭りのためにエルサレムに集まって来ていたユダヤ人の群衆は、熱狂的にイエス様を歓迎した。群衆は、「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と叫んだ(「ホサナ」は、ヘブル語で「今、お救い下さい」という意味)。群衆はイエス様をローマ帝国の圧政から解放するメシヤとして大歓迎したのである。それは、イスラエルの敵を粉砕する征服者にふさわしい歓迎の仕方であった。

東方においては、ろばは高貴な動物とされていて、王は戦時中には馬に乗って来るが、平和な時には、ろばに乗ったそうである。イエス様はゼカリヤの預言通りに、戦いの王としてではない王としてエルサレムに入城されたのである。

昔も今も、人の思いは常に神様の御思いからはかけ離れているものなのだろう。しかし、神様は常に、一方的に神様の愛を示し続けておられるのである。

2022年7月24日(日)

「心が神様から遠く離れていた宗教指導者たち」

                テキスト:マルコの福音書11:12~21 (新約聖書91頁)

 

イエス様はベタニアを出てエルサレムに向かう途中、空腹を覚えられ、遠くにいちじくの木が見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれたが、そこに来てみると、葉のほかには何も見つからなかった。何も見つからなかった理由として著者のマルコは、「いちじくのなる季節ではなかったからである」と説明している(12~13節)。

この時、季節は春先で、実のなる季節ではなかった。当然イエス様もそのことを知っていたはずであるが、しかし、イエス様はその木に向かって、「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」(14節)と言われた。すると、翌日、イエス様と弟子たちが通りがかりにいちじくの木を見ると、その木は根元から枯れていた(20節)。

この出来事は、エルサレム神殿の指導者たちに対する警告としてイエス様がなさった驚くべき御業であった。

前日にイエス様が宮に入り、すべてを見て回った(11節)時にイエス様が感じ取られたエルサレム神殿の腐敗した状況は現実に起こっていた。

宮には異邦人の庭と呼ばれる外庭があり、ここで巡礼者たちは外国貨幣を両替して宮に納入金を納めた。両替人たちは多くの手数料を取って、莫大な金を儲けていた。また、いけにえの鳩は、宮の中では外の数倍の値段で売られていた。これらの商人たちの儲けの背後には祭司たちがいて、商人たちの儲けの上前をはねていた。また、当時のユダヤ人は宮の外側の庭(異邦人の礼拝の場)を神聖視せず、単なる道として行き来していた等、神殿の指導者たちは、商売や通行によって異邦人の礼拝を妨げていた。

そのような神殿の腐敗した状況をイエス様は憂いて商売人を追い払い(15~16節)、そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」(17節)

イスラエルの民、特に、律法学者・パリサイ人たちは、口先や外見上では神様を崇めているように見せているが、心は遠く神様から離れていて、故に、イエス様をメシヤとして受け入れようとはしなかった。

2022年7月31日(日)

「神様にはできないことはない」

                テキスト:マルコの福音書11:20~25 (新約聖書91頁)

 

イエス様がいちじくの木に向かって、「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」(14節)と言われると、翌日、イエス様と弟子たちが通りがかりにいちじくの木を見ると、その木は根元から枯れていた(20節)。この出来事は、エルサレム神殿の指導者たちに対する警告としてイエス様がなさった驚くべき御業であったが、ペテロは前日のイエス様のいちじくの木への呪いのことばを思い出し、「先生、ご覧ください。あなたがのろわれた、いちじくの木が枯れています。」と言った(21節)。

驚くペテロたちに対してイエス様は答えられた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。」(22~23節)24節「ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」

イエス様が明言されているので、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、本当に、山が立ち上がって海に入るのであるが、実際には山が立ち上がって海に入るなんてことは不可能である。ではイエス様が言わんとすることは何であろうか・・。

イエス様は、山が立ち上がって海に入るようにと神様に願い求めて、心の中で疑わずに自分の言ったとおりになると信じることのできる者はいないのだということを教えて下さったのではないか・・。イエス様が教えようとされたことは、人間の信仰深さに目を向けるのではなく、神様という御方に目を向ける重要性を教えようとされたのであろう。「神様にはできないことはない」ということを・・。

山に立ち上がって海に入れという不可能に思える願いの関連で、人を赦すということが出てくる。25節「また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」

これは、人には赦すことができないことでも、神様は赦すことができるようにして下さるということを教えている。私たちの過ちを赦すことのできる御方も神様しかいないのである。

2022年8月7日(日)

「欺瞞を気づかせようとされる神」

                テキスト:マルコの福音書11:27~33 (新約聖書92頁)

祭司長たち、律法学者たち、長老たちは、ユダヤの最高議会サンヘドリンを構成する指導者たちであり、神殿を取り仕切る権威を持っていた。故に、イエス様の宮きよめの行動(「宮の中で売り買いしている者たちを追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された」11章15節)に対して、「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたに、これらのことをする権威を授けたのですか」(28節)と詰問すること自体は当然のことと思われる。ならば、なぜ、イエス様はその詰問をはぐらかすかのようなことをされたのであろうか・・。

それは、宗教指導者たちの言動が真摯な心からではなく、欺瞞(人の目をごまかし、だますこと)に満ちた心からであったからであろう。イエス様は彼らの心が欺瞞に満ちていることを気づかせようとされたのであろう。

人は欺瞞により自己肯定感を損なっていく・・。イエス様は欺瞞で歩む人々を憐れみ、その歩みから解放させてあげたいと願っておられる。

2022年8月14日(日)

「自由意志を尊重される神の愛」

                テキスト:マルコの福音書12:1~12 (新約聖書92頁)

 

 当時は、地主が畑を他人に任せて出かけるというケースがよくあったということである。

 イエス様はたとえで話された。ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸し、旅に出た。収穫の季節になったので、収穫の一部を受け取るため、農夫たちのところに、しもべを遣わした。すると農夫たちはしもべに危害を加え、何も持たせないで送り返した。そういうことが三度続いた。そこでぶどう園の主人は、自分の愛する息子を送った。私の息子なら農夫たちも敬ってくれるだろうと思ったからである。ところが主人の期待は裏切られた。土地の所有者が死んで後継者がなければ小作人がその土地の権利を主張できることになっていたので、この農夫たちは、その息子を殺せばぶどう園は自分たちのものになると考え、彼を捕らえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。しかしそれを知ったぶどう園の主人は戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまう。これが、このたとえのあらすじである。

 このたとえの設定はこのようになっている。

 ぶどう園の主人:神様 

 ぶどう園:神様と契約関係にあったイスラエルの民

 農夫たち:イスラエルの指導者たち

 主人が送ったしもべたち:イエス様の時代に至るまで神様が何度も派遣した預言者たちであり、バプテスマのヨハネも含まれている 

 ぶどう園の主人の愛する息子:イエス様

 ほかの人たち:異邦人(イスラエルの民ではない人々)

 イエス様はたとえをもってイスラエルの指導者たちの詰問(11:28)に対する答えとイエス様がなさった質問(11:30)の答えを示された。ぶどう園の主人の愛する息子はイエス様であり、神様の子として神様から権威を授かっているのだと答えられた。そして、バプテスマのヨハネも神様から遣わされた一人であると・・。

 農夫たちは、ぶどう園を借りていた。イスラエルの指導者たちは、イスラエルという国を神様から預かっていたにすぎない。しかし、いつしか、イスラエルの指導者たちは、そのことを忘れ、神様の御旨から逸れていってしまったのである。

 イエス様は、新しいことを理解する助けとして慣れ親しんだものを用いるたとえで話された。たとえは、喜んで聞いて学ぼうとする人たちだけに通じるものだった。

 結果的には、イスラエルの指導者たちは、たとえの中の農夫たちが自分たちを指していることには気づくが、神様の示そうとしておられる真意には気づかず、彼らは悔い改めるどころか、敵意を更に燃え立たせていった。

 神様は昔から今に至るまで、人間にメッセージを語っておられる。あなたはどのような人間なのか・・、今、何をしているのか・・。

 しかし、そのメッセージに心を向けるのも、向けないのも、各々の自由意志に任せておられるのである。そこにも、私たちには計り知ることのできない神様の深い愛があるのである。

2022年8月28日(日)

「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」

                テキスト:マルコの福音書12:13~17 (新約聖書93頁)

 

祭司長たち、律法学者たち、長老たちは、イエス様のことばじりをとらえようとして、パリサイ人とヘロデ党の者を数人、イエス様のところに遣わした(13節)。そして彼らはイエス様に質問を投げかけた。「カエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないでしょうか。」(14節)

ローマへの税金は、紀元6年に、アルケラオ(ヘロデ王の息子であり、ユダヤ・イドマヤ・サマリヤの領主)が解任され、ユダヤ地方がローマの直轄地となってから課せられた。そして、税を納めない者は誰でも、厳しい罰金が科せられた。ユダヤ人がローマに税を納めることを嫌ったのは、そのお金が彼らの圧政者を支え、服従を象徴したからであり、税金の多くはまた、異教徒の宮とローマの上流階級の豪華な生活様式を維持するために費やされたからであった。

パリサイ人とヘロデ党の者たちは、この税についての質問でイエス様を罠にかけたいと思ったのである。イエス様が税を肯定すればローマを支持することになり、ユダヤの人々の敵意を招き、税を否定すれば、ローマに対する反逆で告訴することができ、制裁金を科すこともできる。そして、あわよくば、逮捕されることを期待した。

15~17節: イエスは彼らの欺瞞を見抜いて言われた。「なぜわたしを試すのですか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」彼らが持って来ると、イエスは言われた。「これは、だれの肖像と銘ですか。」彼らは、「カエサルのです」と言った。するとイエスは言われた。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスのことばに驚嘆した。

イエス様は罠にかかるまいとして、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」と言ったのではないと思う。イエス様はただ理路整然として神様が制定されている権威の理解の仕方を示したのであろう。

ローマ人への手紙13章1節には、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。」とあり、ローマ人への手紙13章7節には、「すべての人に対して義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。」とある。

地上において存在している一切の権威は神様によって制定されたものであり、私たちは地上において神様が制定された権威に従うべきであると述べられている。

しかし、地上における権威は、神様から委託されている権威であり、神様の御心に沿っている限りにおいて、その権威に従うべきであるというのが聖書の教えである。神様の御心から逸れている権威に従う必要はないのである。

イエス様が言われた「カエサルのものはカエサルに」(17節)は、人は神様が委託している地上の権威に従うべきであるということを指している。

そして、「神のものは神に」返さなければならないのである。デナリ銀貨にはローマ皇帝の像と銘が刻まれていた。権力者が自分の像を刻み込んだ貨幣を発行することは、それを使用する民から税を徴収する権利があることを意味していたが、実は地上のすべてのものには神様の像が刻まれているのである。私たち人間は神様のかたちに似せられて造られた。神様の人格に似せられて造られた人間はまさしく神様の像が刻まれている存在であると言えるだろう。

地上の権威に従う例としては税金を納める等がある。では、神のものは神に返すとは何を返すのであろうか。神のもの、それは神様から預かっている命であり、すなわち、私たちに与えられている時間は神様のものであると神様に告白するのである。お金も・・。全てのものは神様から預かっているものであると神様に告白するのである。

私たちは、全てを支配しておられる権威者である神様に、そして、地上の委託されている権威に対しても、責任を果たしていくべき者であることを覚えたい。

2022年9月4日(日)

「大変な思い違い」

                テキスト:マルコの福音書12:18~27 (新約聖書93頁)

 

 18節「また、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。」

 サドカイ人は、当時のユダヤ教諸派の中では少数派であったが、貴族階級に属し、彼らから大祭司が選ばれた。彼らは、モーセ五書(創世記~申命記)だけを権威ある神の言葉として受け入れ、預言書や諸書、口伝律法を軽視し、たましいの不滅も死人の復活も否定していた。彼らは人間の論理を尊重し、霊的実在を信じなかった。

 申命記25:5~10によれば、子どものいない夫が死ねば、その夫の兄弟、あるいは最近親者がその未亡人を妻にして子孫を残さなければならない(19節)とある。

 サドカイ人はイエス様に質問をした。20節~23節「さて、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、死んで子孫を残しませんでした。次男が兄嫁を妻にしましたが、やはり死んで子孫を残しませんでした。三男も同様でした。こうして、七人とも子孫を残しませんでした。最後に、その妻も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」

 サドカイ人は、復活がいかに非現実的かつ非合理的なものであるかということを証明しようとしたのである。

 それに対しイエス様は答えた。24節「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか。」25節「死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。」

 これは、来るべき御国においては配偶者を判別できないという意味ではなく、神様の新しい秩序は、この世の延長ではなく、来るべき御国のその時は、人は御使いのような霊的な存在に変えられるということを示された。

 そして、モーセ五書しか信じていなかった彼らなので、イエス様は出エジプト記3:6を引用された。その箇所は、神様が、アブラハム、イサク、ヤコブについて、その時、彼らが死んで何年も経っているにもかかわらず、今もなお生きているということを示した箇所であった。イエス様はそのみことばを示すことにより、肉体の死を迎えても、たましいは不滅であることを示された(26節)。

 27節「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。」

 サドカイ人がモーセ五書のみが聖書であるとしたことは、当時の聖典理解としてはやむを得ない面があったであろう。しかし、彼らが「聖書も神の力も知らなかった」のは、人間の知恵、知識に固執した結果だったと言えるのではないか・・。

 霊的なことを否定していた彼らが、神様との生きた交わりも希薄となっていたということは言えるであろう。

2022年9月11日(日)

「律法を行うことによっては神の前に義と認められない」

                テキスト:マルコの福音書12:28~34 (新約聖書94頁)

 

 律法学者の仕事は、多岐にわたる律法の規定を様々に分類し、優先順位や相互の関係を分析することであり、他方、すべての命令を1つに集約し、律法の全体を把握することにも多大な関心があった。

 28節「律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。『すべての中で、どれが第一の戒めですか。』」

 イエス様はこの質問に、申命記6:4、5とレビ記19:18を引用して答えた。

 「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』

第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」(29~31節)

 申命記6:4、5は、ユダヤ人が朝夕唱えていた「シェマ」(ヘブル語で「聞け」の意味)の一部であり目新しいものではなかった。ただイエス様はそれを戒めとしてではなく愛の行為として、復唱することばとしてでなく現実生活での実践として教えたのである。

 ユダヤにおいて宗教は愛のない戒めを意味し、学者たちが教えるのは生きて働かない観念でしかなかった。しかし、この律法学者はイエス様の答えに共感したようである。

 32~33節「律法学者はイエスに言った。『先生、そのとおりです。主は唯一であって、そのほかに主はいない、とあなたが言われたことは、まさにそのとおりです。そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。』」

 全焼のささげ物やいけにえはユダヤ教においては欠くことのできないものであったが、愛はすべての戒めにまさってすばらしいとの見解をこの律法学者は示した。

 そんな律法学者にイエス様は語られた。「あなたは神の国から遠くない。」(34節)

 この律法学者は「神の国から遠くない」のだけれど、神の国に入ってはいないのである。律法の理解はイエス様の理解に近く、律法の真意に基づき、愛の行為の実践がなければならないと思っていたのである。しかし、神の国に入る唯一の道はイエス様を信じることなのである。イエス様を罪からの救い主として信じることなのである。

 ローマ人への手紙3:10にはこのように記されている。「義人はいない。一人もいない。」ローマ人への手紙3:20~22「なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。」

 ヨハネの福音書14:6にはこう記されている。「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。』」

 本日の聖書箇所の律法学者は、律法を詳細に分析し、戒めをただ唱える律法学者とは違った。律法を聞いて愛の実践を行なおうと思う者は、イエス様を罪からの救い主として信じることに近い者であるということが本日の聖書箇所から分かる。しかし、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないのである。

2022年9月18日(日)

「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」

                テキスト:マルコの福音書12:35~37 (新約聖書94頁)

 

 35節:イエスは宮で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、キリストをダビデの子だと言うのですか。

 律法学者たちは、メシヤはダビデの子孫から生まれると民衆に教えていた。当時のユダヤはローマ帝国に支配されており、そのローマからユダヤを解放するメシヤが現れることを民衆は待望していた。当時のユダヤ人で、ダビデの家系の子孫からメシヤが現れるということを疑う者はいなかった。ダビデの子孫からメシヤが生まれるとの預言は旧約聖書のイザヤ書9:6~7、エレミヤ書33:14~18等に記されている。彼らが描いていたダビデの子メシヤは、無敵の王であり、世界征服をなす者であり、物質的繁栄を民にもたらす者であった。

マタイの福音書やルカの福音書にあるイエス・キリストの系図をたどると、イエス・キリストは実際にダビデの子孫であることが分かる。イエス・キリストは旧約聖書の預言の通りに、ダビデの子孫として来られたメシヤだった。

律法学者たちは、旧約聖書の預言のメシヤをダビデの子孫から生まれて来る人間としか理解していなかった。そしてそれを教えられていた民衆に対してイエス様は詩篇110篇1節を引用して語られた。

36節:ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』

「私の主」ということばは、ここで話しているダビデよりも高い地位にいる者を意味し、「わたしの右の座に着いて」神様の右の座に着くとは、神様の力と威光とを行使することを表す。イエス様は、ダビデはキリストは神であることを預言したと述べたのである。

37節:ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。

 イエス様は人としての家系によればダビデの子である(マタイの福音書1:1、ローマ人への手紙1:3)が、同時に、神でありメシヤ(救い主)であるということが本日の箇所でも述べられている。

 神であるイエス・キリストは人間の姿をとり、地上に来てくださり、人間の罪の刑罰を身に受け、死に、よみがえられた。そして、キリストの死は自分の罪の刑罰の身代わりであり、復活は、罪の赦しと永遠の命の保証であると信じる者に、罪の赦しと永遠の命を与えるメシヤであった。

 当時のユダヤ人は地上的な無敵の王、物質的繁栄をもたらすメシヤが自分たちには必要であると待望していた。

 イエス様は地上におられた時、弟子たちに問いかけられた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」(マルコ8:29)

2022年9月25日(日)

「人からの評価を求めないで生きる」

                テキスト:マルコの福音書12:38~40 (新約聖書94頁)

 

 イエス様は民衆と弟子たちに「律法学者たちに気をつけなさい。」と語られた。

 そして、律法学者たちの見せかけの宗教行為を述べられた。

 「長い衣」は特権階級のしるしであり、「広場であいさつされること」これは単なるあいさつではなく、「先生」と言われたり、「わが主よ」と言われて敬意を払われることである。「会堂で上席に、宴会で上座に座ること」会堂の上席は一段高くなっていて、出席者の注目の的となった。また宴会では最長老のラビ(先生と呼ばれていた者)が上座を占めることになっていた。「やもめたちの家を食い尽くし」律法学者たちは、ラビを支えることがやもめたちの最も敬虔な行為であると教えたり、やもめに与えられた財産分与の裁定を助けて、実は本人が受ける以上の利益を得るなど、さまざまなことをしていた。「見栄を張って長く祈ります」これも、人からの誉れを求めての行為であった。

 なぜ、律法学者たちは、このように見せかけの宗教行為でうわべを飾るだけの人間になってしまったのだろうか・・。

 人は、誰かに認められている、受け入れられているという実感を求めて生きてしまう者ではないだろうか・・。本来、神様は人間を、神様に受け入れられているという安心で心が満たされるように造られた。しかし、罪を犯した後の人間は、人の中にある罪故に、神様に受け入れられているという安心の代替えに、人からの評価を求めて生きる者となっているのかもしれない。

 神であるイエス様は、このような人間の実態をご存じであり、人が人からの評価を気にせずに生きて欲しいと願っておられるはずである。律法学者たちの実態にも憐みの心を向けておられたに違いないと思う。では、なぜ、「律法学者たちに気をつけなさい」と言われたのであろうか・・。

 それは、律法学者たちの教えを受けていた人々が、その教えによって、律法学者たちと同じような人間になっていき、最終的には、助けを必要としている弱者(やもめたちの家)を利用し、食い物にするような人間になってはいけないと注意喚起しているのであろう。そして、そのような人たちは、「より厳しい罰を受け」るからである。人が天国ではない世界に行く時に、その世界において、「より厳しい罰を受け」るからである。

 私たちは「誰からの評価を求めて生きているのだろうか」

 私たちが神様に受け入れられているという確信は、イエス様の身代わりの十字架に表された神様の愛を見れば持てるのである。私たちは神様からの評価を求めて生きる必要のない者とされている。当然、人からの評価を求めて生きる必要のない者とされている。

2022年10月2日(日)

「生きる手立てのすべては神様にある」

                テキスト:マルコの福音書12:41~44 (新約聖書95頁)

 

 

 宮の中の婦人の庭と言われる所には、13個のラッパ型の(上部が細く、下に行くにしたがって広がっている)集金箱があった。13の集金箱にはその用途が決められていた(犠牲を焼く薪用とか祭壇で燃やす香料用とか)。

 貧しいやもめが投げ入れた献金はレプタ銅貨二つであった。レプタは最小単位の貨幣であり、現在の私たちの生活でいうと、1レプタは約78円である。この女性は持っていた全財産156円を献金したのである。

 もし、私たちに全財産が156円だけしか残されていなかったなら、その156円を何に使うのだろうか。最後の156円で、せめて食パン一斤でも買っておこうとか、そのように考えるのではないだろうか。

 イエス様は「この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。」(43節)と言われた。献金をしていた金持ちたちを含めたみなの者は、「あり余る中から投げ入れ」ていたが(44節)、貧しいやもめは、「乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れた」のである。

 イエス様はエルサレムに入城してからは、何度となく宗教指導者たちの腐敗した姿を示してきた。

 当時のユダヤにおいては、宗教は愛のない戒めを意味し、学者たちが教えるのは生きて働かない観念でしかなかったようであるから、当の教えていた律法学者などは、見せかけの宗教行為でうわべを飾るだけの人間になっていた。そこには、生きて働かれる神様との関係は希薄だったのだと思われる。

 片や、「乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れた」貧しいやもめがいるが、宗教家たちとこのやもめの違いは、生きた神様との交わりに違いがあったと言えるのではないか・・。

 貧しいやもめは、全財産が156円ぐらいしかなかった。しかし、そんな貧しい生活の中にも、神様との生きた関係の中で喜びがあったに違いない。貧しい中にも時折々に神様からの実際の助けもあったのかもしれない・・。

  いずれにしても、全財産を献げてしまっても、神様は私を養ってくださるという神様への信頼があったのではないか・・。

 私たちも生きる手立てのすべては神様にあるのだと思える信仰者でありたい。

2022年10月9日(日)

「最後まで耐え忍ぶことができる者とされている」

                テキスト:マルコの福音書13:1~13 (新約聖書95頁)

 

 宮から出て行く時、弟子の一人が壮大な神殿の建物に感動した(1節)。

 エルサレム神殿は、最初にソロモン王が紀元前966-946年頃に建てるが、紀元前586年にバビロンの王ネブカドネツァルによって攻撃され破壊される。その後、バビロンの地で捕囚となっていたイスラエルの民が祖国ユダヤの地に帰還し、破壊されていた神殿を紀元前516年に再建する。イエス様の時代のエルサレム神殿は、ユダヤのヘロデ大王(紀元前37-34年)が建築しはじめ、紀元後62年に完成に至った、あらかたは完成していた神殿である。この神殿は、構造はソロモン神殿に基づいていたが、はるかに壮大なものであり、高さはソロモン神殿の2倍あり、おびただしい金で覆われ、日光に照らされると目がくらむほどの輝きを放ち、巨大で堅固な神殿は、永久にそこに立っているかのように見えた。しかし、イエス様は神殿の徹底的な崩壊を宣告された(2節)。

 事実、この壮大なヘロデ神殿は、この後40年足らずの間に、ローマ軍によって徹底的に破壊し尽くされ、住民は死と苦しみとを味わうこととなった。

 オリーブ山から神殿を眺めながら、弟子たちは、そのような神殿崩壊がいつ起こるのか?どのような前兆があるのかを尋ねた(3~4節)。

 イエス様は「人に惑わされないように気をつけなさい」(5節)という注意に続いて、終末のしるしを告げられた。これは直接的には紀元70年のローマ軍による神殿の崩壊を指すが、それと共に、イエス様の再臨の時、世の終わりの時のことも含まれている。

 終末には、偽キリストが出現し(「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそ、その者だ』と言って、多くの人を惑わします。」)(6節)、戦争や戦争のうわさによって世の中は騒然となり(7節)、地震と飢饉で世界は荒れ果てる(8節)。

 そして、世の中が騒然となるだけでなく、苦難の波が直接的にキリストの弟子たちに襲いかかる(9~13節)。その時クリスチャンは、議会に引き渡され、会堂で打ちたたかれ、総督たちや王たちの前に引き出され(9節)、尋問される(10~11節)。そればかりか家族の絆も断ち切られ(12節)、信仰故に世から憎まれるようになる(13節)。

 これだけでもあまりにも耐えがたい苦しみと思えるが、しかし、「これらのことは産みの苦しみの始まりです」(8節)とイエス様は言われた。これらのしるしは終わりの日が始まったしるしでしかないと・・。

 これは、ある者にとっては、生きているよりも辛く苦しいことかもしれない。しかし、このようなクリスチャンへの迫害、近親者の裏切り、殺害は避けられないのである。イエス様を信じる者とそして必ず信じない者がいるということは避けられないことなのであり、それによる迫害等が起こるのもまた避けられないことなのである。

 初代教会が成長し始めるにつれて、弟子のほとんどはイエス様が話された種類の迫害を経験した。また、その後も、クリスチャンへの迫害は現実に起こり続けてきた。しかし、迫害はクリスチャンにとって、イエス様に反対する人たちにイエス様を証しする機会ともなってきたの事実である。

 イエス様はクリスチャンへの迫害は起こるが、恐れたり、防衛的であったりする必要はないと言われる。「人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」(11節)

 聖霊がそこにいて、話すための適切なことばを与えてくださるからだとイエス様は言われた。

 ある註解者は述べている。「最後まで耐え忍ぶことで救いがもたらされるのではない。最後まで耐え忍ぶことは、私たちがすでに救われていることのしるしなのである。救いの確信は、迫害の時に私たちを最後まで強くする。」と。

 イエス様は神様のご計画に従っていつかは必ずこの地上に戻って来られる。イエス様はその前兆を教えて下さった。そのための心備えができるようにと・・。そしてその心備えは、「最後まで耐え忍ぶことができる者とされている」という感謝である。

2022年10月16日(日)

「目を覚ましていなさい」

                テキスト:マルコの福音書13:33~37 (新約聖書97頁)

 

 33節:気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。

 「目を覚ましている」とは、寝入らぬように目を開く努力を表したことばである。

 イエス様がエルサレムに入って来てからは(マルコ11:11~)、エルサレム神殿の指導者たちに対する警告が続いてきた。律法学者・パリサイ人たちは、口先や外見上では神様を崇めているように見せているが、心は遠く神様から離れていた。彼らの多くは、「聖書も神の力も知らなかった」(マルコ12:24)と言えるであろう。彼らは人間の知恵、知識に固執し、霊的な事柄を軽んじ、神様との生きた交わりも希薄となっていた。彼らはイエス様から見ると、「目を覚ましていない」「寝入っている」状態であった。「寝入っている」状態なので、神様との意思の疎通はないのである。

 ここまでの聖書の文脈から考えると、「目を覚ましている」とは、神様との生きた交わりを持って生きているということであると考えられるであろう。クリスチャンは罪赦された罪人である故に、神様との意思の疎通が完全になされているわけではないし、わずかばかりの疎通であるとも言えるのではないか・・。しかし、それでも、神様に聴き、語りかけ、問いかけ、願い、助けを乞う生き方は「寝入ってはいない」のである。

 「しもべたちそれぞれに、仕事を割り当てて責任を持たせ」(34節)とあるが、人にはそれぞれに賜物が与えられている。この賜物は隣人を自分のごとくに愛そうと努めて生きるために与えられている。隣人愛に努めた結果はそれぞれ違っていて良いのである。良い働きをしているかどうかという結果だけを神様は求めているのではない。人は、神様の愛に応えて隣人愛に努めて生きようとすることが大切なのである。

 イエス様は再びこの地上に来られる。しかし、その日その時は誰にも予測できない。35節「家の主人がいつ帰って来るのか、夕方なのか、夜中なのか、鶏の鳴くころなのか、明け方なのか、分からないからです。」

 「主人が突然帰って来て」(36節)イエス様が思わぬ時に再臨されても、私たちは常日頃から、神様に聴き、語りかけ、問いかけ、願い、助けを乞うて・・、生きておられる神様との交わりを持ちつつ、隣人愛に努めて生きていくのである。それが「目を覚ましている」状態なのである。

2022年10月23日(日)

「人を突き動かすもの」

                  テキスト:マルコの福音書14:1~11 (新約聖書97頁)

 

本日の聖書箇所には大きく分けて2つの面が表されている。

①人間の醜さ

 〇1~2節:宗教指導者たちは、イエス様に自分たちの宗教的偽善等を指摘され、腹を立て、殺意を燃やしていく。

 〇イスカリオテのユダは師であるイエス様への恩を仇で返すような行動を起こしていく。

 4節「何人かの者が憤慨して」とあるが、ヨハネの福音書では、これはユダであると名指ししている(ヨハネ12:4,5)。三百デナリ相当(当時の約1年分の労賃)の香油をイエス様の頭に注いで無駄にしたと憤慨したユダは、貧しい人への気遣いから憤慨したのではなく、自分の貪欲に基づいて憤慨した。ユダはイエス様の働きにおいて会計係をしていたが、その資金を使い込んでいた(ヨハネ12:6)。ユダは三百デナリ相当の香油をお金に換えるなりしてイエス様に渡してくれれば自分にとって特になると思ったのであろう。

 10~11節には、ユダの裏切りの行動が記されている。ユダはおそらく、イエス様が政治的な反乱を開始してローマを打倒することを期待していたのであろう。イエス様による新政府樹立時には、会計係として重要な地位が与えられると思っていたのであろう(他の弟子たちもだいたい似たり寄ったり)。しかし、イエス様がマリアが1年分の給料の価値があると思われる香油を注いだことを褒めた時、ユダは、この先、イエス様に付き従っては行けないと思ったのかもしれない。あるいは、お金でイエス様を売り渡したとしても、イエス様は奇跡を起こして捕らえられることなんてないと思ったのかもしれない。いずれにしてもユダは、自分にとって特になることは何かを考えつくし、自分の頭で計算した通りになるだろうと思ったのではないか・・。

②感謝の思いに溢れていたマリア

 〇マリアが三百デナリ相当の香油をイエス様の頭に注いだ理由はいくつかあると思われる。

  ・愛する弟ラザロ(両親亡き後、強い兄弟愛で結ばれていたと思われる三人)を死人の中から生き返らせてくださったイエス様への感謝のお返しとして。しかし、現物のまま渡すつもりでもあったのではないか・・。

  ・イエス様がマリアの家を訪れる時には、常に、イエス様の話しに聞き入っていた(ルカ10:39)であろうマリアは、この後、イエス様が十字架にかけられ、死に、墓に葬られることをそれなりに察したのではないか・・。そして、埋葬に備えて前もって香油を塗った。あるいは、マリアからの感謝のお返しの話をされたイエス様が、その香油を頭に注いでほしいとイエス様がマリアにお願いした・・。

マリアの行動は、イエス様への溢れる感謝の思いが突き動かしたと言っていいだろう。そこには、ユダにみるような打算的な思いは微塵も感じられない。私たちを突き動かすものは何だろうか・・。

2022年10月30日(日)

「イエス様のこの上ない喜び」

                  テキスト:マルコの福音書14:12~16 (新約聖書98頁)

 

 

過越の祭りとは、ユダヤ人の先祖が紀元前千数百年の昔にエジプトでの過酷な苦役の奴隷状態から、神様の奇跡的な御業によって解放されたことを記念して守られてきた祭りである。その祭りは、約270万人もの巡礼者が殺到するというような盛大な祭りであった。成人に達したユダ人の男子で、エルサレム近隣24キロ以内に住む者は、すべて過越の祭りに出るように法律で定められていた。しかし、一生に一度でもエルサレムの過越の祭りに出ることは、ユダヤ人であれば誰もが願うことだった。

過越の祭りの時になると、ユダヤ人はまず過越の食事をして、それから一週間、種なしパンの祝いの期間を過ごした。種なしパンの祭りとは、出エジプトの時、ユダヤ人がエジプトから急いで脱出したことを思い起こさせる祭りである。脱出の時、彼らはパンを膨らませる時間がなかったため、イースト(パン種)を入れずにパンを焼いた。

 過越の祭りを祝う過越の食事は、次のような順序でなされていたということである。①家族や友人たち一同が集まって食卓に着く。②食物への祝福が祈られた後で、水で薄められた最初のふどう酒を一杯飲む。③エジプトでの苦しみの記念として苦菜を食べる。④父親もしくはテーブルの長が、普通は長男の質問に答えて、出エジプト12:6以下をもって、過越の物語を語る。⑤次いで全員が詩篇113、114篇を歌い、手を洗ってから2回目のふどう酒を飲む。⑥その次に過越の食事がとられる。中心が子羊で、これに、先祖が急いで食べたパンを記念して種入れぬパンが添えられる。⑦食事が終わると、3回目の杯が食事の感謝の後に回される。⑧最後に詩篇115-118篇が歌われる。そして4回目の杯がある。

 13~16節のエピソードは、エルサレム入京の時の状況と似ている。イエス様は事前に、どのようにして過越の食事をするかの取り決めをされていたのであろう。

 イエス様はナザレの町に住んでおられた頃から、おそらく毎年、約100キロ離れていたエルサレムに過越の祭りを祝いに訪れていたと考えられる。

 ルカの福音書を見るとこう記されている。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました。」(ルカ22:15)

 イエス様はなぜ、この時の過越の食事を特別に楽しみにしておられたのであろうか。ユダヤ人は神様が我々を救ってくださった御業に感謝し、また、その御業を忘れないようにと、毎年、盛大な過越の祭りを祝ってきた。イエス様は神様の人類救済の御業を祝うその時を心から喜んでおられた。そして、いよいよ神様の人類に対する救いの集大成である十字架による人類の贖いの計画がなされようとしていることを心から喜んでおられたに違いない。まさしく最後の過越の食事だったのである。

 そして、三年半余りの年月を寝食共に過ごした愛する弟子たちと共に食する地上における最後の過越の食事をとることに深い感慨の思いがあったのであろう。

 しかし、このすぐ後に、イスカリオテのユダの裏切り行為が行われるであろうこと、イエス様の捕縛に際して弟子たちはみなイエス様を見捨てて逃げてしまうこと、ペテロが自分の捕縛を恐れイエス様のことを三度知らないと言ってしまうこと、それらのことをご存知であったイエス様のことを思うと、それでいても、ご自分が釘づけの十字架刑にかけられていくことを喜んでおられるイエス様の姿は人知を超えていると言えるのではないか・・。

 ヘブル人への手紙12:2にはこう記されている。「この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」

 イエス様は、人が罪から救われることを、この上ない喜びとしていたのである。

2022年11月6日(日)

「裏切るユダを憐れむイエス様」

                  テキスト:マルコの福音書14:17~21 (新約聖書98頁)

 

 十二弟子のひとりのイスカリオテのユダはイエス様を裏切っていく。イスカリオテのユダは、弟子たちの共有の資金の管理人であった。ヨハネの福音書12:6にはこのように記されている。「彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった」

 どの注解書を見ても、ユダは貪欲で金銭欲が強かったということを記している。確かに弟子の共有のお金を盗んでいたことから見ても金銭欲が強かったのであろう。しかし、イエス様を裏切っていったのはお金欲しさのためではなかったのであろうと思われる。マタイの福音書26:14~15を見ると、ユダは銀貨三十枚でイエス様を祭司長たちに引き渡す手はずを取ったとあるが、銀貨一枚(1シェケル)は約150円であり、銀貨三十枚は5,000円足らずという額である。金銭欲が強いユダであるとはいえ、5,000円欲しさのためにイエス様を裏切ったのではないであろう。

 ギリシャ語の文法に従えば、イスカリオテは、「短剣を身につけている者」を意味し、これは過激な国家主義者の一団につけられた名称であり、イスラエル解放運動のためには、暗殺や殺人を引き受ける覚悟のできている人たちであった。ユダは、イエス様こそ、国家主義者たちを指導して、勝利に至らせるすばらしい力を持つ方だと思ったのである。しかし、やがて、ユダは、イエス様が向かおうとしている道が自分の期待する道ではないことに気づき、もし、イエス様がご自分の命が危険にさらされるような状況に立たされたなら、きっと、その奇跡的な力でローマ人を制圧するに違いないと考え、イエス様をその行動に駆り立てようとしたという説があるが、その説が妥当のように思われる。

 21節「人の子は、自分について書かれているとおり、去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」

「生まれて来なければよかった」とは、かなり残酷なことばに聞こえる。しかし、聖書が示す、神様が人に命を与える時の思いや、愛を動機としてしか働きかけることをされない神様という御方から考えると、イエス様を裏切る働きをするために神様がイスカリオテのユダを地上に誕生させたのでもなく、弟子として選んだのでもないと言えるであろう。ユダには全ての人間同様に自由意志が与えられていた。ユダはイエス様を裏切るような行動をする自由も、しない自由も選ぶことができたが、悪魔の働きかけに乗ってしまい(ヨハネ13:2)、イエス様を裏切るような行動をとってしまう。しかし、イエス様を裏切るような行動をとってしまうのはイスカリオテのユダだけではない。他の十一弟子は、後に起こるイエス様の捕縛に際してイエス様を見捨てて逃げてしまい、ペテロは自分の捕縛を恐れイエス様のことを三度知らないと言ってしまう。

 マタイの福音書27:3~5には、「そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。『私は無実の人の血を売って罪を犯しました。』しかし、彼らは言った。『われわれの知ったことか。自分で始末することだ。』そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。」 と記されている。

ユダは、イエス様が正しい御方であることを認め、その方を裏切った自分の罪を心から後悔した。そして、もう、これは死んでお詫びするしかないと思って自殺した。聖書はその自殺自体を非難しているということはない。聖書は、自殺は死のあり方の一つとしてしか見ていない。イスカリオテのユダは決していい加減な男ではなかった。自分の罪に気づくと、出来る限りのことをして罪を償おうとした。まず、祭司長、長老たちのところに言って、「わたしは間違っていた。罪のない人をあなたがたに売り渡してしまった」と真正直に告白する。それから、裏切りの代償として受け取った銀貨三十枚を返そうとした。そうすることによって、もしかしたら、今からでもイエス様を救うことができるかもしれないと考えたのではないか。ユダは罪を犯した者としてのできる限りの責任を果たそうとした。そして、最終的に死をもって自分の罪を償おうとした。

これらのことから考えても、「生まれて来なければよかった」ということばは、文字通りのことばではないのであろう。それは、裏切るという行為を、「生まれて来なければよかった」と言う表現を使う程に、その行為を悲しく思うというイエス様の悲哀に満ちたことばであったと考えられるのではないか・・。

 イエス様は、銀貨を返しに行くユダの恥ずかしさ、その悲しみに満ちた後悔を分かっておられ、そして、「生まれて来なければよかった」ということばで最大級の憐みを表されたのである。

2022年11月13日(日)

「十字架の贖いの史実を思い起こしなさい」

                  テキスト:マルコの福音書14:22~25 (新約聖書98頁)

 

 今日、教会で行われている聖餐式は、イエス様が十字架にかけられる前夜に行った、弟子たちとの最後の晩餐の席上で定めた礼典である。

 聖書は、イエス様と弟子たちとの最後の晩餐が過越の食事であったことを描いている。最後の晩餐が過越の食事であるということは、聖餐式は過越の食事から出たと考えられる。かつて過越の子羊の死が、イスラエル民族をエジプトから救出したように、過越の小羊キリストが、その死によって「罪」よりの救出という新しい出エジプトを果たしたという真理が示されている。

 かつてイスラエル民族が出エジプトを前にして神様は民に命じられた。

 「あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のための掟として永遠に守りなさい。 あなたがたは、主が約束どおりに与えてくださる地に入るとき、この儀式を守らなければならない。あなたがたの子どもたちが『この儀式には、どういう意味があるのですか』と尋ねるとき、 あなたがたはこう答えなさい。『それは主の過越のいけにえだ。主がエジプトを打たれたとき、主はエジプトにいたイスラエルの子らの家を過ぎ越して、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」(出エジプト12:24~27)それは、出エジプトという救済の歴史的事実を思い起こし、過越における神様の救いの御業を子孫に伝えるようにという命令であった。

 24節に、「わたしの契約の血」とあるが、このことをルカの福音書では、「わたしの血による、新しい契約」(ルカ22:20)と表している。

 古い契約は動物のいけにえの血を通して罪が赦されることを必要とした(出エジプト24:6~8)。しかし、祭壇に献げられる汚れのない動物の子羊の代わりに、イエス様は、ただ一度限りで罪を赦すいけにえとして、汚れのない神の子羊であるご自身を献げられた。過越の食事におけるパンとぶどう酒は、十字架にかけられて裂かれるイエス様の体と流される血にたとえたものであった。

 イスラエルの民が過越の食事において出エジプトという救済の歴史的事実を思い起こすようにと命じられたように、イエス様は、聖餐において、イエス様の歴史的事実としての贖いの御業を「覚え」(思い起こすように)なさいと命じられたのである。

 Ⅰコリント11:26には聖餐式のことを、「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。」とある。

 毎年繰り返されていく過越の食事(儀式)には、神様の出エジプトという救済の御業を後代に伝えていくという責任があったように、今日、聖餐を受ける者は、イエス様の贖いの御業を思い起こし、その御業故に赦された者である恵みを覚えることによって、主の再臨までその御業を宣べ伝えていく者でありたい。

2022年11月20日(日)

「失敗から神様を深く知る」

                  テキスト:マルコの福音書14:26~31 (新約聖書99頁)

 

26節:そして、賛美の歌を歌ってから、皆でオリーブ山へ出かけた。

この歌は伝統的に過越の食事で歌われた詩篇115~118篇から選ばれたものと思われる。

27節:イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』と書いてあるからです。

イエス様はゼカリヤ13:7のことばを引用された。イスラエルに対するさばきとして王が打たれ、その結果、民はちりぢりに散らされるという預言者ゼカリヤのことばを引用し、ここでは、イエス様が捕らえられていく時に弟子たちが散らされるという意味で語られた。

28節:しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。

イエス様は捕らえられ十字架にて処刑されるが、よみがえり、再びガリラヤで弟子たちと会うことを予告された。

29節:すると、ペテロがイエスに言った。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」

ルカの福音書22:24によると、最後の晩餐の食卓で、「自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という論議」が弟子たちの間で起こったと記されている。弟子たちは、もう間もなく、師であるイエス様がローマの国を武力で破り、ローマの国からユダヤを解放し、ユダヤの王に就くだろうと思っていた。そしてその時に備え、誰がどのポストに就くのかと、各々がライバル心をむき出しにして牽制しあっていたのである。

ペテロは、ローマとの戦いが起こった時に、仮に、自分以外のすべての弟子が怖気づき逃げるようなことがあっても、私だけはそんな腰抜けではないと啖呵を切り、No.1のポストをねらうための自己アピールをしたのだと思われる。

30節:イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

イエス様は、啖呵を切ったペテロの言葉とは裏腹に、この後ペテロが三度も、師であるイエス様を知らないと言ってしまう失態を犯すと予告した。

31節:ペテロは力を込めて言い張った。「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」皆も同じように言った。

ペテロは、イエス様のためにいのちも捨てる覚悟が自分にはあるのだと、No.1のポストをねらうために力を込めて言い張った。そして他の弟子たちも負けじと同じように言った。

 イエス様は、ご自分が捕らえられていく時に、弟子たちが逃げ去っていくことは聖書に預言されていることだと言った。 ペテロが三度もイエスを否むことも予告した。

 違う見方をすれば、これらは既に定められていたのである。人には神様のご計画によって定められていて、それには逆らえないことがあるのである。

 エゼキエル書には何度も、「そのとき彼らは、わたしが主であることを知る」(エゼキエル28:23等々)ということばがある。

 神様の預言通りに事が起こった時に、人々は、確かに神様が預言通りに事を起こされたことを知ったのである。

 イエス様の弟子たちも、この後、イエス様の予告通りの事が起こった時に、イエス様が神であることをまざまざと知ったのである。

 自分の弱さ故、罪故に、神様の言われていた通りに失敗をし、自分の理想の姿とはかけ離れた、惨めな姿を見せられて、その時、そのことによって神様の存在を深く知るという面が私たちにも起こるのである。

 失敗はできればしたくないだろう。惨めな思いもしたくないだろう。しかし、神様の計画されていることに無意味なことはない。私たちには計り知ることができなくとも・・・。

 失敗を通してこそ神様を知ることができるということがあるのである。

2022年11月27日(日)

「罪人の友として来られた救い主」

              テキスト:マタイの福音書1:1~17 (1頁)

 

 マタイの福音書は、イエス・キリストの弟子であったユダヤ人マタイが、ユダヤ人のために書いた書物である。マタイは、旧約聖書で預言されてきた救い主はイエス・キリストであること、旧約聖書の預言はイエス・キリストにおいて成就したということをユダヤ人に説得しようとこの書物を書いた。

 ユダヤ人が伝記を書くときには、まず冒頭に家系血統を記した系図を書いた。ユダヤ人は家系血統を重んじた。それは、彼らができる限りユダヤ人の血の純潔(外国人の血が混ざらぬよう)を保とうとしたからである。

 ユダヤ人の歴史が分からず、旧約聖書に関する知識が薄い人にとっては、新約聖書の冒頭に出てくるこの系図はわけの分からないものなのだが、当時のユダヤ人がこの系図に記されている一人一人の名前を読む時、その人物とその時代の歴史的背景を次々と思い出すことができた。

 この系図は、旧約聖書の預言通りに、イエス・キリストがダビデ王とアブラハムの子孫であるということを証明するものであった。

 2節に「アブラハム」という名前が出てくるが、アブラハムはユダヤ民族の先祖で、信仰の父と呼ばれた人物であった。神様はアブラハムと約束を結び、「地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:3)と語られた。これは、神様が人類を罪(神様から的がはずれている)の中から救うために、アブラハムとその子孫であるユダヤ民族を選び、彼らを通して全人類に救いの福音が伝えられるという意味のことばである。マタイは、イエス・キリストが「アブラハムの子孫」であると言うことにより、イエス・キリストこそがアブラハムに対して約束されたことを成就するために来られた方であるということを読者に伝えようとしたのである。

 6節に「ダビデ」という名前が出てくるが、ダビデはユダヤ人の歴史の中で最大の王様であった。今日においてもイスラエルの国旗にはダビデの紋章が入っている。ユダヤ人にとってダビデは理想の王様であった。そして神様はダビデに、「わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」(Ⅱサムエル7:12、13)と約束された。その後、エレミヤという預言者は、ダビデの子孫の中から一人の人物が現れ、その人によってユダヤ人に救いがもたらされると預言した(エレミヤ書23:5、6)。そしてその預言はイエス・キリストによって成就したということをマタイは伝えようとしたのである。

 

 この系図には4人の女性の名が記されている。ユダヤの系図には、普通、女性の名前は記されていなかった。女性は法律上の権限を持たず、父親か夫の所有物という立場であった。3節の「タマル」は、ユダの息子と結婚するが、夫が死に、ユダヤの法律にのっとって、ユダの次男と結婚するが、その次男も死に、ユダはタマルと他の息子を結婚させると言うが、タマルと結婚させることを嫌がり、その約束を果たさずにいた。すると、タマルは遊女の姿を装って、しゅうとであるユダを欺いて義理の父の子を産んだ(創世記38章)。「ペレツとゼラフ」は、姦淫と謀略によって生まれた子どもであった。5節の「ラハブ」は遊女であった(ヨシュア記2:1)。しかも彼女はユダヤ人ではなく、カナン人であった。ユダヤ人は、自分たちは神様によって選ばれた民族「選民」であるとう自負心があり、ユダヤ人以外の民族を異邦人と呼んで極端に軽蔑していた。また、5節に記されている「ルツ」もモアブ人という外国人であった。6節の「ウリヤの妻」とは、バテ・シェバという人物であり、ダビデはこの女性が水浴しているのを見てしまい、欲求を抑えられずに、彼女を王宮に召し入れて妊娠させてしまい、あげくの果てに、その事実を隠すため、彼女の夫ウリヤを戦場で死ぬように画策し、戦死させ、彼女を奪うという大きな罪を犯した。

 マタイは、ユダヤ人が誇りとしていたユダヤ民族の血の中にも、明らかな異邦人の血が混じっていて、決して純粋ではなく、その上、数々の不倫や罪の汚点があったことを読者に思い起こさせている。

 「アブラハムの子孫」「ダビデの子孫」であるイエス・キリストは神様が約束された救い主の成就であった。そして、異邦人の血も混じり、数々の不倫や罪の汚点の系図から生まれた救い主イエス・キリストの誕生は、神様はそのような人々を見下したり蔑視したりしてはいないということの証明であった。「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)イエス・キリストは、罪人の友としてこの地上に来てくださった救い主なのである。

2022年12月4日(日)

「主が導く道には希望がある」

           テキスト:マタイの福音書1:18~25 (1頁)

 

 18節「イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」

この時、ヨセフとマリアは婚約期間中であった。ユダヤの婚約は、法律上は夫婦として認められていたが、一年の婚約期間を過ごした後に、夫婦としての実生活が始まるということになっていた。

 この婚約期間中にマリアは聖霊の働きかけによって妊娠するが、ヨセフは、そのお腹の子が自分と血のつながった子どもではないと分かったので、そのことが世間に知られれば、マリアは姦淫を犯したということになり、ユダヤの民法によれば、ヨセフにはマリアを離縁する権利があり、また、彼女とその相手を石で打って殺してもよいという条項があった(申命記22:23、24)。しかし、当時は寛大な離婚法というものがあり、公にはしないで離婚状を書いて内密に去らせるということができた。

 ヨセフには二つの選択肢しかないように思われた。密かに離縁するか、あるいは、マリアを石打ちにさせるかである。密かに離縁といっても、結婚をするという喜びに満ちていたヨセフにとって、愛する婚約者と別れなければならないというとてつもない悲しみがあったであろう。また、離婚状を受け取った後のマリアのことを考えれば、女手一つで子どもを育てていかなければならないことや、世間の冷たい目にさらされながら生きていかなければならないというマリアの苦しみを思うと、やりきれない思いが溢れたことであろう。

 しかし、神様は三つ目の選択肢を与えて下さった。それは、マリアとすぐに結婚することだった。この選択肢はヨセフの中にはなかったであろう。そして、この選択肢を選んでも、ヨセフがマリアとの結婚に同意することで、ヨセフはマリアを妊娠させた当事者であると疑われるであろうことが予想された。

 しかし、この神様が示された三つ目の選択肢は、ヨセフにとっては一番希望が見える道だったに違いない。他の二つの選択肢はヨセフにはあまりにも辛すぎる道であったろう。しかし、神様がここが進む道だと示すところは、辛さはあっても、そこに希望を見出せる道なのである。そして、その道にどうしても導く必要がある時には、主の使いを送って(単なる夢ではなく)までも、その道に導いて下さるのである。

 神様のご計画は必ず成就する。

 22~23節:このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。

  神様は、ご自身の計画されている道に導くべく、困難に見える道にも希望を見せつつ導かれるのである。

2022年12月11日(日)

「神が私たちとともにおられる」

           テキスト:マタイの福音書1:18~25 (1頁)

 

 「処女が身ごもっている」(23節)「その胎に宿っている子は聖霊によるのです」(20節)

 イエス・キリストの降誕は処女であるマリアを通しての誕生であり、それは聖霊の神の力による御業であった。マリアの処女降誕は、イエス・キリストの出生に人間がかかわっていないということを示しており、100%神のはたらきであることを明らかにしているのである。

 イエス・キリストは人間となる必要があった。それは、罪を犯し、救いを必要としているのが人間だからである。人間が罪を犯したので、人間が罪の償いをしなければならないのであるが、すでに自分で罪を犯している人が、他の人の罪を償うことはできないのである。罪は神様に対する借金のようなもので、自分自身で借金のある人が、他の人の借金を肩代わりすることができるはずはない。よって、罪の償いをすることができるのは、罪を犯したことのない者だけである。しかし、そのような人はどこにもいない故に、神の御子イエス・キリストが罪のない人間とならなければならなかったのである。そして、私たちの罪によって引き起こされた神の怒りをなだめるために十字架にかかられたのである(ヘブル2:17)。イエス・キリストは完全な神であると同時に完全な人であった。一つの人格の中に神の性質と人間の性質を両方備えておられた。ヨハネ1:14には「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とある。

 主の使いは、生れてくる子に「イエス」という名をつけなさいとヨセフに命じた(21節)。「イエス」は旧約聖書でヨシュアと訳出される普通のユダヤ人名で、「主は救う」という意味を持つ。それは、イエス・キリストこそ「ご自分の民をその罪からお救いになる」(21節)方だったからである。イエス・キリストが私たちを救うために地上に来たのは、私たちが罪とその結果から自らを救うことができないからである。私たちはどんなに善良であっても、自分の中に存在する罪深い性質を除去することはできない。イエス・キリストだけがそれをなすことができたからである。

 22節「このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。」

 イエス・キリストの御降誕は、神様のご計画によるものであり、旧約聖書の預言の成就であった。

 23節「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。

 マタイはイザヤ書7:14のことばを引用しているが、イエス・キリストが生涯において実際にインマヌエルと呼ばれていたのではないだろう。マタイが引用した意味は実際の名前であるイエス(主は救う)と関連がある。それは、人間を神様の臨在から引き離しているのは罪であって、罪からの救いは結果として「神が私たちとともにおられる」ということになるからである。それと共に、神であるイエス・キリストは人間の肉体をとり、この地上に来て下さったことはまさに「神が私たちとともにおられる」ということをマタイを含め多くの人々に体現させられたことだった。

 イエス・キリストは私たちを罪から救い、私たちと共にいて下さるために私たちと同じ肉体をもって誕生されたのである。

 「クリスマス」それは、「神が私たちとともにおられる」という、神様から私たちへの愛のメッセージなのである。

2022年12月18日(日)

「蔑まれている者に真っ先に届けられた喜び」

テキスト:ルカの福音書2:8~20(新約聖書110頁)

 

イエス様がお生まれになったベツレヘムは、イスラエルの第二代目の王、ダビデの出生地で、「ダビデの町」とも呼ばれた。預言者ミカの預言(「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」ミカ書5:2)などから、ベツレヘムは救い主が誕生する地と名指しで呼ばれていた。ベツレヘムの羊飼いも当然この預言を知っていたはずである。

羊飼いの仕事は、羊に草を食べさせるために、お世話をし、狼におそわれないように見張りをし、羊の毛を刈ったりし、そして、夕暮れになるまえに小屋に入れる仕事であった。羊が健康で、栄え、成長していくために、羊飼いの命をいつも羊のために差し出していくような生活をしていくというのが羊飼いの生活であり、夜明けから、夜遅くまで、羊の幸せのために油断をせず、朝は、早くから起きて毎朝必ず群れの様子を見、夜の間、苦しんだ様子がないか、病気をしている羊はいないか等を調べ、一日の間、何度も何度も、群れに目をやって異常がないかを確かめる。夜も、羊が何を必要とするかを忘れないで、片目を開き、両耳を開けて眠る。何か問題が起こった徴候が少しでもあれば、すぐにとび起きて、群れを守るという非常に厳しい仕事であった。ベツレヘムの羊飼いにおいては、エルサレムの隣町という立地柄、エルサレムの神殿で生贄として捧げられるはずの羊たちを見守っていた。それは、罪の赦しのために行われる儀式に必要な子羊を供給するためであったと考えられる。通常は、羊飼いが夜番をしながら羊を守るということはなかった。狼その他の野獣に襲われる危険が絶えずあったからである。しかし、ベツレヘムは特別で、羊の集散地であったため、多くの羊をケアするために、小屋に入れられず外に置いたまま夜を過ごすことがあった。そのように、ベツレヘムの羊飼いは特別な使命のために働いていた人々であり、ダビデの少年時代は羊飼いであるなど、宗教的にも高貴な存在と見られていてもおかしくないはずであるのに、当時の羊飼いは、身分的に低く見られていた。彼らは貧しかった故に、ローマ帝国の人口調査の対象から外され、価値なしと見捨てられていた。特に宗教的には、彼らが安息日を含む宗教上の礼拝に参加しにくかったため、当時の宗教指導者からは人間扱いをされず蔑まれていた。

①<そのような「羊飼いたちに」、まず、最初に、救い主キリストの誕生が知らされた>

10~11節「御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」神様は、人々から貧しい者、無益な者と蔑まれていた羊飼いに、真っ先に「大きな喜び」を知らせることを計画されていた。

②<羊飼いたちは、ただ一度罪の生贄としてささげられる神の子羊に会った>

エルサレム神殿では罪の赦しのための生贄として子羊がささげられた。それは何度も繰り返される儀式であった。しかし、イエス・キリストはただ一度だけ十字架上で人類の罪の贖いのためにささげられる神の子羊であった。羊飼いたちはその神の子羊に出会った。羊飼いたちはその深い意味を知っていただろうか・・あるいは後に知っただろうか・・。もし知ったとしたならば、自分たちの仕事の意義を再確認し、改めて誇りを感じたのではないだろうか・・。神様は蔑まれていた羊飼いたちに誇りを回復させようとされたのかもしれない。

③<家畜小屋でなければ羊飼いはイエス様に会えなかった>

ベツレヘムには無数の大きな洞窟があり、羊飼いは、寒い夜にはこの洞窟に羊を導き入れた。洞窟の奥にある適当な岩を削ってそこに窪みをつけ、飼い葉おけとしていた。貧しい者、無益な者と蔑まれていた羊飼いたちは、イエス様が生まれた場所が、立派な王宮や貴族の館ではなく、自分たちの生活の場であるこのような家畜小屋であったからこそ、すぐにイエス様を見つけ出し、お会いすることができたのである。(羊を飼っている以上、すぐに見つけ出せなければならなかったであろう)

2022年12月25日(日)

「イエス・キリストのご降誕は十字架のため」

                  テキスト:ヘブル人への手紙2:17 (新約聖書439頁)

 

イエス・キリストの二性一人格論論争に関して、451年に開かれたカルケドン公会議において、イエス・キリストという方について以下なような決議がなされた。「神性によれば御父と同質、人性によれば私たちと同質」「二つの本性において混同されず、変わることなく、分割されず、分離されない」

ヨハネの福音書1:1「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」ヨハネの福音書1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

「ことば」とは、イエス・キリストのことである。そのことば(イエス・キリスト)は、神とともにおり、同時に神そのものであった。そのような御方が、一人の完全な人間となって私たちの間に来てくださった。このことばを書いたイエス様の弟子のヨハネは、三年余りイエス様と寝食を共にしたが、そのヨハネがイエス様を「父のみもとから来られた(神の)ひとり子」と理解し、その栄光を地上で目撃したと記した。ヘブル人への手紙2:17には、「したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。」とある。「すべての点で兄弟たちと同じように」なられた。同じようになるとは、まさに、神であり神の御子である方が完全に一人の人間となられたということである。イエス・キリストは人間となる必要があった。それは、罪を犯し、救いを必要としているのが人間だからである。人間が罪を犯したので、人間が罪の償いをしなければならないのであるが、すでに自分で罪を犯している人が、他の人の罪を償うことはできないのである。罪は神様に対する借金のようなもので、自分自身で借金のある人が、他の人の借金を肩代わりすることができるはずはない。よって、罪の償いをすることができるのは、罪を犯したことのない者だけである。しかし、そのような人はどこにもいない故に、神の御子イエス・キリストが罪のない人間とならなければならなかったのである。そして、私たちの罪によって引き起こされた神の怒りをなだめるために十字架にかかられたのである。イエス・キリストは神であると共に、人間なのである。とはいえ、半神半人なのではなく、100%神であり、100%人間なのである。

 聖書には三名の御方が神と呼ばれている。父なる神、子なる神(イエス)、聖霊なる神であるが、この三者は人格(位格)において三つに区別できるが、本質においては、同じ一人の神であって、互いに上下の差異はない。本質において一つでありながら、位格において三つであるこのような神のあり方を三位一体と呼んでいる。イエス・キリストの二性一人格も同じように、私たちの理解力をはるかに越えている。しかし、神は人間と同じ存在ではない。人間が経験的に知ることが出来ないのである。しかし、聖書のことばを学ぶ時、私たちは、イエス・キリストをこのように理解する以外にないと受け止めるのである。Ⅰコリント2:9には、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と記されている。

 私たちの理解をはるかに超えているが、神であるイエス・キリストは私たちの罪のため十字架にかかるために人間の姿をとってこの地上に来て下さったのである。

2023年1月1日(日)

「ありのままの祈りの中から」

                           テキスト:詩篇55:1~23 (旧約聖書988頁)

 

  この詩篇の作者ダビデは心身共に疲れきったどん底のような状態で神様に祈っている。

 1~3節「神よ私の祈りを耳に入れ私の切なる願いに耳を閉ざさないでください。私をみこころに留め私に答えてください。私は悲嘆に暮れ泣き叫んでいます。それは敵の叫びと悪者の迫害のためです。彼らは私にわざわいを降りかからせ怒って私を攻めたてています。」

ダビデは必死に叫んでいる。それは神様が「私の切なる願いに耳を閉ざ」しているように感じられたからである。ダビデは親しい友から裏切られ、胸も張り裂けるほどに悩み苦しんでいるが、神様は何もしてくださらないかのように感じている。

そのような中ダビデは、自分の内側に沸き起こった感情を自分で制御しようとはせず、そのままを言葉にして祈った。4~5節「私の心は内にもだえ死の恐怖が私を襲っています。恐れと震えが私に起こり戦慄が私を包みました。」

そしてダビデは逃げ出したいような自分の気持ちをこのように素直に表現する。6節「ああ私に鳩のように翼があったなら。飛び去って休むことができたなら。」

しかもダビデはその上で、逃げ場のない自分の現実を描く。彼の住む町の中には、「暴虐と争い」(9節)「不法と害悪」(10節)「虐待と詐欺」(11節)が満ちていると述べている。そればかりか、最も近しいはずの人が最も恐ろしい敵となっていると語る。(12~14節)

そのような中ダビデは、「荒野」を「私の逃れ場」と描く。(7~8節)それは、誰の保護も受けられない、孤独で不毛な場所だからこそ、「神様だけが頼り」となるということである。

更にダビデは神様に、赤裸々に、自分に迫害を加える敵がこの地上から死んでいなくなればいいと祈っている。15節「死が彼らをつかめばよい。彼らは生きたままよみに下るがよい。悪が彼らの住まいに彼らのただ中にあるからだ。」23節「しかし神よあなたは彼らを滅びの穴に落とされます。人の血を流す者どもと欺く者どもは日数の半ばも生きられないでしょう。」

ダビデはこの祈りを通して、恐怖におびえた心を、迫害者に対しての苦々しい思いを、そのまま神様にさらけ出している。神様が沈黙していると感じた時もあったが、祈りが応えられたという実体験を経て、このように語る。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。」(22節)

「ゆだねる」の本来の意味は「放り投げる」ことであり、自分の思い煩いや恐怖心を、そのまま神様の御前に差し出すことである。私たちも、神様にまず、自分の混乱した感情を、正直に、あるがままに注ぎ出す必要があるのではないか・・。そのようなプロセスを経て、私たちもダビデと同じく、支えてくださる、支えてくださっている神様を知っていくのである。

2023年1月8日(日)

「正直な思いを繕うことなく伝える」

           テキスト:マルコの福音書14:32~42 (新約聖書99頁)

 

 イエス様は、地上の生涯の最後の日の前夜、弟子たちと共に過越の食事をされてから、ゲッセマネの園という所に行かれ、父なる神様に祈られた。イエス様は側近とも言える3人の弟子に、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」(34節)と言われた。この当時、先生と呼ばれていた律法学者が弟子に自分の弱さとも取られる姿を見せるということはあり得なかったであろう。しかし、イエス様は弟子たちに対し、正直な思いをそのまま伝えられた。

 この地上におられた時の、100%人間でもあったイエス様は、私たち人間にとっての、人間としての完全な見本である。そのイエス様が、当時の人から見れば弟子に弱さとも取られる姿を見せるということをされたのである。

 「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」(34節)。それは神様への心の渇きを訴えた詩篇42,43篇で三度繰り返される、「わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。」(42:5、11。43:5)、「私の神よ私のたましいは私のうちでうなだれています。」(42:6)という表現に由来する。これはまさに武士道や西洋のストア主義で否定的に描かれる「心の乱れ」を表現したことばであると高橋秀典師は述べている(『心が傷つきやすい人への福音』ヨベル出版、64頁)。

 地上におられた時の、100%人間でもあったイエス様には、「心の乱れ」があったとも考えられるのである。

 「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(36節)人の前でも正直な思いを言い表しておられたイエス様は、なおさら、父なる神様にも正直な思いを言い表しておられた。そして、この後、イエス様は、「悲しみのあまり死ぬほど」に思える道に進んで行かれた。「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」(36節)正直な思いを繕うことなく神様に伝えるということによって、「神様のみこころがなりますように」という祈り心が起こされるのである。

 十字架上で息を引き取る間際に大声で叫ばれたことば、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)。このことばを叫ぶ前にイエス様を罵倒していた人々は、このことばを聞き、なおイエス様を見下したであろう。人間的に見れば、死に際を格好良くしようなどと繕うこともできたであろうと思える。しかし、イエス様はこの時も、神様に正直な心の内を伝えたのである。周囲の人に繕うことなく。

 イエス様が述べておられる、「杯」、「悲しみのあまり死ぬほど」である事とは、この後に起こる十字架刑である。父なる神様とイエス様は、無限、永遠、不変の愛(人間では計り知ることのできない愛)によって結ばれていて、十字架刑の時まではその愛が破られるということは、一瞬たりともなかった。しかし、イエス様の十字架刑は、人間が釘づけにされるという苦しみのみならず、イエス様ができれば避けたかった、父なる神様との断絶が行われた。ゲッセマネの園においてイエス様が祈られた、父なる神様との愛の交わりが全く絶たれてしまうということは何としても避けたいという思いと願いは、イエス様にとっては最も自然で当然の願いであった。その自然な願いを繕うことなく伝えていたのである。

 私たちは神様に自分の思い・願いを繕うことなく、まず何よりも先に伝えているだろうか・・。そして、できることならば人にも・・。

2023年1月15日(日)

「祈りによって強められる」

                       テキスト:マルコの福音書14:32~42(新約聖書99頁)

 

 先週に引き続き本日も、ゲツセマネの園での祈りの箇所から学びたい。

 2つの点を覚えたい。

 ①<弱い肉体を支えるのは、神様との交わり・祈りによって強められる霊である>

 37~38節:イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」

 誘惑とは、サタンの誘惑である。サタンの思惑は常に、信仰者の魂を神様から引き離すことにある。イエス様に対してでさえ、できることならば十字架刑(神様との魂の断絶)を受けたくないという思いに対して、十字架をやめればいいではないかとささやきかけるサタンの誘惑があったのである。この時、弟子たちは疲れて1時間足らずも目をあけていることができずに眠ってしまっていたが、人間の肉体を持っていたイエス様は、ご自身の肉体の弱さを認め、また、そこに付け込もうとするサタンの誘惑に対して、それを祈りによって克服されたのである。

 私たちは弱い肉体を持っていることを自覚しているようでいて、自力で、その弱い肉体で事を解決しようとしやすい者なのかもしれない。弱い肉体を支えるのは、神様との交わり・祈りによって強められる霊であるということを覚えたい。

 ②<同じことばで祈られた>

 39節:イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。

 イエス様は何故、前と同じことばで祈られたのだろうか・・。

 できることならば十字架刑を受けたくないという願いに対しての神様からの承諾が得られなかったからではないか・・。

 私たちにおいては尚更、私たちの願いが、今、神様に承諾されたというようなことは分からないというのが普通なのではないか・・。

 少なくとも、私たちにおいては、何と祈っていいか分からなくても、前と同じ言葉で神様に願っていいのであるということが分かるのではないか・・。

 神様は私たちが神様に頼ることを喜んでおられる。

2023年1月22日(日)

「聖書が成就するため」

  テキスト:マルコの福音書14:43~52 (新約聖書100頁)

 

 49節「わたしは毎日、宮であなたがたと一緒にいて教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえませんでした。しかし、こうなったのは聖書が成就するためです。」

 43節~52節のイエス様の逮捕場面は、聖書の預言が成就するためであったと言えるであろう。

 剣や棒を手にしてイエス様を捕らえに来た群衆は、マルコ14:27で引用されたゼカリヤ書13:7「剣よ、目覚めよ。わたしの羊飼いに向かい、わたしの仲間に向かえ──万軍の主のことば──。」の成就だと考えられている。

 イスカリオテ・ユダの裏切りも、神様のご計画の中で定められていたことが成就したと言えるであろう。以下のみことばからもそれは分かる。

ヨハネ13:18「わたしは、あなたがたすべてについて言っているのではありません。わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。けれども、聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』と書いてあることは成就するのです。」

マタイ27:3~9:そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。祭司長たちは銀貨を取って、言った。「これは血の代価だから、神殿の金庫に入れることは許されない。」そこで彼らは相談し、その金で陶器師の畑を買って、異国人のための墓地にした。このため、その畑は今日まで血の畑と呼ばれている。そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの子らに値積もりされた人の価である。主が私に命じられたように、彼らはその金を払って陶器師の畑を買い取った。」

 イエス様の弟子や身近にいた者(マルコ14:51~52、著者のマルコ自身のことではないかと考えられている)まで全員がイエス様を見捨てて逃げ去ったことも、ゼカリヤ書13:7「羊飼いを打て。すると、羊の群れは散らされて行き」の成就であると考えられている。

 ということは、弟子たちがイエス様を見捨てて逃げ去ったことは、「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈って」(マルコ14:38)いても起こることだったと言えるのではないか・・。だとすれば、弟子たちが「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈る」目的は何だったのであろうか・・。それは、イエス様と同じ思いに導かれていくということだったのではないか・・。「十字架が神様のご計画である」という思いに・・。

 聖書の預言は成就するので、「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈って」いても結果的に弟子たちは逃げ去るが、しかし、これは、神様のご計画通りに事が起こっていると受け止めながら逃げ去ってしまうということになったのではないか・・。

 本日の箇所はイエス様の逮捕場面でのことなので、そのことを私たちにどのように適応すべきなのかは難しいが、私たちにおいても、祈っていても好ましく思えないことが起こるという現実があるだろう。その時に、イエス様の逮捕場面は、聖書の預言の成就だったことを思い起こせればと思う。

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