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2017年4月2日(日)

「神様の壮大な愛の御計画の中に」

                    テキスト:ルカの福音書22:63~23:25 (新約聖書165頁)

 

○22:70~71節:「彼らはみなで言った。『ではあなたは神の子ですか。』すると、イエスは彼らに『あなたがたの言うとおり、わたしはそれです』と言われた。すると彼らは『これでもまだ証人が必要でしょうか。私たち自身が彼の口から直接それを聞いたのだから』と言った。」イエス様は公然と、ご自分を神と等しい者と宣言し、それにより、ユダヤの最高裁判所サンヘドリンから、このことばが死罪にあたる神への冒涜と見なされた。通常の裁判では、被告のした行為が裁かれるが、ここでのイエス様の裁判はそうではなく、イエス様が自分のことを誰であると言っているかということについて裁かれた。

○イエス様は十字架にかかるためのエルサレム入城の際に言われた。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」(ルカ18:31~33)イエス様を捕らえに来た者に向かって剣を抜いた弟子のペテロには「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」(マタイ26:52~54)と言われた。イエス様が十字架にかかることは神様のご計画であった。それは、イエス様を神であり救い主であると信じる者に、罪の赦し(神様からの的外れの回復と、犯す数々の行為罪の赦し)と、永遠のいのち(神様との交わりの中で生きるいのち)を与えるためであった。

○当時の宗教・政治の指導者たちは、イエス様に対するねたみもあったが、神への冒涜罪ということでイエス様を捕らえ、ローマに反逆をする者という訴えを総督ピラトに起こした。ピラトはイエス様の無罪を宣告しながらも、ユダヤの民衆の暴動を恐れ、自分のメンツ、自己保身のため、罪のないイエス様を有罪にし、十字架につけた。

○イエス様が私たちの罪のために十字架にかかることは神様のご計画であり、ユダヤの指導者たちやピラトの関わりがなくとも必ず実現することだった。しかし、神様のご計画に一役かうかのように、ユダヤの指導者たちやピラトの人間の醜さが、そこに関わっていくのである。

○私たちには神様の壮大なご計画の過程の詳細は計り知れない。様々な駒がかかわるようにして導かれている様々な関わり等。しかし、私たちは、私たちを愛して止まない神様の壮大な愛のご計画の中に生かされている者であり、それ故に、イエス様の十字架の贖いによって赦された私たちがいるのである。

2017年4月9日(日)

「主の愛が天国に導く」

                    テキスト:ルカの福音書23:32~49 (新約聖書167頁)

○ふたりの犯罪人が、イエス様とともに十字架にかけられた。34節に「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』」とある。ここで使われている「わからない」(「無知」)は、知的欠陥というより、罪のある状態を示す用語として使われている。すなわち、神様から的を外した状態を指す。人は神様から的が外れている結果として行為罪を犯すのである。34節後半から38節には、的外れ故のひどい行為が記されている。

○39節には「十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、『あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え』と言った。」とあるが、はじめは犯罪人の2人ともが悪口を言っていたことがマタイ、マルコの福音書を見ると分かる。(マタイ27:44、マルコ15:32)しかし、ルカの福音書には、悪口言う犯罪人の1人に、もう1人の犯罪人が彼をたしなめて言ったとある。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(40~42節)イエス様は金曜日の夜に捕らえられ、急遽行われた裁判は夜を徹して行われた故、イエス様が何の罪に問われ十字架刑に処せられているのかを、この犯罪人は知るよしもなかった。故に、十字架刑に処せられるほどの重罪を犯したが故に十字架刑に処せられているのだろうと考えるのが普通ではないだろうか。イエス様のうわさ(病人の病を治し、死人をも生き返らせた等の数々の奇蹟を行い、神様は愛なる御方であることを説き明かすすばらしい人物)は耳にしていたかもしれないが、いずれにしても、「この方は、悪いことは何もしなかった」と確信し、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」という言葉が出たのは、自分を罵倒し、侮辱の残虐行為を行っている者たちに対して、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈るイエス様の姿を見たからと言えるであろう。

○ローマの軍隊の百人隊長(この時、イエス様を処刑する責任を負っていた)は、イエス様の死後直後に、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった」(47節)と言った。異邦人であったローマの軍隊の百人隊長がイエス様が父と呼ぶ神の存在を信じていこうとしている姿がある。それは、天変地異の出来事もさることながら、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈るイエス様の姿に、人間を超えているものを感じたからであろう。

○神様から的を外した状態の人間が神様を信じてみたいと心が動かされるのは、人知を超えた愛を感じた時なのであろう。

○犯罪人の1人は、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言うことで自分が死んだ後、天国に行けるなどとは思っていなかったであろう。命乞いをするつもりもなかったであろう。ただ、イエス様の姿を見、自分の醜さを痛感した故に、イエス様が御国の位に着かれる時に、私のような者がいたことを思い出して頂くだけでうれしいですという思いを述べたのであろう。そんな彼にイエス様は、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(43節)と、思い出すレベルではないことばを語られた。それはイエス様と共に天国にいるという約束だった。

○イエス様の愛は人を悔い改め(考え方を変える)に導き、天国に導いて下さるのである。

2017年4月16日(日)

「イエス・キリストの復活がなければ」

                    テキスト:Ⅰコリント15:12~22 (新約聖書340頁)

○パウロは、「死者の復活はない」と述べる者に対して、もし死者の復活がないとすれば、イエス・キリストも復活しなかったということになると述べている。なぜならば、地上におられた時のイエス・キリストは100%神であり、100%人間であり、キリストは人間として死なれたのであるから、もし人間というものがよみがえらないものならばキリストのよみがえりもないということになる(13節)。

○もともと人間という肉体を持つ存在は、永遠に朽ちない存在としてではなく、いつか朽ちなければならない存在として造られている。しかし、神様は、愛して止まない存在として命を与えた人間一人一人が、死んで肉体が朽ちて終わりになるのではなく、福音を受け入れる者には新しい体によみがえらせる計画を最初から持っておられたのである。その人間のよみがえりの初穂がイエス・キリストだったのである。

○福音とは、「神様と愛の交わり・いのちの交わりを持って神様と共に生きる」生き方を選ぶ者(イエス・キリストの十字架は、アダムのような的外れな生き方と同じ生き方をしている自分から方向転換するためのものであったと信じる者)は、神様との愛の交わりの関係に戻ることができるという神様から人間への愛のメッセージです。パウロはキリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教・信仰も実質のないものになる(14節)と述べている。原文において、「実質のないもの」ということばは強調されて使われていますが、「実質のないもの」と訳されたこのことばは、「空虚」「中身が何もない」という意味のことばです。キリストの復活がないなら、宣教・信仰も、「中身が何もない」ものとなると強調して述べているのです。

○キリストは、「私たちが義と認められるために、よみがえられた」(ローマ4:25)のであるから、キリストの復活がないならば、私たちは依然としてアダムの側にある者(罪の中にいる)ということになり(17節)、すでに死んだ信徒(キリストにあって眠った者たち)は、神様との交わりが回復されぬまま(滅んでしまった)となる(18節)。

○もし、私たちがこの世で、復活していないキリストに希望を置いている(単なる希望)としたならば、私たちはすべての人の中で一番哀れな者だと述べている(19節)。

○アダムの側にある者は、神様から魂が離れてしまっている、肉体は生きてはいても死んでいる者であるが、イエス・キリストの側にある者(イエス・キリストを神であり、神様から的が外れた生き方からの救い主であると信じた者)は、神様の下に魂が戻った、魂が生かされている者である。

○イエス・キリストの復活がなければ、私たちクリスチャンは、中身が何もないものを信じている、すべての人の中で一番哀れな者なのですが、神様は私たちに聖書を通してキリストの復活の事実を示して下さり、信じる私たちに、新しい体が与えられるよみがえりの確固たる希望と、神様と共に生きる新しい生命を与えて下さったのである。

2017年4月23日(日)

「死は勝利にのまれた」

                            テキスト:Ⅰコリント15:50~58 (新約聖書342頁)

 

○50節:「兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」「血肉のからだ」は、現在、地上に生きるいのちを表す表現として、それほど珍しいものではなく、肉体の二大構成要素、腐敗しやすい二大要素に注意を向けている。このからだは朽ちていくものであることを示している。

○新約聖書では血と肉とが結合した場合、意味は必ず肉体を指すものとなるようである。

○「血肉のからだは神の国を相続できません。」来るべき世に行くのは、このからだではない。

○イエス様の再臨の時に生きていようと死んでいようと、そのままでは御国に入ることはできないということを意味している。

○51~52節:「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」イエス様の再臨の時に生きているクリスチャンたちは、そのからだが変えられる。また、イエス様を信じていて召された者たちは「朽ちない」ものによみがえる。それは、52節にあるように、終わりのラッパ(地上で起きる出来事の全ての終わりを意味している)とともに、「一瞬のうちに」(人がまばたきをするくらい一瞬)よみがえるのである。

○53節:「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」からだそのものは、本当の人格ではなく、身にまとう着物にすぎない。御国においては、完成された人格とともに、別の着物を着ることになる。

○54節:「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します。」「死」とは、肉体と魂の分離を表しますが、「死は勝利にのまれた」の「死」は、人をひどく苦しめるものとしての表現として使われており、そして、その「死は勝利にのまれた」と述べている。「勝利にのまれた」とは、死の完全な敗北と滅亡を表している。

 ○55~56節「『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」「とげ」とは、突き棒や針のようなものを表し、「死よ。」と「死」を擬人化し、「死」が「とげ」のようなもので人をひどく苦しめるその「とげ」とは「罪」なのであると述べている。そして、「罪」は「律法」を力の源のようにして利用をしているのだと述べている。

神様が人間に与えた律法とは、「愛の律法」であり、それは、神様と隣人の愛を受け入れ、神様と隣人を愛することを求める律法。

「聖であり、正しく、また良いもので」(ローマ7:12)ある律法を罪が利用することによって、神と隣人を愛せない人間を罪人であると宣告するのである。律法は宣告はするが、人を救いに導く力がない。

○57節:「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」しかし、イエス様を信じる私たちに、神様は勝利を与えてくださった。死と罪と律法に打ち勝った者としてくださったというのである。その目に見える保証がイエス様の復活だった。人をひどく苦しめる「死」に勝利をされたイエス様は死んでよみがえられた。イエス様を信じた私たちの肉体の機能もいつかは必ず停止するが、感覚的にはずーっと生き続ける。私たち人間の「罪」の刑罰を代わりに受けてくださったので、罪の刑罰はもうないものとしてくださった。神様と隣人を愛することを求める律法の要求を全てまっとうされたイエス様。そのイエス様と一つとされている私たちも律法の要求を全てまっとうした者として見てくださる。故に、罪に対しても分離した者として下さったのである。

○58節:「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」コリントの人は、気まぐれで、理由もなく右から左に、簡単に動いてしまう傾向があった。だから、彼らに、復活の真理、全人類と全被造物への神様の最終計画をしっかりと握りしめて歩んで欲しかった。人間の存在というものが死で終わりならば、その生涯は浪費とも言える。しかし、神様はイエス様の復活を通して、「死」は、クリスチャンにとって終わりではないことを保証してくださった。だから、パウロは、クリスチャンにとって、今生きている生涯における「労苦」はむだではないのだと励ましているのである。

2017年4月30日(日)

「真正直な御方が宣言して下さる私たちの命」

                                                         テキスト:ヨハネの福音書10:28~30 (新約聖書199頁)

 

○28節「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」29節「わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」

イエス様は父なる神様のことを「わたしの父」と語られた。ユダヤの人たちは、神様を「わたしの父」とは言わなかった。その言葉を使う場合は、「天にいます」という修飾語をつける必要があった。しかし、イエス様はそれをつけなかった。イエス様が父なる神様を「わたしの父」と呼んだことには、ユダヤの人たちにとって誤解する余地のない明白な意味が込められていた。それは、「わたしは神と等しい存在である」ということだった。これにより、ユダヤの人たちの憎悪は燃え上がり、殺意を抱いていった。更にイエス様は「わたしと父とは一つです。」(30節)と言われた。このことばの意味するところは、イエス様と父なる神様が人格や目的が「一つ」というのではなく、「本質や性質」が一つということであった。すなわち、イエス様がわたしは神であるという主張をしたということであった。

○イエス様は、ご自身が発することばが何を意味するかを当然分かっておられた。そして、そのことばを聞くユダヤの人たちがどのような反応を起こすのかも分かっておられた。しかし、イエス様はその場の空気を読んで自分の身を安全なところに持っていこうとしたりはされない。話術を使ってその場をコントロールしようとはされない。イエス様は偽ることのできない御方、偽ることをしない御方、真正直な御方なのである。その御方が、ご自身を神であると宣言された御方が、私たちに*永遠のいのちを与えて下さり、そのいのちは神様の御手の中にあるいのちである(「わたしの手から」「父の御手から」)。故に、決して滅びることがなく、誰も主の御手の中にあるいのちを奪い去るようなことはできないと宣言して下さっているのである。

 

*永遠のいのちとは神様のいのちということ。それは、神様との交わりの中で生きるいのちのこと。

2017年5月7日(日)

「みことばを信じて救われる」

                                             テキスト:ヨハネの福音書10:30~39 (新約聖書199頁)

 

○30節「わたしと父とは一つです。」イエス様がわたしは神であると主張すると、「ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。」(31節)イエス様はご自分のなさったわざのどれが石打ちに相当するのかと問いかけた。それに対しユダヤの人たちは、イエス様のわざとは何のかかわりもなく、イエス様が自分のことを「神とするからです」(33節)と答えた。イエス様が自分を神であると主張することは神への冒涜であり、神を冒涜する罪を犯した者は死刑にされたからである(旧約聖書レビ記24:16)。

○イエス様は旧約聖書の詩篇82:6「おまえたちは神々である」を引用し、神のご意志を具現しているという意味では地上の王たちでさえ神々と呼ばれているのだから、真実のままにイエス様がご自分のことを神であると言うこと、神のわざによって神のご意志を具現している自分がなぜ咎められるのかと問いかけた(34~38節)。

○37~38節「もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし行っているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」イエス様は生まれつきの盲人の目を見えるようにされた等、神にしかできないわざをされた。何の色眼鏡もかけずに見れば、イエス様のわざは神のわざであるとしか考えられない。ならば、イエス様がご自分を神であると主張することが信じられなくても、イエス様のわざを信用しなさいと言われた。そうすれば、父なる神がイエス様におられ、イエス様が父なる神にいることを悟り、知ることに繋がるのだと言われた。

○神様は、人が、イエス様を神であり罪からの救い主であることを信じられるようにと各々に神様のわざを示してくださっている。そのわざは病の癒しであったり様々のことがあるであろう。しかし、人は、神様のわざをきっかけにするとしても、神様のみことばを信じて救われるのである。新約聖書ルカの福音書16章19~31節に、天国ではない苦しみの場所に行った魂が、まだ生きている自分の兄弟がこの苦しみの場所に来ることがないように、死人を生き返らせて自分の兄弟に考え方を変えるようにと告げに行って欲しいと神様に願うたとえがある。しかし、その答えは、「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」であった。人がみことばに耳を傾けていく時、神様は、イエス様は神であり罪からの救い主であることを示して下さるのである。そして、人がその聖書のみことばを信じる時救われるのである。

*罪からの救いとは、イエス様を神であり罪(神様から的を外していること、及び、犯す数々の行為罪)からの救い主であると信じることによって、罪が赦される(神様からの的外れの回復と、犯す数々の行為罪の赦し)こと。

2017年5月14日(日)

「イエス様が生きていることを示す聖霊」

                            テキスト:使徒の働き1:3~5 (新約聖書227頁)

 

○イエス様の弟子たちは、師であるイエス様が十字架上で死に、失意のどん底に落とされた。自分たちが描いていた将来の夢が崩れ、希望を失い、この先どのようにして生きていけばよいの分からなくなっていた。それと共に、イエス様を捕らえ殺したユダヤの指導者たちが自分たちをも捕らえに来るのではないかという恐怖にかられていた。そんな弟子たちにとってイエス様の復活は失った希望に光が差し込む出来事だった。弟子たちは、復活のイエス様にお会いする度に心の底から喜んだ。しかし、イエス様の姿が見えなくなると、また、幾ばくかの恐怖にかられることもあったのではないだろうか。かつては、師であるイエス様につき従っていけばユダヤの指導者の立場に就けると、夢見て歩んでいたが、イエス様が常に共にいるわけではないと思える状況にあって、この先の進んで行く歩みにも不安を抱いていたであろう。そんな弟子たちに対し、イエス様は、「数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」(3節)イエス様は、ご自分が復活し、生きているということを何度も示されたのである。

○5節「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」聖霊のバプテスマ、すなわち、聖霊降臨の出来事以降、イエス様を自分の神であり、罪からの救い主であると信じる一人一人の内に聖霊は宿って下さるようになった。聖霊の神は、イエス様と同じ本質を持つ、もうひとりの助け主である(ヨハネの福音書14章16節)。コロサイ人への手紙1章27節には、「あなたがたの中におられるキリスト」ということばがあるが、イエス様を信じた一人一人の内に宿っておられる聖霊は、まさしくイエス様そのものと思ってもよいのである。

○人類創造の時から今に至るまで変わらぬ神様のメッセージの1つは、「神は私たちとともにおられる」(マタイの福音書1章23節)ということである。死んで後よみがえられたイエス様は、私たちと共に生きておられるのである。そのことを示し続けるために聖霊は降臨され、私たちの内に住んでおられるのである。

 

*罪からの救いとは、イエス様を神であり罪(神様から的を外していること、及び、犯す数々の行為罪)からの救い主であると信じることによって、罪が赦される(神様からの的外れの回復と、犯す数々の行為罪の赦し)こと。

2017年5月21日(日)

「神がなさる国の再興とは」

                                                    テキスト:使徒の働き1:6~8 (新約聖書227頁)

 

○6節「そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。『主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。』」イエス様の弟子たちは、「聖霊のバプテスマを受ける」という意味が理解できていなかったのであろう。それと共に、「エルサレムを離れないで」ということばも相まって、今こそ、イスラエルをローマ帝国の支配から解放してくださるのですかと問いかけたのであろう。その願いは、当時のユダヤ人が切望していたことであり、神の民として選ばれたイスラエルが何故、ローマ帝国の属国となり、様々な憂き目に遭うのかという払しょくできぬ疑問から発せられたものであろう。イエス様が神政国家を再建されることを期待して、つき従ってきた弟子たちの姿がそこにある。

○しかし、イエス様のこたえは、「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」(7節)だった。むしろ、今、なすべきことはこういうことです。と、8節のことばを語られた。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」聖霊が臨む時、あなたがたは力を受け、エルサレム、すなわち、身近な人々、自分のまわりから、ユダヤとサマリヤの全土、すなわち、弟子たちの出身地、故郷、そして地の果てにまでイエス様の証人となると言われた。

聖霊が臨むことによる賜物には色々な賜物がある(Ⅰコリント12章、等々)。しかし、「使徒の働き」が示す何よりもの聖霊の賜物は、イエス様の証人として生きるための聖霊の力である。

○イエス様の証人とは、イエス様に起こった十字架と復活の事実を証言する人ということである。イエス様の十字架と復活の出来事が自分の人生に何をもたらしたのかを証しするのである。イエス様を自分の神であり、罪からの救い主であると信じた時に、神様との交わりが回復され、自分が犯した数々の罪の行為の赦しが与えられた事実を証しするのである。その証しをする力を聖霊が下さるのである。

○私たちにも、各々、私たちの願う、国の再興を、「今こそ」というものがあるかもしれない。しかし、神様がなさる国の再興は、イエス様の証人として生きることによってなされていくのである。聖霊が与えて下さっている力を信じて、証人として歩むお互いでありたいと思います。

2017年5月28日(日)

「主の御旨が分からない中にあっても」

                                                  テキスト:使徒の働き1:6~14 (新約聖書227頁)

 

〇イエス様はオリーブ山という山から昇天された。弟子たちは、イエス様が上って行かれるとき、天を見つめていた。最愛なる師であるイエス様の十字架刑というショック、そして、人間の理性を越えている復活等々、弟子たちは目の前に起こる衝撃的な出来事をただ目の当たりにし、それらの出来事にどのような意味があるのかも分からずに過ごしてきたであろう。そして、「聖霊のバプテスマを受ける」(使徒1:5)という意味も理解できていないままで、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(8節)ということばを聞いたのである。「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。」(9~10節)そして、この昇天の時も、ただ愕然として天を見つめるより他はなかったのである。天使は弟子たちに言われた。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(11節)このようにしてイエス様は再臨されるのであると教えたのである。

〇最愛なる師であるイエス様の捕縛、十字架、復活、一連の衝撃的な出来事の意味の理解、整理もできないままの弟子たちに希望を与えたことばが、「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」だったのであろう。また、最愛なる師であるイエス様にお会いできるという約束が、弟子たちに生きる希望を与え、エルサレム(自分たちに危険がおよぶ可能性のある場所)に戻り、「心を合わせ、祈りに専念」(14節)していくことにつながるのである。一連の出来事の理解がおぼつかない弟子たちにとって祈れることとは、おそらく、「もう間もなくイエス様にお会いできることを感謝します。その先は、ずっとイエス様が共にいてくださいますように」というような祈りだったのではないか。それでも神様はご自身の計画通りに、五旬節の日に聖霊降臨の御業をなさるのである。

〇私たちも、この時の弟子たちと同じく、神様が今、何をなさっておられるのか、分からないことがほとんどではないだろうか。しかし、そのような中にあっても神様は、生きる希望を与えることばを下さり、前に進ませて下さるのである。

2017年6月4日(日)

「聖霊の神がなさること」

                                                  テキスト:ヨハネの福音書16:13 (新約聖書214頁)

 

○本日は教会暦のペンテコステ、聖霊降臨を記念し、感謝する日である。聖霊降臨の出来事以降、イエス様を自分の神であり、罪からの救い主であると信じる一人一人の内に聖霊は宿って下さるようになった。聖霊の神は、イエス様と同じ本質を持つ、もうひとりの助け主である(ヨハネの福音書14章16節)。

○創造主なる神様による天地万物創造の時、最初に造られた人類の先祖アダムは、神様との愛の交わりの中で、神様のもとで生きることによって満たされて生きるものとして命を与えられた。そしてアダムの心の中に神様は律法を書き記された。その律法は、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」という戒めと、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイの福音書22章34~40節)という戒めに集約することができる。これは、神様との交わりのあり方、隣人との交わりのあり方を示したものである。神様は人間に対して、このように生きることによって、神様のもとで満たされて生きて欲しいと願っておられる。しかし、人類の先祖アダムは自らの意志で、造り主である神様のもとから離れて行き、アダムの遺伝を受け継いで生まれてくるその後の人間一人一人も、神様との交わりの中から離れて生きる生き方を選び取っていくようになったのである。人間一人一人の存在を愛して止まない神様は、神様との交わりの回復のために、神である一人子なるイエス様を十字架に付け、復活させられた。そして、イエス様を神であり罪(神様から的を外していること、及び、犯す数々の行為罪)からの救い主であると信じる者に罪の赦し(神様からの的外れの回復と、犯す数々の行為罪の赦し)を与え、神様との愛の交わりの中で、神様のもとで生きることによって満たされて生きるものとして下さった。

○「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」(ヨハネの福音書16章13節)降臨された聖霊なる神も、神様との愛の交わりの中で、神様のもとで生きることによって満たされて生きるようにと働きかけて下さっている。すべての真理とは、それに関する事(イエス様の贖いの十字架・復活、その証人として生きる力等も含まれる)を指している。聖霊((1))は聖書の真の著者であるとも言えるが、私たちの身の周りに起こる日常的な出来事(受験校、就職先等々)に対する神様の御心が聖書に記されているわけではない。聖書は、そのような目的のために記されたわけではないからである。すなわち、聖霊も、私たちの身の周りに起こる日常的な出来事に対する神様の御心を示すのではない。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」(ヨハネの福音書15章26節)私たちは聖霊の助けの中で、与えられている理性を用い、祈りの中で日常的な出来事に対する自分の歩みを見出していくのである。

 

参考文献:(1)中澤啓介師 「被造物管理の神学講演10(A-10) 2014年5月7日 大野キリスト教会献堂記念講演(3)」

2017年6月11日(日)

「すべての人を愛している神」

                                                テキスト:ヨハネの福音書11:1~16 (新約聖書200頁)

 

○エルサレムからおよそ3キロメートルほど離れたベタニヤという村に、イエス様が事あるごとに度々立ち寄っていたであろう家があった。その家は、マルタとマリヤという姉妹とその兄弟ラザロが住んでいた家であった。「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。」(5節)と記されていることからも、イエス様はこの一家に、深い感謝であったりの特別な思いを抱いていたと思われる。

○イエス様は、愛するラザロが病気であることを聞かされた。イエス様は、この病気がラザロを死に至らせるということが分かった。しかし、あえて二日もベタニヤへ行く予定を遅らせた。それは、ラザロを死人の中から生き返らせることを通して、神の栄光(*1)を現し(4節)、人々がイエス様を神であると認めて信じるため(15節)であった。イエス様は意図的に出発を遅らせ、そしてその間にラザロは死んでしまう(14節)。

○神様は、被造物の自然の流れをそのままにされる。それ故に、その自然の流れの中で多くの悲しみも起こるという現実もある。この時のラザロの死も、人間に定められた寿命という自然の流れの中で起こったことであるが、しかし、全能なるイエス様は、ラザロの病気を治し、死なないようにすることもおできになった。愛する一家が悲しむことのないようにすることもおできになった。しかしそれをされなかった。それは、ラザロを死人の中から生き返らせることを通して、人々が、イエス様を神であると認めて信じるためであった。イエス様は、マルタ、マリヤ、ラザロの一家を愛しておられた。しかし、この一家の近所の人々も愛しておられたのである。故に、ラザロが死を迎えた時に、この一家の近所の人々に、ご自身が神であることを、はっきりと示さなければならないと思われたのである。イエス様を神であり、罪(*2)からの救い主であると信じることが、人間にとっての何よりもの幸いであるから。

○イエス様は、たった今、殺されかけたばかりのエルサレムに戻っても(7~8節)、イエス様の十字架の時がせまりつつある限りのある時間の中で、できる内になすべきことをする(9~10節)のだと語り、ベタニヤ村へ出発された。

○マルタ、マリヤは、ラザロの死によって悲しみに打ちひしがれた。それは、他の人々がイエス様を神であり、救い主であると信じるために、一時、忍耐しなければならないことだったのである。私たちも神様に愛されている。しかし、周りの人々がイエス様を信じるために、すなわち、周りの人々にも神様の愛が示されるために、周りの人々が神様のもとに戻り幸いな生涯を送るために、一時期、忍耐しなければならないこともあるのである。神様はすべての人を愛しておられるからである。

 

*1 栄光とは、人類を贖い出す神の御業と関係のある内容を表すことば

*2 罪からの救いとは、イエス様を神であり罪(神様から的を外していること、及び、犯す数々の行為罪)からの救い主であると信じることによって、罪が赦される(神様からの的外れの回復と、犯す数々の行為罪の赦し)こと。

2017年6月18日(日)

「して下さらないだろうと決めつけて・・」

                                          テキスト:ヨハネの福音書11:17~24 (新約聖書201頁)

 

○マルタとマリヤという姉妹とその兄弟ラザロの三人は早くに両親を亡くしたようで、年長と思われるマルタが何かにつけ母親の役割を果たし、三人は強い兄弟愛で結ばれていたであろうと考えられる。ラザロは末の弟であったと一般に考えられているが、その弟が瀕死の状態に置かれ、何としてでも助けたいとの思いから、姉妹たちはイエス様のところに使いの者を送った。しかし、その切なる願いはかなわず、ラザロは死んでしまう。イエス様がこの一家のところに到着した時にマルタから出た第一声、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(21節)このことばから、イエス様が何故かけつけてくれなかったのかという、マルタのやりきれない思いがあったことがうかがえる。22節「今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」マルタは、イエス様が居てくれたらラザロは死なずに済んだのにと再度語る。そんなマルタにイエス様は言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」(23節)そのことばを聞いたマルタは、イエス様のことばをパリサイ人たちが形式的に信じている終わりの日に起こる復活のことであると理解し、「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」(24節)と、そのような信条には自分も同意していると述べるが、ラザロが今、生き返るということは思い浮かびもしないのである。

〇マルタは、イエス様はどんなことでもできると信じていた。しかし、死んだ人を今、生き返らせるということはしないと決めつけていたのである。しかし、死んだ人が今、生き返るなどということを思いもしないというのが普通であろう。マルタはその当たり前の反応をしたのである。しかし、イエス様は、死んだラザロを生き返らせるのである。

〇私たちも、神様に対して、こんなことは、さすがにして下さらないだろうと決めつけていることがあるかもしれない。死んだ人が生き返るという出来事はこの後、イエス様の復活、使徒の働き(9章36~42節、20章7~11節)以降は起こっていないので、さすがに神様が死んだ人をすぐに生き返らせるということはなさらないと思われるので、そのことは省くとしても、私たちは、神様に対して、こんなことは、さすがにして下さらないだろうと決めつけていることがあるかもしれないということを考えていきたい。

2017年6月25日(日)

「わたしは、よみがえりです。いのちです。」

                                           テキスト:ヨハネの福音書11:25~26 (新約聖書201頁)

 

〇イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(25節)この後、イエス様はラザロを生き返らせる。生前ラザロはイエス様を神であると信じていたということである。故に、「わたしを信じる(信じている)者は、死んでも生きるのです。」とのことば通り、ラザロは生き返らせられた。聖書は、イエス様がもう一度この地上に来られる時、イエス様を神であり、罪(*1)からの救い主であると信じていて亡くなった者たちをよみがえらせると述べている(Ⅰコリント15:20~58、Ⅰテサロニケ4:13~18)。ラザロはその先例として生き返らせられたのである。

〇26節「また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」「決して死ぬことがありません」とは、肉体の死のことを述べているのではない。この肉体は、神様が最初の人間アダムを創造した初めの時から、不滅のものとして造られたのではない。人間が死ぬということは、肉体と魂との分離であるが、生きていてイエス様を神であり、罪からの救い主であると信じている者は、死を迎えても、魂は神様と共に生き続けるということをイエス様は述べられたのである。

〇今、現在、イエス様を信じている者は、その魂は神様と共に生きているものである。その者は死んでも魂は神様と共に生き、また、イエス様の再臨の時には新しい体が与えられ、体と魂共々に神様と共に生き続けるのである。「わたしは、よみがえりです。いのちです。」イエス様は、人間の体と魂に関する全権をもっておられるのである。

 

*1 罪からの救いとは、イエス様を神であり罪(神様から的を外していること、及び、犯す数々の行為罪)からの救い主であると信じることによって、罪が赦される(神様からの的外れの回復と、犯す数々の行為罪の赦し)こと。

2017年7月2日(日)

「どん底に思える状況で希望を見出すには」

                                          テキスト:ヨハネの福音書11:25~29 (新約聖書201頁)

 

〇イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(25節)イエス様を神であり、罪(*1)からの救い主であると、今現在、信じている者は、死んでも、イエス様の再臨の時によみがえらせられる。また、その者は肉体の死は迎えても、魂は神様と共に生き続けているので死ぬという感覚はない(「また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」26節)。すなわち、今現在、イエス様を信じている者は、魂が神様と共に生きているものであり、その者は死んでも魂は神様と共に生き続け、また、イエス様の再臨の時には新しい体が与えられ、体と魂共々に神様と共に生き続けるのである。イエス様は「わたしは、よみがえりです。いのちです。」と言われたが、まさしく人間の体と魂に関する全権をもっておられるのである。イエス様は、これらのことを信じますかとマルタに問いかけ(26節)、マルタは「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」(27節)と答えた。マルタは、この後、弟ラザロが生き返らせられるということまでは信じられていないが、イエス様が旧約時代から預言されていた神から遣わされてくる、神の子、救い主であると信じていると答えたのである。

〇マルタは弟ラザロを亡くし、失意のどん底にあった。そんなマルタにイエス様は、「今現在、わたしを信じている者は、魂が神様と共に生きているものであり、その者は死んでも魂は神様と共に生き続け、また、わたしの再臨の時には新しい体が与えられ、体と魂共々に神様と共に生き続ける」ということを、今、信じていますか?と問いかけた。失意のどん底にあったマルタが希望を見出すには、今、このことを信じているのか?と自問し、応答する必要があったのである。

〇私たちの生活においても、この自問自答が希望を見出す鍵であると言える。自分の置かれている状況がどんなにかどん底に思えても・・。

 

*1 罪からの救いとは、イエス様を神であり罪(神様から的を外していること、及び、犯す数々の行為罪)からの救い主であると信じることによって、罪が赦される(神様からの的外れの回復と、犯す数々の行為罪の赦し)こと。

2017年7月9日(日)

「同情し涙を流す神」

                                             テキスト:ヨハネの福音書11:28~37 (新約聖書202頁)

 

〇次女のマリヤも姉のマルタ同様に、弟ラザロを亡くし、失意のどん底にあった。母親代わりを務めてきた姉のマルタは泣きたい気持ちをこらえ、気丈にイエス様と接していたのかもしれないが、マリヤは泣き伏せっていたのかもしれない。(「マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。」(31節))「マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。』」(32節)マリヤは泣きながらこの言葉を絞り出したのであろう。マリヤにもマルタ同様、イエス様が何故かけつけてくれなかったのかという、やりきれない思いがあったのであろう。33~35節「そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。『彼をどこに置きましたか。』彼らはイエスに言った。『主よ。来てご覧ください。』イエスは涙を流された。」

○イエス様はこの後すぐにラザロを生き返らせることを知っていたにもかかわらず、何故、涙を流されたのだろうか。悲しんでいる人々に対し、これからラザロを生き返らせるから、もう悲しまなくていいということを伝え、それが理解されれば、悲しむ人々の悲しみは収まり、結果、イエス様ご自身も涙を流すこともなかったのではないか(いつもありのままの姿でいられるイエス様に男の涙は恥ずかしいというものはないのであろう)。しかし、愛するマルタ・マリヤが悲しみのどん底にあり、マリヤが泣き続けている姿に、おもわず涙を流されたのであろう。

〇ローマ人への手紙12章15節には「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」ということばがある。イエス様は私たちの悲しみ苦しみに、まず、同情される御方なのである。同情し、そして、励まそうとされる御方なのである。この御方が私たちと共に歩んで下さっている神なのである。

2017年7月16日(日)

「救いの妨害に憤怒するイエス様」

                                              テキスト:ヨハネの福音書11:30~38 (新約聖書202頁)

 

〇33~35節「そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。『彼をどこに置きましたか。』彼らはイエスに言った。『主よ。来てご覧ください。』イエスは涙を流された。」愛するマルタ・マリヤが悲しみのどん底にあり、マリヤが泣き続けている姿に、イエス様はおもわず涙を流されたのであろう。イエス様はマルタ・マリヤの悲しみ苦しみに、まず、同情される御方であり、そして、励まそうとされる御方なのである。

〇本日の聖書箇所には、まず、同情してくださるイエス様の姿と共に、もう一つのイエス様の姿が描かれている。それは、「霊の憤りを覚え」(33節)「またも心のうちに憤りを覚えながら」(38節)ということばから察することができる。「憤り」と訳したギリシャ語エンブリマオマイは、他に、「きびしく戒める」「きびしく責める」「憤怒する」「ひどく憤慨する」「憤激・立腹する」と訳すことができる。いずれにしても、著者ヨハネが、イエス様の激しく怒るような有様を描こうとしてこの エンブリマオマイということばを使ったものと考えられる。では、イエス様は何に対して憤怒されたのであろうか。33節では、「彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え」たとある。37~38節では、「しかし、『盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか』と言う者もいた。そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら」とある。すなわち、ユダヤの人たちがイエス様を神であると信じないということが背景にある。しかし、福音書に記されるイエス様の姿から判断すると、ここで信じないユダヤの人たちに対してイエス様が憤怒されたとは考えにくい。だとすると何に対して憤怒されたのかと考えると、サタン(*1)に対して憤怒されたのだと考えられる。イエス様はラザロを死人の中から生き返らせることを通して、神の栄光(*2)を現し、人々がイエス様を神であると認めて信じてもらいたいと思われた。聖書は、イエス様がもう一度この地上に来られる時、イエス様を神であり、罪(*3)からの救い主であると信じていて亡くなった者たちをよみがえらせると述べている(Ⅰコリント15:20~58、Ⅰテサロニケ4:13~18)。イエス様は、ラザロをその先例として生き返らせようとされた。サタンはこのことをユダヤの人たちに信じさせまいと働きかけていたものと考えられる。イエス様はそのサタンに対して憤怒された。私たちも人々に福音(*4)を伝えようとする時、サタンの妨げがある(参考:使徒13:10、Ⅰテサロニケ2:18)。しかし、その時、イエス様がサタンに憤怒して下さっていることを覚えながら、福音を伝える者でありたい。

 

 

*1 サタンとは、常に神への敵対者であり、神の計画を破壊する者。しかし、サタンは、イエス様の十字架と復活によって打ち破られ、すでに敗北者であり(ルカ10:18、ヨハネ12:31、16:11)、その力は派生的であり(ルカ4:6)、その活動は神が許された範囲に限られる(ヨブ1:12、2:6)。

*2 栄光とは、人類を贖い出す神の御業と関係のある内容を表すことば

*3 罪からの救いとは、イエス様を神であり罪(神様から的を外していること、及び、犯す数々の行為罪)からの救い主であると信じることによって、罪が赦される(神様からの的外れの回復と、犯す数々の行為罪の赦し)こと。

*4 福音とは、イエス様を神であり罪(神様から的を外していること、及び、犯す数々の行為罪)からの救い主であると信じることによって、罪が赦され(神様からの的外れの回復と、犯す数々の行為罪の赦し)、神様との愛の交わりの関係に戻ることができるという神様から人間への愛のメッセージ。

2017年7月23日(日)

「各々に最善の宣教方法で」

                                             テキスト:ヨハネの福音書11:38~44 (新約聖書202頁)

 

○38節「そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。」イエス様はラザロを死人の中から生き返らせることによって、ユダヤの人々がご自身を神であると信じてもらいたいと思われた。サタン(*1)はそのことをさせまいと妨げていた。イエス様はそのサタンに対して憤怒された。39節「イエスは言われた。『その石を取りのけなさい。』死んだ人の姉妹マルタは言った。『主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。』」40節「イエスは彼女に言われた。『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。』」イエス様は「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)と語ったご自身のことばをマルタに思い起こさせようとされた。

○41~42節「そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。『父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。』」イエス様はここで、父なる神様に語りかけることもなく、ラザロを生き返らせることもできた。しかし、ここにいる群衆が、父なる神様がイエス様をこの地上に遣わされたことを信じるようになるために、あえて語った。

〇ユダヤ人たちが、父という言葉で神様を呼ぶ時には「天にいます」という修飾語をつけて「天にいます私たちの父」と呼んだ。しかし、ここでもイエス様は「天にいます私たちの」を付けずに「父よ」と呼ばれた。それは、「わたしは神と等しい存在である」と言っていることになることばであった。イエス様はラザロを生き返らせる前に、わたしは父なる神から遣わされた神である救い主であると群衆に伝えたのである。

○旧約聖書には救い主(メシヤ)の来臨を告げる数々の預言があるが、ユダヤの人々には、イエス様こそが、預言されてきたメシヤであるとの福音(*2)宣教の方法が必要だったのである。パウロはイエス・キリストを信じてもらいたいから、「ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。律法の下にある人々には、律法の下にある者のようになりました。律法を持たない人々に対しては、律法を持たない者のようになりました。弱い人々には、弱い者になりました。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。(Ⅰコリント9:20~22抜粋)と語りました。神様は、神様の下から離れ、的をはずして生きている人々に対し、福音を受け入れてほしいと願っておられる。そして、そのために、「~には~のように」と、各々にとっての最善の福音宣教をして下さっている。

 

*1 サタンとは、常に神への敵対者であり、神の計画を破壊する者。しかし、サタンは、イエス様の十字架と復活によって打ち破られ、すでに敗北者であり(ルカ10:18、ヨハネ12:31、16:11)、その力は派生的であり(ルカ4:6)、その活動は神が許された範囲に限られる(ヨブ1:12、2:6)。

*2 福音とは、イエス様を神であり罪(神様から的を外していること、及び、犯す数々の行為罪)からの救い主であると信じることによって、罪が赦され(神様からの的外れの回復と、犯す数々の行為罪の赦し)、神様との愛の交わりの関係に戻ることができるという神様から人間への愛のメッセージ。

2017年7月30日(日)

「信じる者は死んでも生き続けている」

                                                 テキスト:ヨハネの福音書11:38~44 (新約聖書202頁)

 

○38節「そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。」39節「イエスは言われた。『その石を取りのけなさい。』死んだ人の姉妹マルタは言った。『主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。』」40節「イエスは彼女に言われた。『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。』」41節「そこで、彼らは石を取りのけた。・・・」43~44節「そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。『ほどいてやって、帰らせなさい。』」

〇ラザロは死人の中から生き返らせられた。イエス様は何故大声で「ラザロよ。出て来なさい。」と叫ばれたのか。それはラザロに聞こえるためにだったのではないか。イエス様は「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)と言われた。イエス様を神であり神から遣わされた救い主であると信じていたラザロは肉体の死は迎えたが、魂は神様と共に生き続けていたのである。そして、神様の肉体を生き返らせる御業によって、死んだ肉体が生き返り、生き返りたてではあったが、イエス様の大声が聞こえ、墓から出てきたのである。この後の出来事であるが、イエス様が十字架にかけられた時、ふたりの犯罪人が、イエス様とともに十字架にかけられた(ルカの福音書23:32~43)。犯罪人の1人は、イエス様に対して罵倒し、侮辱の数々、残虐行為を行っている者たちに対して、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈るイエス様の姿を見て、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言った。この犯罪人の1人はこのように言うことで自分が死んだ後、天国に行けるなどとは思っていなかったであろう。命乞いをするつもりもなかったであろう。ただ、イエス様の姿を見、自分の醜さを痛感した故に、イエス様が御国の位に着かれる時に、私のような者がいたことを思い出して頂くだけでうれしいですという思いを述べたのであろう。そんな彼にイエス様は、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われた。それは、この犯罪人の1人が肉体の死は迎えるが、その瞬間、魂はイエス様と共に生きているということを示している。肉体はないが、意識のある存在としてイエス様と共に生きているということを。

〇私たちも含め、イエス様を信じる者は、仮に肉体の死を迎えても、魂は神様と共に生き続ける者とされているのである。

2017年8月6日(日)

「迫害する者のために祈りなさい」

                                              テキスト:ヨハネの福音書11:45~57 (新約聖書203頁)

 

○イエス様はラザロを死人の中から生き返らせた。それを見た多くのユダヤ人はイエス様を神であると信じたが、ある者たちは、この出来事をパリサイ人たちに報告した。47~48節「そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。『われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行っているというのに。もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。』」

○ユダヤの最高議会サンヘドリンは、パリサイ派とサドカイ派の両派で成り立っていた。パリサイ人たちの唯一の関心は、割礼や安息日の律法、食べ物に関する律法、洗いきよめに関する律法など、いわゆる「儀式律法を守らなければ救われない」というものであった。彼らは、「安息日に人を助ければ、安息日に労働したことになり、安息日の律法を破っているのだ。それは許せない」と叫ぶ。彼らにとって、安息日に病人を癒すイエス様は許されざる者だった。サドカイ派は極めて政治的な党派であり、富裕で貴族的な党派であった。彼らは自分たちの富と権力者としての地位を享受し保持することがゆるされさえすれば、喜んでローマに協力することに甘んじるような者たちであった。祭司はすべてサドカイ人であり、議会で支配的な地位にあったのも彼らだった。議員たちは、もし、イエス様が死人を生き返らせるというようなことを続けたならば、もっと多くの人々がイエス様に従っていくと予想した。彼らが恐れたことは、イエス様が追随者を得ていくことによって我々に反乱を起こすのではないかということであった。ローマは今のところはユダヤに対して寛大な政策を行っていたが、市民の暴動でも起これば総力をあげて鎮圧に来る。そのようなことになれば、パリサイ人にとっては儀式律法を守ることも危うくなり、サドカイ人にとっては権威ある地位から追放され、富も保持できなくなるということを恐れた。

○祭司長、パリサイ人たちにとっては、イエス様が死んでしまったラザロを生き返らせるという喜び溢れるニュースは全く関係なかった。人が死なずに済んだという喜びよりも、儀式律法を守ること、権威ある地位、富を保持することが彼らの全てであった。そのためには、イエス様を殺せばいいのだという、恐ろしいことを平然と考えるのである。ここにも神様の働きを常に妨げるサタンの働きかけがあると思われるが、しかし、あまりにも醜い人間の姿そのものがあるのも事実である。私たちが今日生きている世界も、神様の愛の御業が表わされると共に、人間の醜さもうごめいているのである。イエス様は言われた。「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)この世界のために祈る者でありたい。

2017年8月13日(日)

「隣人を愛することにおいての自由」

                                                        テキスト:ヨハネの福音書12:1~8 (新約聖書203頁)

 

○イエス様は過越の祭りの六日前にベタニヤに来られ、マルタ、マリヤ、ラザロの三兄弟のところに来られた。その時、「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。」(3節)「ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。『なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。』」(4~5節)

○三百デナリ相当の香油とは平均的な労働者のおおよそ一年分の給与の額に値する(一デナリは一日の平均的労賃)。イスカリオテ・ユダが「もったいないことをして!」と憤慨するのは至極当たり前に思えることで、イエス様の弟子たちをはじめ(マタイ26:8、9参照)、周囲にいた人たちのほとんどがそのように思ったであろう。イエス様はマリヤの行為を「わたしの葬りの日のために」(7節)、マルコ14:8では、「埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれた」のであると述べている。しかし、マリヤの家を訪れた時には、常に、イエス様の話しに聞き入っていたであろうマリヤであっても、この後に、イエス様が十字架にかかり、死に、墓に葬られるということまでは理解できなかったであろうと思う。だとすれば、マリヤが300万円相当の香油をイエス様の足に塗った理由は、愛する弟ラザロ(両親亡き後、強い兄弟愛で結ばれていた三人)を死人の中から生き返らせてくださったイエス様に対する感謝の表現だったのだろう。このような高価な香油であるから、おそらくマリヤ一人の所有物ではなく、亡くなった両親から引き継いだ物で、三兄弟が大事にしていた物だったのではないか。もし、私たちがその時失いたくない愛する人を亡くしたとして、300万円用意すれば、生き返らせてもらえるとしたら、そしてそれが確実なことだったら、300万円をなんとかして用意するのではないだろうか。この兄弟たちは、イエス様に対する感謝の言葉は当然であるが、それだけではなく、何か他にも、言い尽くせない感謝を表す方法はないかと考えたのであろう。その時、家にあった高価な香油をイエス様に渡したいと考えたのではないだろうか。しかし、そのまま香油を渡そうとすれば、きっと、イエス様は兄弟の生活のことを案じて受け取らないであろう。それでも、この高価な香油をもって、イエス様に対して言い尽くせない感謝を表したい。それが、この香油をイエス様の足に塗るという行為になったのではないだろうか。

○マリヤの行為を咎める者たちに対してイエス様は「そのままにしておきなさい。」(7節)、マルコ14:6では「なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。」と語られた。イエス様は、マリヤが悩み考え抜いた末、選んだその決断をそのまま受け入れてくださった。仮に、300万円相当の香油を売って、貧しい人々に施し、その行為をイエス様への感謝としたいと言えば、イエス様はそのことも受け入れて下さっただろう。隣人を愛そうとするその表し方に、形、決まりはなく、隣人愛の行為においては各々に自由があるのだということを、この時も、イエス様は示されたのであろう。

2017年8月20日(日)

「うめきから生まれる希望」

                       テキスト:ローマ人への手紙8:18~26 (新約聖書301頁)

 

〇私たちは、イエス・キリストの十字架による贖いによって神の子どもとされ、神様との交わりを回復させて頂いた。その祝福は、言い尽くせないほどの祝福である。しかし一方で、私たちの贖いは未だ完成に至っていない。パウロは、「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」(23節)と述べている。 イエス・キリストの再臨の時、贖いの完成に至るその時、私たちのからだは朽ちていくものではない栄光のからだに変えられる。パウロの何よりもの希望は、この、からだ(心も含めた)の贖いであったとも言える。パウロが「うめく」ほどに苦しんでいたのは、原罪との戦いであった(ローマ7:14~25)。この戦いこそ、パウロを唯一嘆かせた(「私は、ほんとうにみじめな人間です。・・」7章24節)苦しみであった。しかし、この原罪が住みつくからだが変えられる時があるという希望をパウロは常に持っていた。そして、その希望は、自然界に目を向ける時になお確かなものとなる。なぜなら、人間以外の被造物は、自分の意志とは関わりなくアダムの原罪の影響を受けた。それは神様のご計画によるのであって、それ故に回復の時も神様が定めておられるということが分かり(20節)、同じく、私たちの贖いの完成の時をも神様が定めておられるということが分かるからなのだという。

〇22節「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」パウロはこの世界の「うめき」を聴きながら、「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめく」のだという。御霊を受けて平安に満たされてがオンリーではないのである。詩篇42篇は、神様への信頼の告白と、嘆きの訴えが交互に記されている。これが私たちクリスチャンの歩みでもある。神様への信頼と嘆きの訴えは決して矛盾するものではなく、交互に生まれるものであることを示しているのである。この詩篇の作者はこのような中にあって、「私のいのち」は神様との交わり自体、「祈り」の中にあると告白している。絶望感のただ中にあって、その中にあって、神様を身近に感じているのである。

〇私たちは、自分の内面のことでも、そして、外面からのことでも、「うめく」。しかし、御霊を受けた者として「うめく」時に、そこに大きな希望が生まれるのである。なぜならば、その時、「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださる」からである(26節)。

2017年8月27日(日)

「神があなたがたに望んでおられること」

                              テキスト:Ⅰテサロニケ5:16~18 (401頁)

 

○当時、テサロニケ教会は、誕生したばかりの教会であった。誕生したばかりの教会は激しい迫害に直面していた。また、それに乗じて信仰を動揺させようとする者たちがいた(Ⅰテサロニケ3:1~5)。テサロニケ教会の人々は苦難に囲まれ、おいそれと喜べるような状況にはなかった。そのような状況にあり、テサロニケの人々はパウロに会いたがっていた。当然パウロも会いたくて仕方がなかった。そのテサロニケの信徒にパウロは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(16~18節)と語る。苦難に囲まれている状況にあって、愛するテサロニケの信徒に心に刻んでほしかったことは、神様が人間に対して望んでおられること、神様のみこころであった。それは、「いつも喜んで生きる」ことであった。「喜ぶ」という行動の主体はテサロニケの信徒である。

○神様は人間が神様の守りの中で満たされ喜んで生きるようにと人間を造られた。だから、主体的に「喜んで生きなさい」と言うのである。

○「すべての事について、感謝しなさい。」迫害があり、信仰を惑わす者がいて、そのような状況下にあって、「すべての事について、感謝する」のは無理ではないかとも思える。しかし、「絶えず祈る」ことによって、祈っている中で、自分にとって負と思えることも、プラスに思うことができる。負と思えることも感謝に思えるというのである。これは、イエス様にあって「いつも喜んで生きよう」とした時にこそ得られる感謝である。パウロは、「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」と述べる。

○イエス様を信じる以前のパウロは、パリサイ派というユダヤ教の一派の中でも厳格派のパリサイ派に属し、律法を教える指導者であった。聖書に精通し、神から遣わされるメシヤ理解のみならず、罪、救い、信仰について十分に理解していた。ただ、ナザレのイエスを神であり、神から遣わされてきたメシヤとして認めることができなかった故、クリスチャンを激しく迫害した。しかし、復活したイエス様に出会い、パウロの人生は変わった。神様の教えを守れば祝福、守らなければ災いという律法主義的な生き方から解放され、自分の存在そのものを愛してくださっている神様であったことに気付いたのである。イエス様に出会ったパウロが、「キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられること」それは、「いつも喜んで生きる」ことであると述べるのである。

2017年9月3日(日)

「神様の愛の御業は妨げられない」

                                          テキスト:ヨハネの福音書12:9~19 (新約聖書204頁)

 

○イエス様は、神様の定めた人類救済の計画のために、十字架刑において人間を贖うためにつき進んでいく。12~13節「祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。『ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。』」イエス様は過越の祭りのためにエルサレムに集まって来ていたユダヤ人の群衆に熱狂的な歓迎を受ける。群衆はイエス様をイスラエルの王と呼び、「ホサナ」、ヘブル語で「今、お救い下さい」と歓喜の声をあげた。群衆はイエス様をローマ帝国の圧政から解放するメシヤとして迎えた。

○14~15節「イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。『恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。』」イエス様のこの行動は旧約聖書ゼカリヤ9:9の預言「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」の成就を示す行動であった。東方においては、ろばは高貴な動物とされていて、王は戦時中には馬に乗って来るが、平和な時には、ろばに乗ったそうである。イエス様はゼカリヤの預言通りに、戦いの王としてではない王としてエルサレムに入城されたのである。

○死んだラザロを生き返らせたイエス様を一目見ようとついて行く群衆を見た祭司長、パリサイ人たちは、イエス様のみならず、証拠隠滅のためにラザロ殺害をも計画する。彼らにとっては、儀式律法を守ること、権威ある地位、富を保持することが全てであったからである。自己保身のためには残虐なことをも即座に思いつく人間の姿を尻目に、神様の人類救済の計画は進んで行くのである。その計画は、「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため」(ヨハネ3:16)、すべての人が神様との交わりを回復して欲しいと切に願う、生命を与えた人間一人一人を愛して止まない神様の愛の御業である。その神様の愛の御業は誰も妨げることができないのであるということを本日の聖書箇所も示している。そして、イエス様を信じて神様との交わりが回復せられた私たちを神様の愛から引き離すものも何もないと神様は約束して下さっているのである。ローマ人への手紙8:31~39「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

2017年9月10日(日)

「一粒の麦が地に落ちて死んで下さったから」

                                            テキスト:ヨハネの福音書12:20~26 (新約聖書205頁)

 

○ユダヤ教に改宗したギリシヤ人幾人かが巡礼に来ていた。この人たちがイエス様に会わせてもらえないだろうかと弟子のピリポに願い出る。ピリポはその旨を弟子のアンデレに伝え、アンデレとピリポはその旨をイエス様に伝える。26節「わたしに仕えるというのなら」のことばから察するに、この異邦人改宗者たちはイエス様の弟子になりたいと願い出たのだと思われる。その願いに対するイエス様の応えが23節~26節に述べられている。

○24節「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」このことばは、この後、イエス様が人間を贖うためにかかられる十字架刑のことを意味している(23節も)。イエス様が十字架にかかられなかったなら、人間の罪の赦しはなかった(「それは一つのまま」だった)。しかし、イエス様が十字架にかかって下さったことにより、イエス様を信じる者に罪(*1)の赦しと永遠のいのちが与えられることとなった(「豊かな実を結びます」)。イエス様はイエス様の弟子になりたいと願い出た異邦人改宗者たちに、「わたしは今から人類救済のために十字架にかかりに行くのである。」と返事をしたのである。おそらく、この異邦人改宗者たちも、周囲の群衆同様、イエス様をローマ帝国の圧政から武力をもって解放するメシヤ、戦いの王であると思っていたのであろう。そして、その戦いの王に仕えたいと願い出たのであろう。それはこれから十字架上に命を投げ出すイエス様の思いとはかけ離れていた。イエス様に仕えたいと願う彼らの動機は、「このイエスなら、ローマの圧政からユダヤを解放し、ユダヤの王に君臨するに違いない。その時、自分たちは王の側近となっていたい」というようなことだったのであろう。これはイエス様の言われる「自分のいのちを愛する者」であり、その者は「それを失い」、「この世でそのいのちを憎む者」自分の私利私欲のためではなくイエス様を信じる者は、「それを保って永遠のいのちに至るのです。」(25節)

○イエス様は異邦人改宗者たちに語る。26節「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」このことばは、「わたしに仕えるというのなら、捕らえられ十字架にかけられていくわたしについて来なさい。ついて来るところには様々な心の痛み苦しみが伴うだろう。しかし、父なる神はその人に報いてくださる。」ということを述べている。

○イエス様の十字架はユダヤ人のつまずきとなった。ユダヤ人の期待したメシヤの姿ではなかったからである。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Ⅰコリント1:18)私たちは、一粒の麦が地に落ちて死んで下さったことによって、豊かな実を結ぶ者とされたのである。

*1:イエス様を神であり、罪(神様から的を外していること、及び、犯す数々の行為罪)からの救い主であると信じる者に罪の赦し(神様からの的外れの回復と、犯す数々の行為罪の赦し)を与え、神様との愛の交わりの中で、神様のもとで生きることによって満たされて生きるものとして下さること。

2017年9月17日(日)

「できれば避けたい十字架にも向かわれたイエス様」

                                            テキスト:ヨハネの福音書12:27 (新約聖書205頁)

 

〇27節「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。」このみことばは、他の福音書(マタイの福音書26:36~46、マルコの福音書14:32~42、ルカの福音書22:39~46)に記されているゲツセマネの園でのイエス様の祈りを思い起こさせるが、おそらく、この27節に表されているイエス様の心境も、ゲツセマネの園での祈りの時と同じ心境だったのだと思う。マタイ26:38、39には「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」とある。「今わたしの心は騒いでいる。」とは「悲しみのあまり死ぬほどです」という心の状態だったのであろう。

〇マルコの福音書15:33~34には、イエス様が十字架にかけられた時の様子が記されている。「さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫ばれた。それは訳すと『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」三時間にわたって全地を覆った暗闇の中では、人間が誰ものぞき見ることもできない、恐るべきさばきが執行されていた。父なる神様とイエス様は、無限、永遠、不変の愛(人間では計り知ることのできない愛)によって結ばれており、その愛が破られることは、十字架刑の時までは一瞬たりともなかった。しかし、この十字架上では、人間が釘づけにされるという苦しみのみならず、父なる神様との完全な断絶が行われるという刑が執行されていたのである。イエス様はこの十字架刑をできれば避けたかったのである。しかし、人類の罪を贖う方法は、罪のない、罪を犯したことのないイエス様が十字架で私たちの罪の刑罰を代わりに受けるという方法しか神様の中にはなかったのである。そして、御子イエス・キリストの十字架に、私たちに対する神様の究極の愛が示されたのである。ヨハネの手紙第一4:9~10「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

〇無限、永遠、不変の愛において御子を愛しておられる父なる神様にとって、御子イエス・キリストが人間の手によって加えられる十字架刑の死の苦しみを味わわれることは、耐えられないことであったはずである。まして、ご自身の手によって、御子イエス・キリストとの断絶の刑を執行することも、本来は絶対になさりたくないことであったはずである。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈られたイエス様の思いと、父なる神様の思いは同じだった。しかし、父なる神様も、御子イエス・キリストも、ご自身の思いと願いを捨て、私たちを愛するがゆえに十字架刑に向かって行かれたのである。「愛」の動機でしか働きかけることをされない神様が。

2017年9月24日(日)

「神の声を聞かせてでも伝えたかったこと」

                                        テキスト:ヨハネの福音書12:28 ~33(新約聖書205頁)

 

○28節「父よ。御名の栄光を現してください。」「御名の栄光を現す」とは、神様がご臨在することを婉曲に示すことであった。イエス様は父なる神様にあなたがここにおられることを現して下さいと語った。そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」すでに神様はラザロを死人の中から生き返らせることによってご自身の栄光を現された(ヨハネ11:4、11:40~45)が、更にこの後、イエス様の十字架、復活によって栄光を現すと約束されたのである。この場にいた群衆には、天から声が聞こえるという超常現象だけで十分に神様の栄光が現れていたであろう(29節)。神様は群衆に栄光を現され、そしてその後、イエス様は群衆に、これから起こるご自分の十字架、復活のことを話された。まさに、そのことを伝えるために、神様は群衆にご自分の声を聞かせられたのである。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。」(30節)

〇31節「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。」「この世を支配する者」とはサタンのことを指している。サタンは常に神様への敵対者であり、神様の計画を破壊しようとする者である。しかし、サタンはイエス様の十字架と復活によって打ち破られ、すでに敗北者であり(ルカ10:18、ヨハネ12:31、16:11)、その力は派生的であり(ルカ4:6)、その活動は神様が許された範囲に限られるものとなった。

○32節「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」「わたしが地上から上げられる」とは、イエス様の十字架・復活を指している。イエス様はご自分の十字架・復活を信じる一人一人をご自分のところに引き寄せると言われたのである。それは、イエス様を神であり罪(神様から的を外していること、及び、犯す数々の行為罪)からの救い主であると信じることによって、罪が赦され(神様からの的外れの回復と、犯す数々の行為罪の赦し)、神様との交わりの中で生きる者として下さるということである。

○神様はご自分の声を聞かせてでもイエス様の十字架・復活による人類の救いの計画を示したかったのである。このことが人間にとって何よりも重要なことだからである。

2017年10月1日(日)

「やみの中を歩かないように」

                                         キスト:ヨハネの福音書12:34 ~36(新約聖書205頁)

 

〇34節「人の子は上げられなければならない」「人の子」ということばをユダヤの人たちが聞けば、そのことばの意味することは明白だった。それは、父なる神様から地上に遣わされて来る「メシヤ」(救い主)を表すことばだった。群衆はイエス様がご自分の死について語っているものと気付いたが、イエス様をローマ帝国の圧政から解放するメシヤであると期待し、熱狂的に迎えた群衆にとっては、そのメシヤが死ぬということは理解できなかった。彼らが聖書を通して教えられてきた(詩篇89:4、エゼキエル37:25)メシヤは、「いつまでも生きておられる」不死身のメシヤだったからである。そこで彼らはイエス様の言う人の子とはいったい誰のことかと改めて問いただした。しかし、イエス様はこの問いに直接答えずにこう言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」(35~36節)イエス様はこの後、十字架で死に、復活し天に帰られ、肉眼では見えなくなる。イエス様はその前に、わたしを神(*1)であり罪からの救い主であると信じなさいと言われた。「やみがあなたがたを襲うことのないように」わたしを信じなさいと言われた。イエス様はご自分のことを「光」と表現し、イエス様を信じていない者を「やみの中を歩く者」だと言われた。「やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。」人は誰であってもどこかに向かって歩いている、どこかに向かって生きている者である。しかし、イエス様を信じていない者は、どこに行くのか分からずに生きているのだと言われる。イエス様を信じている者は、かの日に行く、天の住まいに向かって生きている。しかし、イエス様を信じていない者は自分が最終的にはどこに行くのかを分からずに生きているのである。イエス様は愛して止まない一人一人に「やみがあなたがたを襲うことのないように」「やみの中を歩かないように」わたしを信じなさいと語られたのである。

 

 

*1:神様は、イエス様を神であり、罪(神様から的を外していること、及び、犯す数々の行為罪)からの救い主であると信じる者に罪の赦し(神様からの的外れの回復と、犯す数々の行為罪の赦し)を与え、神様との愛の交わりの中で、神様のもとで生きることによって満たされて生きるものとして下さる。

2017年10月8日(日)

「目で見ず、心で理解せず」

                                                      テキスト:ヨハネの福音書12:36 ~41(新約聖書206頁)

 

〇36節「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」イエス様は愛して止まないユダヤの民衆一人一人に、「やみがあなたがたを襲うことのないように」「やみの中を歩かないように」わたし(*1)を信じなさいと語られた。イエス様はこれまで、ラザロを死人の中から生き返らせたり、不治の病を治すなど、ご自身が神であることのしるしを表された。しかし「彼らはイエスを信じなかった。」(37節)なぜ信じなかったのか、それは、「彼らが目で見ず、心で理解せず、回心しない」からであるとヨハネは語る(40節)。ユダヤの民衆にとってのメシヤとは、ローマ帝国の圧政から自国を解放する者であり、「いつまでも生きておられる」不死身のメシヤであった。彼らはイエス様をそのままで見ようとはしなかった。彼らの眼鏡をかけた目で見、理解していた。故に、イエス様を罪から救う救い主であるとは信じなかったのである。信じない者たちはなお、その心を頑なにし、自分たちの思想に固執した。「主は彼らの目を盲目にされた。」とあるが、イエス様がご自身を神であり、罪からの救い主であると語ることによって、結果的には民衆が心を頑なにしたということである。神様は人間を思いのままに操るロボットのようには扱われない。ユダヤの民衆が自分たちの考えのもとに結果的に心を頑なにしたことを神様はそのままにされたのである。それが「そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。」(40節)ということばの意味である。

〇預言者イザヤはイエス様よりも700年以上前の人であるが、イザヤの時代にもイザヤが神様からのことばを語れども「彼らが目で見ず、心で理解せず、回心しない」ということが起った。イザヤはイエス様の時代にも同じようなことが起こるということを神様から示され、約700年後のことも含めて語った。ヨハネは、イザヤが語ったことばはイエス様の時代のことをも指していたのだと分かったのである。「イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。」(41節)

〇イザヤが語ったことばはイエス様の時代にも起こり、そして、それは現在でも同じことが起こっていると言えるであろう。イエス・キリストが歴史上に存在したということは史実である。イエス様を信じない人々は、まず、そのことをそのままに見ているだろうか。自分の思想に固執せずに、眼鏡をかけずに、聖書に記されているイエス・キリスト見、理解しようとしているだろうか。私たちは、そのままを見て理解してもらえるように働きかけていきたい。結果的には心を頑なにする者が起きても。

 

*1:神様は、イエス様を神であり、罪(神様から的を外していること、及び、犯す数々の行為罪)からの救い主であると信じる者に罪の赦し(神様からの的外れの回復と、犯す数々の行為罪の赦し)を与え、神様との愛の交わりの中で、神様のもとで生きることによって満たされて生きるものとして下さる。

2017年10月15日(日)

「心の葛藤を理解して下さっている神様」

                                         テキスト:ヨハネの福音書12:42 ~43(新約聖書206頁)

 

〇イエス様は愛して止まないユダヤの民衆一人一人に、「やみがあなたがたを襲うことのないように」「やみの中を歩かないように」(12:35)わたしを信じなさいと語られた。イエス様はこれまで、ラザロを死人の中から生き返らせたり、不治の病を治すなど、ご自身が神であることのしるしを表された。しかし「彼らはイエスを信じなかった。」(37節)とある。しかし42節には「しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。」とある。「ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。」告白はしなかった理由は、「会堂から追放されないためであった。」ということ。

〇「会堂」とはユダヤ教の会堂のことであり、礼拝が行われるところであり、普段は律法の教育や、地方的事件の処理も行われた。会堂から追放されるというのは、ユダヤ人の共同体、交わりから村八分(絶交処分・仲間はずれ)にされるということ、ユダヤ人社会から追放されるということだった。神は唯一であるとするユダヤ人にとって、イエス様を神として救い主として信じるということは、神への冒涜罪であった。故に、イエス様を信じる者は、律法を破った者であり、その者たちを会堂から追放する指導者(議員)たちは、「自分たちは神に奉仕をしている」と考えていた。ユダヤの指導者(議員)たちの中にもイエス様を信じる者がたくさん起こったのであるが、彼らは会堂から追放されたくなかったので、イエス様を信じたという告白はしなかったのである。

○12章37節からの一連の記事を読む限り、イエス様を信じたがその告白はしなかった指導者たちを非難、批判しているようには思えない。なぜならば、「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。」(37節)と、信じていて不思議ではないのに、信じない者がいる現実に悲しみを込めるように述べた後に、「しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。」と述べているからである。「指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。」ということを心から喜んだのであろう。心から喜んだのであるが、「ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。」という現実も付け加えたのであろう。ユダヤ人が「会堂から追放」されるということがどれ程に、その人の人生を変えてしまうことであるかを著者のヨハネが分からないわけがない。ユダヤの指導者になるために、どれだけの努力を積み重ねてきたのであろうか。その土地で生まれた人間関係、友人関係、その置かれた身分、立場、それらを捨て去るということがどれ程に大きなことであるか。ヨハネは、イエス様を信じたが会堂から追放されないために信じたという告白をしなかった指導者たちの計り知れない思いを思いはかって、「彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。」(43節)と、「愛した」ということばを使って述べたのではないか。

○人は、もともと、誉められなければ生きていけない存在なのではないかと思う。人間が神様のもとから離れて行く、罪を犯す前は、常に神様の愛を感じて生きられたために誉められる必要性は感じなかったのであろうが、しかし、罪を犯した後は、人から褒められて自尊心を保とうとすることが主となっていったのであろう。クリスチャンになったとて、この地上に生きている限り、誉められようとする対象を100%神様とすることはできないであろう故に、私たちは常にどこかで人から褒められて自尊心を保とうとしているのではないか。聖書はクリスチャンであっても「弱さ」があることを示している(パウロにもパウロなりの弱さがあったことを聖書は記している。使徒18:1~11、Ⅰコリント2:3、Ⅱコリント12:1~10等)。本日の聖書箇所の指導者たちは、おそらく、イエス様を信じてから、それ程の期間が経っていない方々だったであろう。そのような方々が、「イエス様を信じたことを告白する」か「会堂を追放される」ことを選ぶかの決断をするのは容易ではないだろう。その人の心の中にある複雑な心理は人が外側から見て理解することはできない。神様はそんな人間の心の葛藤を誰よりも理解して下さっているということが本日のみことばにも表れているのだと思う。

2017年10月22日(日)

「わたしはその人をさばきません」

                                                    テキスト:ヨハネの福音書12:44 ~50(新約聖書206頁)

〇イエス様は、天地万物を創造した神だけが唯一の神であると信じているユダヤの人々に大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。」(44、45節)「わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。・・・わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」(49、50節)イエス様は、ここにいるわたしは、あなたがたが信じている神そのものであると思ってよいと言われた。わたしが語ることばは神が語っていることばであると言われた。

〇神様はイエス様を光としてこの地上に遣わされた(「わたしは光として世に来ました。」(46節))。それは、「わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないため」(46節)。「やみの中にとどまる」とは、天の御国には行けないままになるということ。イエス様は天の御国に行けなくなる者が誰もいないようにと、天の御国へと導く光として地上に来られた。イエス・キリストが神であり、罪からの救い主であるという神様のことばを信じる者には罪の赦し(神様からの的外れの回復と、犯す数々の行為罪の赦し)を与え、神様との愛の交わりの中で満たされて生きるものとして下さるという神様のことばは「永遠のいのち」(50節)、すなわち、神のいのちを頂くことばなのである。しかし、この神様からのことばを受け入れなくても、神様は今はさばかないと言われる(47節)。「さばく」と訳したギリシャ語の「クリネー」は、「さばく」という意味の他に、「告訴する」という意味や、「判決を下す」という意味もあることばである。今、神のいのちを頂くためのことばを拒絶しても、今は告訴はしない、判決を下さないと言われる。判決を下すのは、「終わりの日」、イエス様がもう一度この地上に来られる時である。その時の判決は、イエス・キリストが神であり、罪からの救い主であるという神様のことばを信じたか否かによって決まる。「わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」(48節)判決内容は、「あなたは生きている間にイエス・キリストを信じなかったので、人類の先祖アダムが、自分の意志で、神様との愛の交わりの中から離れていった、その状態のままである。」ということ。最初の人間アダムは自らの意志で、自らが主人(神のようになって)となって自らの存在意義を見いだしていく道を選びとった。神様との愛の交わりの中で生きることに、自分の存在意義がある道を選び取らなかった。しかし、神様はその選択の自由さえ与えてくださっていた。人間の自由意志は、神様に似せて造られた人間のすばらしい機能だからである。ここにも、神様の深い愛がある。

〇神様は、神様のいのちを頂くためのことばを信じていない一人一人が自分の意志で神様のいのちのことばを信じ、神様との交わりを回復して欲しいと願っておられる。神様は終わりの日まで、「わたしはその人をさばきません。」「わたしはその人に判決を下さない」と言われる。

2017年10月29日(日)

「主に愛され続けていたイスカリオテのユダ」

                                                               テキスト:ヨハネの福音書13:1~11 (新約聖書207頁)

 

〇1節「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」この聖書箇所における「世にいる自分のもの」とは、イエス様の弟子たちのことを指している。イエス様が「その愛を残るところなく示された」対象の中には、この後、イエス様を裏切るイスカリオテのユダも含まれている。

〇イスカリオテのユダは、この後、イエス様を祭司長、律法学者たちに引き渡す役目を果たしてしまう。イエス様はそのことを知っておられた(「しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」──イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである──」ヨハネ6:64)。しかし、そのような裏切り行為をさせるために、神様がイスカリオテのユダを地上に誕生させたのでもなく、弟子として選んだのでもないと言える。天地万物の創造の時、すべてのものを造り終えた神様が、再度、それらすべてのものを見られた。と、創世記1:31に記されている。神様が、お造りになったものを改めてご覧になったということは、出来栄えを確かめたわけではない。神様がお造りになったものには失敗がないからである。「神はお造りになったすべてのものを見られた。」ということは、どこかに問題がありはしないかと調べたということではなく、神様が心を込めてお造りになったものに、改めて深い関心を寄せてくださったということを示している。お造りになったすべてのものをご覧になった神様は、「見よ。それは非常に良かった。」と語られた。それは、「なんと愛おしい存在であろうか」という思いを表されたことばであった。人間に命を与えられる時の神様の思いは、その後の人類においても同じであり、神様は常に「なんと愛おしい存在であろうか」と一人一人に深い愛の思いを寄せておられるのである。それは、イスカリオテのユダに命を与えた時にも同様であり、イエス様はイスカリオテのユダも愛し続けておられたのである。

〇イスカリオテのユダには全ての人間同様に自由意志が与えられていた。ユダはイエス様を裏切るような行動をする自由も、しない自由も選ぶことができたが、悪魔の働きかけに乗ってしまい(2節「夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた」)、イエス様を裏切る行動をとってしまう。しかし、イエス様を裏切るような行動をとってしまうのはイスカリオテのユダだけではない。他の十一弟子は、後に起こるイエス様の捕縛に際してイエス様を見捨てて逃げてしまう。ペテロは自分の捕縛を恐れイエス様のことを三度知らないと言ってしまう。 

○マタイの福音書27:3~5には「そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、『私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして』と言った。しかし、彼らは、『私たちの知ったことか。自分で始末することだ』と言った。それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。」とある。ユダは、イエス様が正しいお方であることを認め、その方を裏切った自分の罪を心から後悔した。そして、もう、これは死んでお詫びするしかないと思って自殺した。あるいは、自殺することしか思いつかないような精神状態、急性の心の病的な状態により自殺したのではないか。しかし、イスカリオテのユダは決していい加減な男ではないと言えるのではないか。自分の犯した罪に気づくと、出来る限りのことをして罪を償おうとした。まず、祭司長、長老たちのところに言って、「わたしは間違っていた。罪のない人をあなたがたに売り渡してしまった」と真正直に告白している。そして裏切りの代償として受け取った銀貨三十枚を返そうとした。これは大変に勇気のいることであり、プライドを捨てた行動であり、大変に恥ずかしいことであったと思われる。受け取った銀貨三十枚を返せば、今からでもイエス様が解放されるのではないか、解放して欲しいと願ったのであろう。しかし、それが叶わないことを知った時、生きていられなくなったのではないか。

○ユダは内面を人に見せるような人ではなかったように思われる。ユダがイエス様に自分の内面を見せながら生きていたならば・・・と思う。ユダはイエス様に愛され続けていた。

2017年11月5日(日)

「主を信じた者は全身きよい」

                        テキスト:ヨハネの福音書13:1~11 (新約聖書207頁)

 

○パレスチナの道路は、全然舗装されておらず、ほこりっぽかった。乾燥した気候の折には、ほこりはかなりうずまり、雨期にはどろんこ道となった。一般民衆が履いていた履物はサンダルであった。それらのサンダルは簡単な底革で、2,3本のひもで足に結び付けられた。それは道路のほこりや泥を防ぐには、ほとんど役に立たなかった。パレスチナの風習では、人々は祝宴に出かける前には沐浴をした。彼らは招待主の家に着いた時、もう一度沐浴する必要はなかった。ただし、しなければならないことは足を洗うことだった。洗足とは、彼らが客として家に入る前になされるパレスチナの儀礼であった。そして、祝宴で客の足を洗うことは、奴隷の務めであった。

○イエス様は上着を脱ぎ、奴隷の姿になり、奴隷がするように手ぬぐいを腰に巻き付け、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い、仕える者の姿の特徴である腰の手ぬぐいで拭き始めた。

○本日の聖書箇所から、イエス様が行った弟子たちへの洗足の行動には2つの大きな意味があることが分かる。1つは「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。」(12節)と、イエス様がその意味を12節以降で説き明かしている。もう1つは、「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」(7節)と、すなわち、この後に起こる十字架と復活の出来事によって明らかになると言われた。しかし、ペテロの「決して私の足をお洗いにならないでください。」(8節)とのことばによって語らざるを得なくなったイエス様のことばから、この洗足の行動に秘められた十字架と復活の1つの意味が示唆されたのである。

○ペテロの「決して私の足をお洗いにならないでください。」(8節)のことばに対してのイエス様のことば「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」(8節)の「あなたはわたしと何の関係もありません。」ということばは、「あなたはわたしと共にある分け前がありません」とも訳せる。ペテロはイエス様から何かを(イエス様がユダヤの王に就いた時に頂けるのではと思っている自分の地位?)頂きそこねるのではと思い、慌てて、「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」(9節)と述べるが、「あなたはわたしと共にある分け前」とは、神の子どもとされた故に授かる様々な相続のことを指している。その授かる相続の1つに、「全身のきよめ」があるということ。すなわち、神様は、イエス様を信(*1)じる者を、全くきよい者として見て下さるという約束である。イエス様は、洗足の行動に秘められた十字架と復活の1つの意味をパレスチナの風習である沐浴と洗足の儀式を例に示唆されたのである。

○神様は、イエス様を信じた私たちを全くきよい者として見て下さっているのである。その中で、罪赦された罪人である私たちは、犯してしまう罪をその都度言い表して生きていくのである。「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:8~9)全くきよい者として見て下さっていることを疑わずに。

*1:神様は、イエス様を神であり、罪(神様から的を外していること、及び、犯す数々の行為罪)からの救い主であると信じる者に罪の赦し(神様からの的外れの回復と、犯す数々の行為罪の赦し)を与え、神様との愛の交わりの中で、神様のもとで生きることによって満たされて生きるものとして下さること。

2017年11月12日(日)

「自分が一番偉いと思うのはやめなさい」

                                                    テキスト:ヨハネの福音書13:12~17 (新約聖書207頁)

 

○イエス様は上着を脱ぎ、奴隷の姿になり、奴隷がするように手ぬぐいを腰に巻き付け、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い、仕える者の姿の特徴である腰の手ぬぐいで拭き始めた。イエス様が行った弟子たちへの洗足の行動には2つの大きな意味がある。その1つは、先週のメッセージをご覧頂くこととして、本日はその2つ目を見ていく。

○イエス様は、「彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、」「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。」(12節)と弟子たちに語り、13節以降に、その意味を説き明かされた。

13節「あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。」14節「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」15節「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」16節「まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。」

○ルカの福音書22:24によると、最後の晩餐の食卓で、「この中でだれが一番偉いだろうかという論議」が弟子たちの間で起こったと記されている。弟子たちは、もう間もなく師であるイエス様がローマの国を武力で破り、ローマの国からユダヤを解放し、ユダヤの王に就くだろうと思っていた。そしてその時に備え、誰がどのポストに就くのかと、各々がライバル心をむき出しにして牽制しあっていたのである。イエス様はその弟子たちに対して、奴隷の姿になり、洗足の行動を見せることで、「この中で誰が一番偉いだろうかというような議論はやめなさい」と教えたのである。

○最初の人類アダムの妻エバが食べてはならないと言われていた善悪の知識の木の実を食べるようにとサタンにそそのかされていく時、サタンは言った。「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:5)そして、善悪の知識の木の実を食べてしまった二人に神様は言われた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。」(創世記3:22)神様は全てのルールの基準であり中心である。アダムは「あなたがたが神のようになり」すなわち、自分をルールの基準、中心とする生き方を選び取ったのである。その後の人類はその遺伝を受け継ぎ、常に自分が一番であるという思いを受け継いでいるのである。自分の考えが一番正しい等々・・。

○イエス様は「自分が一番偉いと思うのはやめなさい」と、仕える奴隷の姿を身をもって示された。そして、「これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。」(17節、新改訳2017)と、今も、全人類に語っておられるのである。   

2017年11月19日(日)

「分かり得ない神様の御旨の下で」

                                                             テキスト:ヨハネの福音書13:18~30 (新約聖書208頁)

 

○イスカリオテのユダがイエス様を裏切った要因を10月29日のメッセージで語らせて頂いた。神様はイスカリオテのユダに裏切り行為をさせるためにユダを地上に誕生させたのでもなく、弟子として選んだのでもない。神様は人間に命を与える時、常に「なんと愛おしい存在であろうか」(創世記1:31「見よ。それは非常に良かった。」)と一人一人に深い愛の思いを寄せておられる。それは、イスカリオテのユダに命を与えた時にも同様であり、イエス様はイスカリオテのユダも愛し続けておられた(ヨハネ13:1「その愛を残るところなく示された」対象の中には、イスカリオテのユダも含まれていた)。しかし、一方で聖書は、イスカリオテのユダの裏切りは聖書の預言の成就であると述べている。イエス様は「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた」という詩篇41:9(私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。)の預言はイエス様ご自身に対する預言であり(19節)、その預言はイスカリオテのユダの裏切りによって成就すると語られた。また、イスカリオテのユダの裏切りは聖書が成就するためであるとも語られた(ヨハネ17:12)。イエス様はイスカリオテのユダが裏切ることを知っていたとヨハネ6:64に記されている。「終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げる」(イザヤ46:10)全てを知っておられる神様は、イスカリオテのユダが裏切ることも当然知っていた。ユダの裏切りに関する難問に関し、ウェストコットという人は、「ユダの裏切りは、私たちの有限な理解力を越えた問題でもある」としながら、このように説明している。「イエスは、人々の心にある思いをその可能性のすべてについて完全にご存じであられた。しかし、将来彼らが実際どうなるかという視点からではなく、一人の人として知っておられた。」私もこの見解しかないのであろうと思う。イスカリオテのユダは全ての人間に与えられている自由意志を用いて、イエス様を裏切るような行動をとる自由も、しない自由も選ぶことができたが、悪魔の働きかけに乗ってしまい(ヨハネ13:2)、イエス様を裏切る行動をとってしまったのである。神様はユダの裏切りの可能性も知っておられたが、裏切り者としてユダを誕生させたのでも弟子として選んだのでもないのである。しかし、結果としてはユダは裏切り、聖書の預言は成就したのである。有限な私たち人間には分かり得ない神様の御旨がある。Ⅰヨハネ3:20「神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。」Ⅰコリント2:9「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」私たちは、ある面、分かり得ない神様の御旨の下で生かされている者であり、同時に、神様に愛され続けている者であるという確信の下で生きている者なのである。

2017年11月26日(日)

「贖いの御業によって表わされる無限大の愛」

                                                                     テキスト:ヨハネの福音書13:31~32 (新約聖書208頁)

 

○本日の聖書箇所も、最後の晩餐の食卓で、イエス様が弟子たちに対して「その愛を残るところなく示された」(ヨハネ13:1)一連の言動に含まれていることを念頭に解釈をします。

〇ユダはイエス様を敵対者のもとに通報するために出て行った。イエス様は、ユダが出て行くことによって確かとなった死に向かって、後戻りすることなく進んでゆくことを覚悟する。そこでイエス様は、「今こそ人の子は栄光を受けました。」(31節)と言われた。「人の子」ということばをユダヤの人たちが聞けば、そのことばの意味することは明白だった。それは、父なる神様から地上に遣わされて来る「メシヤ」(救い主)を表すことばだった。「人の子」ということばは、旧約聖書のダニエル書7:1~14の中で生まれた。ダニエル書が記された時代は、恐怖と迫害の時代であった。預言者ダニエルは、神様から見せられた幻によって、当時の歴史の中で支配する巨大な異教帝国を描いた。その帝国は、大変に野蛮で、残酷で、破壊的で、恐ろしいものであったので、それを、野獣の風貌や象徴によって描写した。しかし、ダニエルはその野獣の描写の後に、やがて、一つの力がこの世界に現れることを見せられた。それは温和で、親切であり、寛大かつ人道的で、野獣的な力ではなく、人間的なものになるということであった。このような背景で語られたダニエルの「人の子」ということばは、メシヤを指すことばとなっていった。イエス様は、ユダヤの人たちが当然のように知っていた、メシヤを指す称号「人の子」は、まさしく自分であると宣言していた。まさしく、イエス様は、野獣的な力で支配するような方ではなく、温和で、親切であり、寛大かつ人道的な方であった。そのイエス様が「今こそ人の子は栄光を受けました。」と言われた。「栄光」とは、好評、名誉とも訳せることばであるが、人類を贖い出す神の御業(救いの御業)と関係のある内容を表すことばでもある。旧約聖書以来、「神の名」「主の栄光」という言葉は、神の臨在を婉曲に表現するものであり、神がそこにいるということを言いたい時に、ユダヤ人が「神の栄光が現れた」と言うことも併せ考えると、イエス様が「今こそ人の子は栄光を受けました。」と言われたその意味は、「この後起こるイエス様の十字架・復活の御業によって、イエス様が神であること、そして神であるイエス様が、どれほどまでに弟子たちを、そして人類を愛しているのかが表わされる」ということであったと理解できる。また、「神は人の子によって栄光をお受けになりました。」(31節)神様においても、イエス様の十字架・復活の御業によって、どれほどまでに弟子たちを、そして人類を愛している神様であるのかが表わされるのである。「神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。」(32節)イエス様の十字架・復活の御業によって、人類に対する神様・イエス様の無限大の愛が表わされるのである。

2017年12月3日(日)

「もし互いの間に愛があるなら」

                                                                             テキスト:ヨハネの福音書13:33~35 (新約聖書209頁)

 

〇33節「子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。」イエス様は、「その愛を残るところなく示された」(ヨハネ13:1)愛する弟子たちに、もうじき別離が訪れることを告げ、そして、「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。」(34節)と言われた。ヨハネの手紙第一2:7~8には、「愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。」と、弟子のヨハネが記しているが、イエス様が言われた34節の「新しい戒め」とは、ユダヤ人が「初めから持っていた古い命令」、レビ記19:18の戒め「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」のことを指している。

〇当時の律法学者・パリサイ人たちが教えていた律法の解釈では、隣人と敵の概念が明らかであった。彼らの教えでは、隣人は、ユダヤ人かユダヤ教徒になった人で、それ以外は敵であった。それで、彼らは、「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」と教えていた(マタイ5:43)。この言葉は、旧約聖書の教えを大きく変えてしまっていた。神様は、明らかに「憎むな」と教えていたのに、彼らは、「敵を憎め」と教えたのである。隣人については、「隣人をあなた自身のように愛せよ」と教えていたのに、ただ「隣人を愛せよ」とだけ教えていた。そのような彼らに、そしてユダヤ人に対してイエス様は、「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と言われた(マタイ5:43、44)。イエス様は当時の律法学者・パリサイ人たちが教えていたその他の律法の解釈に対しても「しかし、わたしはあなたがたに言います。」と言われ、神様が下さった律法の真意を明らかにされた。イエス様は、律法学者・パリサイ人たちが歪めた律法を成就するために世に来られた。(マタイ5:17)イエス様が弟子たちに語られた「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。」(34節)も同様に、新たに戒めを与えたのではなく、レビ記19:18「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」の真意を明らかにされたのである。それは、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ということであった。最後の晩餐の食卓で、「この中でだれが一番偉いだろうかという論議」をしていた弟子たち(ルカの福音書22:24)に対して、「わたしがあなたがたを愛したように」、イエス様の愛の行動に倣って互いに愛し合いなさいと言われたのである。34節、35節に記されている「愛」は、全てアガペーということばが使われている。それは、見返りを期待しない一方通行に流れる犠牲愛であり、それは弟子たちのために、全人類の罪の贖いのために十字架上で命を捨てられたイエス様の愛である。この愛は「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(レビ記19:18)の成就だったのである。

〇35節「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」隣人はユダヤ人かユダヤ教徒だけという限定ではなく、隣人を自分自身を愛するように互いに愛そうとする姿がある時に、その姿を見るすべての人が、アガペーの愛に生きようとしている人々をクリスチャンであると認めてくれるのである。この愛に生きるには神様が私たちの心を主の愛で満たして下さらなければできないが、しかし、私たちの側からすれば、この愛に生きようとする努力の両面があってはじめて、この愛に生きることができるのである。

2017年12月10日(日)

「古い契約の代表となるために来られたイエス様」

                                                                                          テキスト:ローマ人への手紙8:2~3(新約聖書300頁)

 

〇ローマ人への手紙8章3節から始まる箇所は、2節に書いてあることの説明であり、ローマ人への手紙5章にある、アダムとキリストとの対比の観点から書かれている。

〇2節「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(「原理」は「律法」と訳した方が自然である。ギリシャ語では、この「原理」と訳されていることばは文字通り「律法」ということばであり、同じ「nomos(ノモス)」というギリシャ語がローマ7章の中ではずっと「律法」と訳されており、8章の2節以下の説明も「律法」の話になっている。新改訳2017では「律法」と訳している)「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理」とは、新しい契約を指している言い方であり、アダムとキリストとの対比のキリストにあたる。そして、「罪と死の原理」とは、モーセの律法、すなわち、古い契約を指した言い方であり、アダムとキリストとの対比のアダムにあたる。

〇3節「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」3節は、どうして罪と死の原理から解放される必要があったのかということを説明している。「肉」とは、アダムを創造した時の契約(古い契約)のことを指しており、アダムの後のモーセの律法のことも指している。「無力になった」「律法にはできなくなっていること」とは、律法は違反の指摘と、違反の罪に対して動物の命を犠牲としてささげることによる罪の赦しの確認はできるが、繰り返し続けなければならないその生き方から解放するということはできなかったということ。しかし神様は古い契約・律法ではできなかったことをしてくださったのである。その方法は、「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰された」ということである。「罪のために」とは、「罪の問題を解決するために」という意味。「罪深い肉」とは、原語では「深い」ということばがないので、「罪の肉」と訳す方が良い。そして「罪の肉」とは、「古い契約の代表アダム」のことを指しているのである。よって、「罪深い肉と同じような形で」が意味することは、「古い契約の代表アダムと同じような形で」ということである。神様はイエス様を罪の問題を解決するために、古い契約の代表アダムと同じような人間の姿をとらせて地上に遣わしたということである。そして、「肉において罪を処罰された」すなわち、古い契約の代表、頭として、アダムの、そして私たちの身代わりとなり十字架にかかられ古い契約を終わらせたのである。イエス様は、イエス様を信じる信仰を通して御霊ご自身が私たちのうちに住まわれるという新しい契約に私たちが生きるために人間の姿をとってこの地上に来て下さったのである。

2017年12月17日(日)

「みことばを信じられるようにして下さる神様」

テキスト:ルカの福音書1:26~38(新約聖書106頁)

 

〇父なる神様は、処女マリヤの胎に神であるイエス様を宿すことによって、100%神であり、100%人間であるイエス様をこの地上に誕生させた。

〇イエス様が100%人間であるためには、人間マリヤの胎から生まれる必要があった。イエス様は十字架上で人間の罪の身代わり刑を受けるために、人間の代表、アダムの代表として、人間としてこの地上に生まれる必要があった。更に、神であるイエス様が人間マリヤの胎に宿るには、聖霊による受胎が必要であった。マタイの福音書1:20には、「その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」と記されている。この聖霊による受胎によって、地上に生まれたイエス様が神であることが明らかにされたのである。しかし、聖霊による処女懐胎をマリヤが信じるというのは大変に難しいことであったはずである。故に、神様は、この後に起こる聖霊による処女懐胎という出来事を、「神にとって不可能なことは一つもない」(37節)ということを信じられるように以下の事をして下さった。

①御使いガブリエルがマリヤの前に現れ、聖霊によるマリヤの処女懐胎を告げる。(御使いの姿を見、語ることばを聞くという超常現象を見ることによって、信じられるように・・)

②神様のみことばは成就するということを思い起こさせた。(32、33節「神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」いつも神様からの働きかけを思慮深く考えていたと思われるマリヤ(ルカ2:19、2:51)は、ガブリエルのことばを聞き、神様の預言(Ⅱサムエル7:12、16、詩篇89:4等)を思い起こしていたであろう)

③年をとっていた親類エリサベツの懐妊。(子どもが与えられないまま年をとり、不妊の女と言われていた親類のエリサベツの胎に子どもを宿したのは神様の御業)

〇37節「神にとって不可能なことは何もありません。」(新改訳2017)の欄外註には、「『語られたことば』あるいは『語られた事柄』の意」とある。「神にとって不可能な語られたことばは何もない」のである。マリヤの胎になされる聖霊による処女懐胎という出来事を信じられるようにして下さった神様は、私たちの生活においても、みことばを信じられるようにして下さいます。

2017年12月24日(日)

「私たちの弱さに同情して下さるイエス様」

テキスト:マタイの福音書8:1~3(新約聖書13頁)

 

〇父なる神様は、聖霊の神の働きにより、処女マリヤの胎に神であるイエス様を宿すことによって、100%神であり、100%人間であるイエス様をこの地上に誕生させた。イエス様は十字架上で人間の罪の身代わり刑を受けるために、人間の代表、アダムの代表としてこの地上にお生まれになった。イエス様は人間として生まれて下さった故に、人間としての様々な苦しみに遭われた。ヘブル人への手紙4:15には「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」とある。「私たちの大祭司」とは、イエス様のことを指している。「私たちの弱さ」とは、原文では、「罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」の前に「なぜなら」ということばが入っているので、「私たちの弱さ」とは、罪の誘惑を受け、そして、神様のみこころとは違う、的外れな生き方、すなわち罪を犯してしまう私たちの弱さのことを指していることが分かる。また、「同情」と訳されたことばは、「共に苦しむ」ということを表現するために使われることばであるので、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。」ということばは、「イエス様は、私たちが罪の誘惑を受け、罪を犯してしまう弱さに対して共に苦しみことができない方ではありません」という意味のことばである。

〇イエス様はアダムの罪の性質の遺伝子とは無関係に、聖霊の神の働きかけによって、地上に存在した方であり、内側に罪を宿していないにも関わらず、「罪は犯されませんでしたが」と記されているので、罪の誘惑とは、肉体を持つ人間の内側から起こるものではなく、外側から働きかけてくるものであることが分かる。すなわち、それは、人間の外側から働きかけるサタンの誘惑である。イエス様は人間の外側から働きかけるサタンのすべての誘惑を受けたということである。イエス様は誘惑を受けても罪は犯しませんでしたが、ご自分がサタンのすべての誘惑を経験されたので、被造物である私たち人間がサタンの誘惑を受け、罪を犯してしまうその弱さと、その苦しみなどを理解してくださり、そして、そのことをご自分のことのように共に苦しんでくださっているのである。

〇マタイ8:2「ツァラアト」とは、皮膚に現れるだけでなく、家の壁や衣服にも認められる現象であるが、それが厳密に何を指しているかは未だに明らかではない。「ツァラアトの者・人」「ツァラアトに冒された」は、人の場合に限定して使われ、「何らかの原因により、人体の表面が冒された状態」を描写している。そして、これは単に肉体的な病であるだけでなく、社会的な苦痛をももたらした。この病にかかった者は、社会から追放され、人々から隔離された。肉親からも引き離され、友人を失い、社会生活も失った。その生活は祭司によって「きよい」と宣言されるまで続いた。

〇イエス様は、「ツァラアトに冒された人」の何に同情(共に苦しむ)できたのであろうか。人は外側からの働きかけ、影響によって、罪を犯したり、苦しんだりするのであるが、「ツァラアトに冒された人」の場合、ツァラアトという病におかされ、その影響で、神様に対して罪を犯していたのかもしれない。神様への不満から始まり、冒涜など・・。イエス様が十字架刑で味わわれた苦しみは神様との交わりの断絶であったが、人間でもあったイエス様は当然、釘付け等による肉体の壮絶な痛み苦しみもあった。イエス様は十字架上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫ばれた。罪は犯さなかったが、この時、神様への不満にも近い感情があったのではないか。そのような経験をされたであろうイエス様であるから、この「ツァラアトに冒された人」に同情できたのではないか。また、「ツァラアトに冒された人」の肉親からも引き離される経験は、十字架における神様との交わりの断絶刑によって経験された。友人を失う経験は、弟子イスカリオテ・ユダの裏切り、弟子ペテロのイエス様を知らないという否認等で経験された。イエス様はそのような外側からの影響による試みをすべて経験されているのである(ヨハネ4:6「イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。」イエス様は肉体的な疲れからくる様々な思いにも同情できる)。故に、それらに付随しての罪の誘惑を受け、罪を犯したり、苦しんだりする人間の弱さに同情できるのである。

〇ツァラアトに冒された人は、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」(2節)ツァラアトに冒された人はイエス様に、あなたなら触らずとも治せるからと申し出た。しかし、人間の体を持っておられたイエス様は、手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。」周りの人々はあなたを隔離するほど近寄りたくなくても、わたしはあなたにさわり、そして、あなたを癒す。これがわたしの心だとイエス様は言われた。イエス様はツァラアトに冒された人の苦しみを共に苦しんで下さったのである。

12月31日(日)、1月1日(元日)、1月7日(日)のメッセージは載せないこととします。2018年1月14日(日)のメッセージからまた再開致します。よろしくお願い致します。

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