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「あなたを責めるものはない」

            

 創造主なる神さまによる天地万物創造の時、最初に造られた人類の先祖アダムは、神さまと愛を土台とした人格と人格の信頼関係の中で生きていました。

 天地創造の初めに人間を造られたとき神さまは、人間の自由意志も含め、その存在をご覧になり、非常に良かったと語られました。それは、深い思いを寄せてご覧になり、「愛おしい」という表現をされたことばでした。その神さまの思いは、その後の人類一人一人に対しても今も同じです。

 自由意志も含め、非常に良かったと表現されたアダムは、取って食べてはならないと神さまから示されていた善悪の知識の木の実を取って食べ、自らの意志で、違う生き方(善悪の判断は自分でします)をすることを選び取りましたが、その行動さえも、全知全能の神さまの予測の中にあり、予測の中にあったアダムの行動が実際になされた後も、アダムの自由意志も含めてそのすべてが非常に良く、愛おしく思う神さまの思いは変わりませんでした。

 神さまとの愛の交わりの中で満たされ、何の欠乏感もなく生きられる者であったアダムでしたが、自らの意志で、違う生き方(善悪の判断は自分でします)をすることを選び取った結果、人間は神さまと霊的に距離のある者となり(霊的に死んだ状態)ました。これが、神さまに対して人間が最初に犯した罪でした。聖書の中で「罪」とは、的外れの状態を意味することばであり、神さまと霊的に距離のある者のことであり、アダム以降の人間はすべて相対的に神さまと霊的に距離のある者、罪人となりました。

 霊的に距離ができてしまった結果、人間は行為においても罪を犯す者となりました。そんな人間を神さまは心配し、時に心を痛め、そのような状態から解放させてあげたいと、この地上にひとり子である神、イエス・キリストを遣わして下さり、イエス・キリストに人間のすべての罪を負わせ十字架につけることによって、人間が受けるはずの刑罰をすべてイエス・キリストに下しました。 

 新約聖書ヨハネの手紙第Ⅰ 4章9~10節にはこのように記されています。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

 イエス・キリストが私の代わりに十字架で刑罰を受けて下さったと信じる者は、神さまとの霊的な交わりが回復させられます。そしてイエス・キリストは私たちの罪の問題を背負って下さり、天国まで導いていって下さると約束しておられます。

 もう自分で善悪の判断をしなくてもよいと言って下さいます。自分で善悪の判断をし、自分を責め、自分にダメ出しをし続けるのはやめましょうと言って下さいます。罪の問題はイエス・キリストの十字架・復活ですべて解決済みなのだからと言って下さいます。

 新約聖書コロサイ人への手紙 2章13~14節にはこのように記されています。「死んだ者であったあなたがたを、神はキリストとともに生かしてくださいました。私たちのすべての背きを赦し、私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」

 私たちはイエス・キリストによって自由にされた者として神さまのみこころ(喜び、元気に生きてほしい)に生きていきたいと思います。

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