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2019年4月7日(日)

「終始、人を思いやるイエス様」

    テキスト:ヨハネの福音書19:23~27(新約聖書221頁)

本日の聖書箇所から3つの点を覚えたいと思います。

①「無慈悲な罪人の姿」

<23、24節:「さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。そこで彼らは互いに言った。『それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。』それは、『彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた』という聖書が成就するためであった。」>

○罪人は四人組の兵士に付き添われて刑場へと連れて行かれた。当番で処刑の任務についた兵士たちは、特別な報酬として罪人の着けていた衣服を取ることが許されていた。下着は縫い目のない一つの織物であったので四分することができず、くじを引いて誰の物にするかを決めた。この縫い目のない下着を織ったのは母のマリヤであろう。兵士たちの無慈悲な姿が表わされている。しかし、このような兵士たちの行為も旧約の預言が成就するためであったと聖書は述べる。

②「どのような状況下でもイエス様と共に居たかった女性たち」

<25節: 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。>

○聖書は、無慈悲な兵士たちと、十字架のかたわらにいた女性たちとを対比させている。イエス様の十字架のかたわらには敬虔な女性たちがいた。これらの女性たちはイエス様がガリラヤにおられた時からいつもイエス様に付き従っていた(マルコ15:41)。彼女たちは「自分の財産をもって彼らに仕えているヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか大ぜいの女たち」(ルカ8:3)の一部であった。こうした女性たちがいかに深くイエス様の宣教活動にかかわり、その働きを助けていたかが分かる。彼女たちは必ずしも裕福であったとは思えない。しかし彼女たちは、イエス様の働きを経済的に支えていたのである。マグダラのマリヤは、イエス様に七つの悪霊を追い出していただいた(ルカ8:2)。マグダラのマリヤは、イエス様が自分のためにして下さったことを決して忘れることができなかったのであろう。女性たちはイエス様の十字架のもとに、イエス様と共に居続けたのである。

③「常に隣人愛に生き続けるイエス様」

<26節: イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。>

○イエス様はこの愛弟子に母マリヤをゆだねる。イエス様の兄弟たちはまだこの時イエス様を信じていなかったのであろう(ヨハネ7:5)。イエス様は十字架の究極の苦しみの中にありながらも、ご自分が去った後のマリヤの心中に思いを馳せておられた。

2019年4月14日(日)

「成就した私たちの贖い」

                                                                                                     テキスト:ヨハネの福音書19:28~37(新約聖書221頁)

本日の聖書箇所から2つの点を覚えたいと思います。

①<聖書のことばが成就するために贖いの十字架は成し遂げられた>

 ○<28節:この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。」>「すべてのことが完了したのを知って」とは、神様が旧約聖書の預言をすべて成就して、贖いの業を成し遂げられたことを確認したことを指す。そして、イエス様は「聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた」とある。この福音書の著者は、イエス様の贖いの十字架は神様の深いご計画に基づくものであることを強調している。

 ○<36節:この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない」という聖書のことばが成就するためであった。>著者は、過越の小羊について言われている律法のことば、過越の犠牲としてほふられる小羊の骨を折ってはならないという規定(出12:46)が成就したとしている。

 ○<37節:また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る」と言われているからである。>著者は、イエス様のわき腹が突き刺されたことにより、預言者ゼカリヤのことばが部分的に成就されたことを告げる。ゼカリヤは、神様がエルサレムに攻めて来るすべての国々の民を滅ぼし、エルサレムの住民の上に恵みと哀願の霊を注がれる日に、イスラエルが神様に反逆した罪のために嘆き悲しむ様子を描いている(ゼカリヤ12:9,10)。

②<完了した贖いの十字架>

 ○<29節:そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。>著者はヒソプと記すことによって、ユダヤ人の誰もが過越の小羊の救いの血を想起することを意図していたのであろう。出エジプトの時、イスラエルの民がエジプトの奴隷から解放された夜に、主はエジプト人の長子をことごとく殺したが、イスラエル人は過越の小羊をほふり、ヒソプの一束を取って鉢の中の血に浸し、その血をとってかもいと門柱に塗りることによって、かもいと門柱にある血をご覧になる主はその戸口を過ぎ越していかれた(出エジプト記12:21,22)。イエス様は、罪人を贖うためにほふられる、まことの過越の小羊として十字架につけられたのである。

 ○<30節:イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。>イエス様は神様が旧約聖書の預言をすべて成就して、贖いの業を成し遂げられたこと、また、ご自身がこの世に来られた目的を完遂したことを確認して「完了した」と言われ、ご自分の霊を父なる神様に引き渡された。

 ○<34節:しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。>この一見無神経とも思える兵士の行為の中にこの福音書の著者は重要な意味を見出している。血を注ぎ出すことなしには罪の赦しはない(ヘブル9:22)とあるように、流された血は救いが達成されたことを示している。血と一緒に流れ出した水は、新しい霊的ないのちを象徴している。イエス様の十字架上でそのわき腹から流れ出たものは、罪を贖う血と、永遠のいのちを与える水とに象徴されるのである。

2019年4月21日(日)

「イエス様の復活が私たちに与えるもの」

                                                                                                           テキスト:ヨハネの福音書20:1~10(新約聖書222頁)

本日の聖書箇所から2つの点を覚えたいと思います。

①<復活には圧倒的な歴史的証拠がある>

 ○マタイ27:66には「そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。」とある。その封印はローマの権力と権威を表わす印であった。墓の入口から石を動かすためには封印を破らなければならず、封印を破ればローマの法律によって刑罰を受けなければならなかった。しかし、女性たちは、「墓から石が取りのけてあるのを見た」のである。マタイの福音書28:1~4にはこう記されている。「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。 番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」そこには圧倒的なイエス様復活の歴史的証拠がある。ローマの封印は破られていた。誰でも封印を破った者は逆さ十字架の刑に処せられることになっていた。警備にあたっていた番兵たちは逃げ去ってしまった。東ローマの皇帝ユスティニアヌスは「ローマ法大全」(49:16)で、番兵たちが死刑に処せられるべき罪状を列挙している。それは、眠り込んでしまうことや、警備にあたっていた場所から離れてしまうことなど十八もある。クリスチャンは圧倒的な歴史的証拠に基づいてイエス様の復活を信じているのである。

②<みことばを理解することの大切さ>

 ○9節「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。」弟子たちは、復活の出来事を見るまでは、イエス様の復活を預言する聖書のことばを理解していなかったのである。私たちはイエス様の復活によって以下のことを理解し信じることができる。<1.自分の罪が赦された>「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」(Ⅰコリント15:17)「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(Ⅰコリント15:20)<2.新しく造られた者に変えられた>「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)<3.私たちも復活する>「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。」(Ⅰコリント15:20~23)

2019年4月28日(日)

「イエス様が何者であるかを見失ったマグダラのマリヤ」

                                                                              テキスト:ヨハネの福音書20:11~18(新約聖書223頁)

20:11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
 20:12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
 20:13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
 20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
 20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
 20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。
 20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」
 20:18 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。

本日の聖書箇所から2つの点を覚えたいと思います。

①「イエス様が何者であるかを見失うと、悲しみ・失望・絶望から抜け出すことができない」

<11節:しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。>マグダラのマリヤは再び墓に来て、墓のところにたたずんで泣いていた。マグダラのマリヤは、イエス様に七つの悪霊を追い出していただいた(マルコ16:9、ルカ8:2)。マグダラのマリヤは、イエス様が自分のためにして下さったことを決して忘れることができなかったのであろう。マリヤはイエス様によって与えられた新しい人生をイエス様のために用いようという決意をもってイエス様に従っていた。マリヤにとってはイエス様に従うことこそ生きがいであったと考えられる。それが、イエス様の十字架刑によって奪い取られたのである。「泣いていた」ということばは、マリヤの、悲しみ、失望、絶望を示している。マリヤはイエス様の遺体を引き取るつもりでいた(「私が引き取ります」)。この時のマリヤには、イエス様の遺体に寄り添い、遺体を守って行くということ以外は考えられなかったのであろう。そのせめてもの思いも届かない状況に墓から立ち去ることができず泣いていたのであろう。マリヤはイエス様の遺体がどこに置かれているのか分からないということばを3回述べている(20:2、20:13、20:15)。聖書は「見失っている」という重要な点を指摘している。イエス様が十字架において死に、弟子たちやマリヤからイエス様が奪い去られた時、弟子たちやマリヤはイエス様が何者であるかということを見失ったということである。故にマリヤは絶望から抜け出せずにいた。

②「イエス様が何者であるかをを見失うと、よみがえりのイエス様が側にいることが分からない」

<14節:彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。>マリヤがイエス様を見てもイエス様であることが分からなかったのは、「涙で曇ってよく見えなかった」あるいは、「イエス様が死んでしまったという事実があまりにも強烈で、イエス様が甦って姿を現すなど思いも及ばなかった」ということかもしれない。あるいは、「復活のイエス様の姿は栄光の体だったので、イエス様とは認識できなかった」などが考えられるが、聖書が示そうとしているのは、マリヤはこの時、「イエス様という御方が誰であるのかを見失っていた」ということであろう。

2019年5月5日(日)

「罪の赦しを与えるために」

            テキスト:ヨハネの福音書20:19~23(新約聖書224頁)

 

<19節:その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」>弟子たちは自分たちの師であるイエス様を十字架で失ったという失意に加えて、自分たちもやがては逮捕されるかもしれないという恐怖におののき、戸を閉じて家の中にこもっていたが、イエス様は彼らの中に立たれ、「平安があなたがたにあるように。」と言われた。その平安は、イエス様が最後の晩餐の席で約束された、「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」(ヨハネ14:27)の平安である。これから弟子たちは福音宣教のために派遣されていくが、弟子たちには、「世が与える」平安ではない、「わたしの平安」イエス様の平安が必要だったのである。

イエス様が閉まっている戸を通り抜けることができたのは、イエス様の復活の体が「御霊のからだ」であって(Ⅰコリント15:44)、物理的空間にさえぎられず自由に行動することができたからである。

<20節:こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。>復活の体には地上での肉体と同じように十字架の傷跡があった。その傷跡のあるイエス様の復活の体を見て、弟子たちの悲しみは喜びに変えられた。愛する師であるイエス様がよみがえられたという事への更なる確信を得たからである。それは、イエス様がかつて言われていた通り(「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。・・まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。」ヨハネ16:16~21)、産みの苦しみを終えて、贖われた者の喜びが彼らのものとなったのである。

<21節:イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」>イエス様は再度、「世が与える」平安とは違う「イエス様の平安」が弟子たちの内にあるようにと告げ、イエス様の宣教を継続する者として、弟子たちを福音宣教のために世に派遣する。

 

 

 <22節:そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。>

イエス様は弟子たちを派遣するに当たり彼らに聖霊を与えられる。この聖霊を与えられることによって、弟子たちはイエス・キリストの使徒として、イエス様が御父からお受けになったと同じ和解の務めをゆだねられたのである(Ⅱコリント5:18、19「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」)。

<23節:あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」>弟子たちの派遣に託された使命は、罪の赦しの宣言である。「罪は赦され」、「それはそのまま残ります」の2つの動詞は共に受動態であり、それは、聖霊が命じるままに、イエス・キリストによる贖いの恵みを授けたり、授けなかったりするということであり、その権威は聖霊に依存しているのである。使徒たちが聖霊の力によって宣べ伝える福音を聞いて信じる人々には罪の赦しが与えられ、信じようとしない人々の罪は、その時点では赦されないままになるのである。

 

イエス様の弟子たちは、世の人々に福音を宣べ伝え、罪の赦しを与えるために、「世が与える」平安ではない、イエス様の平安が与えられる必要があり、そして聖霊を受ける必要があったのである。

2019年5月12日(日)

「各々の性格に寄り添って下さる主」

            テキスト:ヨハネの福音書20:19~29(新約聖書224頁)

 

<24~25節:「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。>トマスはこのように言ったが、その真意はその言葉通り、「その手に釘の跡を見、指を釘のところに差し入れ、手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じない」という意味で言ったのではないように思う。他の弟子たちの復活目撃証言を信じていないということではなく、ただ、現実に自分の目で見なければ、自分の中では100%信じたという域には行かないんだということを言いたかったのではないか。また、イエス様が来られた時に自分だけその場に居合わせなかった、あるいは、悲嘆にくれ、弟子仲間に会うことすらできなかったのかもしれないが、イエス様に会えなかった残念な気持ち、寂しさやら、様々な思いもこの表現の中には含まれているように思う。イエス様も最初から弟子たち全員が揃っている時に復活の姿を現したかったのではないかと思うが、なるべく早く、復活の姿を弟子たちに現す必要があることをご存知のイエス様は、復活の日の夕方には、トマスは居合わすことができなかったが復活の姿を現されたのであろう。

<26節:八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。>「平安があなたがたにあるように」という言葉はユダヤの日常的な挨拶であり、「神があなたがたにあらゆるよいものを備えて下さるように」という意味であるが、イエス様はトマスが居合わすことができなかった時に復活の姿を現された時と同じ現れ方で、そして、同じことばをトマスにかけてあげたかったのではないか。イエス様はトマスが悲嘆にくれ、弟子仲間と共に復活のイエス様に会うことができなかったのかもしれないトマスの様々な思いを知っておられ、そして、その思いに寄り添うように語りかけて下さっているように思える。

<27節:それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。>イエス様はトマスが言った「その手に釘の跡を見、指を釘のところに差し入れ、手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じない」という言葉の中にある複雑な様々な思いを、そしてトマスという人がどういうタイプの人間であるかを知っているということをトマスに伝えるために、あえて、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。」と言われたのではないか(トマスよ、あなたが言ったことを実行しなさいということではなく)。そして、そのことを伝えた後に、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言われたことによって、トマスは「私の主。私の神。」(28節)と応えていくことに繋がっていったのではないか。トマスはイエス様の叱責ではなく、イエス様の深い愛に導かれるように信仰告白に導かれたように思う。

 <29節:イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」>トマスとの一連のやりとりによって、結果、「見ずに信じる者は幸いです。」というイエス様のことばが後代の「見ずにイエス様を神であると信じる者」に残されることになった。イエス様を神であり罪からの救い主であると信じる者には神様からの幸いが与えられる。

かつてトマスは、イエス様の友人ラザロが病気であるとの知らせが届き、イエス様がベタニヤに行こうと言われた時、たった今さっき、イエス様を石打ちにして殺そうとしていた場所に戻るのですかと他の弟子たちがしりごみする中、「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」(ヨハネ11:16)と、何のためらいもなくイエス様への愛を示した。トマスは元来勇気のある人物であったのか、あるいは、愛する師のためには自然と勇気ある行動が取れる人物であったのか・・。また、イエス様がこの世を去って父のもとへ行くと言われた意味が分からず、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)ということばを引き出すことになった。トマスは分からないことを分かっているようなふりをする人物ではなかったのであろう。

イエス様はトマスという人がどのような人であるのかをよく知っておられ、そして、トマスに寄り添うように、その心に触れて下さるのである。そして私たち各々にも。

2019年5月19日(日)

「ヨハネの福音書の目的通りに救われた私たち」

            テキスト:ヨハネの福音書20:30~31(新約聖書224頁)

 

○30~31節には、この福音書の1~20章全体にかかわるところの執筆の目的が記されており、30,31節はヨハネの福音書の結びの部分であったと考えられる。よって、21章は1章から20章までのヨハネの福音書が書かれた後に付加されたものと考えられる。

<30節:この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。>イエス様が地上での宣教活動の中で行われた数多くの「しるし」の中から、その幾つかが選ばれ、ヨハネの福音書の20章までの中に記されたということである。宣教活動当初における「しるし」は、癒しを中心とした奇蹟的な御業であった。その御業によって、イエス・キリストは超人的な人間なのではなく神であるということを信じてもらいたいという神様の意図があったのである。(ヨハネ4:46~48にはこのように記されている。「イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。そこで、イエスは彼に言われた。『あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。』」)

<31節:しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。>ヨハネの福音書には、イエス様の癒しを中心とした奇蹟的な「しるし」も書かれているが、イエス様の贖いの十字架・復活を記すことによって、イエス様こそが「キリスト」すなわち、ユダヤの人々が、待ち望んでいた、預言者たちが約束した神の救いの実現をもたらす救い主「メシア」であり、父なる神様から遣わされた神の子であることを、読む者が信じるために(特に、ユダヤの人々がイエス様を神であると認め信じることは容易なことではなかった)、そして、「イエス様の御名」(イエス様の御名とは、知りうる限りのイエス様の神としての存在、本性、みこころを意味するが、特にここでは、イエス様は神であり、罪からの救い主であるということが含まれた)を信じることによって、神様との交わりの中で生きるいのちを得るためにヨハネの福音書は書かれたのである。

私たちは肉眼ではイエス様を見ることができないが、「見ずに信じる者は幸いです。」(20:29)とのみことばの通りに、神様のみことばを読み、イエス様の御名を信じ、永遠のいのち(神様との交わりの中で生きるいのち)を得たのである。

2019年5月26日(日)

「聖霊の賜物を受けた私たち」

        テキスト:使徒の働き2:38 (新約聖書230頁)

 

6月9日のペンテコステを記念する日まで聖霊の働きについて学びます。

<聖霊のバプテスマ>

使徒の働き1:4~5節「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』」

Ⅰコリント12:13「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け」

「聖霊のバプテスマ」とは、人がイエス様を自分の罪からの救い主として信じる時に、その人をキリストの内にある者とし、キリストの体と統合させる聖霊の働きを指すと共に、イエス様を信じる一人一人をキリストの教会という一つの団体に結束させて、その教会をキリストのからだ、キリストの手足のごとくに用い、救い主キリストを証しするための聖霊の力づけのことを指す。

<賜物>

使徒の働き2:38「そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」使徒の働き10:45「異邦人にも聖霊の賜物が注がれた」

聖霊はイエス様を信じた時に賜物として与えられた。

<内住>

Ⅰコリント3:16「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」ヨハネ14:17「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」コロサイ1:27「あなたがたの中におられるキリスト」

イエス様を信じ、賜物として与えられた聖霊は、私たちの内に住んでおられる。

私たちの内におられる聖霊という御方がどのような御方なのかは、イエス様という御方を知れば分かる。イエス様は、私たち人間に対する神様の無限の、不変の愛を示して下さる。私たちが何がしかの善い働きをするから愛して下さるというような取引をする神様ではなく、私たちの存在そのものを愛し続けて下さっているということを。「住んでおられる」ということは、遠くにおられる方ではないということを示している。

○私たちは、イエス様を救い主として信じた瞬間に、「聖霊」を受けた一人一人なのである。

2019年6月2日(日)

「御国を受け継ぐことの保証」

  テキスト:エペソ人への手紙1:13~14(a) (新約聖書373頁)

 

本日も聖霊の働きについて学びます。

<13節:この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。>

「この方にあって」とは、「キリストにあって」ということ、「あなたがたもまた」とは、異邦人クリスチャンのことを指している。「真理のことば、あなたがたの救いの福音」とは、神であるイエス・キリストが、私たちの罪の贖いのために十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださったということを信じる者には、罪の赦しと、永遠のいのち(神と共に生きるいのち)が与えられるという良き知らせのこと。ユダヤ人クリスチャンも異邦人クリスチャンも、この福音を「聞き」「信じた」ことにより、「約束の聖霊をもって証印を押され」たのである。「証印」とは、所有権や保証を示す印のことをである。聖霊の内住こそ、罪から救われ、神の民とされたことの証印なのである。

<14節:聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。>

「保証」とは、売買契約を保証する手付金のことを指す。聖霊の内住は、私たちが御国を受け継ぐことを保証する手付金であるということ。私たちが現時点で体験する聖霊の働きは、神様がクリスチャンに対して用意されているすべての恵みを受け継ぐ終末の時(御国を受け継ぐ時)の保証であり、御国を受け継ぐという計り知れない恵みの前味のようなものである。

マルティン・ルターは、罪と義がクリスチャンの中でどのように混在するのかを以下のように述べているが、御国を受け継ぐ時の前味を経験しているということを理解する助けになるように思う。「それはちょうどある病人が、『あなたは全快します』という医師の言葉を信じることに似ている。病人は、病気が治るという約束に望みをおいて、医師の指示に従う。彼は、健康のために、医師から慎むように言われたことはいっさいやめる。今、彼は回復した状態なのだろうか。実際、彼は病気だが、同時に健康だと言える。つまり、現実には病気だが、必ず治るという医師の約束において、彼は治っているのだ。彼が医師に信頼し、医師は彼をすでに治った人として見ているからである。」

私たちの生涯は罪の影響もあり、様々な困難に満ちているかもしれない。しかし、私たちに内住される聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証、手付金、前味であることを知ることは、私たちに、かの日に与えられる御国に対する希望を与え、今を生きる力を与えるのではないだろうか。

私たちは、福音を「聞き」「信じた」ことにより、罪から救われ、神の民とされたことの証印である「聖霊」を受けた。そして、内住される聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証なのである。

2019年6月9日(日)

「とりなして下さる御霊」

  テキスト:ローマ人への手紙8:26~27 (新約聖書302頁)

 

本日も聖霊の働きについて学びます。

「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。」(26節)とある。「同じようにして」とは、前に書かれている内容を受けての「同じようにして」であり、その内容とは、22節にある「被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている」ということである。すなわち、「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。」とは、「御霊なる神様も被造物全体とともにうめきともに産みの苦しみをして下さり、弱い私たちを助けて下さっている」ということである。

 そして、御霊が助けてくださっている理由は、「私たちは、どのように祈ったらよいかわからない」からだということである。パウロが「弱い」ということばを使い思い浮かべているものは、話の前後から察し、内住の罪との戦いを覚える時の自分の姿であろう。

 パウロは、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)と、ローマ教会の人々に告白せざるを得ないような自分がいる時、自分が何をどのように神様に祈っていいのか分からないのだと述べているのであろう。

 この文章の前には2つのうめきが書かれている。「被造物全体のうめき」(22節)と「私たち自身のうめき」(23節)である。その2つのうめきは、主の贖いの完成を待ち望みつつ、今を戦っているうめきである。しかし、26節の「御霊のうめき」は、私たちのために神様にとりなしをしてくださっている「うめき」なのである。すなわち、内住の罪との戦いに苦しみ、嘆き、何をすればいいのか何を祈ればいいのか分からない私たちを憐れみ、私たちの欠け(祈りも含めて)をすべて覆ってくださり神様にとりなしてくださっている御霊の姿を表現しているのである。御霊は、私たちの「うめき」をご自分の痛み悲しみように受けとめ、神様のみこころに従って、神様にとりなしていてくださるのである。27節「人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」そして、神様も当然、その私たちの心を知っていると聖書は語る。

2019年6月16日(日)

「苦しみのただ中でこそ知ることができる主」

         テキスト:詩篇44:1~26 (旧約聖書948頁)

 

9節「それなのに、あなたは私たちを拒み、卑しめました。」、12節「あなたはご自分の民を安値で売り、その代価で何の得もなさいませんでした。」、13節「あなたは私たちを、隣人のそしりとし、回りの者のあざけりとし、笑いぐさとされます。」、22節~26節「だが、あなたのために、私たちは一日中、殺されています。私たちは、ほふられる羊とみなされています。起きてください。主よ。なぜ眠っておられるのですか。目をさましてください。いつまでも拒まないでください。なぜ御顔をお隠しになるのですか。私たちの悩みとしいたげをお忘れになるのですか。私たちのたましいはちりに伏し、私たちの腹は地にへばりついています。立ち上がって私たちをお助けください。あなたの恵みのために私たちを贖い出してください。」

この詩篇の著者は、かつて、神様がなさった偉大な御業を高らかに述べた(1~8節)後、神様が眠っておられるかのような中での悲惨な状況を嘆いている(9~16節、22~25節)。

ローマ8:36には、「『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。」とあり、パウロはこの詩篇を引用している。パウロはユダヤ人から激しい迫害を受けた。死ぬ一歩手前までの鞭打ちの刑を受けたことが5度もあり、「一昼夜、海上を漂ったことも」「労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(Ⅱコリント11:24~27)と述べている。あの偉大な使徒パウロも、苦しみのただ中で、この詩篇44篇のみことばを思い起こし、「起きてください。主よ。なぜ眠っておられるのですか。目をさましてください。いつまでも拒まないでください。」と、涙を流しながら神様に訴えていたのだと考えられる。しかし、パウロはローマ8:36で詩篇のみことばを引用した直後に、「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」と述べている。これは、苦しみのただ中で、「圧倒的な勝利者」とされているという確信なのである。苦しみのただ中に置かれたからこそ、私たちのために死んでよみがえってくださったキリストを身近に感じることができているとも言えるであろう。

 詩篇の著者、パウロも、様々な気持ちを正直に神様に訴えているが、イエス様に関してもこのように記されている。「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル5:7)イエス様でさえも十字架上における究極の苦しみの中で神様を遠く感じた経験をされたのである。その御方が、「どのように祈ったらよいかわからない」(ローマ8:26)私たちのために、とりなしてくださっているということが分かる時、今まさに苦しみのただ中にあっても、私も「圧倒的な勝利者」とされていると思えるのではないだろうか。

詩篇の著者は、この詩篇を、「あなたの恵みのために私たちを贖い出してください。」と結ぶ。「恵み」ヘブル語「ヘセド」は、神様がご自身の契約に忠実な慈愛に満ちた方であるという意味が込められたことばである。この詩篇の著者が、苦しみを訴えながら、同時に、ご自身の契約に忠実な慈愛に満ちた方に心の目を向けられたように、私たちの生涯においてもそのような導きがあるのである。

2019年6月30日(日) 召天者記念礼拝

「悲しみは慰められる」

       テキスト:マタイの福音書5:4 (新約聖書6頁)

 

「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。」

 私たちの悲しみは、自分が大切に抱えているものを手放さなくてはならない時に生じると言われる。家族、生きがい、健康、希望など、まさに私たちを幸福にすると考えられるものを失う時、その幸福と反対の状況に至ったことを悲しむのであると。しかし、悲しむことは、神様から与えられた大切な感情の一つである。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12:15)。聖書は悲しむという感情を否定していない。イエス様ご自身も、愛する友人ラザロの死を悼み、悲しまれた(「イエスは涙を流された。」ヨハネ11:35)。

 「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」(ローマ8:22)私たちはこの「ともにうめきともに産みの苦しみをしている」この世界にあって悲しみに遭遇するのである。そして、悲しみに至る出来事のいかんによっては、その悲しみが簡単に癒えるわけではないだろう。

 「なぜ神様は私に・・」という消えぬ問いが悲しみを引きづるということもあるであろう。「神様は懲罰によって私に何かを教えておられるのではないか?」という的外れな問いが悲しみを消さないということもあるであろう。確かに、聖書には、神様が苦しみを懲罰に用いていることがある。旧約聖書のイスラエルの民に下された懲罰がそうである。しかし、懲罰が下されたのは常に、この行為は懲罰に値すると幾度も警告が与えられた後である。さばきが下されないうちに罪から離れよと、声高にイスラエルに対して警告を与えた後である。懲罰としてもたらされた苦しみは、幾度も与えられた警告の後であったため、誰もが後に「なぜ?」と問うことのできないものであった。苦しみの理由を十分に承知できたものであった。これらのことと、私たちが経験する悲しみにはほとんど共通性はない。私たちは、これから大きな災難がやってくるから気をつけなさいと、神様から直接、啓示を受けていることはないであろう。個人的な苦しみは、神様の明瞭な説明をもって届けられているであろうか。私たちは、これらの不必要な問いから悲しみを引きづってはならない。イエス様が地上におられた時、当時の二つの事件について意見を述べられた。塔が崩れて十八人が命を落とした事件と、宮で礼拝していた幾人かが政府の命令で殺された事件を。イエス様は、その人々は他の者たち以上に罪があるわけではないと言われた。苦痛に見舞われても仕方のないことなど、していなかったのだと言われた。私たちは、ほとんどの場合、神様から罰を受けているわけではない。私たちの苦しみ悲しみは、予期しない、説明のつかないことがほとんどであると言えるのではないだろうか。

 イザヤ53:3「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」イエス様はその生涯の多くの日々を、苦しむ人たちの中で過ごされた。イエス様は地上に来られ、苦しみを受け、十字架で死なれた。イエス様はその地上での生涯で、大概の人間が経験するより、はるかに多くの悲しみに耐えて下さった。苦しんでいる人々の悲しみを誰よりも知っておられるのがイエス様である。私たちが悲しむ時、神様は静観しておられるのではない。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。」(Ⅱコリント1:4、5)私たちを悲しみに至らせた出来事のその真意は分からずとも、私たちがイエス様を見上げる時、イエス様の歩まれた歩みを見上げる時、共に悲しんで下さるイエス様を見上げる時、私たちの悲しみは慰められるのである。

2019年7月7日(日)

「主の愛に立ち返ることにより歩み始める」

 テキスト:ヨハネの福音書21:1~14 (新約聖書224頁)

 

三年半の年月、イエス様につき従っていくことを自分たちの人生としてきた弟子たちは、なすべき事を見失い、生きていたのではないか。

 弟子たちは実際に食べる物もなかったのではないかと思われる。そして夜中の漁に出るが、一晩漁をしても何もとれず、疲れ、空腹になっていたであろう彼らのところに復活のイエス様が姿を現わす(この福音書記者が記した中で三度目の顕現)。しかし、弟子たちは、それがイエス様であることが分からなかった。マグダラのマリヤもそうであったように、復活の姿はそれ以前の姿とは違う、何か特別な姿だったのであろう。(私たちもかの日には、栄光のからだが着せられるという希望がある)

 イエス様はこれまでに何度かに分けて復活の姿を現されているが、おそらく、それぞれに違う種類の教える事柄があったのではないかと考えられる。そして、この時に、教え、気付かせようとされた事柄は、弟子たちが主から与えられている使命である。特に、三度イエス様を否んだペテロに対しては、召しを思い出して欲しいというイエス様の強い思い入れがあったのではないか。復活されたイエス様がいると聞いたペテロが「主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。」(7節)と記されているところに、ペテロの癒されない引きずっている心があることを物語っているように思われる。(その回復への主の御手は15節以降に記されている)

 一晩漁をして何もとれなかった弟子たちに対してイエス様は「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」と言われた。「そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。」とある。この光景は、漁師であった彼らに「人間をとるようになる。」(ルカ5:10)(マタイ4:19では「人間をとる漁師にしてあげよう。」)と言って、その使命に召していった光景を思い出させようとしているイエス様の働きかけがあるのではないか。

 イエス様は視覚を通して思い出させようとされたのではないか。イエス様がお与えになった使命は何だったのかを。それは、人々に福音を伝えるという使命である。復活の目撃者として、罪と死からの勝利を宣言していく使命である。そして何よりもその原点となっているのはイエス様との出会いである。愛に満ちあふれた御方との出会い。イエス様はその原点を思い出させようとされたのではないか。

 私たちにも視覚を通して思い出させようとされていることがあるのかもしれない。それは、同じく、イエス様の愛を思い出させるためであるのかもしれない。

 私たちの人生は常に、この原点に立ち返り営まれていくものなのではないか。イエス様はどのような御方なのか。どのような御方と私たちは出会ったのか。イエス様は私たちを愛し、十字架で命まで捨てて下さった。その愛に立ち返る時、私たちの歩みがまた一歩、弟子たちの歩みの再開のごとくに歩み出されていくのではないだろうか。

2019年7月14日(日)

「この人たち以上に愛すると言うのか」

テキスト:ヨハネの福音書21:15~17 (新約聖書224頁)

 

イエス様はペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」(15節)と問いかける。「この人たち以上に」と言われたのは、以前にペテロが語った言葉を思い出させるためであろう。マタイ:26:31~35、そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。

ペテロは「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」と言った。ルカの福音書では、このペテロの言葉が語られる前に、弟子たちの間で誰が一番偉いだろうかという議論が起こっていたとある(ルカ22:24)。イエス様が十字架にかかるためにエルサレムに向かっていく時、弟子たちのほとんどは、イエス様が武力や奇跡の業によってローマの国を打ち破るのではないか、そして、ユダヤの王の位に就くのではないかと考えていたのであろう。そしてその時には、誰が右大臣左大臣に就くのかということが最大の関心事だったのである。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」とは、私は腰抜けのような者ではありませんという自分のアピールであり、だから私をあなたの右大臣にお願いしますという言葉だったのであろう。

イエス様の「あなたは、わたしを愛しますか。」との問いかけと、ペテロの「私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」との控え目な応答(3度否んでしまった経験から「はい愛します」と、きっぱりと答えることができない)が3回繰り返される。ペテロはイエス様に三度問いかけられたことで「心を痛め」るが(17節)、イエス様は三度問いかけるという3回という回数によって、三度否認してしまうペテロの人間としての弱さを初めから分かっていたと伝えているのであろう。ルカ22:31~32にはこう記されている。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」イエス様はペテロがイエス様を3度否認することによって自分に嫌気がさし、傷つき、気落ちするが、しかし、立ち直ることを知っておられた。イエス様は3度否んだことはもういいのだと言わんばかりに、「わたしの小羊を飼いなさい。」「わたしの羊を牧しなさい。」「わたしの羊を飼いなさい。」とペテロに語る。それは、この後、主の教会に集ってくる人々を愛していって欲しいというメッセージなのである。3度否んだことはもう赦されているのだから、今度は、あなたが主からの赦しのメッセージを語るのだと。

私たちにも、気付かない内に、「この人たち以上に」神様を愛しているというような思いがどこかにあるのかもしれない。私たちもペテロと同じ弱さを持ち合わせているであろう。しかし、主は赦し、そして、あなたも赦しなさいと言われるのである。

2019年7月21日(日)

「わたしに従いなさい」

テキスト:ヨハネの福音書21:15~19 (新約聖書225頁)

 

イエス様の「あなたは、わたしを愛しますか。」との問いかけと、ペテロの「私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」との控え目な応答(3度否んでしまった経験から「はい愛します」と、きっぱりと答えることができない)が3回繰り返される(21章15~17節)。イエス様は三度否認してしまうペテロの人間としての弱さを初めから分かっておられた(ルカ22:31~32参照)。そして、立ち直ることを知っておられた。イエス様は3度否んだことはもう赦されているのだからいいのだと言わんばかりに、「わたしの小羊を飼いなさい。」「わたしの羊を牧しなさい。」「わたしの羊を飼いなさい。」とペテロに語る。それは、この後、主の教会に集ってくる人々を愛していって欲しいというメッセージなのである。

イエス様はご自身のことを「わたしは、良い牧者です。」(ヨハネ10:11)と言われた。聖書では、神様が私たち人間を羊と呼んでいる(羊の行動と人間の行動は多くの点で似ている。私たちの大衆心理(集団本能)であったり、私たちの恐怖心であったり、臆病さであったり、私たちの頑固さや愚かさなど・・)。当時のユダヤでは羊飼いは羊に対して徹頭徹尾責任があった。羊飼いの仕事は、羊に草を食べさせるために、お世話をし、狼におそわれないように見張りをし、羊の毛を刈ったりし、そして、夕暮れになるまえに小屋に入れる仕事。羊は、自分で自分の世話をすることができない動物で、また、他のどんな種類の動物よりも、細心の注意と配慮を必要とする動物であった。臆病な羊の習性に気を配り、神経過敏な羊に気を配り、緑の牧場で横たわれるようにと、たゆまぬ努力をする。昼は太陽に照りつけられ、夜は夜露にぬれて羊と共に暮らす。羊が危険に直面したら、自分の命を投げ出す覚悟でいる。

そのようにしてイエス様が養っている羊、「わたしの羊」を牧しなさいとペテロに語っているのである。

そして、イエス様はペテロの死に方について予告をされる。「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」(18節)ペテロは縛られて処刑場に連れて行かれ、十字架の上に手を伸ばすという意味であるという解釈がある。後の伝説ではそれは逆さ十字架であったとある(エウセビオス『教会史』Ⅲ:1:2-3)。ペテロが自ら逆さにつけて欲しいと頼んだと。自分は主と同じような仕方で死ぬ価値がないと述べたという説がある。

イエス様はペテロに言われた。生涯にわたってキリストの羊の群れを飼い続けなさい。そして、その結果として、神様の栄光を表わすための殉教の死に至ることを。

万人祭司というキリスト教の教理がある。ルターがⅠペテロ2:9「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」を根拠に、神の目からはキリスト者がすべて「祭司」であると主張したことから来ている。

本日の聖書箇所のペテロへのことばは私たちにも語られている。私たちは「はい」と応答できるであろうか?しかし、イエス様は「わたしに従いなさい。」と言われる。

2019年7月28日(日)

「各々の主への従い方がある」

テキスト:ヨハネの福音書21:20~23 (新約聖書226頁)

 

18節「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」ペテロはこのことばを聞いた時、イエス様が自分の死に方を予告したとは思わなかったかもしれないが、自分にとってあまり快くなく思える将来のように聞こえたかもしれない。そのような自分の将来を聞いた時、弟子仲間のヨハネの将来はどうなるのかが気になった。そんなペテロにイエス様は言われる。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(22節)イエス様でさえもいつ世の終わりがあるのかは知らなかった(マタイ24:36)が、ご自分が再臨する時に、ヨハネが生きながらえていれば、それは大変に喜ばしいことであったし、そうあって欲しいと思っておられた(「生きながらえる」ということばから、ヨハネの将来もまた大変に困難な将来であることが分かる)。しかし、そのヨハネの将来と、ペテロがイエス様に従うこととは何のかかわりもないのだと言われる。ヨハネにはヨハネにふさわしい、ペテロにはペテロにふさわしい、主への従い方があるのだから、他人と主との関係と、自分と主との関係の比較はやめて、あなたは、わたしに従いなさいとイエス様は言われる。

イエス様の「あなたは、わたしを愛しますか。」との問いかけと、ペテロの「私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」との控え目な応答(3度否んでしまった経験から「はい愛します」と、きっぱりと答えることができない)が3回繰り返され(21章15~17節)、イエス様の問いかける「愛しますか」と、ペテロの応答の「愛する」には温度差があったが、しかし、イエス様はペテロに、ペテロにしかない、ペテロらしい愛し方でいいのだから、そのままの姿で従いなさいと言われたのかもしれない。

2019年8月4日(日)

「罪が赦されるということの大きさ」

テキスト:ヨハネの福音書21:24~25 (新約聖書226頁)

 

24節「これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。」「私たち」とは、愛弟子ヨハネに従う一群の弟子で、ヨハネの福音書を最終的に編集した人たちであったと思われる。ヨハネの福音書に記されたイエス様についての「あかし」は数多くあるが、その中心は、ヨハネ20:31にあるように(しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。)、イエス様こそが「キリスト」すなわち、ユダヤの人々が、待ち望んでいた、預言者たちが約束した神の救いの実現をもたらす救い主「メシア」であり、父なる神様から遣わされた神の子であるというあかしである。

 25節「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。」「世界」とは、この当時に知られていた世界という地域、広さであろう。いずれにしても、イエス様が行われた神様としてのしるしを「いちいち書きしるすなら」、広大な世界にも収めることができないであろうと語っている。

 イエス様が地上におられた時、イエス様は神であるしるしを数数えきれない程示された。それは今日においても同じであろう。そして、そのしるし一つ一つを私たちが仮に気づかなくても、イエス様が私たち罪人のために命を捨てて下さったというこの一事の大きさは、どんな広大な世界にも収めることができない程のことなのである。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

2019年8月11日(日)

「天にいます私たちの父よ」

テキスト:マタイの福音書6:9 (新約聖書9頁)

 

夏季期間中しばらく、鞭木由行師著『だから、こう祈りなさい-イエスが教えた主の祈り-』から、ほとんどを引用します。

「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。」

イエス様は、弟子たちに、「私たちの父よ」と祈るように教えた。それは「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を与えることが神様の計画であると知っていたからである(ローマ8:15、ガラテヤ4:6)。私たちはキリストにあって神の子であり、子としての霊を与えられた。これが主の祈りの前提であり、祈る者は神の子であるということ、これが大前提である。

「父」とは、当時の父親像からすれば、家庭を支え、家族の必要を満たす責任を担っていた。これが、神様が「父」として描かれる時の最初の意味である。私たちも神様を「父」と呼ぶ時、すべての必要にこたえてくださる父親に対するように、信頼をもって神様に近づくようにということである。「天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」(マタイ7:11)「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(Ⅰペテロ5:7)という信頼を持って。

また、父親は家庭の中で、家長として家を治める。神様を父と呼ぶことは父親に対する服従という面がある。ゲッセマネの園でのイエス様の祈りは、その服従の祈りであった。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(マルコ14:36)これが父に対する子の正しい関係であり、祈りには、常にこの服従の心が必要である。自分の願いと神様の願いとが食い違っていることに気がついた時には、ただちに自分の願いを取り下げて神様に従う従順である。また、そのような服従には忍耐が必要とされる。神様の最善と私たちの考える最善とは必ずしも一致しないからである。時には、神様は私たちに苦しみが必要とさえ考えるかもしれない。「いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならない」(Ⅰペテロ1:6)しかし、そのような時に私たちに必要なのは、神様と議論することではなく忍耐なのである。「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」(ヘブル12:10)神様が私たちに少しでも悪を行おうとしているというような誤った憶測、疑いをきっぱりと捨てて、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が「どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8:32)

「天にいます」とは、神様が天と呼ばれる特定の領域に留まっていることを意味するために付け加えられたものではない。「天」とは、神様の臨在するところを指し、主の祈りの場合、「地」の反対概念として用いられていると考えるべきである。「天にいます父」と祈ることは、地上の誤った父親像からの混乱を回避させる。地上の父は不完全で、時には信頼するに足りない。しかし、私たちの祈りは地上の父親像に基づいた天の父に祈っているのではない。「天にいます」とは、人知をはるかに越えた偉大な神様を示している。私たちの必要をすでに知り、私たちの祈りに応えるようにして、すべての必要を満たそうとして下さる御方である。すべてのことをご存知で、その無限の知恵によって私たちに最善をなして下さる御方なのである。

2019年8月18日(日)

「御名があがめられますように」

テキスト:マタイの福音書6:9 (新約聖書9頁)

 

本日も鞭木由行師著『だから、こう祈りなさい-イエスが教えた主の祈り-』から、ほとんどを引用します。

主の祈りの前半は、神様に関して「御名があがめられますように」「御国が来ますように」「みこころが行われますように」という三つの願いがささげられている。この「御名」「御国」「みこころ」は、日本語では「御」で始まるが、原文では「あなたの」となっており、つまり、「あなたの御名」「あなたの御国」「あなたのみこころ」となる。イエス様は、まず、神様の御名と、神様の国と、神様のみこころのために祈ることを教えた。そして後半は、私たちが自分の必要に関連して、「私たちの糧」「私たちの負いめ」「私たちの救い」のために祈るように教えておられる。祈りには正しい順序があり、バランスがある。自分に関する課題を祈る前に、神様の御名、神様の御国、神様のみこころのために祈るということである。なぜなら、私たちが心から「天にいます私たちの父」と祈り始める時、私たちの関心は、すでに地上における自分の願い事から、天の神様へと引き上げられているからであり、そして、その次には、当然神様についての祈りが続く。まず神様の御名のために、神様の御業のために祈ることが最初であり、それは、まず主に従う信仰があって、その信仰に吟味されて、そのあとに自分の本当の願いが見えてくるからである。そして、最初に願うべきとして、イエス様は「御名があがめられますように」と祈るように教えられた。この祈りによって、私たちはこれから祈る祈りの方向を決定している。さらに、その祈りの最終目的を設定しているのである。これから祈るのは、最終的には御名があがめられるためなのである。

イエス様がここで「神があがめられますように」ではなく、「御名が・・」と言われるのには意図があるのであろう。神様もご自分の名前を持っておられ、その名前によってご自分を啓示してこられた。アブラハムが約束の子孫を与えられないまま九十九歳になった時、神様はアブラハムに現れ、「わたしは全能の神である。」(創世記17:1)と、ご自分の名前を明らかにされた。それは単に呼称としての名前を示したのではなく、その名前が意味する神様の性質、つまり、神様はご自分が「全能」であることを教え、ご自分に信頼し続けるように励ましたのである。

神様の名前とは、神様の本質、神様のご性質、神様の御業、そういうものを人間に明らかにするために用いられている。神様はご自分の名前を通して、ご自分がどのような御方であるかを私たちに啓示してこられたのである。「御名があがめられますように」と祈る時、それは厳密には、「御名によって明らかにされてきた神様ご自身の本質、栄光があがめられますように」と祈っていることになるのである。私たちは神様を完全に知ることなどできない。神様はあらゆることにおいて「無限」の御方であるからである。故に、神様を完全に表現しうる名前などあるはずがないのである。しかし神様は、ご自分について多くのことを「御名」を通して明らかにしてこられた。その明らかにされた神様についての総体を、私たちは「神の御名」と呼んでいるのである。ですから、「御名があがめられますように」と祈る時、私たちは、一般的な名称で漠然と神様があがめられることではなく、私たちにご自身を啓示された神様が、あるがままの栄光のありさまで人々に認められ、受け入れられ、尊敬され、賛美されますようにと願っているのである。その御名が傷つけられたり、ゆがめられたりすることがありませんようにという願いが「御名があがめられますように」という祈りの意味なのである。

2019年8月25日(日)

「御国が来ますように」

テキスト:マタイの福音書6:10(a) (新約聖書9頁)

 

本日も鞭木由行師著『だから、こう祈りなさい-イエスが教えた主の祈り-』から、ほとんどを引用します。

「御国が来ますように」(マタイ6:10)、元のことばを文字通り訳すならば、「御国」ではなく、「あなたの王国」となる。「王国」というこの一語によって、私たちは神様が王であること、そして、神様はご自分の支配する王国を持っていることを告白しているのである。

聖書は、神様がこの国の王であることを繰り返し明確にしてきた。詩篇95:3「主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。」詩篇47:7~8「まことに神は全地の王。巧みな歌でほめ歌を歌え。神は国々を統べ治めておられる。神はその聖なる王座に着いておられる。」

イエス様は、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と宣教を開始した時(マタイ4:17)、人々がどうすればこの御国に入ることができるかを教えようとされた。当時の人々の最終的な願いは、やがて到来する神の御国に入ることであった。老いたニコデモが、夜、イエス様に会いに出かけていったのも、神の御国に入る希望について尋ねたかったからである。イエス様はニコデモに、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)と答えた。

私たちは、イエス様によって救われた結果、この御国の一員となる特権を与えられている。そして、この王国に深くかかわるようになった。そこで、イエス様は私たちに、この神の御国のために祈るように教えて下さった。

「御国」、「あなたの王国」は、第一義的に「神様のご支配」を指す。よって、「御国が来ますように」と祈る時、神様のご支配がいよいよ強固に、いよいよ拡大して、ついには完成に至ることを願っているのである。

神様のご支配は、まずクリスチャンの心の中に確立される。内なる御国である。ルカ17:20~21「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。 『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」イエス様は明確に、神の国はあなたの心の中にあると言われた。ここに、現在私たちが経験している神の御国がある。私たちの目には見えないが、神様は実質的に私たちの心を支配しているのである。この恵みは、イエス様を信じたすべての人の心の中に実在している。しかし、私たちの心における神様のご支配は完成されていない。それゆえに、イエス様は、その恵みの約束が私たちの日々の生活において実現していくことを願い求めるように教えたのである。

「御国が来ますように」と祈る時、私たちは、自分の心において神様のご支配がますます拡大し、強固になり、揺るぎないものとなることを願い求めているのである。私たちの心が、罪の思い、肉の欲、個人的野心や自己中心から解放されて、神様を唯一の支配者、また王として受け入れ、神様に従っていくことができますようにと祈っているのである。私たちの心が神様のみこころにいよいよ占領されていく時、私たちはこの祈りが自分のうちに実現しているのを経験するのである。

2019年9月1日(日)

「地でもみこころが行われますように」

テキスト:マタイの福音書6:10(b) (新約聖書9頁)

 

本日も鞭木由行師著『だから、こう祈りなさい-イエスが教えた主の祈り-』から、ほとんどを引用します。

前回は、「御国が来ますように」から学んだ。「御国が来ますように」と祈る時、私たちは、自分の心において神様のご支配がますます拡大し、強固になり、揺るぎないものとなることを願い求めているのである。私たちの心が、罪の思い、肉の欲、個人的野心や自己中心から解放されて、神様を唯一の支配者、また王として受け入れ、神様に従っていくことができますようにと祈っているのである。そして、本日の10節後半

「みこころが天で行われるように地でも行われますように。」(マタイ6:10)は、「御国が来ますように」という祈りの中に含まれている。すなわち、「御国が来ますように」という祈りが実現するための祈りと言えるからである。天では神様のみこころが完全に行われているのに、この地上においては神様のみこころが行われていない、そのような現実に直面して、私たちは悲しみ、心を痛め、神様のみこころがこの地上でも実現することを願ってささげる祈り、それが「みこころが天で行われるように地でも行われますように。」という祈りなのである。「みこころ」とは神様のご意志のことであるが、それは隠されている場合もある。しかし多くの場合、聖書のみことばを通して、すでに明らかにされている。少なくとも原則は明らかである。ですから、みこころを求める私たちは、何よりもみことばを深く学ぶ必要がある。私たちが聖書を学ぶのは、明らかにされている神様のみこころを理解するためである。

祈りとは、一言で答えるならば、それは、「みこころがなりますように」という願いだと言える。それは、「神様のみこころに一致する」願いなのである。使徒ヨハネはこのように言った。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(Ⅰヨハネ5:14)

イエス様はこの祈りを祈るように教えただけではなく、ご自分の経験を通しても教えて下さった。それはマタイの福音書26章に記されているゲッセマネでの祈りである。

「それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。『わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。』それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。イエスは彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。』それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。『あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。』イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。『わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。』(マタイ26:36~42)イエス様は、自分の願いとしては十字架の苦しみを避けたいが、しかし、十字架にかかることがあなたのみこころならば、あなたのみこころの方がなりますようにと祈っている。自分の願いが実現することではなく、みこころが実現することを願っている。イエス様は神様の意志に従われた。ゲッセマネの祈りは主の祈りの完全な模範である。

「みこころが天で行われるように」神様のみこころが完全に行われているところ、それは「天」と呼ばれる領域である。神様のみこころに背くことが何一つない領域である。それがこの地でも行われるように祈り求めることをイエス様は教えて下さった。祈りとは、神様のみこころが実現することを願うことである。そして、神様のみこころが実現するところには、結果的にはいつも私たちにとって最善がもたらされるのである。「きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである。」(申命記4:40)

2019年9月8日(日)

「日々の一切の必要を神様に求めて」

テキスト:マタイの福音書6:11 (新約聖書9頁)

 

本日も鞭木由行師著『だから、こう祈りなさい-イエスが教えた主の祈り-』から、ほとんどを引用します。

「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」

主の祈りから分かること、祈りとは、第一義的には神様のための祈りであるということ。主はこのように言われた。「わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます。」(ヨハネ8:50)神様が栄光をお受けになることが何にもまして優先されるということを、私たちは祈りにおいて肝に銘じる必要があるであろう。私たちが何かを祈り求める場合においても、私たちの地上での営みが、自分の満足のため、自分の幸福の追求のためではなく、食べることも飲むことも、ただ、神様の栄光を現すために行われるべきである。パウロは言う。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」(Ⅰコリント10:31)この実現を願う中で、私たちは日ごとの糧のために祈り始めるのである。私たちがパンを求め、また必要の一切を求める時、「御名があがめられますように」「御国が来ますように」という直前の祈りと切り離されていたり、矛盾したりしてはいけない。私たちは、自分の祈りがどのように神様の栄光を現すことになるのかを考えるべきである。

「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」とは、「明日のために必要な一日分の食糧を、今日、私たちに与えてください」と祈っていることになる。イエス様は、今後十年間の食糧について心配する必要がないように備えて下さいと祈ることを教えたのではない。私たちは、できればずっと先のことにまで「食糧」を確保しておきたいと思う者かもしれない。しかし、イエス様は、明らかに一日分を求めるように、それを日ごと求めるように教えられた。今日、神様に寄り頼んで糧を得ることが、人間の正しい生き方であると。私たちの命を支えているのは物質ではなく、食糧でもなく、目に見えるものでもなく、神様ご自身であることを忘れてはならないために。神様に対する日々の信頼を忘れないために。私たちは神様に依存して生きているのであり、神様がいなくては生きることができないと告白し、感謝するために、この祈りを祈り続けるのである。そのためには、私たちは自分自身を物乞いと見なさなければならないであろう。物乞いは、日々の生活を完全にその日その日の施しに依存しているからである。同様に私たちも、日々の一切の必要を神様から供給されて生きているのである。

「日ごとの糧」とは決して食べ物だけではない。生きていくのに必要なすべてのものが含まれている。着物、履物、家、畑、家畜、お金、財産、よい政府、よい気候、平和、健康、教育、よい友達、信頼できる隣人等々。それらすべてを神様の前に求めていくことを神様は望んでおられる。求めることは父に対する子の当然の権利であり、また、神様に対する信頼の本当の姿であり、神様はその必要に応えて下さる。必要なものを(贅沢品や余分なものではなく)必要な分だけ求め、明日のための一日分の食糧を、今日、与えて下さいと求め続けていくお互いでありたい。

2019年9月15日(日)

「生涯、罪の赦しを求めて祈る」

テキスト:マタイの福音書6:12 (新約聖書9頁)

 

本日も鞭木由行師著『だから、こう祈りなさい-イエスが教えた主の祈り-』から、ほとんどを引用します。

「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」

イエス様は、私たちがクリスチャンとして生きる一生の間、罪の赦しを求めて祈るように教えた。それは、私たちクリスチャンは罪を犯さずには生きていくことができない存在であるということであり、クリスチャンであっても罪を犯すことをイエス様はよくご存じであったからである。罪から完全に解放され、もはや罪を犯さなくなる、一歩高い境地へと引き上げられた完全なクリスチャン、というような考え方は、イエス様にはなかったのである。むしろ生涯を通して、神様の御前に自分の犯した罪を認め、その赦しを求めて生きていくのがクリスチャンの本当の姿であることを教えているのである。

「負いめ」(ギリシャ語オフェイレーマ)とは、通常、返さなければならない「借金」を意味する。返す義務のあるお金である。ルカの福音書では「私たちの罪(ハマルティア)をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある(オフェイロ)者をみな赦します。」(ルカ11:4)と、前半は「罪」ということばが使われている。イエス様が教えた時には、「負いめ」が本来の用語だったのかもしれないが、それは「罪」と言い換えてもよいことばだった故、ルカは「私たちの罪(ハマルティア)をお赦しください。」と記した。要するに、「罪」と「負いめ」とは基本的には同じことを意味することばなのである。

私たちの犯す「罪」とは、神様に対する「負いめ、負債、借金」であり、罪を犯すということは、神様に対して負債を負うということである。罪が「負いめ」と表現されるのは、それは、私たちが犯す罪と、借金とが共有する類似性のゆえである。両者は共に、返済を義務づけられているものなのである。イエス様は、すべての人間は、基本的に神様に対して借金を負っている存在であると教えられた。マタイの福音書18章に、1万タラントの負いめのある人のたとえ話がある。イエス様はこのたとえを用いて、人間は、神様に対して1万タラントの負債を負っていることを明らかにされた。当時1タラントとは約16年分の労動賃金であり、1万タラントとは約16万年分の賃金に相当する金額である。1万タラントの借金とは現実にはありえない額の借金であり、すなわち、このたとえは、人間は神様の御前に、絶対に返すことのできない某大な債務を負っているということを教えているのである。人間は神様に対して、自分では到底償うことができないほどの罪を犯してきた。これが神様の前における人間の現実なのである。

借金はその性質上、返済を要求され、最後には必ず清算する時がやってくるものである。神様が借金を背負ったすべての人々を呼び出し、清算をさせる時が来る。神様が罪を罰することは、聖書の最も根本的なメッセージである。神様が悪を裁かず罪を放置することはない。しかし、神様は私たちに御子を遣わされ、その御方を十字架にかけることによって、私たちの罪の贖いを成し遂げて下さった。そして、それを信じる者に罪の赦しを約束された。そのことによって、私たちは、イエス様の十字架によって借金全額の返済を終えているのである。罪の償いが果たされ、神様の御前に義とされ、永遠のいのちを与えられた。しかし、私たちはなおも完全にされているのではない。毎日の歩みの中で、依然として自分の罪の現実に直面する。日々罪を犯し、誘惑に負け、失敗を繰り返す。醜い自分がひょっこりと顔をのぞかせる自らに気がついてがっかりする。だから、罪を犯したことに気がついた時、私たちはこの祈りをささげるべきなのである。日々の罪はその日その日に告白し、赦しを求め、清算しておくべきものなのである(「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。」ヨハネ13:10)。そして、罪を告白し、赦しを求めたならば、赦されたことを確信して感謝することができるようになるまで祈り続ける必要がある。そうでないと、私たちの悔い改めはいつか行き詰まり、やがて自分が嫌になってくるからである。告白する者に対して罪の赦しが与えられることは聖書の約束である。神様が罪を告白する者を赦さずにおくことはない。ヨハネの手紙にはこう記されている。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)イエス様は、クリスチャンは生涯を通して罪の赦しを求めて祈るように教えられたのである。

2019年9月22日(日)

「罪赦された者として隣人を赦す」

テキスト:マタイの福音書6:12 (新約聖書9頁)

 

本日も鞭木由行師著『だから、こう祈りなさい-イエスが教えた主の祈り-』から、ほとんどを引用します。

「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」

Ⅰ.神様の赦しの性質

(1)罪の「赦し」とは実際に罪を取り除くことである。これは、このことば(アフィエーミ)が持っている語源的な意味と一致する。この語には「行かせる」「去らせる」というような意味が根本にある。そこから、罪を去らせる、罪を取り除くという意味が生じてきた。ですから神様がある一つの罪を赦す時、その罪を実際に取り除き、去らせてしまうのである。もはや、その罪は私たちのうちに残っていないのである。

(2)「赦し」を意味することばは、悪行そのものを対象にしているのではなく、罪人に課せられる罪の責任に重点が置かれている。それらは取り消されて、その結果としての罪の責任を問われることがなくなるのである。神様は、それを取り除いて御子の上に転嫁された。「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ53:6)とあるとおりである。彼に負わせたということは、彼に責任を問うたことを意味する。それによって、私たちは罪が取り除かれ、赦されたのである。

(3)罪が赦されるとは、罪が覆われることを意味する。「あなたは、御民の咎を赦し、彼らのすべての罪を、おおわれました。」(詩篇85:2)とあるように、神様は罪を赦す時、それを覆ってくださる御方なのである。神様はキリストの贖罪によって罪を覆い、そうすることで、人にその罪の責任を負わせることはないと約束された。

(4)罪の赦しとは、神様が私たちの罪をぬぐい去って下さることである。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」(イザヤ43:25)「ぬぐい去る」というのは、跡形もなく取り去り、その結果完全に消え去ってしまうことを意味する。神様は私たちが犯した罪の記憶を消し去り、罪の記憶を残すことを望まれない。神様の赦しは完全である。私たちは自分の罪の記憶を消し去ることができないため、その記憶にしばしばおののくであろう。しかし、それは神様の赦しの恵みとは無縁のものである。神様はそれを思い出すことはない。

Ⅱ.神様の赦しと私の赦し

文語調では、「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく」となっているが、これは、「私たちが他の人の罪を赦すので、神様、あなたも私の罪を赦してください」と、神様に条件を提示しているわけではない。これは、神様に赦された人には、一つの責任が生じてくることを教えている。神様が赦して下さったので、私たちも他の人を赦すべきだということである。1万タラント(約16万年分の賃金に相当)の借金のたとえはそのことを示している。「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」(マタイ18:33)私たちが与える赦しなどというものは、神様が与えて下さった赦しに比べるならば、取るに足りないものである。

Ⅲ.互いに赦し合いなさい

私には、まだ赦していない人はいないだろうか。すべての人を赦しているだろうか?。もしいることに気がついたならば、心から赦せるように祈りましょう。そのように他の人を赦すことは、私たちがこの主の祈りをささげる前提条件なのである。「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:32)

2019年9月29日(日)

「試みに会わせないでください」

テキスト:マタイの福音書6:13(前半) (新約聖書9頁)

 

本日も鞭木由行師著『だから、こう祈りなさい-イエスが教えた主の祈り-』から、ほとんどを引用します。

「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」

この祈りは罪を犯す前に、どのように祈るべきかを教えている。私たちが罪を犯す前に、誘惑から守られ、罪を犯さないように祈ることを教えている。

Ⅰ.試練とは何か

 この祈りは、聖書の他のみことばに照らし合わせて考える時、少し不思議な祈りであるとも思える。「試みに会わせないでください」と祈ることは、一見、聖書の他のみことばと矛盾するように思われる。なぜなら、聖書はしばしば、試みというものを信仰者にとって必要なもの、有益なものだと教えているからである。ヤコブの手紙1:2~4はその典型的なみことばである。「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」このみことばは、様々な試練が信仰者には不可欠であることを教えている。試練は、私たちが成長していくためには、なくてはならないものである。ですから、試みを避けるように祈るという考え方は、ここには見当たらない。Ⅰペテロ4:12~13では、試練を避けるのではなく、むしろ歓迎することを勧めている。信仰は試練によって成長するということである。聖書に登場する信仰の勇者たちも、試練によって成長していった。創世記22:1「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。」神様はアブラハムに、一人息子イサクをいけにえとしてささげるように要求した。アダムからイエス様に至るまでのすべての人がこのように試練を経験してきた。初代教会にとって試練とは迫害であった。今日私たちが経験する最も一般的な試練は病気と死であろう。

Ⅱ.この祈りの意味

「試みに会わせないでください」という祈りは、信仰を成長させることになる、良い結果を生み出すような試練について語っているのではなく、逆に信仰を押しつぶしてしまい、破壊してしまうような、そういうたぐいの試練のことである。ルカ22:31~34「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。シモンはイエスに言った。『主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。』しかし、イエスは言われた。『ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。』」イエス様から告げられた試練は、到底ペテロひとりでは耐えきれない試練であった。ペテロの信仰を根底から覆し、ペテロを破滅させる危険のある試練であった。このような試練について、私たちは祈りを必要としているのである。

Ⅲ.誘惑者の存在

誘惑をするのは神様ではない(ヤコブ1:13~14)。神様は律法の制定者であり、ご自身が定めた律法を破るように私たちを導くことは決してない。私たちが「試みに会わせないでください」と祈るのは、私たちが試みられた時、その誘惑に敗北することがないように守って下さいという意味である。では、誰が私たちを試み、誘惑するのか。聖書は明確に二つの誘惑者について語っている。

第一に、私たちのうちに誘惑者がいる。「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。」(ヤコブ1:14)贖われてはいても、私たちの肉的な心のうちに住み着く罪の残滓が誘惑するのである。私たちが自分自身のうちにある欲に耳を傾けるところから罪は始まっていく。私たちが神様のみことばに耳を傾けることをせずに、「すぐに忘れる聞き手」(ヤコブ1:25)という致命的な欠陥にとどまる時、自分の欲に引かれて罪が発生するのである。

第二に、誘惑者は私たちの外からもやって来る。内なる誘惑はいのちの聖霊によってコントロールされるが、さらに大きな誘惑が私たちの外にいる。それはサタン(「試みる者」(マタイ4:3)である。サタンは御子の救いから人々を振り落とすために、ずる賢くチャンスをねらっている。サタンは「ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回って」(Ⅰペテロ5:8)いる。私たちは、この外からの誘惑者に欺かれないように、神様のみことばに従っていくことを選び取っていく必要があるのである。「試みに会わせないでください」と生涯祈り続ける必要があるのである。

2019年10月6日(日)

「人はパンだけで生きるのではない」

テキスト:マタイの福音書6:13(前半) (新約聖書9頁)

 

本日も鞭木由行師著『だから、こう祈りなさい-イエスが教えた主の祈り-』から、ほとんどを引用します。

「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」

サタンはどのように私たちを試みるのか、その試みにどのように勝利することができるのか、その実例をイエス様の生涯から学ぶと、ルカの福音書によれば、イエス様が最初に受けた悪魔の試みは、「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」(ルカ4:3)という試練であった。これはどういう意味で試練であったのか。あまり考えずにさっと読み過ぎると、イエス様は、荒野でもう四十日間も食物がなく空腹であったので、自分の空腹を満たすために奇跡を行うよう誘惑されたと考えがちである。しかしこの場合、悪魔の誘惑のことばより、むしろイエス様の答えの中にこの試練の真意を見いだすことができる。イエス様はこの誘惑に対して、「人はパンだけで生きるのではない」(同4節)と答えている。つまり、この試練を、人間はどう生きるべきかという問題だと理解しているのである。悪魔はこう誘惑したのである。「要するに、大切なのは自分の肉体的必要を満たすことではないか。快適な住まい、十分な食物、気に入った洋服。やっぱり人生というのは、パンにかかっている。あなたは神の子なのだから、奇跡を行って、食糧を手に入れなさい。神に従うのはそのあとでよいではないか」ですから、これは人生における優先順位の問題である。聖書は、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:33)と順序を定めた。これが正しい順序である。イエス様は、ご自身をこの荒野に導いたのが聖霊の神であることを知っていた。そのため、苦しくても、空腹でも、奇跡の力を神様の御旨に逆らって使うことは罪であると自覚していた。よって、イエス様はこう答えた。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)神様の御旨に従うとは、神様のことばに従うことである。神様を第一とするとは、神様のみことばに従うことである。それが神様を信じる者の生き方である。すべての試練は、結局この順序を逆転することにある。神様に従うことを第二の位置に置くということである。私たちにそうさせることで、サタンの誘惑は成功するのである。

 サタンの誘惑に対して、イエス様が申命記8章からの引用で答えたことは、重要な意味を持っている。この箇所は、イスラエル民族が、四十年間荒野をさまよったことを回想する記事である。「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」(2~3節)

 イスラエル人は、不信仰のゆえに荒野で四十年間過ごさなければならなくなったが、それが神様からの試みであったことを回想している。神様はその四十年間を通して、イスラエル人の心の中にあるものを見極めようとされた。彼らを苦しめ、飢えさせ、マナで養ったのは、人はパンで生きるのではなく、主の口から出るみことばによって生きることを分からせるためであった。彼らは本当に神様のみことばを第一とするのか、それとも自分の利益のためだけに生きるのか、それを見極めるための試みであった。イスラエル人は、残念ながらそのテストに失敗した。しかしイエス様は、新しいイスラエルの代表として、四十日間荒野において誘惑を受け、同じ誘惑の中で、神様のみことばに聞き従う方を選び取った。神様の口から出る神様のことば、つまり、聖書の中にはっきりと記されているみことばこそ、私たちが第一とするべきものである。たとえそれが空腹を満たすものではなかったとしても、逆に苦難をもたらすものであっても、神様に従うことは最も重要である。

2019年10月13日(日)

「悪からお救いください」

テキスト:マタイの福音書6:13(前半) (新約聖書9頁)

 

本日も鞭木由行師著『だから、こう祈りなさい-イエスが教えた主の祈り-』から、ほとんどを引用します。

「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」

「試みに会わせないで」という祈りは、「私たち自身の弱さと、またサタンの巧妙な策略のゆえに、私たちが神様に従うことをおろそかにし、罪を犯すような状況へと導かれていく、そのような試みから私たちを守ってください」と祈っているのである。私たちを罪へ導き、私たちの信仰を破壊させる、そのような状況が起きないように、神様の摂理的な助けを願って祈るように、イエス様は私たちに教えているのである。ゲッセマネの園でイエス様が弟子たちに教えたことも同じことを教えている。「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マルコ14:38)

誘惑への対処を祈った後、「悪からお救いください」と祈る。これは、根本において前と同じ願いではあっても、強調点が移っているように思う。試みから救い出されることは、サタンによる巧妙な策略を前提としているが、「悪からの救い」は、私たちの心に宿る悪と、この世の悪を前提としているからである。そして、そのような悪に対する勝利を願っている。

私たちの心の悪の問題に関して、イエス様はこう警告された。「内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコ7:21~23)エレミヤも同じことを指摘した。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」(エレミヤ17:9)悪の原因は、私たちの内側にある。すべての罪は、人間の心のうちに始まる。ルターは、ローマ法王よりも自分の心を恐れたといわれている。私たちも自分の心が悪に傾いていかないように見張らなければならない。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)また、心が不信仰へ向かっていかないように気を付けなければならない。「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」(ヘブル3:12)「悪からお救いください。」というこの祈りは、自分の心の悪と戦う時、私たちに勝利を与えて下さいと祈っているのである。

聖書によれば、悪はもう一つのところからもやって来る。それは「この世」である。キリストは「今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。」(ガラテヤ1:4)。それゆえに、救い出された私たちが、この世の悪に染まらず、そこから救い出されるように祈ることは当然であろう。私たちは、この世の悪について無防備であってはならない。この世界は、私たちを罪へ誘い込む罠に満ちている。職場も学校も、レクリエーションや休暇さえも、この世の富と同様、私たちを悪へと引きずり込む罠となることがある。真の信仰は「この世から自分をきよく守ること」(ヤコブ1:27)であるが、それは容易ではない。そのような世界に生きる者が、「この世の悪から救い出してください」と日々祈り求めることは、私たちの最も大きな必要ではないだろうか。罪を犯すことがないように、罪から守られるように、私たちもこの祈りをささげながら歩むべきである。

そしてこの祈りには、単に悪から救い出されるようにという消極的願いだけではなく、聖さへの願望があると言えるであろう。パウロが諭したように、「不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活」(テトス2:12)することを願っている祈りである。この祈りは、私たちが神様の御前にきよく生きることができるように願い求めているのである。神様の前に罪の赦しを得ているだけでなく、この世の罪から離れて、もっときよく神様との交わりの中を歩み続けることができるようにと願っているのである。これは、「わたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」(レビ記19:2)と言われるお方の究極的な求めを実現するための祈りである。

なぜこう祈ることが必要なのか。それは、自分自身の弱さを知っているからである。私たちは、自分の力では、神様に向かって正しくきよく生きることができない。自分の力では、神様に喜ばれる生き方をすることができないのである。故に、イエス様はこの祈りをするように教えたのである。

2019年10月27日(日)

「聖い生き方ができるようにと願う」

テキスト:マタイの福音書6:13(前半) (新約聖書9頁)

 

本日も鞭木由行師著『だから、こう祈りなさい-イエスが教えた主の祈り-』から、ほとんどを引用します。

「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」

この祈りには、単に悪から救い出されるようにという消極的願いだけではなく、聖さへの願望があると言えるであろう。パウロが諭したように、「不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活」(テトス2:12)することを願っている祈りである。この祈りは、私たちが神様の御前に聖く生きることができるように願い求めている。私たちが、神様の前に罪の赦しを得ているだけでなく、この世の罪から離れて、もっと聖く神様との交わりの中を歩み続けることができるようにと願っているのである。これは、「わたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」(レビ記19:2)と言われるお方の究極的な求めを実現するための祈りである。

聖書は、「聖さ」の意味とか概念というより、「聖い」とはどういうことを具体的に行うことなのかを語っている。その「聖さ」の本質はすべて神様のご性質に基づいていた。イスラエルの人々が教えられた「聖さ」は、自分たちが社会生活の中で便利で、平和で、暮らしやすく、人間関係がよくなるための「聖さ」ではなかった。社会的な習慣や、他の人に迷惑にならないための律法、というレベルのことではなかった。「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」(レビ記19:2)これが原則であった。

ダビデは「あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。」(詩篇19:13)と祈った。また、ある詩篇作者は、「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。私の心を悪いことに向けさせず、不法を行う者どもとともに、悪い行いに携わらないようにしてください。」(詩篇141:3,4)と祈った。この作者は、唇(ことば)の問題、心の問題、そして行いの問題を自覚していた。そのすべての領域において、悪に向かわないように、神様に喜ばれる者であるようにと祈っている。

「聖さ」とは、神様への私たちの態度や私たちの正しさだけではなく、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(レビ記19:18)ということばによって要約されているように、その人に積極的な優しさと思いやりがなければならないのである。「聖さ」とは、神様の正義と神様の愛に似ることである。寛容さ、親切、謙孫、礼儀をわきまえること、怒りを抑えること、真理を求めてみことばに向かう姿勢、あらゆることで我慢できること、希望を失わないこと、それらはイエス様に見られるご性質である。私たちは次第にゆっくりとではあっても、イエス様の姿に似せられていっているのであるが、それと共に、私たち自身がイエス様のように生きられるように願う必要があるのである。

私たちの願いが、自分が実際に「聖い」存在へと変化することであるようにと、この主の祈りは教えている。

なぜこう祈ることが必要なのか。それは、私たちは弱いからである。私たちは、自分の力では、神様に向かって正しく聖く生きることができない。自分の力では、神様に喜ばれる生き方をすることができないのである。故に、イエス様はこの祈りをするように教えられた。私たちがそのように聖い生き方を願い求める時、イエス様は実際に助けて下さるのである。それは一瞬のうちにではなくても、祈り求める者のうちに確実にやって来るのである。

2019年11月3日(日)

「すべては神様のものです」

テキスト:マタイの福音書6:13(後半) (新約聖書9頁)

 

本日も鞭木由行師著『だから、こう祈りなさい-イエスが教えた主の祈り-』から、ほとんどを引用します。

最後に、この祈りには「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです」という頌栄が付加されている。聖書の脚注には「最古の写本ではこの句は欠けている」と書いてある。ですから、聖書本文においても括弧の中に入れて、これはもともとのマタイの福音書本文には入っていなかったはずである、ということを表示している。(取り除いている翻訳も中にはある。新改訳2017も取り除いている)取り除いていないということには、もちろんそれなりの理由がある。最古の写本にはなかったが、初代教会が公的礼拝の中で主の祈りを用いるようになった時、礼拝では主の祈りの最後に、この頌栄を付加して唱和することがかなり早い時期から習慣化していた。それがいつの間にか聖書本文にまで書き加えられるようになり、誰もそれを取り除こうとはしなかったのである。なぜならば、この頌栄は、この主の祈りにあまりにもぴったりとしていたからである。主の祈りを祈る心に、これほど見事に一致する頌栄はない。それが取り除かれなかった理由であろう。もちろん、この頌栄が非常に聖書的であったことも、その理由である。この頌栄は、ダビデが神殿建築に当たってイスラエルの大集団の前で賛美し、祈ったことばによく似ている。「私たちの父イスラエルの神、主よ。あなたはとこしえからとこしえまでほむべきかな。主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。」(Ⅰ歴代誌29:10~12)ここでダビデは、「偉大さと力と栄えと尊厳とはあなたのものです」と言い、さらに「王国もあなたのものです」と告白している。ダビデが言いたかったことは、「天にあるもの、地にあるもの、すべてが神様のものである」ということである。なぜなら、すべてのものは神様から出たからであり、すべてのものは神様によって支配されているからである。「国と力と栄とはあなたのものです」という告白も、結局はすべてが神様のものであると告白して、神様をあがめているのである。

「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです」という頌栄において、まず「御国はあなたのものです」と賛美している。私たちは主の祈りの中で、「御国が来ますように」と祈っている。しかしここでは、御国はすでに神様のものであると告白し、神様が御国の王であることを承認しているのである。

次に、私たちは神様がすべての力の保持者であることを賛美する。神様は王であるだけでなく、全能者である。その御力によって、神様はご自身の最善の時に、私たちの祈りに答えて下さるのである。

最後に、栄えも神様のものである。すべての栄光は神様のものであることを告白するのである。

こうして祈りは、神様の栄光に始まり、神様の栄光に終わる。そこに真の祈りがある。祈りとは、神様の栄光を求めるものである。もし私たちが、神様の御名があがめられることを最終目的として祈るならば、私たちの日ごとの祈りは、それがどんなにささやかであっても、神様の確かな約束の中にあり、それゆえに、その祈りがすでに答えられたと信じることができるであろう。

この学びを閉じるに当たり、パウロの頌栄-これ以上にふさわしいものは、ほかにないであろう-をもって閉じたい。「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11:36)

2019年11月10日(日)

「信仰によって万物の始まりを悟る」

テキスト:創世記1:1、26、27 (旧約聖書2頁)

 

○創世記は、私たちの造り主であり神であるイエス・キリストを描いている。

○創世記は始まりについての書である。世界の始まり(創世1:1~25)、人類の始まり(創世1:26~2:25)、世界における罪の始まり(創世3:1~7)、贖いの約束の始まり(創世3:8~24)、家族生活の始まり(創世4:1~15)等々。しかしその歴史は人間の失敗を記録している。神様は、人間の失敗のあらゆる場合に、比類ない恵みの驚くべき約束をもって人間の必要に答えられた。

○「初めに、神が天と地を創造した。」この単純な文の中に、この宇宙の起源についての聖書の宣言がなされている。神様は、ご自身の力あることばによって万物を存在させられた。神様が語られると世界はできたのである。「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(ヘブル11:3)

<万物を創造されたイエス様>

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。「この方は、初めに神とともにおられた。」(ヨハネ1:1,2)ここで使われている「ことば」とは、イエス様のことを指しているが、「初めに」とは、時間の概念を超えた、初めの初めということになるであろう。時間の概念を超えた、初めの初めから、イエス様は存在していた。そして、イエス様は、初めの初めから父なる神様とともに存在しておられた神であった。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1:3)創造の初めから存在しておられたイエス様は、創造の御業の仲介者として、この世界、この宇宙に存在するすべてのものを造られたのである。創世記の最初の31節に何回となく述べられている神とは、イエス様のことも指しているのである。

<神様との交わりが持てるようにと造られた私たち>

26~27節「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」神様は人間を、ご自分と交わりが持てるようにご自分の像に似せて造られた。私たち人間は、神様との愛の交わりの中で、神様のもとで生きることによって満たされて生きるようにと命を与えられた存在である。

このような深い愛を持って命を与えて下さったイエス様は人間の罪のために十字架で命を捨てて下さった。「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Ⅰペテロ2:24)

2019年11月17日(日)

「あなたは、どこにいるのか」

テキスト:創世記3:1~24 (旧約聖書4頁)

 

○創世記3章は、聖書全体の中でも最も重要な章の1つである。聖書は何よりも、神様がいかにして人を救いに導かれるかが記されている。こうした聖書全体の構図を理解するために、この3章は特に絶対不可欠なものの1つである。創世記3章は、私たちの世界がなぜ今日のようであるのかを、他のいかなる章にもまさって明確に教えている。神様が救いの道を設けて下さることがなぜ必要になったのかを語っている。人と世界とはどこでおかしくなってしまったのか、神様の一人子イエス・キリストが天から下って来られることがどうして絶対的に必要になったのかを教えている。

○神様は世界をお造りになり、人間をお造りになった。神様は人を男と女とに造り、エデンの園と呼ばれる所に置いて下さった。人は完璧な存在に造られ、完璧な状態と環境に置かれていた。人は望み得るすべてを得ていた。欠けたものは何もなかった。神様は人を園に置いて言われた。「わたしが望むような形で生きよ。あなたには大いなる自由を与える。ただ一つだけ、してはならないことがある」と。神様は人に一つのおきてを与えて言われた。あなたは幸せに、わたしと交わりを保ちつつ生きることができる。この輝かしい創造の世界から豊かな祝福を受けることができる。困難や死に直面することなど決してない、と。しかし、サタンは蛇を通して行動し、アダムとエバを誘惑する。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」(1節)。「神様がこんな制限付きの人生を提供するなんて、人間にとって不公平ではないか。神様の言われたことを鵜呑みにしないで、その命令など無視し、あの木の実を取ってみなさい。そうすれば多くの知識や情報を得て、神様のごとくになれる。神様が計画されているよりもはるかにすばらしい人生があるのだ」と。そして、人はサタンのうそを受け入れてしまった。

 その結果は、個々人としてであれ、全体としてであれ、世界が今日経験している悲哀、悲惨、死、そしてあらゆる問題は、この一つの罪から生じている。悲劇の根幹は、人が諸問題や悲惨さの中に追いやられたということよりも、そもそも人間が神様に背き、神様から離れてしまったことにある。そして人間は、神様の御旨を尋ねながら人生を送るかわりに、アダムが、自分が神のようでありたいという思いに惹かれていったように、自分にとって一番良いことが何かは自分で知ることができるという生き方を繰り返しているのである。自分の人生を神様以上に上手に仕切ることができると・・・。

○憐れみ、恵みに満ちた神様は、アダムが罪を犯した直後から、サタンを踏み砕くと約束して下さった。後に、ひとり子の神であるイエス・キリストをこの世に遣わし、罪を犯した人間の罪を取って、それをキリストのからだに負わせ、十字架につけ、信じる者を神様のもとに立ち返らせる日が来ることを、この時はまだ兆し程度ではあったが、予告して下さったのである。

○9節「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』」今日においても神様は、人間の裸を覆う衣を用意して下さっている。「あなたは、どこにいるのか。」と呼びかけておられる。

2019年11月24日(日)

「いのちの代価となるためのキリストの本質」

テキスト:ヘブル2:17 (新約聖書426頁)

 

イエス・キリストは、私たちのただ一人の救い主である。「救い主」とは、罪の奴隷である私たち人間を解放するという意味である。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」(ヨハネ8:34)イエス様は、罪から解放されていない人は「罪の奴隷である」と言われた。「罪」とは、サタンの言葉に従って、神様との契約を破った行為である。それは、サタンと姦淫をし、神様に対して不貞を犯したことである。ローマ6:23には、「罪から来る報酬は死です」とある。報酬とは労働の対価として支払われるものである。「罪の奴隷」となっている人間は、罪を主人とした奴隷であり、主人である罪のために働いた結果、その報酬として「死」を受け取るのである。それは、神様からの裁きとしての肉体の「死」であり、いのちの神様から切り離されている状態を指す「死」であり、死後にある永遠の滅びを指す「死」である。神様との契約を破った「罪」とは、ビジネスの契約を違反したことによって取引を停止されることに例えられる。従って、罪からの解放とは、取引の停止を解いて、契約を再開することということになる。

 そのためには、契約違反によって負っている債務を払わなければならない。その債務が「いのちの代価」である。

 「神が愛なら、皆許せ!」と言う人もあるが、正義の神が不正を裁かずに放置することはあり得ない。とはいえ、罪ある人間のいのちでは、1円の足しにもならない故、人間が自分で、この代価を払うことはできない。

 そこで、いのちの代価としてのイエス・キリストを地上に遣わす・・、それが神様の愛なのである。神様は、人間に対しては、あくまでも、いのちの代価を求めて正義をつらぬく一方、その代価としてのキリストを遣わして、限りない愛を示しているのである。

 ここで、イエス・キリストの本質が問題となる。ヘブル人への手紙2:17には、「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。」とある。イエス・キリストは、神であり、神様の一人子であったが、「すべての点で私たち人間と同じように」なられた。同じようになるとは、まさに、神であり神の御子である方が完全に一人の人間となられたということである。イエス・キリストは人間となる必要があった。それは、罪を犯し、救いを必要としているのが人間だからである。人間が罪を犯したので、人間が罪の償いをしなければならないのであるが、すでに自分で罪を犯している人が、他の人の罪を償うことはできないのである。罪は神様に対する借金のようなもので、自分自身で借金のある人が、他の人の借金を肩代わりすることができるはずはない。よって、罪の償いをすることができるのは、罪を犯したことのない御方だけである。しかし、そのような人はどこにもいない故に、神の御子イエス・キリストが罪のない人間とならなければならなかったのである。イエス・キリストは神であると共に、人間なのである。とはいえ、半神半人なのではなく、100%神であり、100%人間なのである。

2019年12月1日(日)

「罪人の身代わりとなるために地上に来られた主」

テキスト:ルカの福音書1:26~38(新約聖書106頁)

 

イエス・キリストは、私たちのただ一人の救い主である。「救い主」とは、罪の奴隷である私たち人間を解放するという意味である。ローマ6:23には、「罪から来る報酬は死です」とある。「罪」とは、サタンの言葉に従って、神様との契約を破った行為である。報酬とは労働の対価として支払われるものである。「罪の奴隷」となっている人間は、罪を主人とした奴隷であり、主人である罪のために働いた結果、その報酬として「死」を受け取るのである。それは、神様からの裁きとしての肉体の「死」であり、いのちの神様から切り離されている状態を指す「死」であり、死後にある永遠の滅びを指す「死」である。

神様は「罪の奴隷」となっている人間を贖うためにイエス・キリストを地上に遣わされた。贖うということばの意味は「買い取ること」である。この言い回しは特に、奴隷の自由を買うときに使われた。神様はイエス・キリストのいのちの代価によって私たちの自由を買い取ってくださり、罪の奴隷から解放して下さったのである。

イエス・キリストは、神であり、神様の一人子であったが、神であり神の御子である方が完全に一人の人間となられた。イエス・キリストは人間となる必要があった。それは、罪を犯し、救いを必要としているのが人間だからである。人間が罪を犯したので、人間が罪の償いをしなければならないのであるが、すでに自分で罪を犯している人が、他の人の罪を償うことはできないのである。罪の償いをすることができるのは、罪を犯したことのない者だけである。しかし、そのような人はどこにもいない故に、神の御子イエス・キリストが罪のない人間とならなければならなかったのである。

父なる神様は、聖霊の御業によって、処女マリヤの胎に神であるイエス様を宿し、完全に(100%)神であられ、完全に(100%)人間となられたイエス様をこの地上に誕生させた。

処女降誕それは聖霊の御業であると聖書は強調する。「ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になった」(マタイ1:18)、「主の使いが夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。』」(マタイ1:20)、「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」(ルカ1:34)「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」(ルカ1:35)

 イエス様は、聖霊によってマリヤの胎に宿った方であったので、アダムの遺伝の罪を持たずに生まれ、そして、その生涯を罪を犯さずに生き、罪のない者が罪人の身代わりの刑を受けなければならないという神様のご計画を成就されたのである。

処女降誕は聖霊の御業であり、人類に救いの道を用意してくださった神様の恵みの御業なのである。

2019年12月15日(日)

「歴史の主である神様の導き」

テキスト:ルカの福音書2:1~7(新約聖書109頁)

 

○ヨセフとマリヤは住民登録のために居住地ナザレからヨセフの故郷ベツレヘムに向かう。ナザレからベツレヘムまでは約170キロ、当時では1週間くらいかかった。身重のマリヤにはかなり厳しい旅であった。マリヤはろばに乗って向かったと思われるが、いつ生まれるか分からない赤ちゃんのことを思うと常に不安が襲ってきてもおかしくはなかったであろう。それはヨセフにおいても同じであったであろう。

○「神様の摂理」とは、身の周りで起こる全てが偶然によることなく神様によってもたらされており、良いものを与えようと働いていて下さる神様の御業であるが、当然、マリヤの胎から神であるイエス様がご降誕される出来事も神様の摂理の中で起こったのである。

①ベツレヘムでイエス様を産まなければならなかったマリヤ

イエス様の誕生の地がベツレヘムであることは、これより約700年前の預言者ミカが預言していた。ミカ書5:2「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」ベツレヘムはダビデ王の誕生の地であり、御子の誕生の地がベツレヘムであることを神様は定めておられた。神様の摂理の中で、遠方の異国のローマ皇帝の勅令(公式な法律ではなく、行政指令であろう)を用い、そして、身重のマリヤがベツレヘムに行くことを神様は定めておられた。著者のルカは、神様を歴史の主であると見ている。

②家畜小屋でイエス様を産まなければならなかったマリヤ

ルカ2:6~7「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」ナザレからベツレヘムにやっとの思いで着いたが、「宿屋」はすでに一杯であった。「宿屋」は家の「客間」をも意味するが、いずれにしても、出産に適したプライベートな場所がなく、二人は牛やろばが寝る家畜小屋に泊まることになった。その夜、イエス様は生まれ、布にくるんで、飼葉おけに寝かされた。そこは動物の様々な臭いもあったであろう決してきれいな場所ではなかった。しかし、マリヤは家畜小屋でイエス様を産まなければならなかったのである。それは、おそらく、この後に訪れる羊飼いたちが(くわしくは来週に)、この家畜小屋でなければ、イエス様にお会いすることができなかったということがあったのであろう。

これらの出来事は、歴史の主である愛なる神様の摂理の下で神様が導かれた。

ルカの福音書は、イエス様が弱い立場の人々を憐れまれたことを強調している。病人は言うに及ばず、女性や子どもたち、また、貧しい人々に関する記事が溢れている。私たち各々の小さな歴史をも導いておられる神様は、今も、良いものを与えようと働きかけておられるのである。

2019年12月22日(日)

「罪が赦されていることに落ち着きを感じる」

テキスト:マタイの福音書1:18~25(新約聖書1頁)

 

○2019年11月8日から公開されている『映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ』

 すみっコぐらし、サブタイトルは「ここがおちつくんです」

 2012年に日本人の「隅っこ好き」(「隅っこ」を好む傾向にある日本人)という気持ちをテーマに作られたキャラクター

 メインキャラクター(しろくま、ぺんぎん?、ねこ、とんかつ、とかげ)の共通点として、性格がネガティブであり、部屋の隅を好む。

 映画は公開初週に国内映画ランキング3位に初登場し、その後も毎週、動員・興行収入を伸ばしてと絶好調だということ。

 キャラクターたちが「すみっこ」に落ち着きを感じるという設定が、電車やお店などの座席選びで隅から埋まる傾向にある日本人の習性としてリンクしていることがあり、大人たちも共感できると、大人向けグッズも販売されていて、売上も好調なんだとか。

○テレビの番組では、すみっコぐらしは、欧米などの外国では、どれ程共感されるだろうか?としていたが、日本人の習性って、何なんだろうかと、よく考えさせられるのが、毎年10月31日に行われるハロウィンです。ハロウィンはもともとは、古代ケルト人が起源と考えられている祭りのことで、秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す宗教的な意味合いのある行事で、キリスト教の祭りではない。日本人の若い人たちは何故、渋谷のセンター街に集まり、あれほど大騒ぎをするのか?おそらく意味を考え、自分とその祭りのとの関係など考えたことのない人はたくさんいるように思われる。

○クリスマスにおいても、意味も分からず大騒ぎして祝っている日本の方々は大勢いるようにも思います。長々と前置きをしましたが、今日は改めて、クリスマスの意味を知って帰って頂ければと思います。

○日本語の「クリスマス」は、英語の「Christmas」に由来し、語源は「キリストのミサ」(Christ + Mass)にある。「キリストの祭」を意味していて、イエス・キリストの誕生を祝う日である。「神であるイエス・キリストが人間として産まれてきたこと」を祝うということがその本質である。

○今から約2千年前にこの地上にイエス・キリストという人がいたということを否定する歴史学者は今日においてはいない。イエス・キリストという御方については聖書にくわしく記されているが、聖書を読むと、この方はやはりただの人間ではないと普通に読めばそのように思えるであろう。そして、聖書はイエス・キリストは神であったと記している。では、何故、神であるイエス・キリストが人間の姿をとってこの地上に生まれてくれたのかと言えば、それは、私たち人間を罪から救うためであったと聖書は記している。私たち人間はみんな罪というものを持っている。そして、罪が赦されていない人間は、人間をお造りになった天地万物の創造主である神様から魂が離れてしまっているのだと聖書は示している。この魂が神様から離れてしまっている人間一人一人を神様のもとに戻すためにイエス・キリストはこの地上に生まれて十字架刑にかかり、私たちの罪の刑罰を代わりに受けてくれたのだと聖書は示している。

○21節に「ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と記されている、クリスマスを何故、祝うのかと言えば、私たちを罪から救うためにこの地上に来て下さったイエス・キリストを祝っているというのが本当の意味でのクリスマスのお祝いなのである。

○今日は、その意味を覚えて、では、私たちは、クリスマスを祝うという関係にある者なのかを今一度考えてもらえればと思います。そして、罪が赦されていることに落ち着きを感じる者でありたいと思います。

2019年12月29日(日)

「蔑まれている者に真っ先に届けられた喜び」

テキスト:ルカの福音書2:8~20(新約聖書109頁)

 

○イエス様がお生まれになったベツレヘムは、イスラエルの第二代目の王、ダビデの出生地で、「ダビデの町」とも呼ばれた。預言者ミカの預言(「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」ミカ書5:2)などから、ベツレヘムは救い主が誕生する地と名指しで呼ばれていた。ベツレヘムの羊飼いも当然この預言を知っていたはずである。

○羊飼いの仕事は、羊に草を食べさせるために、お世話をし、狼におそわれないように見張りをし、羊の毛を刈ったりし、そして、夕暮れになるまえに小屋に入れる仕事であった。羊が健康で、栄え、成長していくために、羊飼いの命をいつも羊のために差し出していくような生活をしていくというのが羊飼いの生活であり、夜明けから、夜遅くまで、羊の幸せのために油断をせず、朝は、早くから起きて毎朝必ず群れの様子を見、夜の間、苦しんだ様子がないか、病気をしている羊はいないか等を調べ、一日の間、何度も何度も、群れに目をやって異常がないかを確かめる。夜も、羊が何を必要とするかを忘れないで、片目を開き、両耳を開けて眠る。何か問題が起こった徴候が少しでもあれば、すぐにとび起きて、群れを守るという非常に厳しい仕事であった。ベツレヘムの羊飼いにおいては、エルサレムの隣町という立地柄、エルサレムの神殿で生贄として捧げられるはずの羊たちを見守っていた。通常は、羊飼いが夜番をしながら羊を守るということはなかった。狼その他の野獣に襲われる危険が絶えずあったからである。しかし、ベツレヘムは特別で、羊の集散地であったため、多くの羊をケアするために、小屋に入れられず外に置いたまま夜を過ごすことがあった。そのように、ベツレヘムの羊飼いは特別な使命のために働いていた人々であり、ダビデの少年時代は羊飼いであるなど、宗教的にも高貴な存在と見られていてもおかしくないはずであるのに、当時の羊飼いは、身分的に低く見られていた。彼らは貧しかった故に、ローマ帝国の人口調査の対象から外され、価値なしと見捨てられていた。特に宗教的には、彼らが安息日を含む宗教上の礼拝に参加しにくかったため、当時の宗教指導者からは人間扱いをされず蔑まれていた。

 

 

①<そのような「羊飼いたちに」、まず、最初に、救い主キリストの誕生が知らされた>

10~11節「御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」神様は、人々から貧しい者、無益な者と蔑まれていた羊飼いに、真っ先に「すばらしい喜び」を知らせることを計画されていた。それは、喜びについての知らせではなく、喜びそのものの伝達であった。

②<家畜小屋でなければ羊飼いはイエス様に会えなかった>

ベツレヘムには無数の大きな洞窟があり、羊飼いは、寒い夜にはこの洞窟に羊を導き入れた。洞窟の奥にある適当な岩を削ってそこに窪みをつけ、飼い葉おけとしていた。貧しい者、無益な者と蔑まれていた羊飼いたちは、イエス様が生まれた場所が、立派な王宮や貴族の館ではなく、自分たちの生活の場であるこのような家畜小屋であったからこそ、すぐにイエス様を見つけ出し、お会いすることができたのである。(羊を飼っている以上、すぐに見つけ出せなければならなかったであろう)

○今日においても、神様は、蔑まれている者に、喜びそのものであるイエス様を届けようとされている。

2020年1月1日(元日)

「主のことばのとおりにできるようにして下さる主」

テキスト:Ⅰ列王記17:1~16(旧約聖書614頁)

ダビデ王の子ソロモン王の死後、息子レハブアムが王位を継ぐが、彼は父以上に民に重税を課し圧迫する。その結果、北方十部族は謀反を起こし、ヤロブアムを王に立て、イスラエル統一王国は、北イスラエルと南ユダとに分裂する。北のヤロブアム王は、北の民が南の首都エルサレムに礼拝しに行くことをやめさせようとして、ベテルとダンという地に神殿を設け、二つの金の子牛を造ってそれを拝ませた。以来、北イスラエルには、良い政治を行う王は一人も起こらず、殺害の相次ぐ暗黒な歴史を繰り返してその滅亡を急がせた。中でも最悪の王はアハブであり、彼の治世は最暗黒の時代であった。アハブは、妻として迎えたシドン人のイゼベルのために、礼拝の場所としてサマリヤの宮殿内にバアル(豊作をもたらすと信じられていた偶像神)礼拝の神殿を建て、そして祭壇を築いた(外国の妻を迎えた場合には、外交的儀礼習慣としても、その外国人の妻の宗教を重んじ、礼拝のための神殿などを設けることが一般に行われた)。後の考古学からは、神殿からほんの数歩の墓場から、神殿で犠牲にされた幼児たちの遺体を入れた壺が多数発見された。これはバアル礼拝の性格を示す1つであり、バアルとアシュタロテの預言者たちが幼児の公の殺人者であったことを示している。イゼベルは、自分の故国の宗教を北イスラエルの民に強要しようと努め、その結果、国はこぞって主に逆らい、偶像に仕えることになっていった。そのような時に、預言者エリヤは「ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」(1節)と、神様のさばきがあることをアハブ王に告げた。その結果、アハブ王の迫害の危険から身を隠す必要が起こった。

 エリヤへの神様のことばは「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」(3、4節)であった。

 ヘンリーH.ハーレイはこう述べている。「力や人の目を驚かす示威は、神の計画に危機が差し迫った時には必要でも、神の世界での真の御業はそのような方法では完成されないこと、神のご自身の本性と相反することをなし、また、人にさせることもあるが、それは緊急な時のことだけである。」

 本日の聖書箇所から2つの点を覚えたい。

①<緊急時になされる主の御業>

 〇生命の源の雨と露を閉じた。1節「ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」〇烏を用いて人を養った。4節「わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」〇尽きないかめの粉や壺の油で支えた。14~16節「イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。」

②<理解しにくい出来事を理解しやすいようにして下さる主>

緊急時になされる主の御業は、当然、人間には理解しにくい出来事である。しかし、これらのエリヤに起こった出来事は、迫害から身を隠すという、エリヤの生命を守るという重要な意味があった。ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりは人目につかない場所であった。食事の手配も人間ではないほうが良かった。シドンのツァレファテという外国の地も人目につかない場所という理由であった。やもめの女性に養ってもらうということにも同様の意味があったのであろう。エリヤは、これらの行動を「主のことばのとおりにした。」(5節)が、しかし、それさえも、主が、主のことばのとおりに行動できるようにして下さったのである。

2020年1月5日(日)

「主の摂理をも変更させる主の慈しみ」

テキスト:Ⅰ列王記17:17~24(旧約聖書615頁)

 

やもめの女性の息子が病気で亡くなる。18節「彼女はエリヤに言った。『神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。』」女性は、息子の死に遭遇させられるくらいなら、食料が尽きて、息子と共に死んでいた方が良かったと嘆く。

人の生命の終わりも神様だけが知っておられる。やもめの女性の息子が病気で亡くなったのは神様の摂理の中で起こった出来事であった。

死者のよみがえりの記事は聖書にいくつかあるが、イエス様は3人もの死人をよみがえらせている(ヤイロの娘:マタイ9:18-26、マルコ5:22-43、ルカ8:41-56。ナインのやもめの息子:ルカ7:11-15。ベタニヤでラザロ:ヨハネ11:1-44)。その内、友人ラザロはよみがえらせることが定められていた(ヨハネ11:4)にもかかわらず、イエス様はその死に面して「涙を流された」(ヨハネ11:35)。また、ナインのやもめの息子の死に面した時には、「主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい』と言われ」(ルカ7:13)、そして息子をよみがえらせた。

私たちの身の周りで起こる全ては、偶然によることなく神様によってもたらされているということを神の摂理と言うが、人の死も神様の摂理の中で起こるにもかかわらず、その神様が定められた齢を変えることもあるのである。それは、残された人たちをかわいそうに思い、涙を流される神様の慈しみによるのである。

20~22節「彼は主に祈って言った。『私の神、主よ。私を世話してくれたこのやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。』そして、彼は三度、その子の上に身を伏せて、主に祈って言った。『私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください。』主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうちに返り、その子は生き返った。」

私たちは慈しみ深い主のご摂理の中で生かされている。

2020年1月12日(日)

「悲惨に思える出来事の中にも主の御手が」

テキスト:Ⅰ列王記18:1~15(旧約聖書615頁)

 

 サマリヤの飢饉は悲惨な状態であった。アハブ王は、飢饉の原因はエリヤにあると見ていた。この国家の危機の解決は、「私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」(17:1)と語ったエリヤを捜し出して、干ばつを終わらせ、雨が降るように告げさせることだと考えていた。アハブは家畜のための水・牧草を捜すため、王宮で役職に就いていたオバデヤを呼び寄せた。アハブとオバデヤが指揮者となり2つのグループに分かれて捜し出すことによって、オバデヤとエリヤは対面(面識はないと考えられる)する。オバデヤはエリヤの服装などから、アハブと妻イゼベルが殺そうとしている預言者エリヤであることが分かった。

 エリヤは、オバデヤに、自分の来たことをアハブ王に告げるように求める。オバデヤは預言者エリヤが、神の霊の働きによって活動し、しばしばそのいる場所を変更し、移動することをも知っていたであろう。よって、アハブを呼び、エリヤのいることを告げても、もしエリヤがいなくなっていれば、自分はアハブに殺されてしまうと考えた。

 オバデヤは真の神を恐れて礼拝をしていた人物と考えられる(3節「オバデヤは非常に主を恐れていた。」)。イゼベルは熱心なバアル礼拝者であり、イゼベルが真の神の預言者たちを殺した時に、オバデヤは預言者100人を保護し、パンと水で彼らを養った。オバデヤはエリヤという預言者がどのような預言者であるか分からない故に、命がけで預言者たちを保護したにもかかわらず、なお自分が命の危険にさらされることになるとすればそれは理不尽であると訴える。

 オバデヤの恐れている事情を理解したエリヤは、「私が仕えている万軍の主は生きておられます。必ず私は、きょう、彼の前に出ましょう。」(15節)と確約し、オバデヤはアハブにエリヤのことばを告げる(18:16)。

聖書は、イゼベルによる大迫害の時にも、主を恐れるオバデヤのような人物が王宮の高官としていたことを記す。

 イゼベルによって殺された預言者もいた。しかし、オバデヤの命がけの行動によって助けられた預言者100人がいた。そして、エリヤのことばを信じたオバデヤによって神様の計画は動く。このイゼベルがいた恐ろしい時代に神様のなさった御業は、私たちの生活にどのような力を与えるであろうか。

2020年1月19日(日)

「主との交わりに戻って来て欲しい」

テキスト:Ⅰ列王記18:16~40(旧約聖書616頁)

 

 「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう。」(18:1、2)との主のことばにより、エリヤはアハブに会う。アハブはエリヤが干ばつを引き起こしたのだと考えており、エリヤに対して、「イスラエルを煩わすもの。」(17節)トラブル・メーカーだと吐き捨てるように言う。それに対しエリヤは、「私はイスラエルを煩わしません。あなたとあなたの父の家こそそうです。現にあなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。」(18節)と反論する。エリヤは、干ばつの原因は真の神に対する背信にあるのだと述べる。そして、「さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエル(民の代表者たち)と、イゼベルの食卓につく(イゼベル直属でイゼベルに雇用されている)四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者とを集めなさい。」(19節)と告げる。そして、集められたイゼベル直属の預言者たちに、「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」(21節)と告げる。彼らは、完全に真の神を放棄してバアル宗教に改宗してしまったというのではなく、バアル宗教を適当に取り入れながら、真の神に対する宗教的なものをも捨てないという、不安定で、不誠実な歩みをしていたのである。アハブはもともと宗教的なことに関心が強い人物ではなかった。

エリヤは、バアルの預言者四百五十人、アシェラの預言者四百人に対して、真の神はどなたであるのかをはっきりさせようと対決を申し出る。エリヤは、「火をもって答える神、その方が神である。」(24節)というこの戦いを決する提議を述べる。バアル教は元来太陽を主神とする宗教であり、火の神が火をもって答えるということに対して誰の異議もなく、「それがよい」(24節)と応じて戦いが始まるが、生きてはいない偶像の神バアルが火を下せるわけがなく、バアルによって火が下されることはできなかった。それに対しエリヤは、主の祭壇を十二の石で(現在の部族分裂の状態を悲しみ、主にあって一つであることを願い)建て直し、その祭壇の回りに、二セアの種を入れるほどのみぞ(それだけの量の種をまくことのできる範囲にみぞを掘った)を堀り、そして、燃えやすくする代わりに、四つのかめに水を満たし、それを、いけにえの雄牛とたきぎの上に三度も注いだ。水は祭壇の周囲に流れ、またみぞにも満ちるほどであった。

 エリヤはバアルの預言者たちに、真の神様がなさる御業というものは、まやかしのない、まさに神様以外にはすることのできない御業であることを示そうとしたのである。そしてエリヤは、「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行ったということが、きょう、明らかになりますように。私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」(36、37節)と神様に祈り求めた。そして、神様は火を下し、すべてを焼き尽くすという御業をなされた。

 39、40節「民はみな、これを見て、ひれ伏し、『主こそ神です。主こそ神です』と言った。 そこでエリヤは彼らに命じた。『バアルの預言者たちを捕らえよ。ひとりものがすな。』彼らがバアルの預言者たちを捕らえると、エリヤは彼らをキション川に連れて下り、そこで彼らを殺した。」エリヤは申命記(13:5、13:13~18、17:2~5)で命じられている通りに、また、モーセとピネハスの行動に倣って(民数記25:1~13)、バアルの預言者たちを殺した。エリヤはそうすることによって偶像礼拝の罪と危険(後の考古学からは、バアル礼拝の神殿からほんの数歩の墓場から、神殿で犠牲にされた幼児たちの遺体を入れた壺が多数発見された。これはバアル礼拝の性格を示す1つであり、バアルの預言者たちが幼児の公の殺人者であったことを示している)からイスラエルの民を遠ざけようとした。

 神様は、エリヤを用いて、生きておられる真の神様の存在をまざまざと示された。それは、真の神様から心が離れてしまっているアハブをはじめとしたイスラエルの民に戻って来て欲しいという神様の愛の御旨が表された御業だったのである。

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