「あなたにはわたしの傍にいてほしい」
2025年11月23日(日) テキスト:創世記3:1~13 (旧約聖書4頁) 本日の箇所には、人間の先祖アダムがサタンの誘惑に合い、自分の自由意志を用いて、いのちの木の実に手を出し、神さまとの距離ができたことが記されています。聖書が示す罪とは、その後、アダムとエバの長男カインが弟アベルを殺してしまった (創世記3章~4章16節) ことによって物理的に「罪」というものが人間に入ったということではなく、あくまでもスピリチュアル(霊的)な問題のことを示しています。神さまの聖さというスピリチュアルに合わない、届かない、そういう人間のスピリチュアルのことです。 聖書の文化(ヘブル文化、ギリシャ文化)から描き出せる、ある程度普遍的で、どの文化でも通用する「罪」の定義を表すとすれば、「罪」とは、いのちの源である神さまから離れ、本来愛されている自分の姿に気づかずに的外れな生き方をしている状態と言えます。 アダムがいのちの源である神さまから霊的に離れてしまってからの神さまの第一声は 「あなたはどこにいるのか。」(9節) でした。それは神さまがアダムを必要とし
佐々木 優
6 時間前
「教会はイエスさまのものだから」
2025年11月16日(日) テキスト:使徒の働き12:24~25 (新約聖書259頁) (24節:神のことばはますます盛んになり、広まっていった。) このことばは、ヘロデ・アグリッパ王による激しい教会迫害があったにもかかわらず神さまのことばはますます盛んになり、広まっていったということを示している。それは神さまがなさっておられるからです。ヘロデ・アグリッパ王のことも愛しておられる神さまの股裂き状態のような中で教会は滅び失せるのではないかと思うような時があっても、教会はイエスさまのものであり、いのちがあり生き物なのであり、故に滅びることはないのです。 教会はイエスさまのものであり、どこまでもイエスさま中心です。教会は誰も自分のものとしてはいけません。これが教会としての最低条件であり、あとは、多様性を徹底して認めるのが新約の教会です。 教会はギリシャ語で「エクレシア」、「呼び出された者」という意味であり、イエスさまを救い主として信じた者が集っている、イエスさまを頭とした、いのちであり、生き物なのです。 人間は神さまのかたちが組み込まれており、そ
佐々木 優
11月16日



