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2023年1月1日(日)

「ありのままの祈りの中から」

                           テキスト:詩篇55:1~23 (旧約聖書988頁)

 

  この詩篇の作者ダビデは心身共に疲れきったどん底のような状態で神様に祈っている。

 1~3節「神よ私の祈りを耳に入れ私の切なる願いに耳を閉ざさないでください。私をみこころに留め私に答えてください。私は悲嘆に暮れ泣き叫んでいます。それは敵の叫びと悪者の迫害のためです。彼らは私にわざわいを降りかからせ怒って私を攻めたてています。」

ダビデは必死に叫んでいる。それは神様が「私の切なる願いに耳を閉ざ」しているように感じられたからである。ダビデは親しい友から裏切られ、胸も張り裂けるほどに悩み苦しんでいるが、神様は何もしてくださらないかのように感じている。

そのような中ダビデは、自分の内側に沸き起こった感情を自分で制御しようとはせず、そのままを言葉にして祈った。4~5節「私の心は内にもだえ死の恐怖が私を襲っています。恐れと震えが私に起こり戦慄が私を包みました。」

そしてダビデは逃げ出したいような自分の気持ちをこのように素直に表現する。6節「ああ私に鳩のように翼があったなら。飛び去って休むことができたなら。」

しかもダビデはその上で、逃げ場のない自分の現実を描く。彼の住む町の中には、「暴虐と争い」(9節)「不法と害悪」(10節)「虐待と詐欺」(11節)が満ちていると述べている。そればかりか、最も近しいはずの人が最も恐ろしい敵となっていると語る。(12~14節)

そのような中ダビデは、「荒野」を「私の逃れ場」と描く。(7~8節)それは、誰の保護も受けられない、孤独で不毛な場所だからこそ、「神様だけが頼り」となるということである。

更にダビデは神様に、赤裸々に、自分に迫害を加える敵がこの地上から死んでいなくなればいいと祈っている。15節「死が彼らをつかめばよい。彼らは生きたままよみに下るがよい。悪が彼らの住まいに彼らのただ中にあるからだ。」23節「しかし神よあなたは彼らを滅びの穴に落とされます。人の血を流す者どもと欺く者どもは日数の半ばも生きられないでしょう。」

ダビデはこの祈りを通して、恐怖におびえた心を、迫害者に対しての苦々しい思いを、そのまま神様にさらけ出している。神様が沈黙していると感じた時もあったが、祈りが応えられたという実体験を経て、このように語る。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。」(22節)

「ゆだねる」の本来の意味は「放り投げる」ことであり、自分の思い煩いや恐怖心を、そのまま神様の御前に差し出すことである。私たちも、神様にまず、自分の混乱した感情を、正直に、あるがままに注ぎ出す必要があるのではないか・・。そのようなプロセスを経て、私たちもダビデと同じく、支えてくださる、支えてくださっている神様を知っていくのである。

2023年1月8日(日)

「正直な思いを繕うことなく伝える」

           テキスト:マルコの福音書14:32~42 (新約聖書99頁)

 

 イエス様は、地上の生涯の最後の日の前夜、弟子たちと共に過越の食事をされてから、ゲッセマネの園という所に行かれ、父なる神様に祈られた。イエス様は側近とも言える3人の弟子に、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」(34節)と言われた。この当時、先生と呼ばれていた律法学者が弟子に自分の弱さとも取られる姿を見せるということはあり得なかったであろう。しかし、イエス様は弟子たちに対し、正直な思いをそのまま伝えられた。

 この地上におられた時の、100%人間でもあったイエス様は、私たち人間にとっての、人間としての完全な見本である。そのイエス様が、当時の人から見れば弟子に弱さとも取られる姿を見せるということをされたのである。

 「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」(34節)。それは神様への心の渇きを訴えた詩篇42,43篇で三度繰り返される、「わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。」(42:5、11。43:5)、「私の神よ私のたましいは私のうちでうなだれています。」(42:6)という表現に由来する。これはまさに武士道や西洋のストア主義で否定的に描かれる「心の乱れ」を表現したことばであると高橋秀典師は述べている(『心が傷つきやすい人への福音』ヨベル出版、64頁)。

 地上におられた時の、100%人間でもあったイエス様には、「心の乱れ」があったとも考えられるのである。

 「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(36節)人の前でも正直な思いを言い表しておられたイエス様は、なおさら、父なる神様にも正直な思いを言い表しておられた。そして、この後、イエス様は、「悲しみのあまり死ぬほど」に思える道に進んで行かれた。「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」(36節)正直な思いを繕うことなく神様に伝えるということによって、「神様のみこころがなりますように」という祈り心が起こされるのである。

 十字架上で息を引き取る間際に大声で叫ばれたことば、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)。このことばを叫ぶ前にイエス様を罵倒していた人々は、このことばを聞き、なおイエス様を見下したであろう。人間的に見れば、死に際を格好良くしようなどと繕うこともできたであろうと思える。しかし、イエス様はこの時も、神様に正直な心の内を伝えたのである。周囲の人に繕うことなく。

 イエス様が述べておられる、「杯」、「悲しみのあまり死ぬほど」である事とは、この後に起こる十字架刑である。父なる神様とイエス様は、無限、永遠、不変の愛(人間では計り知ることのできない愛)によって結ばれていて、十字架刑の時まではその愛が破られるということは、一瞬たりともなかった。しかし、イエス様の十字架刑は、人間が釘づけにされるという苦しみのみならず、イエス様ができれば避けたかった、父なる神様との断絶が行われた。ゲッセマネの園においてイエス様が祈られた、父なる神様との愛の交わりが全く絶たれてしまうということは何としても避けたいという思いと願いは、イエス様にとっては最も自然で当然の願いであった。その自然な願いを繕うことなく伝えていたのである。

 私たちは神様に自分の思い・願いを繕うことなく、まず何よりも先に伝えているだろうか・・。そして、できることならば人にも・・。

2023年1月15日(日)

「祈りによって強められる」

                       テキスト:マルコの福音書14:32~42(新約聖書99頁)

 

 先週に引き続き本日も、ゲツセマネの園での祈りの箇所から学びたい。

 2つの点を覚えたい。

 ①<弱い肉体を支えるのは、神様との交わり・祈りによって強められる霊である>

 37~38節:イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」

 誘惑とは、サタンの誘惑である。サタンの思惑は常に、信仰者の魂を神様から引き離すことにある。イエス様に対してでさえ、できることならば十字架刑(神様との魂の断絶)を受けたくないという思いに対して、十字架をやめればいいではないかとささやきかけるサタンの誘惑があったのである。この時、弟子たちは疲れて1時間足らずも目をあけていることができずに眠ってしまっていたが、人間の肉体を持っていたイエス様は、ご自身の肉体の弱さを認め、また、そこに付け込もうとするサタンの誘惑に対して、それを祈りによって克服されたのである。

 私たちは弱い肉体を持っていることを自覚しているようでいて、自力で、その弱い肉体で事を解決しようとしやすい者なのかもしれない。弱い肉体を支えるのは、神様との交わり・祈りによって強められる霊であるということを覚えたい。

 ②<同じことばで祈られた>

 39節:イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。

 イエス様は何故、前と同じことばで祈られたのだろうか・・。

 できることならば十字架刑を受けたくないという願いに対しての神様からの承諾が得られなかったからではないか・・。

 私たちにおいては尚更、私たちの願いが、今、神様に承諾されたというようなことは分からないというのが普通なのではないか・・。

 少なくとも、私たちにおいては、何と祈っていいか分からなくても、前と同じ言葉で神様に願っていいのであるということが分かるのではないか・・。

 神様は私たちが神様に頼ることを喜んでおられる。

2023年1月22日(日)

「聖書が成就するため」

  テキスト:マルコの福音書14:43~52 (新約聖書100頁)

 

 49節「わたしは毎日、宮であなたがたと一緒にいて教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえませんでした。しかし、こうなったのは聖書が成就するためです。」

 43節~52節のイエス様の逮捕場面は、聖書の預言が成就するためであったと言えるであろう。

 剣や棒を手にしてイエス様を捕らえに来た群衆は、マルコ14:27で引用されたゼカリヤ書13:7「剣よ、目覚めよ。わたしの羊飼いに向かい、わたしの仲間に向かえ──万軍の主のことば──。」の成就だと考えられている。

 イスカリオテ・ユダの裏切りも、神様のご計画の中で定められていたことが成就したと言えるであろう。以下のみことばからもそれは分かる。

ヨハネ13:18「わたしは、あなたがたすべてについて言っているのではありません。わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。けれども、聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』と書いてあることは成就するのです。」

マタイ27:3~9:そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。祭司長たちは銀貨を取って、言った。「これは血の代価だから、神殿の金庫に入れることは許されない。」そこで彼らは相談し、その金で陶器師の畑を買って、異国人のための墓地にした。このため、その畑は今日まで血の畑と呼ばれている。そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの子らに値積もりされた人の価である。主が私に命じられたように、彼らはその金を払って陶器師の畑を買い取った。」

 イエス様の弟子や身近にいた者(マルコ14:51~52、著者のマルコ自身のことではないかと考えられている)まで全員がイエス様を見捨てて逃げ去ったことも、ゼカリヤ書13:7「羊飼いを打て。すると、羊の群れは散らされて行き」の成就であると考えられている。

 ということは、弟子たちがイエス様を見捨てて逃げ去ったことは、「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈って」(マルコ14:38)いても起こることだったと言えるのではないか・・。だとすれば、弟子たちが「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈る」目的は何だったのであろうか・・。それは、イエス様と同じ思いに導かれていくということだったのではないか・・。「十字架が神様のご計画である」という思いに・・。

 聖書の預言は成就するので、「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈って」いても結果的に弟子たちは逃げ去るが、しかし、これは、神様のご計画通りに事が起こっていると受け止めながら逃げ去ってしまうということになったのではないか・・。

 本日の箇所はイエス様の逮捕場面でのことなので、そのことを私たちにどのように適応すべきなのかは難しいが、私たちにおいても、祈っていても好ましく思えないことが起こるという現実があるだろう。その時に、イエス様の逮捕場面は、聖書の預言の成就だったことを思い起こせればと思う。

2023年1月29日(日)

「罪を赦すための神様のご計画」

  テキスト:マルコの福音書14:53~65(新約聖書100頁)

 

 この時の大祭司はカヤパであった。カヤパはローマ帝国の助けで大祭司職に就いていた。大祭司は最高位の祭司職であり、神殿内をはじめ、ユダヤ社会の宗教的権限を一手に握り締め、絶大なる権力を手にしていた。更に、神殿内等での儀式をはじめ、数々の宗教行事等を通して莫大な利益を手にしていた。

 この時、大祭司の所に集まって来たメンバーは、ユダヤの最高議会サンヘドリンの議員たちであった。サンヘドリンは、大祭司や律法学者、長老などのサドカイ派の人たちとパリサイ派71人で構成され、民事、刑事、宗教関係の裁判権をも併せ持った。

 彼らは、真夜中から明け方前(マルコ15:1)に集まって来たが、真夜中の最高議会(サンヘドリン)は、当時非合法であったと言われている。この時の裁判は、最初から成立していない偽りの不当な裁判であったと言える。

 サンヘドリンの意志はイエス様を死刑にすることで固まっていた。そこで、イエス様が神を冒涜する者であることを立証する証拠(偽証の)を求めたが、思いのほか立証は困難であった(56節)。

 57~58節:すると、何人かが立ち上がり、こう言って、イエスに不利な偽証をした。「『わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる』とこの人が言うのを、私たちは聞きました。」

 罪の立証には二人以上の証人の証言が一致しなければならなかったが、「しかし、この点でも、証言は一致しなかった」(59節)

 ヨハネ2:19によれば、イエス様は手で造られた神殿を打ち壊すとは言っていない。「三日で建てる」とは、イエス様ご自身のからだのことについてであった(死者の中からの三日目のよみがえり)。

 60~61節:そこで、大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているが、どういうことか。」しかし、イエスは黙ったまま、何もお答えにならなかった。

 イエス様は黙していた。これはイザヤ書53:7の預言の通りであった。「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」

 61~62節:大祭司は再びイエスに尋ねた。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」そこでイエスは言われた。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」

 イエス様はただ一言だけ口を開き、自らを神であると主張した。

63~65節:すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「なぜこれ以上、証人が必要か。あなたがたは、神を冒瀆することばを聞いたのだ。どう考えるか。」すると彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた。そして、ある者たちはイエスに唾をかけ、顔に目隠しをして拳で殴り、「当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちはイエスを平手で打った。

 イエス様に対する死刑判決の罪状は、神に対する冒涜罪であった。

 神であられたイエス様が地上に来られた目的は、神であるイエス様ご自身が人間の罪の身代わりとなり十字架で死ぬことにあった。それ故に人々に、ご自分が誰であるのかを示し続けてこられた。不治の病を治したり、罪を赦したり・・、神にしかできないことをイエス様は行い、ご自分が神であることを示された。

 イエス様が十字架にかけられることは神様のご計画であった。不当な裁判が開かれることも、過越しの祭りの時にかぶるようにして、罪の奴隷からの解放を成就するためにイエス様の十字架刑が行われることも・・。

2023年2月5日(日)

「そうすれば思い煩いから解放されるから」

              テキスト:ピリピ人への手紙4:6~7 (新約聖書399頁)

 

 6節「何も思い煩わないで」と、パウロは述べている。神様の守りを信じているクリスチャンも思い煩う者であるということを前提として述べている。

 原文では6節の書き出しは「何事も思い煩うことをやめなさい」という命令文で始まっている。クリスチャンは思い煩いの思いが起こってきても、思い煩わなくてもよい者とされているのだから、思い煩うことをやめなさいと述べているのである。そして、思い煩わなくてもよい者とされていると述べる根拠がその後に述べられている。

 それは「あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただ」けば(6節)、「そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれ」るからだということである(7節)。

 なぜ、思い煩って当たり前のようなあらゆる場合に、感謝をもって祈りと願いを神様にささげることができるのかと言えば、祈りと願いによって願い事を神様に知って頂ければ、そうすれば、「すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれ」るということを知っているからだというのです。

 「祈り」と「願い」というように分けて表現しているのは、主の祈りの冒頭が「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように」(マタイ6:9)とあるように、まず、始めに、ほめたたえられるべき御方である神様をほめたたえることが、「祈り」と「願い」の「祈り」の部分にあたるのであろう。そして、「祈り」と「願い」の「願い」は私たちの願い事である。

 「神の平安」神様が与えてくださる平安は「すべての理解を超えた」ものである。それは、賢者と思われるあらゆる人の考えがもたらす安らぎよりも、人が綿密に計画したあらゆる考えからもたらされる安らぎにもまさるものである。「神の平安」は、私たちの内におられるイエス様が、思い煩いに引き込まれそうになる私たちの心と思いを守ってくれるものである。

 そんなにすばらしい約束が与えられているのだから、思い煩いに引き込まれそうになるあらゆる場合に私たちがすべきことは、このすばらしい守りの約束が与えられていることを思い起こし、みことばを信じようとすることである。そして、そこから生まれる感謝をもって、御名をほめたたえ、願い事を神様に知って頂くことである。その時、私たちも思い煩いから解放されるという約束の真理を知るのである。

2023年2月12日(日)

「試練とともに脱出の道も」

  テキスト:マルコの福音書14:66~72(新約聖書101頁)

 

 イエス様はペテロがイエス様のことを三度知らないと言うことを予告していた。

マルコ14:29~30:すると、ペテロがイエスに言った。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

 並行記事のルカ22:31~34にはこう記されている。

シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」シモンはイエスに言った。「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」しかし、イエスは言われた。「ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

 ここから、ペテロの三度否認もサタンからの試練の提案があり、それを神様が承諾されたということが分かる。サタンの思惑は常に、信仰者の魂を神様から引き離すことにある。神様への信仰を失わせることにある。しかし、試練は、神様が信仰者を愛するが故に与えるものであり、信仰者の益のために与えられるのであると、ヘブル人への手紙12:5~11には記されている。

 「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。 主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」 訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。

すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。

 神様が信仰者に試練を与える時、神様はご自身の目的に沿わない試練は与えられない。よって、サタンからの試練の提案があったとしても、神様の意図に沿わない試練の提案は退けられるのである。

 Ⅰコリント10:13にはこのように記されている。

あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

 サタンの試みを神様が承認するという面も含めて、試練は神様から出ていると言える。しかし、私たちを愛して止まない神様から出ているので、それら試練も私たちのために、私たちの成長等のために神様が与える試練であると言える。試練は私たちが耐えることのできる範囲内の試練であり、試練とともに脱出の道も神様が備えてくださるのである。

 イエス様はペテロに試練が与えられることを告げた。「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)と言われた。「立ち直る」と訳された動詞は、「立ち直ることができた時には」というような、仮に・・という意味は含まれていない動詞であり、立ち直ることは定まっているという意味を表す、「立ち直ったその時には」ということばである。これは、イエス様がペテロの信仰がなくならないように祈ったから、必ず、立ち直るのであると宣言していることばなのである。

 私たちの生涯には試練がある。そして、試練とともに脱出の道も備えていて下さる神様と共に生きる生涯である。

2023年2月19日(日)

「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」

                   テキスト:詩篇103篇1~5(旧約聖書1,040頁)

 この詩は、バビロン捕囚(紀元前586年)からの帰国(紀元前539年)を果たし、エルサレム神殿の再建が実現した(紀元前515年)喜びの時代に書かれた詩であると考えられている。(ダビデを記念して作られた詩)

 「わがたましいよ主をほめたたえよ。」(1節)詩人は自分に向けて語っている。「私のうちにあるすべてのものよ聖なる御名をほめたたえよ。」(1節)「私のうちにあるすべてのものよ。」この脳が、この首が、この肩が、この腕が・・・すべて神様の御手の中にあって守られた全てが・・という意識であろう。

 2節「わがたましいよ主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」

 神様が良くして下さったことの1つ1つが列挙される。

 ○「すべての咎を赦し」(3節)イスラエルの民は神様のみこころに反し、偶像崇拝の罪を犯し続けた。それは約300年間という長きに亘るものだった。神様はわたしに信頼しなければ異邦人に滅ぼされると預言者を通して繰り返し警告していたにもかかわらず、北イスラエル王国は200年余り無視し続けた結果、アッシリヤという国に滅ぼされる。その後、北イスラエル王国の教訓を生かすことなく、南ユダ王国も無視し続けたため、バビロン帝国によるエルサレム神殿の崩壊、南ユダ王国の滅亡という悲劇を招いた。神様への背信の結果、イスラエルの民は約50年間にわたる捕囚民という憂き目にも遭った。しかし、神様は時至って、イスラエルの背信の罪をすべて赦して下さった。

 ○「あなたのすべての病を癒やし」(3節)イスラエルの民のバビロン捕囚とエルサレムの荒廃のことを指す。

 ○「あなたのいのちを穴から贖われる。」(4節)滅びの穴であるバビロンから神様は救って下さった。そして、「恵みとあわれみの冠をかぶらせ」て下さったと詩人は語る。神様の「恵み」は、愛するに値しないと思えるような者をなお愛し続け、その愛によって私たちを罪の支配から解放することに現されている。「あわれみ」は、真実な父が放蕩息子に対して抱くような思いを表す。

○「あなたの一生を良いもので満ち足らせる。」(5節)神様が良くして下さった数々を思い起こすことによって、この後も良くして下さる神様に信頼を置くことができ、結果、魂は満たされるのである。その主の御業への感謝は、鷲の羽毛が生え変わるように、繰り返し若さを新たにするのだと詩人は語る。

この詩は咎を赦して下さった神様への感謝が溢れ出ている。

私たちも主が良くして下さった数々を思い起こすことで魂が満たされるのである。

2023年2月26日(日)

「人間の醜ささえも」

  テキスト:マルコの福音書15:1~15(新約聖書102頁)

 

 夜が明けると、ユダヤ人指導者たちは死刑の執行を求めて、総督ピラトにイエス様を引き渡した(1節)。ポンテオ・ピラトは、紀元26年に、ローマの皇帝ティベリウスの命をうけ、ローマ帝国の直轄属州ユダヤの総督として着任し、ユダヤに対して大変に厳しい政策をとり、ユダヤの最高議会であるサンヘドリンをローマの監督のもとにおくとともに、死刑を宣告する権限を奪った。イエス様が死刑の宣告を受けるためには、ローマの指導者によって判決が下されなければならなかった。ユダヤ人指導者たちは、イエス様に十字架刑を受けさせたかった。ユダヤ人は、十字架刑による死を神からののろいをもたらすものと信じていたので(申命記21:23)、ユダヤ人指導者たちは、イエス様は神に祝福された者ではなく、のろわれた者であったとユダヤの民衆を納得させたかったのである。しかし、神を冒涜したからといって、それを根拠にローマの法廷で裁くことはできなかったので、ユダヤ人指導者たちは、イエス様が王と名乗り、ローマ皇帝の権力を脅かす存在であると訴えた(ルカ23:1~2)。

 そこで、ピラトはイエス様に尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」それに対してイエス様は答えられた。「あなたがそう言っています。」(2節)イエス様は、そう言っているのは「あなた」であると述べている。イエス様にはこれが不当な裁判であってもそれに対して何も述べる気がなかったように思われる。

 3節「そこで祭司長たちは、多くのことでイエスを訴えた。」ユダヤ人指導者たちは、イエス様がローマへの税金納入を禁じる指導をしたとか、ユダヤ全土で民を扇動してローマ皇帝に反旗を翻しているなどと訴え出ている(ルカ23:2、5)。

 ピラトは公正にイエス様に弁明の機会を与えようと試みる(4節)。しかしイエス様は何も答えなかった(5節)。イエス様は黙していた。これはイザヤ書53:7の預言の通りであった。

 「ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを、知っていた」(10節)。ピラトは、イエス様に罪は認められないという確信をもっていた。ピラトが本気になってイエス様を釈放しようと思えば釈放することができたのだが、彼はユダヤ人の口からイエス様の釈放を要請させるという形でそれを実現しようと考えた。それはユダヤの指導者たちを敵に回すことを避けようという政治的な思惑があったからであろう。

 ヨハネの福音書には「バラバは強盗であった」(18:40)とあるが、バラバはかなり名の知れた罪人であり、盗賊であり、都に起こった暴動に参加したこと、殺人を犯した者であった。

<強盗>ギリシャ語レーステースのことをヨセフス(帝政ローマ期の政治家及び著述家。66年に勃発したユダヤ戦争で当初ユダヤ軍の指揮官として戦ったがローマ軍に投降し、ティトゥスの幕僚としてエルサレム陥落にいたる一部始終を目撃。後にこの顛末を記した『ユダヤ戦記』を著した。)は、熱心党を指す時に用いる言葉で(ヨセフス『ユダヤ戦記』Ⅱ:253-254)、「このバラバは強盗であった」というのは、恐らくバラバが熱心党運動の過激な革命的活動で逮捕されていたことを示す。(実用聖書注解)彼が暴動に参加し、殺人を犯しても、ユダヤをローマから解放するという請願を立てた人物として、ユダヤ人からは単なる罪人だとは見られない、そのような人物だったのではないかという説もある(ウイリアム・バークレー『ヨハネ福音書 下』)。

 11節~15節:祭司長たちは、むしろ、バラバを釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは再び答えた。「では、おまえたちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を、私にどうしてほしいのか。」すると彼らはまたも叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」それで、ピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。

 この時、ユダヤ最大の祭りである過越の祭りに、おびただしい数の巡礼者が集まっていた。祭司長たちが聖なる律法を盾にしてイエス様を神に対する冒涜罪であると群衆に訴えかければ騒ぎが起こることは必至であった。騒ぎが起これば、ピラトの地位は危うくなる。

 ピラトは出来る限りイエス様の釈放につながるよう努力をした。しかし、イエス様を釈放するならば、カイザル(ローマ皇帝)に反逆することになると脅迫されて(ヨハネ19:12)、ピラトの心は大きく自己保身の気持ちに傾く。時の皇帝テベリオは「疑い深い暴君」と呼ばれていた。その皇帝の味方でないと思われる危険を冒すことは、ピラトにはとうてい耐えられないことであった。そしてついにピラトはイエス様に死刑の宣告をする決心を固めた。

 むち打ちの刑は恐るべき極刑の一部であり、それは残虐な拷問であった。背中が完全に現れるように柱に縛り付けられ、金属や、研ぎ澄まされた骨付きの長い革製のむちで打たれた。それは文字通り、人の背中をべろりとかきむしってしまう。そのものすごい試練の後で、まだ意識があるような人はめずらしい。ある者は死に、多くの者は狂乱状態になる。ピラトは、イエス様をこのように扱うことでユダヤ人たちが満足し、死刑の要求を取り下げることを望んでいたのであろう。

 イエス様の十字架刑は、ユダヤ人指導者たちの妬み、ピラト自身の本意を曲げての自己保身、様々な人間の醜さが絡み合って進められていった。これらによって結果的には、ピラトの治世に国家の公式の刑として、イエス様の十字架刑は歴史上の事実として明確に残されたのである。私たちには計り知ることのできない神様のご計画の下、私たちの救いが成り立っていったのである。

2023年3月5日(日)

「苦しむときも、そこにある助け」

テキスト:詩篇46:1~11(旧約聖書980頁)

 

 この詩篇は危機の際に現された神様の助けを記している。具体的には紀元前701年に、アッシリアの王センナケリブが大軍を率いてエルサレムを包囲するが、預言者イザヤの預言の通り(ユダは神様の保護のもとで安全である)、アッシリア軍は神様のなさった不思議な方法で壊滅的な打撃を受けた(「その夜、主の使いが出て行き、アッシリアの陣営で十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな死体となっていた。」Ⅱ列王記19:35、同内容記事はⅡ歴代誌32:21、イザヤ37:36)という驚くべき神様の御業の出来事を指しているのであろう。これは旧約聖書中の驚異的な奇蹟の一つであった。

 1節「神はわれらの避け所また力。」神様は私たちの避難所であり、内側にいて力を与える御方である。「苦しむときそこにある強き助け。」私たちが苦しんでいる時、神様は驚くほど身近にいて助けて下さる。「それゆえわれらは恐れない。」(2節)と作者は告白する。

 神様のご支配は、「自然界の混乱にも」(1~3節)、「ご自身の都を攻撃する者にも」(4~7節)、「戦いに明け暮れる全世界にも」(8~11節)及ぶ。作者は混乱のただ中で、ひたすら神様にすがった結果として、「われらは恐れない。」と告白する。

 7節「万軍の主はわれらとともにおられる。」アッシリアの王センナケリブの大軍からユダヤの民を救って下さった神様はわれらとともにおられる。「ヤコブの神はわれらの砦である。」「ヤコブの神」とは、昔ヤコブを多くの災いから救い出して下さった方のことを指し(創世記35:3「私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこに、苦難の日に私に答え、私が歩んだ道でともにいてくださった神に、祭壇を築こう。」)、イスラエルの先祖をあらゆる災難から救いだして下さった神様のことを指している。

 「神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。」人は苦しみに遭う時に、驚くほど身近にいて助けて下さっている神様を知的にではなく個人的に知る者なのかもしれない。

神様はいつも私たちと共にいて下さる。苦しむ時は尚更に・・。

2023年3月12日(日)

「どんな状況においても神の愛が」

  テキスト:マルコの福音書15:16~21(新約聖書102頁)

 

(16節:兵士たちは、イエスを中庭に、すなわち、総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。)

 全部隊に召集をかけるほど、それほどまでに、イエス様には特別な力があるのではないかと恐れていたのであろう。

(17~20節:15:17 そして、イエスに紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、それから、「ユダヤ人の王様、万歳」と叫んで敬礼し始めた。また、葦の棒でイエスの頭をたたき、唾をかけ、ひざまずいて拝んだ。彼らはイエスをからかってから、紫の衣を脱がせて、元の衣を着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。)

 ローマの兵士たちは、イエス様に王の着る服を着せ、王のしるしとしての冠(茨なので頭からは流血)をかぶらせ、自らをユダヤ人の王と名乗っている者だと嘲笑の限りを尽くした。

(21節:兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた。)

 十字架刑を宣告された罪人は、刑場までローマ兵士4人の真中に立たされ、その肩に十字架を担わされ、刑場まで一番長い道を通って行進させられた。その間、前方をもう1人の兵士が罪状書きを付けたプラカードを掲げて行進した。他の人々に対する見せしめとしたのである。裁判で夜通し引き回され、むち打たれ、辱めを受けたイエス様は、背負わされた十字架の重さに力尽きて、もう動くことができなくなった。そのため兵士たちは、北アフリカのクレネから、はるばる、過越の祭りを祝うためにエルサレムに来ていたシモン(使徒13:1の「ニゲルと呼ばれるシメオン」と同一人物ではないかと言われている)という名の男に無理やり十字架を背負わせた。

 彼の息子のアレクサンドロとルフォスは、おそらく、初代教会でよく知られていたために、ここで触れられているのだろう(ローマ16:13)と考えられている。

 無理やり十字架を背負わされたシモンは、後にクリスチャンとなり、また、彼の息子たちもクリスチャンとなったと考えられている。

 本日の箇所から2つの点を覚えたい。

①あまりにも残忍な兵士たちの姿から

 罪ある人間は、神様の存在を認めたくないが故に、あらゆる権力、暴力等をフル活用して神様の存在を見ないようにする。神様はそんな罪に縛られている人間をもその罪から解放させてあげたいと思っておられる。

②シモンは何故イエス様を信じるようになったのか

 シモンはあまりにも無残なイエス様の姿に何を感じたのであろうか・・

 あまりにも無残であるにも関わらず、愛に満ち溢れたイエス様の表情を見たのではないか・・

 人は神様の愛に触れ、心を動かされていく者である。

2023年3月19日(日)

「わたしが自分からいのちを捨てるのです」

    テキスト:マルコの福音書15:22~32(新約聖書103頁)

 

(22節:彼らはイエスを、ゴルゴタという所(訳すと、どくろの場所)に連れて行った。)

処刑場のある丘は、居住区から離れた場所にある「どくろの場所」という所であった。その丘が頭蓋骨の形をしていたのでそう呼ばれたのか、古くから埋葬地であったためなのか、由来ははっきりしないが、今日の聖墳墓教会のある場所が有力視されている。

(23節:彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒を与えようとしたが、イエスはお受けにならなかった。)

没薬を混ぜたぶどう酒は感覚を麻痺させるためのものでありイエス様はそれを拒否された。

(24節:それから、彼らはイエスを十字架につけた。そして、くじを引いて、だれが何を取るかを決め、イエスの衣を分けた。)

罪人は四人組の兵士に付き添われて刑場へと連れて行かれた。当番で処刑の任務についた兵士たちは、特別な報酬として罪人の着けていた衣服を取ることが許されていた。ユダヤ人は通常五種の衣服を着けていた。それは、サンダル、ターバン、帯、下着、外套であった。兵士たちはくじを引いて、誰のものにするかを決めた。このような兵士たちの行為を旧約聖書の預言(詩篇22:18「彼らは私の衣服を分け合い私の衣をくじ引きにします。」)が成就するためであったとヨハネ19:24には記されている。

(25節:彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。)

十字架は受刑者が体力も失い、体の重さによって呼吸が困難になっていき窒息することで死に至った。

(26節:イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。)

十字架刑に処せられる者は死刑場に引いていかれるまでの間、首に罪状書きをつるされたか、そのような札に先導されて死刑場に向かった。罪状書きには「ユダヤ人の王」と書いてあった。これは政治的な革命を試み、ローマに反逆したという罪状を表わすものであり、当時の公用語であったラテン語、それにユダヤ人が日常使用していたギリシャ語とヘブル語の三か国語で書かれていた。それ故、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。

(27節:彼らは、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右に、一人は左に、十字架につけた。)

イエス様の他に2人の者が十字架につけられたことは全ての福音書が証言しているが、これも、神のみことばの成就であった。「彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。」(イザヤ53:12)

(29~32節:通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。)

イエス様は様々な人に嘲笑された。

 本日の聖書箇所も、イエス様が十字架にかけられていく姿を淡々と記している。ヨハネ10:18にはイエス様のことばがこう記されている。「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。」それは、イエス様が強いられた死を迎えるのではなく、自ら自発的に命を捨てることを示している。

 聖書は誰々のせいでイエス・キリストが十字架にかかったと述べようとしていない。恩着せがましさは全くないのである。

 Ⅱコリント5:18~19には「神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。」とある。神様は、違反行為を責めたくないと言っておられるのである。神様は人間の罪の重さを知らしめようとイエス様の十字架刑を行ったのではないのである。

2023年3月26日(日)

「イエス様の死に際の深い苦しみ」

    テキスト:マルコの福音書15:33~41(新約聖書103頁)

 

(33節:さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。)

イエス様は6時間十字架につけられた。それは通常の十字架と比べて短い時間だった。イエス様は、裁判で夜通し引き回され、むち打たれ、辱めを受け、重い十字架を背負わされた(極限の体力消耗により途中からクレネ人シモンが背負う)故に通常に比べて短時間で息を引き取った。マルコ15:44には「ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いた。そして百人隊長を呼び、イエスがすでに死んだのかどうか尋ねた。」とある。

(34節:そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。)

イエス様はご自身がかかる十字架刑がどのような刑であるのかを知っておられた。それは全人類の罪を負う時に神様から断絶される刑であった。イエス様はゲツセマネでの祈りにおいて、できることならばこの刑を避けて頂きたいと願った。イエス様はご自身がかかる十字架刑がどのような刑であるのかを知っておられたので、イエス様はこのことばを、驚きや絶望をもって質問したのではない。イエス様は詩篇22篇の最初の行を引用していたのである。詩篇22篇全体は、メシアがこの世の罪のために味わう、死に際の深い苦しみを表した預言である。

(35~36節:そばに立っていた人たちの何人かがこれを聞いて言った。「ほら、エリヤを呼んでいる。」すると一人が駆け寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒に付け、「待て。エリヤが降ろしに来るか見てみよう」と言って、イエスに飲ませようとした。)

預言者エリヤを呼んでいると勘違いし、海綿に酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒に付けて飲ませ、まだ死なないようにしたのである。

(37節:しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。)

その瞬間は、衰弱や出血によって徐々に生命力を失う通常の十字架刑による死とは異なっていた。

(38節:すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。)

神殿には、至聖所と呼ばれる部屋があり、その前には重い幕が掛けられていた。その幕は罪深い人間から聖なる神を分離することが象徴的に表されていた。至聖所には、年に一度だけ、宥めの日に、民のすべての罪が赦されるために大祭司が入り、いけにえを献げた。イエス様が死なれたこの時に、幕が真っ二つに裂けたが、それは私たちの罪のためのイエス様の死によって、っ聖なる神に近づく道が開かれたことを示している。(ヘブル人への手紙10:19,20)

(39節:イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。「この方は本当に神の子であった。」)

ローマの軍隊の百人隊長(この時、イエス様を処刑する責任を負っていた)は、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けるなどの出来事がイエス様の十字架刑に関連して起こっているのだと思わずにはいられなかったのであろう。そして、それよりも、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)と祈るイエス様の姿に、人間を超えているものを感じたのであろう。

(40~41節:女たちも遠くから見ていたが、その中には、マグダラのマリアと、小ヤコブとヨセの母マリアと、サロメがいた。イエスがガリラヤにおられたときに、イエスに従って仕えていた人たちであった。このほかにも、イエスと一緒にエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。)

イエス様の十字架のかたわらには敬虔な女性たちがいた。これらの女性たちはイエス様がガリラヤにおられた時からいつもイエス様に付き従っていた。こうした女性たちがいかに深くイエス様の宣教活動にかかわり、その働きを助けていたかが分かる。彼女たちは必ずしも裕福であったとは思えない。しかし彼女たちは、イエス様の働きを経済的に支えていたのである。女性たちはイエス様の十字架のもとに、イエス様と共に居続けたのである。

 私たちは他人の苦しみを理解できるような者ではない。そして、イエス様の死に際の深い苦しみも本来は理解できないのである。理解はできないが理解しようとする努力をする者ではありたい。

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