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2018年10月7日(日)

「奪い去られない喜び」

                                                            テキスト:ヨハネの福音書16:16~22(新約聖書214頁)

 

○イエス様は弟子たちに言われた。「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」(16節)このことばは、この後に起こる出来事を言い表している。それは、イエス様は十字架刑により死んで葬られるが、3日後に甦り、弟子たちと再会するということである。弟子たちはイエス様が言われたことばを理解できないでいるが(17~19節)、その弟子たちにイエス様は、十字架・復活の出来事によって弟子たちが経験することを産婦のたとえなどをもって語られる。

○20節「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」最愛なる師であるイエス様が十字架刑で死ぬという、あまりにも悲惨で受け入れがたい出来事によって弟子たちは「泣き、嘆き悲しむ」。その悲しみは想像を絶するものであったであろう。しかし、イエス様を神であり救い主であると認めたくない人々にとっては、イエス様の死は喜びの時となるということである。何一つ人々に害を与えることをしていない者が死んだことを、ただ自分たちの対面が保たれるということで喜ぶ者や、イエス様が自らのことを神であると主張することが神への冒涜罪であるということでイエス様の死を喜ぶ者たちがいた。それらすべてのことによって悲しみのどん底に落とされる弟子たちであるが、その悲しみは喜びに変わるとイエス様は述べる。

○ユダヤ人の思想に深く根差したある概念がある。ユダヤ人はあらゆる時代が二つの時代、すなわち現在と来るべき時代とに分けられる、と考えていた。現在の時代は全く悪い時代で、裁きの下におかれている。それに対して、来るべき時代は、神の黄金時代である。二つの時代の中間には、新しい時代をもたらすメシヤの到来に先だって、主の日がある。主の日は恐ろしい日と考えられていた。それは、世界が揺れ動き、こっぱみじんに崩壊する日、万物がふるいにかけられる時である。そして、その後に黄金時代の夜明けが始まるのである。ユダヤ人は、その恐ろしい中間時代を、習慣的に、「メシヤ時代の陣痛」と呼んでいた。新しい生命が世に出るに先立つ、この産みの苦しみという表象を、彼らは実際に用いていた。(ウイリアム・バークレー著『聖書註解シリーズ6 ヨハネ福音書下262頁)イエス様はユダヤ人のその概念を念頭に置き、弟子たちのイエス様の十字架刑による死の悲しみが、イエス様の復活によって喜びに変わると述べる。20節「あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」21節「女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。」あまりに喜びが大きい故に、悲しみのどん底にあったことを忘れてしまうのだと述べる。22節「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」復活のイエス様に会えば、心は喜びに満たされ、その喜びを奪い去るものはないと言われる。

○私たちは、イエス様を私たちの罪からの救い主と信じて、復活のイエス様と同じ本質を持つ御霊の神様を内に宿している。故に、私たちの人生においても、「悲しみが悲しみのまま終わることはない」「悲しみの後には喜びがある」「御霊の働きかけによる喜びを奪い去る者はいない」のである。

2018年10月21日(日)

「主にあって平安に勇敢に生きる」

        テキスト:ヨハネの福音書16:25~33(新約聖書215頁)

 

1:「御霊を内に宿す者は」

 ○「直接神様に近づくことができる者とされていることを知る。」のである。26節「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。」今日私たちは、私たちの願いをイエス様の名によって父なる神様に直接届けているのである。

 ○「イエス様の贖いの十字架によって私は神様に愛されている者であることを確信する」27節「それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。」イエス様は神様が私たちを愛しておられることを知らせるために十字架で死なれた。私たちはイエス様が十字架で私たちのために命を捨てて下さったことによって、私たちが神様に愛されている者であることを知ることができるのである。

2:「神様は私たちがあくまでも不完全な人間であることを知っていると言って下さる」

 ○28節 わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。29節 弟子たちは言った。「ああ、今あなたははっきりとお話しになって、何一つたとえ話はなさいません。30節 いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」弟子たちはイエス様が神であることが分かり、イエス様を神であると信じますと言う。しかし、そんな弟子たちにイエス様は言われる31節~32節「あなたがたは今、信じているのですか。見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。」イエス様を神であると信じますと述べて、もう間もなく、弟子たち全員は捕縛されるイエス様を見て、イエス様を残して逃げて行ってしまう。イエス様は弟子たち全員が逃げて行ってしまうことを初めから知っていると述べている。

初代教会の時代、ペテロは宗教指導者たちに媚びを売りパウロから叱責を受ける。「ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。・・・」(ガラテヤ2:11~14)ペテロもあくまでも不完全な人間だった。

イエス様は言われる。33節「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。」イエス様が弟子たち全員が逃げて行ってしまうことを初めから知っていると述べられたのは、そのことを初めから知っていながらも常に弟子たちを愛しているということを知ってもらいたいためであった。私たちはあくまでも不完全な人間であり、これからも無数の罪を犯すであろう。しかし、神様は私たちがあくまでも不完全な人間であることを知っておられ、そんな私たちを愛して下さっている。その神様の愛は私たちに計り知れない平安をもたらすのである。

3:「勇敢に生きることができる者とされている」33節「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」イエス様が十字架上で死なれたことは一見サタンが勝利したかのようにも見えたが、イエス様は甦り、罪と死に対して勝利を収められた。イエス様を信じる私たちは、罪が赦された者であること、永遠の命を持つ者であることを知っている。故に、この地上で生きるうえには患難があるが、しかし、勇敢に生きることができる者とされているのである。

私たちは不完全な者である。しかし、主にあって平安を持つことができる。主にあって勇敢に生きることができるのである。

2018年10月28日(日)

「託された被造物管理は主の愛によって」

                                                                                      テキスト:創世記1:26~28(旧約聖書2頁)

 

○人類の先祖アダムが生きる場所として最初に与えられていた場所は、まさしく何の不足感もなく、満ち足りた心で生きることのできる場所であった。アダムは神様との愛の交わりの中で、神様のもとで生きることによって満たされて生きるようにと命を与えられた。私たち人間は、神様との、いのちの交わりを持って、共に生きるように造られている。これが、神様の私たちに対するみこころの中心であり、最たるものである。

○26節、神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」27節、神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。28節、神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

神様は、人間を神のかたちにお造りになって、人間に歴史と文化を造る使命をおゆだねになった。

○神様の様々なご性質をまとめて総合的に表すと、神は愛ですということになる。三位一体の神様は、父なる神と御子イエス・キリストと御霊なる神の永遠の愛の交わりのうちに充足しておられる。そして、神様がこの世界をお造りになったのは、神様ご自身の愛をご自身の外に向けて表現されようとした表れだったのである。同じく人間も、神様との愛の交わりのうちに充足しているならば、神様がお造りになったこの世界と、その中のすべてのものに対して、神様の愛を表していくことができる。それが、歴史と文化を造るという使命なのである。しかし、実際には、人間は、造り主である神様に対して罪を犯して、神様との愛の交わりにあるいのちを失ってしまい、神様との愛の交わりによってもたらされる、いのちの充足を失ってしまった。その結果、人間が造る歴史と文化には、罪の性質である自己中心性が表現されるようになってしまったのである。イエス・キリストは、失われた、いのちの交わりを回復させるために、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死に、そして、よみがえられた。

○私たちは、神様との愛の交わりによって満たされて生きるために造られたということを常に覚える必要がある。私たちは、歴史と文化を造るために造られたのではないが、神様との愛の交わりによる充足の表現の結果として歴史と文化は造られるのである。

2018年11月4日(日)

「永遠のいのち、神様との交わり」

               テキスト:ヨハネの福音書17:1~5(新約聖書215頁)

 

<1節:イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。>「栄光」このことばは、旧約においては、ほとんど神様について用いられ、神様の尊厳、卓越性、完全性などのすべてを表わす。神様の栄光は、その御業と顕現、臨在を通して現されている。神様の御業の顕著な例はエジプト脱出の時であり、民はその栄光を見た(出14:18、16:7)。また、神様が民を助けに来るという預言では、栄光という語がほとんど救いの同義語として用いられる(イザヤ35:1~4)。神様の栄光の顕現は、シナイ山でモーセに示された(出24:15~17)。新約においては、神様の栄光はイエス・キリストと結びついて現される。その栄光が最も力強く現れたのは十字架と復活を通してである。(エッセンシャル聖書辞典、監修 山口昇、「栄光」より参照抜粋)この1節の「栄光」とは、人類を贖い出す神様の救いの御業を表わしている。 <2節:それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。>「永遠」にあたるギリシャ語アイオーニオスは、いのちの持続期間とはあまり関係がない。主要な意味は、いのちの質である。聖書の「アイオーニオス」「永遠」ということばが正確に当てはまる御方は神様しかいない。すなわち、永遠のいのちとは、神様以外の何ものでもない。 <3節:その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。>「知る」とは、知的な意味で「知る」(神様は無慈悲で残酷な方ではなく、イエス様が表わして下さったように愛なる方であることを知る)と共に、神様との親しい人格関係を得る(みことばから示され、祈りにおいて生きておられる神様の働きかけを知る)ということである。神様がどのような御方であるのかをイエス様を通して知ること、これが永遠のいのち、神様のいのちなのであるとイエス様は言われた。 <4節:あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。>イエス様は地上において、神様のことばを語り、神様がなさる御業を示し神様の栄光を現された。そして十字架において栄光を現す。 <5節:今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。>イエス様はこの後、十字架・復活の御業を経て天に戻られる。その時には、地上においては覆い隠されていた栄光も含めて、世界が存在する前に父なる神様と持っていた栄光で輝かせて下さいと祈る。

イエス様は、父なる神様とご自身の栄光が現されるようにと祈られた。その栄光とは、信じる者すべてが永遠のいのちを持つこと、すなわち神様との交わりが回復されるためであった。そのためにこそ、イエス様は地上で父なる神様から与えられた御業をなされたのである。

2018年11月11日(日)

「大切にされている私たち」

              テキスト:ヨハネの福音書17:6~8(新約聖書216頁)

 

イエス様は弟子たちとの最後の晩餐の席で父なる神様に祈る。祈りの内容が、当然、全能なる父なる神様がご存知である内容であることを思うと、祈りというものがいかに会話・交わりの要素が多分であるかが分かる。

①<イエス様は弟子たちに神様の御名を明らかにした>

6節「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。」神様の御名とは、知りうる限りの神様の存在、本性、みこころを意味する。イエス様を信じる私たちにも明らかにして下さっている。

②<イエス様は弟子たちが大切な存在であることを強調する>

6節「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々」「彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。」これらのことばは、父なる神様から大切な存在である弟子たちを預った、託されたということを強調している。イエス様は、イエス様を信じる私たちのことも同様の思いでいて下さる。

③<みことばを受け入れることによって神様の御旨を知ることができる>

7、8節「いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ」弟子たちは神様の御旨を知ることができた。それは、イエス様が与えたみことばを弟子たちが受け入れたからである。私たちも、みことばを受け入れようとする時、神様の御旨を知ることができる。

④<みことばを受け入れることによってイエス様を救い主であると信じることができる>

8節「それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」弟子たちはイエス様が与えたみことばを受け入れた結果、イエス様が旧約聖書で預言されていた神様から遣わされた救い主(メシヤ)であることを信じることができた。

●神様は、神様にとって大切な存在である私たちにみことばを与えて下さっている。

2018年11月18日(日)

「信仰を失わないように祈って下さる主」

             テキスト:ヨハネの福音書17:9~16(新約聖書216頁)

 

〇9節「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。」「彼ら」とは、イエス様を神であり救い主であると信じた者のこと。ここでは直接的にはイエス様の弟子たちのこと。「世」とは、この箇所においては、イエス様を信じない人々のこと。「あなたがわたしに下さった者」「彼らはあなたのもの」、10節「わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。」ということばは、イエス様が父なる神様が愛して止まない大切な存在である弟子たちを預ったということを表わしている。<イエス様は父なる神様から預かった大切な弟子たちのために父なる神様に願って下さる>のである。

〇11節「わたしたちと同様に、彼らが一つとなるため」とは、後に弟子たちの宣教を通して生まれる教会のことを指す。10節「わたしは彼らによって栄光を受けました。」<弟子たち、教会を通して主の栄光が表わされる>のである。

〇11節「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。」新改訳2017では「あなたの御名によって、彼らをお守りください。」イエス様は弟子たちを何から守って下さるように祈っているのか?それは12節の「彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。」というイスカリオテ・ユダのことから分かるように、イエス様を神であり救い主であるという信仰を失わないようにと祈っていることが分かる。それは信仰を失わずに、そして教会が生まれていくためにである。イエス様が地上におられた時はイエス様が弟子たちの信仰を守って下さったが(12節)、イエス様が天に帰った(十字架・復活の後)後、「悪い者」(15節)は弟子たちの信仰を失わせようとする。しかし、そんな弟子たちをそれ故に天国に引き上げるのではなく、弟子たちの信仰を守って下さいとイエス様は祈っておられる。15節「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。」今も<イエス様は主への信仰がなくならないようにと祈って下さっている>

〇14節「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。」弟子たちは<救い主イエス様を伝えることで憎まれる>のである。

イエス様は弟子たちの信仰がなくならないように、そして教会が生まれていくようにと祈っておられる。私たちのためにも祈って下さっている。

2018年11月25日(日)

「神様の摂理の下で」

             テキスト:マタイの福音書6:25~34(新約聖書10頁)

 

○使徒の働き14:16~17「過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」木の葉も草も、雨もひでりも、豊作の年も不作の年も(患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す。ローマ5:3,4)、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困もすべてが神様の摂理の業である。四季折々の自然界の営みに始まり、毎日のお天気や田畑の様子、日々の食卓から私たち自身の健康や家計の状態に至るまで、私たちの身の周りで起こる全てが偶然によることなく神様によってもたらされている。

〇マタイ6:26「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」「神様の摂理」とは、私たちに必要なことを予め備えて下さる、毎日どこでも見ることのできる神様の御業のことである。私たちを愛して止まない神様は、私たちの将来を見据え、良いものを与えようと働いていて下さる。

○ヨブ記12:10「すべての生き物のいのちと、すべての人間の息とは、その御手のうちにある。」詩篇104:29「あなたが御顔を隠されると、彼らはおじ惑い、彼らの息を取り去られると、彼らは死に、おのれのちりに帰ります。」私たちの命は、私たちを愛して止まない神様のご支配の下にある。

○詩篇145:9「主はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。」私たちはこの神様の摂理の下で生かされている。

2018年12月2日(日)

「神と人類との契約を全うするために」

テキスト:ルカの福音書1:26~38(新約聖書106頁)

 

〇父なる神様は、処女マリヤの胎に神であるイエス様を宿すことによって、完全に(100%)神であられ、完全に(100%)人間となられたイエス様をこの地上に誕生させた。

〇イエス様が完全に(100%)人間であるためには、人間マリヤの胎から生まれる必要があった。イエス様は十字架上で人間の罪の身代わり刑を受けるために、人間の代表、アダムの代表として、人間としてこの地上に生まれる必要があった。神様は、人類をその代表によって扱われるからである。アダムに所属する人はアダムが代表者として神様から受ける取り扱いをその身に受け、キリストに所属する人は神様がキリストに対してなさる取り扱いを受ける。

○神様はエデンの園において人間(アダム)と契約を結んだ(「ところが、彼らはアダムのように契約を破り、その時わたしを裏切った。」ホセア6:7)。契約には必ず律法が含まれていた。アダムとの契約の法は「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)であった。人類のかしらとしてのアダムと結ばれたこの契約は「わざの契約」であった。その契約を守ればアダムとその子孫は永遠のいのち、すなわち、神のいのちに与り、神の子どもとしての特権に与るという契約であった。しかし、アダムは与えられた自由意思により契約を破り、永遠のいのちと神の子どもとしての特権を喪失した。そして、アダムとその子孫である人類には罪の性質が入ってきてしまった故、もはや誰一人として神様の御前に永遠のいのちをいただくことができる人間はいなくなってしまった。罪を犯さないでいることができなくなってしまったからである(「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」ローマ3:23)。「わざの契約」は神様が人類との間に立てられたものである以上、人がこれを全うしなければならないのであるが、罪の腐敗の入ったアダムの子孫は、誰一人としてこの契約を守ることができない。そこで、神様は御子を世に遣わし、聖霊の働きにより罪がない人とされた。御子は、第二の人類の契約のかしらアダムとして、「わざの契約」を遂行された。最初のアダムは、エデンの園という素晴らしい環境のなかにありながらサタンの誘惑にあって契約を破ってしまった。しかし、第二のアダムは、十字架の死に至るまで神様の法に背かず、「わざの契約」を全うされたのである。

○律法は律法を破った人に刑罰を要求し、律法を実行することを要求する。御子イエス・キリストは、神様であり律法の制定者であられながら、律法の下にある者となり、律法を完全に遂行されたばかりか(わざの契約を全うされた)、律法に背いた私たちの受けるべき罰をその身に負って償って下さったのである。それは、御子を信じる私たちが、御子にあってあたかも十字架にすでについた者と見なされ、また、律法を完全に実行した者とみなされ、永遠のいのちにあずかり、神様の子どもとされるためであった。

○イエス様は神様が人間との間に立てられたわざの契約を全うするために完全な人となり地上に来られたのである。

2018年12月9日(日)

「神様の定めたところに行き着くために」

テキスト:ルカの福音書2:1~7(新約聖書109頁)

 

○ヨセフとマリヤは住民登録のために居住地ナザレからヨセフの故郷ベツレヘムに向かう。ナザレからベツレヘムまでは約170キロ、当時では1週間くらいかかった。身重のマリヤにはかなり厳しい旅であった。マリヤはろばに乗って向かったと思われるが、いつ生まれるか分からない赤ちゃんのことを思うと常に不安が襲ってきてもおかしくはなかったであろう。それはヨセフにおいても同じであったであろう。

○「神様の摂理」とは、身の周りで起こる全てが偶然によることなく神様によってもたらされており、良いものを与えようと働いていて下さる神様の御業であるが、当然、マリヤの胎からの神であるイエス様のご降誕の出来事も神様の摂理の中で起こっている。神様が定めておられることは必ず起こるのであるが、そこに至る過程には様々な困難がある(それも神様の摂理)。しかし、そこを経て、神様が定めておられるところに行き着くということがイエス様のご降誕の出来事からも分かる。

①周囲の嫌疑の目の中を進んだマリヤ

処女懐胎は、未婚の母になるという周囲の噂が広まったであろう。

②ベツレヘムでイエス様を産まなければならなかったマリヤ

ミカ書5:2「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」ベツレヘムはダビデ王の誕生の地であり、御子の誕生の地がベツレヘムであることを神様は定めておられた。神様の摂理の中で、異国の総督の勅令を用い、そして、身重になったマリヤはベツレヘムに行かなければならなかった。

③家畜小屋でイエス様を産まなければならなかったマリヤ

ルカ2:6~7「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」ナザレからベツレヘムにやっとの思いで着いたが、宿屋はすでにいっぱいで、二人は牛やろばが寝る家畜小屋に泊まることになった。その夜、イエス様は生まれ、布にくるんで、飼葉おけに寝かされた。そこは動物の様々な臭いもあったであろう決してきれいな場所ではなかった。しかし、マリヤは家畜小屋でイエス様を産まなければならなかったのである。Ⅱコリント8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」イエス様が貧しくなられたと表現される貧しさの究極は十字架の死であるが、家畜小屋の誕生はそれを暗示している。

○マリヤは神様の定めたところに行き着くために様々な困難を通らなければならなかった。しかし行く着く先には神様の定めた良いものが待っていたのである。

2018年12月16日(日)

「蔑まれている者に真っ先に届けられた喜び」

テキスト:ルカの福音書2:8~20(新約聖書109頁)

 

○イエス様がお生まれになったベツレヘムは、イスラエルの第二代目の王、ダビデの出生地で、「ダビデの町」とも呼ばれた。預言者ミカの預言(「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」ミカ書5:2)などから、ベツレヘムは救い主が誕生する地と名指しで呼ばれていた。ベツレヘムの羊飼いも当然この預言を知っていたはずである。

○羊飼いの仕事は、羊に草を食べさせるために、お世話をし、狼におそわれないように見張りをし、羊の毛を刈ったりし、そして、夕暮れになるまえに小屋に入れる仕事であった。羊が健康で、栄え、成長していくために、羊飼いの命をいつも羊のために差し出していくような生活をしていくというのが羊飼いの生活であり、夜明けから、夜遅くまで、羊の幸せのために油断をせず、朝は、早くから起きて毎朝必ず群れの様子を見、夜の間、苦しんだ様子がないか、病気をしている羊はいないか等を調べ、一日の間、何度も何度も、群れに目をやって異常がないかを確かめる。夜も、羊が何を必要とするかを忘れないで、片目を開き、両耳を開けて眠る。何か問題が起こった徴候が少しでもあれば、すぐにとび起きて、群れを守るという非常に厳しい仕事であった。ベツレヘムの羊飼いにおいては、エルサレムの隣町という立地柄、エルサレムの神殿で生贄として捧げられるはずの羊たちを見守っていた。通常は、羊飼いが夜番をしながら羊を守るということはなかった。狼その他の野獣に襲われる危険が絶えずあったからである。しかし、ベツレヘムは特別で、羊の集散地であったため、多くの羊をケアするために、小屋に入れられず外に置いたまま夜を過ごすことがあった。そのように、ベツレヘムの羊飼いは特別な使命のために働いていた人々であり、ダビデの少年時代は羊飼いであるなど、宗教的にも高貴な存在と見られていてもおかしくないはずであるのに、当時の羊飼いは、身分的に低く見られていた。彼らは貧しかった故に、ローマ帝国の人口調査の対象から外され、価値なしと見捨てられていた。特に宗教的には、彼らが安息日を含む宗教上の礼拝に参加しにくかったため、当時の宗教指導者からは人間扱いをされず蔑まれていた。

①<そのような「羊飼いたちに」、まず、最初に、救い主キリストの誕生が知らされた>

10~11節「御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」神様は、人々から貧しい者、無益な者と蔑まれていた羊飼いに、真っ先に「すばらしい喜び」を知らせることを計画されていた。それは、喜びについての知らせではなく、喜びそのものの伝達であった。

②<家畜小屋でなければ羊飼いはイエス様に会えなかった>

ベツレヘムには無数の大きな洞窟があり、羊飼いは、寒い夜にはこの洞窟に羊を導き入れた。洞窟の奥にある適当な岩を削ってそこに窪みをつけ、飼い葉おけとしていた。貧しい者、無益な者と蔑まれていた羊飼いたちは、イエス様が生まれた場所が、立派な王宮や貴族の館ではなく、自分たちの生活の場であるこのような家畜小屋であったからこそ、すぐにイエス様を見つけ出し、お会いすることができたのである。(羊を飼っている以上、すぐに見つけ出せなければならなかったであろう)

○今日においても、神様は、蔑まれている者に、喜びそのものであるイエス様を届けようとされている。

2018年12月23日(日)

「救い主を求める者に応える神」

テキスト:マタイの福音書2:1~12(新約聖書2頁)

 

①1~2節「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。』」「ヘロデ王」とは、当時の支配国であったローマによって紀元前40年にユダヤの王に任命され、紀元前4年に死亡したヘロデ大王と呼ばれる人である。東方の博士たちは、バビロンあるいはペルシアから来たと考えられている。バビロンにユダヤ人が捕らえられて行った時(前 597~538年)、旧約聖書に示されている、やがてメシヤが出現するという希望を、バビロンの人々はユダヤ人を通して聞いていたと思われる。ここでの「博士」(ギリシャ語でマギ)というのはペルシアのゾロアスター教の宗教的祭儀に携わる祭司階級の人々であり、天文観測や占星術の専門家であった。ゾロアスター教とは、一般的に拝火教と言われているが、心ある博士は、火を拝むのではなく、火を象徴する光と真理の神を至高神として拝んでいた。博士たちが星を見ていると、不思議な星が見えたので、これはメシヤの来臨ではないかと察知し、協議し、それに違いないと信じて、はるばる砂漠を越え、約1千キロも離れたエルサレムまで約40日間をかけてやって来た。彼らは異邦人でありながら、ユダヤ人を通して聞いていたメシヤの来臨を信じて拝みに来たのである。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。この博士たちのように、いつの時代も、この世の中を変えて欲しい、救って欲しいと救世主を待望する人々がいる。<神様はそのような人々の熱い願望に応えて下さるのである。>

②9節「彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。」博士たちは、ヘロデ王の言ったベツレヘムに向かって出かけると、東方で見た星が彼らを先導し、幼子イエス様のいる所でとどまり、幼子イエス様が母マリヤと共にいるのを見つけ、ひれ伏して拝んだ。神様はいつの時代も<救世主を求めている人々を不思議な方法で救いに導かれる>のである。

2018年12月30日(日)

「苦しむとき、そこにある助け」

テキスト:詩篇46:1~11(旧約聖書950頁)

 

○この詩篇は危機の際に現された神様の助けを記している。具体的には紀元前701年に、アッシリヤの王セナケリブが大軍を率いてエルサレムを包囲するが、預言者イザヤの預言の通り(ユダは神様の保護のもとで安全である)、アッシリヤ軍は神様のなさった不思議な方法で壊滅的な打撃を受けた(「その夜、主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。」Ⅱ列王記19:35、同内容記事はⅡ歴代誌32:21、イザヤ37:36)という驚くべき神様の御業の出来事を指しているのであろう。これは旧約聖書中の驚異的な奇蹟の一つであった。

○1節「神はわれらの避け所、また力。」神様は私たちの避難所であり、内側にいて力を与える御方である。「苦しむとき、そこにある助け。」私たちが苦しんでいる時、神様は驚くほど身近にいて助けて下さる。「それゆえ、われらは恐れない。」と作者は告白する。

○神様のご支配は、「自然界の混乱にも」(1~3節)、「ご自身の都を攻撃する者にも」(4~7節)、「戦いに明け暮れる全世界にも」(8~11節)及ぶ。作者は混乱のただ中で、ひたすら神様にすがった結果として、「われらは恐れない。」と告白する。

○7節「万軍の主はわれらとともにおられる。」アッシリヤの王セナケリブの大軍からユダヤの民を救って下さった神様はわれらとともにおられる。「ヤコブの神はわれらのとりでである。 」「ヤコブの神」とは、昔ヤコブを多くの災いから救い出して下さった方のことを指し(創世記35:3「そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」)、イスラエルの先祖をあらゆる災難から救いだして下さった神様のことを指している。

○「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」人は苦しみに遭う時に、驚くほど身近にいて助けて下さっている神様を知的にではなく個人的に知る者なのかもしれない。詩篇119:71「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」

 

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