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2018年1月14日(日)

「今は・・しかし後には」

                                                                      テキスト:ヨハネの福音書13:33~38 (新約聖書209頁)

 

〇33節「子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。」イエス様は、「その愛を残るところなく示された」(ヨハネ13:1)愛する弟子たちに、もうじき別離が訪れることを告げ、そして、「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(34~35節)と言われた。このことばの内、ペテロの意識(脳裏?心?)の中に真っ先に引っかかったのは、「わたしが行く所」だった。故にペテロは「主よ。どこにおいでになるのですか。」(36節)と尋ねている。真っ先にペテロが気になったことは「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ではなかったのである。

〇ルカの福音書22:24によると、最後の晩餐の食卓で、「この中でだれが一番偉いだろうかという論議」が弟子たちの間で起こったと記されている。弟子たちは、もう間もなく、師であるイエス様がローマの国を武力で破り、ローマの国からユダヤを解放し、ユダヤの王に就くだろうと思っていた。そしてその時に備え、誰がどのポストに就くのかと、各々がライバル心をむき出しにして牽制しあっていたのである。イエス様はその弟子たちに対して、奴隷の姿になり、洗足の行動を見せる(ヨハネ13:4~15)ことで、「この中で誰が一番偉いだろうかというような議論はやめなさい」と教えたのであるが、弟子たちの心の中を占めていたのは、「この中でだれが一番偉いのか、誰がどのポストに就くのか」ということだったのである。その思いが心の中を占めていたペテロであるから、「わたしが行く所」ということばに直ぐに反応し、いよいよイエス様がローマとの戦いに出て行くものと思い、「主よ。どこにおいでになるのですか。」と尋ね、「あなたのためにはいのちも捨てる」覚悟が私にはありますと言ったのであろう。No1のポストをねらうための自己アピールを弟子仲間の先頭をきって行ったのであろう。

〇そのペテロに対してイエス様は、なぜ、あなたは「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という命令は意に関せず、「わたしが行く所」ということばにだけ真っ先に反応を示すのか?と問いただすことはせず、「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」(36節)と言われた。それに対しペテロは「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。」(37節)と食い下がる。それは、あなたの戦いについて行く資格が、今の私には足りないというのですか?ということばなのである。そして、私にはこんな覚悟もあるのですと、「あなたのためにはいのちも捨てます。」(37節)と言うのである。そんなペテロに対しイエス様は、この後に起こるペテロの現実の様を見せられたのである。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(38節)

〇イエス様は今のペテロの現実を全てご存知であった。今のペテロにとっては、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ということばはあまり関係なく、それよりも、心の中を占めているのは、「この中でだれが一番偉いのか、誰がどのポストに就くのか」ということであることを。「あなたのためにはいのちも捨てます。」ということばも、No1のポストをねらうための自己アピールであることも。しかしイエス様は、なぜ、あなたは「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という命令は意に関せず、「わたしが行く所」ということばにだけ真っ先に反応を示すのかと問いただすこともせず、「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」と言われる。「今は・・しかし後には」と。現に、ペテロは、聖霊降臨後、ついて行く者となった。

〇私たちも、「この中でだれが一番偉いのか、誰がどのポストに就くのか」と似たような思いが、自己保身のような思いが心の中を占めている時は、イエス様について行く、すなわち、隣人を自分自身のように愛して生きていくことはできないのであろう。しかし、イエス様は「今は・・しかし後には」と私たちにも語って下さっているのである。

2018年1月21日(日)

「私の願いは世を去ってキリストとともにいること」

                                                                                  テキスト:ヨハネの福音書14:1~3 (新約聖書209頁)

 

〇「子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。」(ヨハネ13:33)イエス様のこのことばを聞いた弟子たちは言いようもない不安に襲われた。周囲の雰囲気からすでに不穏な雰囲気を感じていたと思われる弟子たちは、いよいよ、師であるイエス様がローマの国からユダヤを解放するためにローマの国との戦いに出るものと思ったのであろう。イエス様が戦いに出たならば必ず勝利をおさめ、ユダヤの王の位に就き、そして戦いに参加した弟子たち各々はそれぞれ重要なポストに就くものと信じていたであろう。また、そのためにこそイエス様に着き従ってきたという面も多々あっただけに、戦いが起こることへの期待もあったであろう。しかし、いざ戦いが起これば、命の危険にさらされないだろうか、無傷でいられるだろうか、様々な不安が弟子たちの心に襲ってきたことも確かであろう。人々から崇められるような高い地位に就きたいという思いと共に、できれば戦争はしたくないというのも本音だったであろう。イエス様はそんな弟子たちの不安な心を思いやり、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(1節)と言われた。そして、「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。」(2節、新改訳2017から、訳が分かりやすいので引用)と言われた。イエス様は弟子たちが神様と共に永遠に生きる所、天国に行けるように道を開くのだと言われた。「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。」地上の住まいには永遠に住み続けられるという保証はない。しかし、天国は「住む所がたくさんある」と言われ、住む場所を考える必要もない、住む場所を追い出される心配もない、天国という所がいかにすばらしい所であるのかを示し、地位・名声・富に思いが支配されている弟子たちの心を天上に向けさせ、弟子たちの言い知れぬ不安を和らげようとしているのである。イエス様は天国への道が開かれるために、十字架・復活による贖いの御業を成し遂げに行くと言われたのである。

〇3節「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」神様の人類救済の計画は、イエス様の十字架、復活、昇天、聖霊降臨、イエス様の再臨でもって完成される。「また来て」とはイエス様の再臨の約束を示している。再臨の時がいつであるかはイエス様も知らないのであるが、その時には、イエス様は弟子たちをご自身のもとに受け入れると約束して下さったのである。パウロはイエス様の再臨の時のことを述べ、「このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」(Ⅰテサロニケ4:17、18)と、激しい迫害に直面していたテサロニケ教会の人々の心をを励ました。イエス様の再臨の時に、あるいは再臨以前に、私たちが天国に行ったその後は「いつまでも主とともにいる」のである。

〇私たちは神様と共に生きることによって真に生きる者となるように造られている。「私たちが誰と共にいたいと思っているか」このことが重要であろう。私たちは大切な人と共にいたいと思う。そこが安心感を与える場でもあり、幸せを感じる空間でもあるからだろう。パウロは獄中にあっても、色々な形でイエス様を伝えることができ、喜んでいるということを年度も口にした。ピリピ1:21~24「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。」パウロは、この地上に生きていることは喜びであるが、しかし、願いは、「世を去ってキリストとともにいることです」と述べた。「イエス様と永遠に共にいたい」と思っている心の状態が、心に喜びを起こさせていたのであろう。

○イエス様の弟子たちは言い知れぬ不安に襲われた。不安の根底にあるものは「死」への恐怖であろう。イエス様はそんな弟子たちに、あなたがたが天国へ行けるように贖いの業を成し遂げる。天国はすばらしい所である。わたしはあなたがたを迎えに来て、そして、いつまでもわたしとともにいるのであると語られた。そのことを成し遂げる「神を信じ、またわたしを信じなさい。」(1節)と語られたのである。

2018年1月28日(日)

「イエス様を通して」

                                                                            テキスト:ヨハネの福音書14:4~10 (新約聖書209頁)

 

○イエス様の弟子たちは、イエス様がローマの国との戦いに出るものと思い、言い知れぬ不安に襲われた。イエス様はそんな弟子たちに対し、天国という所がいかにすばらしい所であるのかを示し、その天国へ行けるようにイエス様ご自身が贖いの業を成し遂げに行くのだと言われた。そして、かの日には、イエス様ご自身が天国に入る人々を迎えに来て、いつまでもわたしとともにいるのであると語られた(2~3節)。そして、そのことを成し遂げる「神を信じ、またわたしを信じなさい。」(1節)と語られたのである。

○4節「わたしの行く道はあなたがたも知っています。」とイエス様は言われた。「わたしの行く道」とは、天国へ至る道、父なる神様のもとに至る道のことであり、イエス様が通られる十字架の道を指している。そのことばを聞いた弟子のトマスはイエス様に言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」(5節)トマスは、イエス様が行く場所も、行く道も分からないと言った。それは他の弟子たちも同様だった。6節「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。』」イエス様こそが父なる神様のもとに至る道であり、それは真理であり、天国でいつまでもイエス様と共にいるいのち、すなわち永遠のいのちそのものなのである。「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」父なる神様のもとに至るには、イエス様を神であり罪(神様から的を外していること、及び、犯す数々の行為罪)からの救い主であると信じる以外にはないのである。

○7節「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」イエス様を知ることは父なる神様を知ることであり、イエス様を見た者は父なる神様を見たのである。しかし、弟子のピリポは「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」(8節)と言った。かつて、モーセと七十人の長老が「イスラエルの神を仰ぎ見た」(出エジプト24:10)ように、預言者イザヤが「高くあげられた王座に座しておられる主を見た。」(イザヤ6:1)ように、そのような形で父なる神様を見せて下されば満足しますとピリポは言った。イエス様はピリポに言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」(9~10節)父なる神様とイエス様とは一つであり、イエス様の存在そのものが天の父なる神様とはどのような御方であるかを明らかに示していたにもかかわらず、弟子たちはそれに気付かなかったのである。当時のユダヤ人は、いかなる時にも(旧約のモーセやイザヤは別として)神様を見た者は一人もいないということを信仰箇条のように考えていた。故に、イエス様の弟子たちがイエス様を見ることによって父なる神様を見ているとは考えられなかったであろう。しかし、弟子たちは、すでに、父なる神様を見、父なる神様に至る天国への道も知っているのだとイエス様は言われた。そして私たちも同様に、聖書に記されているイエス様を通して、父なる神様を見、父なる神様に至る天国への道も知っているのである。

2018年2月4日(日)

「主の御業はみことばによって成される」

    テキスト:ヨハネの福音書14:10~11 (新約聖書210頁)

 

○イエス様は「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。」(11節)と言われた。聖書は、父なる神、子なる神、聖霊なる神、三つの神が一つであると教えている。「わたしが言うのを信じなさい」とイエス様は言わるが、これは頭で理解できたから信じるという事柄ではなく、信頼のおけるイエス様という御方が言われるから信じるという事柄なのであろう。

○父なる神とイエス様は一つであり、「わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」とイエス様は言われた。ヨハネ5:19ではイエス様がこのように述べている。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」この19節を詳細に訳すと、「子は、父が行っている何かのことを見る以外、自分自身からは何も行うことができません。確かに、あの方が行っておられることについては、子もまたこれらのことを同じように行っているのです。」となる。イエス様が語ることばは父なる神が語っていることばであり、「わたしがあなたがたに言うことばは・・・わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです」とあるように、父なる神様は、ご自身の「ことば」で、神様のわざをしておられるのである。

○父なる神は霊であり、目に見える肉体を持っておられない。故に、聖書は、「歩き回られる神」(創世記3:8)、「伸ばした腕」(出エジプト6:6)など、擬人法を用いたりして神様のなさったことを表現している。「神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。」(創世記1:3)天地創造のはじめから、父なる神様のわざは「ことば」によって成されてきたのである。

○11節「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」イエス様が語ることばで信じられないならば、「わざ」、すなわち、神様の具体的な御業(イエス様がなさった不治の病の人の癒し 等々)によって信じなさいと言われた。 

○今日においても、神様の御業は、主に、「みことばを通して成される」のである。私たちの歩みにおいては、今、自分の身に起こっている現実に対して、「・・・」のみことばを信じて歩む。であったり、「・・・」のみことばの通りになさって下さいと、神様に願いつつ歩むのである。イザヤ55:9~11「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」

2018年2月11日(日)

「神様のみことばを伝える」

       テキスト:ヨハネの福音書14:12(新約聖書210頁)

 

○イエス様は、14章10節、11節で、イエス様が語ることばは父なる神様が語っておられることばであり、父なる神様は、ご自身の「ことば」で、神様の御業を行っておられるのだと言われた。イエス様が行われるわざは父なる神様の御業である。イエス様はこのことを信じる者は、イエス様の行うわざを行うと言われた(12節「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い」)。「わたしの行うわざ」とは、直接的には「父なる神様のことばを告げる」ことを指しているが、「父なる神様のことば」によって、病が癒されたりする御業のことなども含まれている。

○12節「またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」イエス様が父なる神様のもとに行くことによって、聖霊は弟子たち一人一人の内側に内住された(ヨハネ16:7「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」他、ヨハネ14:16~17、14:26、15:26~27、16:7~15等参照)。地上におられたイエス様は肉体を持っておられた故に、その働きの地域は、例外を除いて、パレスチナの地域に限定されたが、しかし、イエス様と同じ本質を持つ、もうひとりの助け主である聖霊が弟子たち一人一人の内側に宿ることによって、弟子たちが語る「神のことば」は異教世界へと広がって行った。「またそれよりもさらに大きなわざを行います。」とは、宣教の拡大のことを指している。

○「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」私たちも今日、「わたしの行うわざ」すなわち、「神様のみことばを告げる」ことのできる者とされている。そして、聖霊がその御業をなして下さると私たちに約束して下さっている。私たちは自分の言葉を伝えるのではなく、「神様のみことばを伝える」のである。神様の御業はみことばによって成されるのだから。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(Ⅱテモテ4:2)

2018年2月18日(日)

「宣教のための祈りは応えられる」

     テキスト:ヨハネの福音書14:13~14(新約聖書210頁)

 

○イエス様が語ることばは父なる神様が語っておられることばであり、父なる神様は、ご自身の「ことば」で、ご自身の御業を行っておられる。イエス様が行われるわざは父なる神様の御業なのである。イエス様はこのことを信じる者は、イエス様の行うわざ、すなわち、「父なる神様のことばを語ることによって父なる神様の御業を行う」のであると言われた(14:10~12)。イエス様が父なる神様のもとに行くことによって、聖霊は弟子たち一人一人の内側に内住された(ヨハネ16:7参照)。イエス様と同じ本質を持つ、もうひとりの助け主である聖霊が弟子たち一人一人の内側に宿ることによって、弟子たちが語る「神のことば」は異教世界へと広がって行った。イエス様は「神のことば」が広く宣べ伝えられるそのために、ご自分の名によって求めることと、ご自分に求めることを弟子たちに勧められた。「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(13~14節)。このみことばは、私たちがイエス様の名によって祈る全ての祈りが聞かれるということを述べているのではない。しかし、イエス様の名によって祈る宣教のための祈りは何でも応えられるという約束である。

○私たちは、みことばの宣教のために祈る。その祈りが願い通りに応えられなくとも、必ず、その祈りに対する神様の応えがあるのである。

2018年2月25日(日)

「弁護して下さる専門家が内におられる」

     テキスト:ヨハネの福音書14:15~17(新約聖書210頁)

 

○イエス様は律法を要約すると、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ22:37、39)であると言われた。

○15節「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」ここでイエス様が言われた「わたしの戒め」とは、ヨハネ13:34「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」この戒めのことであろう。愛し合いなさいと言われた「愛」、ギリシャ語アガペーということばは、見返りを期待しない一方通行に流れる犠牲愛であり、それは弟子たちのために、全人類の罪の贖いのために十字架上で命を捨てられたイエス様の愛、神様の愛である。私たちが、この犠牲愛で互いに愛し合うことは大変に難しいことである。故に、イエス様は、「もしあなたがたがわたしを愛するなら」と、「もし」ということばや、「戒めを守るはずです。」と、「はず」ということばを付けて言われたのではないか。そして、犠牲愛で互いに愛し合うことが大変に難しいことであることを分かって下さっているイエス様は、16節にある願いを父なる神様にして下さったのである。「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」(新改訳2017の16節)

○「助け主」ギリシャ後パラクレートスは、招き入れる者という意味である。例えば、法廷で誰かのために証言するために招き入れられた人である。誰かが告訴されていて、重い刑罰が予想される場合、その人の言い分を弁護するために招き入れられた弁護人である。すなわち、困難な状況のもとで忠告をなすべく招き入れられた専門家である。パラクレートスは常に、困難や、苦悩や、疑惑や、あるいは当惑のもとにある人を助けるために招き入れられる者である。(『ヨハネ福音書 下』ウイリアム・バークレー著222-223頁)イエス様と同じ本質を持つもう一人の助け主聖霊は、イエス様を神であり、罪からの救い主であると信じる一人一人の内側に住んで下さっている(ヨハネ16:7参照)。その聖霊は、アガペーの愛で互いに愛し合うことに困難を覚える私たちを弁護する専門家として私たちを助けて下さっているのである。イエス様は弟子たちに「あなたがたはその方を知っています。」と言われた。なぜならば、「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるから」(17節)だと言われた。コロサイ人への手紙1:27には「あなたがたの中におられるキリスト」という表現があるが、私たちの内におられる助け主聖霊という御方がどのような御方なのかは、イエス様という御方を知れば分かるのである。故に、イエス様は弟子たちに、あなたがたは助け主聖霊を知っていると言われたのである。

○イエス様は私たちにも同様に、「あなたがたは、互いに愛し合うことに困難を覚えるあなたがたを弁護する専門家、助け主聖霊を知っています」と語って下さっている。イエス様と同じ本質を持つ「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるから」

2018年3月4日(日)

「孤児になることはない」

       テキスト:ヨハネの福音書14:18(新約聖書210頁)

 

○18節「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」イエス様は十字架の苦難の後に復活され、弟子たちと再会するが、しかし、迫害の手が弟子たちにもおよぶ危険に満ちていた場所に弟子たちを復活までの3日間でさえも残していくことに、どれ程の心労がイエス様にあったかは計り知れない。イエス様は孤児ということばを使われたが、孤児というのは、父親がいないことを意味する。しかしそれは、敬愛する恩師をなくし、その指導を失った弟子や学生にも使われた(『ヨハネ福音書 下』ウイリアム・バークレー著225頁)。弟子たちは、イエス様の「孤児にはしません」ということばを、敬愛する恩師からの言葉として受け取ったのであろうが、しかし、恩師がどこかに行ってしまうという極限の不安状態にも置かれたであろう。その弟子たちに対してイエス様は、「わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」と語り、弟子たちの不安を取り除こうとされた。

○イエス様にとって彼らは最愛の弟子であり、また、子どもでもあった。ヨハネの福音書1:1~3「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」創造の初めから存在しておられたイエス様は、創造の御業の仲介者として、この世界、この宇宙に存在するすべてのものを造られた。父なる神様同様、イエス様ご自身も深い慈しみの思いを寄せ、人間の創造に関わられた。イエス様は、ご自身の子どもでもある弟子たちのことを心から心配し、励まされた。

○イエス様は、私たちのことも心から心配し、励まして下さっている。私たちにはイエス様と同じ本質を持つ、もう一人の助け主聖霊が内に住んでおられる。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」私たちは生きる指針となる指導者を失うことはない。孤児になることはないのである。

2018年3月11日(日)

「今も尊ばれている自由な意志を主に向けて」

       テキスト:ヨハネの福音書14:19(新約聖書210頁)

 

○19節「いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」「世」とはイエス様を神であり、罪からの救い主であると信じていない人々のことを指している。いましばらくで世はもうイエス様を見なくなるのに、イエス様の弟子たちは見るということであるが、何故、「世」は見なくなるのか?それはヨハネ14章17節を見ると分かる。14章17節は、イエス様と同じ本質を持つ、もう一人の助け主聖霊について記している。聖霊は、イエス様を神であり、罪からの救い主であると信じる一人一人の内側に住まわれるが、「世」は聖霊を受け入れることができないと記されている。「世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。」「受け入れることができない」理由は、「その方を見ようとしない」「知ろうとしない」ということである。

○神様は、天地創造の初めにアダムを造られた時、アダムに自由意志という機能も与えられた。それら自由意志も含め、神様はその存在をご覧になり、非常に良かったと語られた。それは、深い思いを寄せてご覧になり、「愛おしい」という表現をされたことばであった。人間は、神様との愛の交わりの中で、神様の守りの中で、隣人との愛ある交わりの中で満ち足りて生きるようにと命を与えられた存在である。しかし、人類の先祖アダムが自らの意志で、その神様の意図とは違う生き方を選び取ったように(これが「罪」であり、意味は、的外れであるということ)、その後の人類も自分の意志で、神様のみこころとは違う、的外れな生き方(自分をルールの中心としたいという生き方)を選び取ってしまっている。その結果、多くの悲しみ、混乱を起こしてしまっているという現実もある。しかしそれは、神様の創造に失敗があったということではない。神様がお造りになったものには失敗がないからである。天地創造の初めに、「神はお造りになったすべてのものを見られた。」(創世記1:31)ということは、どこかに問題がありはしないかと調べたということではなく、神様が心を込めてお造りになったものに、改めて深い関心を寄せてくださったということを示している。お造りになったすべてのものをご覧になった神様は、「見よ。それは非常に良かった。」と語られた。その「なんと愛おしい存在であろうか」という思いは、アダムが罪を犯した後の人類に対しても同じであり、自由意志も含めて「なんと愛おしい存在であろうか」と思っておられる。

○「いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。」イエス様の弟子たちは十字架上で死なれたが甦られたイエス様を目撃させられる。なぜ目撃させられたのか?その理由は「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」ということである。この「生きる」とは、復活のいのちのことを指している。神であるイエス様が人間の罪の身代わり刑を十字架上で受けて下さり、そして甦えらせられたことを信じる者は、イエス様が復活のいのちに与って生きたように、復活のいのちに与って生きるのである。それは、イエス様を神であり罪からの救い主であると信じた時に与えられる新しいいのちで生きることを指している。弟子たちはイエス様を神であり、罪からの救い主であると信じることができるようにと、復活のイエス様を目撃させられたのである。それは、イエス様の弟子たちの目撃談により、イエス様を信じる者が起こされるようにという神様の意図があったのであろうが、しかし、本日のみことばから分かることは、イエス様の弟子たちには、「イエス様を見よう」「イエス様を知ろう」とする思いがあったのである。その思いのパーセンテージは分からないが、しかし、その思いがあった故に、復活のいのち、新しいいのちで生きる者となったのである。しかし当時の「世」には、その思いがなかったのである。その結果、新しいいのち、神様との交わりが回復させられたいのちで生きることのない者もいたのである。

○今日も、神様の計り知れない愛の中で、人間は自由意志を用いながら生きている。神様は全ての人々に、その自由意志を、「イエスを見よう」「イエス様を知ろう」とする思いに向けてほしいと願っておられる。

2018年3月18日(日)

「イエス様の甦りを信じたことによって」

       テキスト:ヨハネの福音書14:20(新約聖書210頁)

 

○20節「その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」(新改訳2017「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」)「その日」とはイエス様の復活の時のことを指している。弟子たちがイエス様の復活を目撃するその時には、イエス様が語っておられた、「わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおる」ということが「わかる」のだと言われた。「わかります」と訳したギリシャ語ギノースコーは、「知る」「知るようになる」という意味の言葉であり、知り始める発端と知識の前進、深化の過程という意味を含みもつことが多く、しばしば知る者と知る対象との間に能動的な関係があることを示しており、ただ単に知的に知ることを越えた繋がりがあることを示している。

○弟子たちがイエス様の復活を目撃したことによって、「わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおる」ということが瞬時に分かるようになったということではないだろう。しかし、イエス様の復活を目撃したことによって分かるようになっていったのである。弟子たちは、イエス様の復活を目撃したことによって、イエス様という御方を知ろうとする能動的な思いを持つようになり、「あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおる」というイエス様のみことばを、ただ単に知的に知ることを越えて知っていったのである。

○現在私たちは肉眼でイエス様を見ることはできない。しかし、神のことばであり、弟子たちの証言録である聖書を通してイエス様の復活を信じている。そして、イエス様の弟子たちと同じく、「わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおる」という神様の深淵なみことばを、単に知的に知るということを越えて「知るようになっていっている」のである。

2018年3月25日(日)

「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

      テキスト:マルコの福音書15:1~37(新約聖書100頁)

 

○15~20節「兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、それから、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫んであいさつをし始めた。また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。」

○イエス様は死刑判決が下された後、むち打ちの刑を受けられた。むち打ちの刑は恐るべき極刑の一部であり、それは残虐な拷問であった。むちは金属や、骨付きの皮製であり、死の一歩手前まで行われ、体からは血が流れた。イエス様は更に、王様が着る紫の衣を着せられ、王冠にみたてたいばらの冠をかぶらせられ、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫んで挨拶をされ、葦の棒で頭をたたかれ、つばきをかけられ、ひざまずいて拝んだりされた。嘲弄され、頭からは血が流れ、精神的、肉体的な様々な屈辱を受けられた。これだけでも耐えられないような苦痛であるが、イエス様はその後、両手足に釘を打ちつけられ十字架につけられた。十字架は、ローマ帝国における死刑の方法であり、それは、生きたままで十字架につけて、何もしないで、かなり長い時間十字架にかけられ死を待つというものだった。十字架刑の受刑者は、体力がなくなるにつれて、身体を持ち上げて息をすることができなくなり、呼吸困難と血液循環障害を起こして死ぬ。その間、人々の罵声を浴びながら死を迎えるという残酷な刑が十字架刑であった。

○イエス様の十字架は私たちの罪のためであると聖書は述べている。「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれた」(Ⅰコリント15:3)「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。」(Ⅱコリント5:21)

「罪」を表す聖書のことば、ギリシャ語「ハマルティア」の元々の意味は「的外れ」である。「ハマルティア」という言葉は、古代ギリシャのオリンピック種目の一つアーチェリー(的当て)競技で使われていた言葉であり、射た弓が、的の中心からどれだけ外れたかを、その距離を測る単位が「ハマルティア」だった。「ハマルティア」を訳したことば「罪」とは、「的が外れている」「何かがずれている」という意味である。イエス様には罪がなかった。神様から的が外れていることはなく、また、実際に的外れな行為、罪を犯すこともなかった。そのイエス様があの惨たらしい十字架刑に処せられなければならなかったのは、私たちの罪の身代わり刑を受けるためであった。

○イエス様はゲッセマネの園において「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイ26:39)と父なる神様に祈られた。イエス様が述べておられる、「杯」、「悲しみのあまり死ぬほど」である事とは、十字架刑のことを表しているが、父なる神様とイエス様は、無限、永遠、不変の愛(人間では計り知ることのできない愛)によって結ばれており、十字架刑の時まではその愛が破られるということは、一瞬たりともなかった。しかし、イエス様の十字架刑は、人間が釘づけにされるという苦しみのみならず、イエス様ができれば避けたかった、父なる神様との断絶が行われたのである。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)それは人類が誰一人として経験したことのない、父なる神様からの断絶、「的が外れている」状態に置かされたのである。イエス様は私たちの代わりに、この究極の父なる神様との断絶刑を受けて下さったのである。それは、神様から的をはずしている人間一人一人が神様の下に戻ってきてもらいたいという神様の切なる願い、愛の表れだったのである。本来、人間は、神様との愛の交わりの中で、神様の守りの中で、隣人との愛ある交わりの中で満ち足りて生きるようにと命を与えられる。しかし、人類の先祖アダムが自らの意志で、その神様の意図とは違う生き方を選び取ったように、神様から的をはずしたように、私たちも自分の意志で、神様のみこころとは違う的外れな生き方(自分をルールの中心としたいという生き方)を選び取ってしまった者である。しかし、神様は、天地万物創造の時から変わらずに愛して止まない私たち人間一人一人のために、的外れな生き方から戻ってきて欲しいとの愛の思いで、父なる神様、イエス様共に、できることならば避けたかった十字架刑を受けて下さったのである。神様は、イエス様の十字架は私の罪(神様から的を外していること、及び、犯す数々の行為罪)を赦すための身代わり刑であったと信じる者に、罪の赦し(神様からの的外れの回復と、犯す数々の行為罪の赦し)を与え、神様との愛の交わりの中で、神様の下で生きることによって満たされて生きるものとして下さるのである。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

2018年4月1日(日)

「確かな希望を持って生きている」

           テキスト:ルカの福音書24:1~11 (169頁)

 

 

○8節、9節「女たちはイエスのみことばを思い出した。そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。」女性たちは、イエス様の遺体が墓の中になかったこと、そして、そこに二人の御使いが来て自分たちに語ったことなど、すなわち、1~8節に記されている事柄、一部始終を報告した。報告した相手は、十一弟子とそのほかの人たち全部となっている。この人たちは原語から見て、全員男性であった。

○10節「この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。」ここで使われている「話した」という動詞は、未完了形という動詞で、「女性たちが繰り返し話していた」ことを表している。

○しかし、11節「ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。」とある。何故、信用しなかったのか?女性たちの中には、イエス様の母マリヤもいる。また、イエス様の宣教活動の初の頃から一緒に行動していたと思われるマグダラのマリヤも、イエス様の弟子のヤコブとヨハネの母もいる。弟子のヤコブとヨハネは自分たちの母の語る言葉なので、軽く扱って、信用しなかったのであろうか?男尊女卑の色濃い時代であったので、それ故、女性の言葉を軽く扱ったのであろうか?それにしても彼らは、3年近く、一緒に行動を共にしたマグダラのマリヤの言うことも信用できなかったのである。

〇女性たちが繰り返し証言し続けるイエス様のよみがえりを信じられないのは、死んだ人間がよみがえるということを信じることがいかに難しいことかを物語っている。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」(Ⅰコリント12:3)とみことばにあるように、神様が人間に働きかけ信じられるようにしてくださらなければ、十字架刑によって死んだイエス様がよみがえったということを信じることはできないのである。

○8節の「女たちはイエスのみことばを思い出した。」の「思い出す」という動詞は、過去形の受動態という動詞の使われ方がされており、8節を原文通りに詳細に、そして、分かりやすく訳しますと、「すると、女たちは、彼の数々のみことばを思い出させられた。」となる。イエス様の遺体が墓の中にないことに途方にくれ、そして、二人の御使いを見て恐ろしくなってしまっている女性たちにとって必要なことを神様が思い出させてくださったのである。

○神様は、神様にしか分からない最善の時、最善の方法によって、希望を失いエマオという村に帰ろうとしていた二人の弟子に、復活のイエス様が道中を共に歩きながら「思い出させ」ようとされた。復活のイエス様の目撃証言を信じられないトマスにはトマスのために復活の姿を見せ「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)と言われ、イエス様の復活を信じられるようにして下さったのである。

○イエス様を神であり、罪(神様から的を外していること、及び、犯す数々の行為罪)からの救い主であると信じる者に罪の赦し(神様からの的外れの回復と、犯す数々の行為罪の赦し)と、永遠のいのち(神様との愛の交わりの中で神様と共に生きるいのち)を与えるために、イエス様は十字架にかかられ、甦られた。そのことを信じる者は永遠のいのちと復活のいのちに与る。その者は、死を迎えても、魂は神様と共に生き続け、イエス様の再臨の時には新しい体が与えられ、体と魂共々に神様と共に生き続けるのである。

○イエス様の復活を信じる信仰は、将来の確かな希望なのである。マルティン・ルターは、罪と義がクリスチャンの中でどのように混在するのかをこのように述べた。「それはちょうどある病人が、『あなたは全快します』という医師の言葉を信じることに似ている。病人は、病気が治るという約束に望みをおいて、医師の指示に従う。彼は、健康のために、医師から慎むように言われたことはいっさいやめる。今、彼は回復した状態なのだろうか。実際、彼は病気だが、同時に健康だと言える。つまり、現実には病気だが、必ず治るという医師の約束において、彼は治っているのだ。彼が医師に信頼し、医師は彼をすでに治った人として見ているからである。」私たちの生涯は罪の影響もあり、様々な困難に満ちているかもしれない。しかし、イエス様の復活を信じる私たちは、イエス様の再臨の時に、すべての重荷から解放される者として今を生きているのである。

2018年4月8日(日)

「心の目を開き燃やし続けて下さる御方」

    テキスト:ルカの福音書24:13~35(169頁)

 

○13節「ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。」この二人の弟子はクレオパと、そしてもう一人は、ここに誰であるかは記されていないが、彼の奥さんであろうと言われている。

○14節「そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。」

「話し合う」ということば「ホミレオー」は、単なるうわさ話しではなく、答えを見出そうとする語り合いを意味している。イエス様の弟子集団の中で歩んでいたこの夫婦も、あまりにも突然のイエス様の逮捕、十字架刑による死によって、混乱状態にあり、何が何だか頭の整理がつかないまま失意の中にあったのであろう。イエス様の遺体が墓の中になかったこと、そして、そこに二人の御使いが現れ、イエス様ご自身が語っておられたように、イエス様はよみがえられたのだと語ったということを、マグダラのマリヤ等の女性たちが、繰り返し繰り返し語っても、このクレオパ夫妻もまた、女性たちの証言を信じられなかったのである。クレオパ夫妻がイエス様の弟子たちとの繋がりがあったのは、イエス様がユダヤのリーダーとなり、自分たちがその下で働くという一つの目的によってであろう。しかし、イエス様が死んでしまったと思っている以上、もうイエス様の弟子たちと共に生きていく意味も見い出せず、自分の進もうとしていた目標を失い、失意の中にあったのであろう。

○15節「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。」16節「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。」とある。「さえぎられていて」は、動詞の未完了受動態という使われ方がされていて、「さえぎられ続けていた」ということを表す他に、「支配され続けていた」、「捕えられ続けていた」、「固執され続けていた」ということを表す。二人の目は「さえぎられ続けていた」故に、イエス様が近づいて共に歩いていても、イエス様だとは分からなかったのである。この「目」は明らかに肉眼の目のことではない。聖書の中に、霊の目ということばはないが、心の目ということばは一か所だけある。ここで使われている目は肉眼の目ではないので、心の目ということで理解したいと思う。

○イエス様は復活の姿を二人に現したことからはじまり、エマオという村に着くまでの道中ずっと、二人の心の目が開かれるようにと働きかけ続けた。しかし、簡単には心の目は開かれなかった。二人の心の目は、「捕えられ続けていた」、「固執され続けていた」のである。死んだ人間がよみがえるなどということはありえないという考え方に捕らえられ、固執し続けられ、その考え方から抜け出ることができなかったのであろう。あるいは、イエス様がユダヤのリーダーとなるということに期待をかけ従ってきたが、自分の進もうとしていた目標を失い、この後、何をして生きていけばよいのか・・。そんな思いに「捕えられ続けていた」のかもしれない。クレオパ夫妻は復活のイエス様のお姿を見てもイエス様が復活したことが分からなかった。そんな二人にイエス様は、最後の晩餐を思い起こさせるような出来事を視覚を通して見せることによって、31節「彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。」のである。「開かれ」は受動態という形の動詞であり、まさしく、二人の心の目を、神様が開いて下さったのである。

○32節「そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」クレオパ夫妻が失意の中にあり、生きる希望を見出せなかったであろうと思われるその時にも、夫妻の心はうちに燃えていたというのである。「燃えていた」の動詞は受動態であり、「燃やされ続けていた」ということである。私たちの人生においても同じである。私たちの人生は、時に失意の中にあっても、イエス様が共にいて下さる故に、心はうちに燃やされ続けているのである。

○心の目が開かれたクレオパ夫妻は、イエス様の弟子たちのいるエルサレムに戻って行く(33節)。イエス様の弟子たちと共に生きていく意味を失い故郷に戻った夫妻が何のためらいもなく、Uターンするかのように弟子たちとの交わりの中に戻って行った。

○私たちは、失意の時には尚更、イエス様が共にいて下さり、私の心を燃やし続けて下さっていることに信仰の目を向けたい。共におられるイエス様が見えなくなっている心の目を開いて下さるイエス様に信仰の目を向けたい。

2018年4月15日(日)

「復活の主を確信することで恐れから解放される」

               テキスト:ルカの福音書24:36~47 (170頁)

 

○エマオの途上で復活されたイエス様にお会いしたクレオパ夫妻は急いでエルサレムに引き返した。そして、十一使徒とその仲間が集まり、その日起こったイエス様のよみがえりの驚くべき出来事を互いに報告しあっている中に加わり、クレオパ夫妻も復活されたイエス様に出会った驚くべき出来事の報告をした。イースターの日の同じ時間の出来事を記していると考えられるヨハネの福音書20:19以下の記述では、19節に「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。」とある。ヨハネと違ってルカは、「戸がしめてあった」(新改訳2017では「戸に鍵がかけられていた」)ことを語っていないが、「イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた」ということばが、「戸に鍵がかけられていた」ことを暗示しているのであろう。イエス様は戸に鍵がかけられていた部屋の弟子たちが話し合っているその真ん中に突然現れたのである。復活のイエス様は突然姿を現したり、消したりされた。これは人間の理解を超えている。

○37節「彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。」当時のユダヤ人には、「死者の霊が現世に出てくるという現象があり、それは恐ろしいものだ」という概念があったのであろう。弟子たちは幽霊を見ているのだと思ったのである。復活されたイエス様の目撃談を話してはいても、戸に鍵がかけられていた部屋の、しかも弟子たちが話し合っているその真ん中に突然イエス様が現れたのであるから、弟子たちが驚き恐れて、その現実を受け止められないというのは、ごく自然な反応であろう。むしろ、この現実を驚きもせずに受けとめていたならばその方が普通ではないだろう。

○イエス様はどうして戸をノックし、弟子たちが鍵を開けてくれてから部屋に入らなかったのであろうか?そんなことを考えもせずに突然、弟子たちの真ん中に現れてしまったのだろうか?・・そんなことはないであろう。だとすると、ちゃんと意味があって、突然、姿を現したということになる。では何の意味があったのであろうか?このようなことが考えられるのではないか?①意図的に弟子たちをビックリさせようとした。イエス様はユニークな方である故に、軽いジョーク的な意味合いで・・②今度はユダヤ人が自分たちを捕らえに来るのではと恐れていた弟子たちを恐れから解放するためのプロセスの1つとして・・おそらく、この目的があったのであろう。

○イエス様が、今度はユダヤ人が自分たちを捕らえに来るのではと恐れていた弟子たちを恐れから解放するためのプロセスはこのようになされていったのではないか。

①復活の体は、突然姿を現したり、消したりすることができる超自然的な体であることを見せ、復活は神様の御業であることを示した。②39節「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」十字架に釘付けにされた手足の傷跡を見せ、肉体を持ったイエス様を見せることによって、目の前にいるのは幽霊ではなく、死んだイエス様が肉体をもって復活したのであることを示した。更に、焼いた魚を食べる姿を見せることによって、肉体をもっての復活であることを示した。

○イエス様は、まず、視覚を通して復活の事実を示し、そして、復活は、既に、みことばによって約束されていたことを悟らせるために弟子たちの心を開かれ、みことばを思い出させようとされた。44~47節「さて、そこでイエスは言われた。『わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。』 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。『次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』」

○今日の私たちにも神様からの同様の働きかけがある。私たちが恐れに捕われてしまった時、私たちもイエス様の復活を確信することで恐れから解放されるのである。神様はイエス様の復活を想起させるようなある出来事を視覚に訴えて見せて下さり、復活のイエス様が共におられる事実に立って歩むことができるように、復活の事実を示すみことばを悟らせるために心を開いて下さっているのである。

2018年4月22日(日)

「復活は私たちの救いの保証」

  テキスト:使徒の働き1:1~3 (新約聖書227頁)

 

○『使徒の働き』は、『ルカの福音書』の続編である。『ルカの福音書』においては、イエス様が「行い始め、教え始められたすべてのことについて」記し、『使徒の働き』においては、よみがえられたイエス様が聖霊によって、イエス様の証人を通して、教会を用いて、イエス様がどのように行い、教え続けられたのかを記している。「行い」「教え」の主題は、「神の国」(3節)についてであり、それは、イエス様を通して神様がなされた人間の救いについてのことを指している。

○3節「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」イエス様は死刑判決が下された後、むち打ちの刑を受けられた。むち打ちの刑は恐るべき極刑の一部であり、それは残虐な拷問であった。むちは金属や、骨付きの皮製であり、死の一歩手前まで行われ、体からは血が流れた。イエス様は更に、王様が着る紫の衣を着せられ、王冠にみたてたいばらの冠をかぶらせられ、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫んで挨拶をされ、葦の棒で頭をたたかれ、つばきをかけられ、ひざまずいて拝んだりされた。嘲弄され、頭からは血が流れ、精神的、肉体的な様々な屈辱を受けられた。これだけでも耐えられないような苦痛であるが、イエス様はその後、両手足に釘を打ちつけられ十字架につけられた。十字架は、ローマ帝国における死刑の方法であり、それは、生きたままで十字架につけて、何もしないで、かなり長い時間十字架にかけられ死を待つというものだった。十字架刑の受刑者は、体力がなくなるにつれて、身体を持ち上げて息をすることができなくなり、呼吸困難と血液循環障害を起こして死ぬ。その間、人々の罵声を浴びながら死を迎えるという残酷な刑が十字架刑であった。イエス様は十字架刑において、人間が釘づけにされるという苦しみのみならず、できれば避けたかった、父なる神様との断絶刑(「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46))を受けられた。

○イエス様は人間の罪(神様から的を外していること、及び、犯す数々の行為罪)のために身代わりの刑を受けて下さった。それは、イエス様の十字架は私の罪(神様から的を外していること、及び、犯す数々の行為罪)を赦すための身代わり刑であったと信じる者に、罪の赦し(神様からの的外れの回復と、犯す数々の行為罪の赦し)と、永遠のいのち(神様との愛の交わりの中で神様と共に生きるいのち)を与えるためであった。

○イエス様は十字架において死に、3日後によみがえられた。イエス様の復活は罪の赦しと、永遠のいのちと、復活のいのち(イエス様の再臨の時には新しい体が与えられ、体と魂共々に神様と共に生き続けるいのち)を保証するのである。イエス様は復活の後、四十日という長い期間にわたって、弟子たちに何度か現れ(その間、五百人以上の信徒に同時に現れることもあった(Ⅰコリント15:6))、神の国のことを、すなわち、イエス様を通して神様がなされた人間の救いについてのことを話され、また、数多くの確かな証拠(両手足の釘の痕を見せる等)をもってご自身が生きていることを繰り返し示されたのである。イエス様の復活は人間の救い(罪の赦しと、永遠のいのちと、復活のいのち)の保証だったからである。私たちはこの保証をいつでも聖書を通して確信することができるのである。

2018年4月29日(日)

「聖霊のバプテスマを受けた私たち」

        テキスト:使徒の働き1:4~5 (新約聖書227頁)

 

○4~5節「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』」「彼らといっしょにいるとき」の時とは、特に、「天に上げられた日」(1:2)また、6~11節に描かれているイエス様の昇天の時のことを指している。イエス様は弟子たちとの別れの時、昇天の時に、「エルサレムを離れない」ように命じられた(弟子たちはガリラヤに戻ることを考えていたのかもしれない)。その理由は、「聖霊のバプテスマを受けるから」ということであった。「聖霊のバプテスマ」とは、イエス様が十字架にかかられる前夜、弟子たちに語られた「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。」(ヨハネ14:16~17)の事柄を指し、ルカ24:49では「わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。」と語られ、更に昇天の時に語られた「わたしから聞いた父の約束」のことを指している。

○「聖霊のバプテスマ」と、「バプテスマのヨハネが施していたバプテスマ」とは違うものであった。「バプテスマのヨハネのバプテスマ」とは、当時のイスラエル民族だけを対象にしたものであり、現在の私たちには関係のないバプテスマである。イエス様が地上に来られた時、神の民であったイスラエル民族は、自分たちは神から選ばれた民である故に何をしても許されるというような間違った選民意識を持ち、宗教的偽善と高慢な心で、神の御旨からはかけ離れた状態であった。バプテスマのヨハネは、キリストをメシヤとして迎え入れる心の準備をさせるために、悔い改め(考え方を変える)て、神に立ち返るよう宣べ伝えた。そしてそれに呼応した人々が、これからは考え方を変えますというしるしとしてバプテスマを受けた。これが「バプテスマのヨハネのバプテスマ」であった。

○「聖霊のバプテスマ」とは、人がイエス様を自分の罪からの救い主として信じる時に、その人をキリストの内にある者とし、キリストの体と統合させる聖霊の働きを指すと共に、イエス様を信じる一人一人をキリストの教会という一つの団体に結束させて、その教会をキリストのからだ、キリストの手足のごとくに用い、救い主キリストを証しするための聖霊の力づけのことを指す。

○私たちは、イエス様を救い主として信じた瞬間に、「聖霊のバプテスマ」を受けた一人一人なのである。

2018年5月6日(日)

「神様が造られる地上での神の国」

  テキスト:使徒の働き1:4~8 (新約聖書227頁)

 

○4~5節「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』」イエス様は弟子たちとの別れの時、すなわち昇天の時に、「エルサレムを離れない」ようにと命じられた(弟子たちはガリラヤに戻ることを考えていたのかもしれない)。その理由は、「聖霊のバプテスマを受けるから」ということであった。「聖霊のバプテスマ」とは、人がイエス様を自分の罪からの救い主として信じる時に、その人をキリストの内にある者とし、キリストの体と統合させる聖霊の働きを指すと共に、イエス様を信じる一人一人をキリストの教会という一つの団体に結束させて、その教会をキリストのからだ、キリストの手足のごとくに用い、救い主キリストを証しするための聖霊の力づけのことを指す。しかし、弟子たちには、「聖霊のバプテスマを受ける」という意味が理解できていなかったのであろう。なぜならば続く6節には「そこで」とあり、「そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。『主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。』」という問いかけをしているからである。イエス様は聖霊降臨、聖霊の内住が非常に大切なことである故、別れ際にも印象に残るよう、「聖霊のバプテスマを受けるから」と語れたのであるが、弟子たちは「エルサレムを離れないで」と言われたことや、何か特別なことが起きるのだろうと思ったことなどから、今こそ、イスラエルをローマ帝国の支配から解放してくださるのですかという問いかけをしているのである。その願いは、当時のユダヤ人全般が切望していたことであり、神の民として選ばれたイスラエルが何故、ローマ帝国の属国となり、様々な憂き目に遭うのかという払しょくできぬ疑問から発せられたものであろう。弟子たちの「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」という言葉には、依然として弟子たちがイエス様に抱いているメシヤ像(人間の業を超えている強大な力を持ってイスラエルを導いていくリーダー)が変わっていないことが表わされている。弟子たちにはイエス様が神政国家を再建されることを期待して、つき従ってきたという面が多々あるからである。そんな弟子たちの問いかけに対してイエス様は答えられた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」(7節)あなたがたが抱いている地上での神の国は間違っているし、そのような野望は抱くなと言われた。そして、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(8節)と、地上での神の国とはこのようにして造られていくのだと言われた。聖霊が臨む時、あなたがたは力を受け、エルサレム、すなわち、身近な人々、自分のまわりから、ユダヤとサマリヤの全土、すなわち、弟子たちの出身地、故郷、そして地の果てにまでイエス様の証人となると言われた。聖霊が臨むことによる賜物には色々な賜物がある(Ⅰコリント12章、等々)。しかし、「使徒の働き」が示す何よりもの聖霊の賜物は、イエス様の証人として生きるための聖霊の力づけである。

○イエス様の証人とは、イエス様に起こった十字架と復活の事実を証言する人ということである。イエス様の十字架と復活の出来事が自分の人生に何をもたらしたのかを証しするのである。イエス様を自分の神であり、罪からの救い主であると信じた時に、自分が犯した数々の罪の行為の赦しが与えられ、神様との交わりが回復された事実を証しするのである。その証しをする力を聖霊が下さるのである。神様が造られるこの地上での神の国は、私たちがイエス様の証人として生きることによってなされていくのである。

2018年5月13日(日)

「聖霊は希望を与えて下さっている」

                  テキスト:使徒の働き1:6~14 (新約聖書227頁)

 

〇イエス様はオリーブ山という山から昇天された。弟子たちは、イエス様が上って行かれる時、天を見つめていた。最愛なる師であるイエス様の十字架刑というあまりにもショックな出来事、そして、人間の理性を越えている復活等々、弟子たちは目の前に起こる衝撃的な出来事をただ目の当たりにし、それらの出来事にどのような意味があるのかも分からずに過ごしてきたであろう。そして、「聖霊のバプテスマを受ける」(使徒1:5)という意味も理解できていないままで、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(8節)というイエス様のことばを聞いたが、このことばの意味も理解はできていなかったであろう。しかし、イエス様は8節のことばを語ってから、「彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。」(9~10節)復活の後、師であるイエス様が側に居てくださる時、弟子たちはどれ程心強く、平安でいられたであろうか。しかし、エルサレムは依然不穏に満ち、次は自分たちが捕縛されるのではないかという恐れはあったであろうことを考えると、イエス様が昇天され、去って行ってしまう時に襲ってきたであろう、寂しさ、不安は計り知れない。弟子たちは、ただ愕然として天を見つめるより他はなかったのである。すると、天使が現れ、弟子たちに言われた。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(11節)天使は弟子たちに、イエス様と再び会えるのに、「なぜ天を見上げて立っているのですか」と問いかけたのである。弟子たちは、「またおいでになります」のことばに、イエス様がすぐに戻って来られると思ったかもしれない。いずれにしても、寂しさ、不安に包まれた弟子たちに生きる希望を与えたのは、最愛なる師であるイエス様に再びお会いできるという約束だったのである。

○弟子たちは、最愛なる師であるイエス様に再びお会いできるという希望、生きる力を与えられ、自分たちに危険がおよぶ可能性のある場所、エルサレムに戻り、「心を合わせ、祈りに専念」(14節)していくのである。一連の出来事の理解がおぼつかない弟子が祈ったこととは、おそらく、「もう間もなくイエス様にお会いできることを感謝します。その先は、ずっとイエス様が共にいてくださいますように」というような祈りだったのではないか。

○再びイエス様に会えるという約束は私たちにおいても実現していないが、しかし、イエス様と同じ本質を持った、もうひとりの助け主(ヨハネ14:16~17)が私たちの内に住んでおられるのです。

2018年5月20日(日)

「聖霊降臨によって生まれたキリストの教会」

              テキスト:使徒の働き2:1~13 (228頁)

 

○本日は教会歴のペンテコステ、聖霊降臨を記念し、感謝する日である。

〇イスラエルには三大祭があった。第一は「過越の祭り」、第二は「七週の祭り(五旬節:過越から七週間後)」、そして第三は「仮庵の祭り」。この祭りに、イスラエルの壮年男性は必ずエルサレムに巡礼して参加することが義務付けられていた(出エジプト23:14「年に三度、わたしのために祭りを行わなければならない。」出エジプト23:17「年に三度、男子はみな、あなたの主、主の前に出なければならない。」)。「エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいた」(5節)「住んでいた」とは「滞在していた」という意味。過越の祭りに来て、「七週の祭り」までの約50日間、そのままエルサレムに滞在していたということ(二つの祭りのために容易に往復できる距離ではなかった者たちが多くいた)。

〇使徒とイエス様の母や兄弟たち、イエス様に従ってきた女性たちが集まっていると、「すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。」(2節3節)今日の私たちがこの超常現象を理解し尽くすことはできないが、「この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。」(6節)とあるように、「突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起った」故、大ぜいの人々が集まって来たのである。この超常現象は聖霊を象徴しているのであろうが、神様はこのような超常現象をもって、目には見えない聖霊が、イエス様を信じる一人一人の内側に宿ったということが現実に起こったのだと分かるようにして下さったのであろう。

○この超常現象後に、すなわち、聖霊降臨後に使徒たちは、地中海世界全域に離散していたユダヤ人の様々な国の言葉で語り始めた。「聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに」(4節)話し始めたその内容は、イエス・キリストの生涯、十字架、復活の出来事だったのであろう。そしてその後のペテロの宣教(イエスの死と復活の意味について語る)によって、約3,000人の人々が信じ、洗礼を受け、使徒たちのグループに加わり、キリストの教会が誕生していった。キリストの教会が存在しているというのは、聖霊の降臨故なのである。

2018年5月27日(日)

「計り知れない主の愛の中で」

          テキスト:ヨハネの福音書14:21~24(新約聖書210頁)

 

○21節「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。」「わたしの戒め」とは、ヨハネ13:34「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」、この戒めのことであろう。愛し合いなさいと言われた「愛」、ギリシャ語アガペーということばは、見返りを期待しない一方通行に流れる犠牲愛であり、それは弟子たちのために、全人類の罪の贖いのために十字架上で命を捨てられたイエス様の愛、神様の愛である。私たちが、この犠牲愛で互いに愛し合うことは大変に難しいことである。故に、イエス様は、ヨハネ14:16の願い、「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」を父なる神様にして下さったのである。イエス様と同じ本質を持つもう一人の助け主聖霊は、イエス様を神であり、罪からの救い主であると信じる一人一人の内側に住んで下さっている(ヨハネ16:7参照)。その聖霊は、アガペーの愛で互いに愛し合うことに困難を覚える私たちを助けて下さっているのである。私たちは不完全な者であるが、聖霊の助けを頂きながら、互いに愛し合おうと努めている者、すなわち、イエス様の「戒めを保ち、それを守る人」なのである。故に、私たちはイエス様を愛している(「わたしを愛する人です」)者であり、父なる神様に愛され、イエス様に愛されている者なのである。「わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」

○22節「イスカリオテでないユダがイエスに言った。『主よ。あなたは、私たちにはご自分を現そうとしながら、世には現そうとなさらないのは、どういうわけですか。』」ユダ(ルカ6:16と使徒1:13では「ヤコブの子ユダ」、マタイ10:3とマルコ3:18のタダイと同一人物)にとっては、イエス様がご自身を現されるのが信仰者に対してだけであることは、イエス様の力を示すことが極端に限定されてしまい、もったいないことだと思われた。しかし、イエス様は23~24節で答えられる。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。」イエス様を神であり、罪からの救い主であると信じたクリスチャンは、聖霊の助けを頂きながら、互いに愛し合おうと努めている者であり、父なる神様に愛され、イエス様に愛されている者である。しかし、「わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。」とイエス様は言われる。ヨハネ14章17節には、イエス様と同じ本質を持つ、もう一人の助け主聖霊について記されている。聖霊は、イエス様を神であり、罪からの救い主であると信じる一人一人の内側に住まわれるが、「世」は聖霊を受け入れることができないと記されている。「世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。」「受け入れることができない」理由は、「その方を見ようとしない」「知ろうとしない」ということである。

○神様は、天地創造の初めにアダムを造られた時、アダムに自由意志という機能も与えられた。それら自由意志も含め、神様はその存在をご覧になり、非常に良かったと語られた。それは、深い思いを寄せてご覧になり、「愛おしい」という表現をされたことばであった。人間は、神様との愛の交わりの中で、神様の守りの中で、隣人との愛ある交わりの中で満ち足りて生きるようにと命を与えられた存在である。しかし、人類の先祖アダムが自らの意志で、その神様の意図とは違う生き方を選び取ったように(これが「罪」であり、意味は、的外れであるということ)、その後の人類も自分の意志で、神様のみこころとは違う、的外れな生き方(自分をルールの中心としたいという生き方)を選び取ってしまっている。その結果、多くの悲しみ、混乱を起こしてしまっているという現実もある。しかしそれは、神様の創造に失敗があったということではない。神様がお造りになったものには失敗がないからである。天地創造の初めに、「神はお造りになったすべてのものを見られた。」(創世記1:31)ということは、どこかに問題がありはしないかと調べたということではなく、神様が心を込めてお造りになったものに、改めて深い関心を寄せてくださったということを示している。お造りになったすべてのものをご覧になった神様は、「見よ。それは非常に良かった。」と語られた。その「なんと愛おしい存在であろうか」という思いは、アダムが罪を犯した後の人類に対しても同じであり、自由意志も含めて「なんと愛おしい存在であろうか」と常に思っておられるのである。私たち人間は今日も、神様の計り知れない愛の中で、自由意志を用いながら生かされている。そして、その自由意志によってイエス様を愛さない人もいるのである。

○ハイデルベルク信仰問答、問20~21の解説(吉田隆師)にこう記されている。

「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(Ⅰテモテ2:4)。神様は御自分のお造りになった人間が滅びることを決してお望みになってはいません(ヨナ4:10-11)。それにもかかわらず、すべての人が“自動的に”救われるわけではない、ということもまた聖書の教えです。「まことの信仰によってこの方(キリスト)と結び合わされ、そのすべての恵みを受け入れる人だけが救われるのです。」 このことは何か神様の大きな愛と矛盾する、あるいは不公平だと感じるかもしれません。けれども、よく考えてみますと、決してそうではないことに気づくでしょう。ちょうどアダムがロボットではなく、自分の意志を持つ人格的存在だったがために堕落したように、救いもまた自動的に与えられるものではありません。何の関心もない人も、誰かれかまわずエスカレーターで運ばれるように救われるわけではないのです。確かに、主イエスの救いはすべての人に、何の差別もなく無償で提供されます。けれどもそれは、安っぽいポケットティッシュのようなものではなかったはずです。独り子の命を犠牲にしてまでも私たちを救おうとされる計り知れない神の愛のプレゼントです。そうであればこそ、このプレゼントを大切に受け取ってくれる人の“心”が求められるのです。その人の心がキリストと「結び合わされ」て初めて、愛は伝わるものだからです。

2018年6月3日(日)

「この世にはない平安」

          テキスト:ヨハネの福音書14:25~27(新約聖書211頁)

 

○25節「このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。」イエス様は様々なことを弟子たちに話された。それは父なる神様のことばであった(ヨハネ14:24「あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。」)。イエス様はもうじきに、弟子たちと別れなければならず、直接、肉眼で見える形でイエスの容姿をもって弟子たちに語ることはできなくなる。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(26節)しかし、聖霊は弟子たちに、すべてのことを教え、イエス様が地上で弟子たちに語られたことば(父なる神様のことば)を思い起こさせるとある。

○内住の聖霊はイエス様が弟子たちに与えた影響よりも強い影響を及ぼした。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」(ヨハネ16:7)地上におられた時のイエス様は完全な人間となられた故、肉体の制約のもとに、一時に一か所にしかいることができなかった。しかし、聖霊は肉体をもっていないため、すべての弟子たちの内に同時に住み、いつまでも弟子たちと共におられ、決して離れて行ってしまわれることがなかった。肉眼でイエス様を見て、みことばを聴いていた弟子たちよりも、聖霊が内に住んでおられるクリスチャンの方が、より大きな特権と祝福に与ることになるとイエス様は言われた。その「内住の聖霊はみことばを思い起こさせて下さる」のである。この時、周囲の雰囲気からすでに不穏な雰囲気を感じていたと思われる弟子たちは言いようもない不安に襲われていた。そして、イエス様の昇天後には現実に迫害の手がのびて来る。その時、弟子たちはまさしく27節のみことばを思い起こさせられたであろう。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」イエス様は「わたしの平安を与えます」と言われた。ヘブル語のシャローム「平和」は、単に問題がないという意味ではない。私たちの最も善きものを育てるすべてのものを「平和」という。これから十字架上の苦しみに向かっていかれるイエス様を見れば、決して「平和」「平安」であるとは受け取れないのが普通であろう。しかし、イエス様は「平安」だったのである。まさしく「世が与える」平安ではなかったのである。

○聖霊は弟子たちに、すべてのことを教えて下さる。「内住の聖霊は神様の御旨を教えて下さる」具体的には聖書に記されている神様の御旨を教えて下さるのである。

○「この世にはない平安」は、聖霊によって、みことばを教えられ、みことばを思い起こさせて頂くことによって与えられるのである。

2018年6月10日(日)

「主が喜ぶことを喜ぶはずである」

     テキスト:ヨハネの福音書14:28~29(新約聖書211頁)

 

○28節「『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。」イエス様は十字架の苦難の後に死より復活され、弟子たちと再会する。しかし、その再会よりも喜ばしいことは、聖霊がイエス様を信じる弟子たち一人一人の内に内住されるということであった。イエス様は、聖霊降臨が起こった時に弟子たちが信じるために、事前に、父なる神様から聖霊が与えられることを話しておいて下さった(29節「そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。」)。

○イエス様は「あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。」(28節)と言われた。イエス様は聖霊がイエス様を信じる弟子たち一人一人の内に内住されるということを喜ばれた。地上におられた時のイエス様は完全な人間となられた故、肉体の制約のもとに、一時に一か所にしかいることができなかった。しかし、聖霊は肉体をもっていないため、すべての弟子たちの内に同時に住み、いつまでも弟子たちと共におられ、決して離れて行ってしまわれることがなかったからである。ヨハネ16:7には「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」と記されている。イエス様は聖霊がイエス様を信じる一人一人の内に内住されるということを喜ばれた。もし弟子たちがイエス様を愛しているならば、愛する方が喜ぶことを喜ぶはずであると言われた。私たちもイエス様を愛している。故に、イエス様が喜ぶことを喜ぶはずである。

2018年6月17日(日)

「主の平安を保つ」

               テキスト:ヨハネの福音書14:30(新約聖書211頁)

 

○30節「わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることはできません。」

この後、この世の支配者であるサタンがイエス様を捕縛しに来て、その後、残虐な、むち打ち刑、十字架刑を受ける。傍から見れば、サタン的な行為が際立って見えるが、その時でも「彼はわたしに対して何もすることはできません」とあるように、サタンがイエス様の平安を奪うことはできなかったということである。ヘブル語のシャローム「平和」は、単に問題がないという意味ではない。私たちの最も善きものを育てるすべてのものを「平和」という。「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)父なる神様とイエス様は、無限、永遠、不変の愛によって結ばれている。その結びつきによる平安をサタンが奪うことはできなかった。イエス様は言われた。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」(ヨハネ14:27)私たちにもイエス様の平安が与えられているが、私たちはイエス様ではないので、いついかなる時もこの平安を保つということはできないであろう。しかしイエス様は弟子たちに、そして今日の私たちに、みことばを与えて下さった。「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。」(ヨハネ17:14)私たちは、みことばによって主を信頼し、サタンと戦い、主の平安を保つ者とされているのである。エペソ人への手紙6:10~17「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」

<イエス様のむち打ち刑~十字架刑>

イエス様は死刑判決が下された後、むち打ちの刑を受けられた。むち打ちの刑は恐るべき極刑の一部であり、それは残虐な拷問であった。むちは金属や、骨付きの皮製であり、死の一歩手前まで行われ、体からは血が流れた。イエス様は更に、王様が着る紫の衣を着せられ、王冠にみたてたいばらの冠をかぶらせられ、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫んで挨拶をされ、葦の棒で頭をたたかれ、つばきをかけられ、ひざまずいて拝んだりされた。嘲弄され、頭からは血が流れ、精神的、肉体的な様々な屈辱を受けられた。これだけでも耐えられないような苦痛であるが、イエス様はその後、両手足に釘を打ちつけられ十字架につけられた。十字架は、ローマ帝国における死刑の方法であり、それは、生きたままで十字架につけて、何もしないで、かなり長い時間十字架にかけられ死を待つというものだった。十字架刑の受刑者は、体力がなくなるにつれて、身体を持ち上げて息をすることができなくなり、呼吸困難と血液循環障害を起こして死ぬ。その間、人々の罵声を浴びながら死を迎えるという残酷な刑が十字架刑であった。

2018年6月24日(日)召天者記念礼拝

「何の不足感もない所で生きている」

            テキスト:マタイの福音書22:23~33(新約聖書46頁)

 

○32節「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」このことばは旧約時代の出エジプト記で、モーセに対して語られた神様のことばであり、その時はすでに、アブラハム、イサク、ヤコブは死んでおり、地上には存在しなかったのであるが、神様の御側で今も生きているのであるということをモーセに示された。「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です」

○イエス様を神であり、罪からの救い主であると信じて天に召されていった方々は天国において生きておられる。天国はこの地上の世界とは全く違うところである。天国では「人はめとることも、とつぐこともない」(30節)。子孫を残していく必要もない。神様の御側で常に生き続けることができるという所が天の御国だからである。何の不足感もなく満ち足りて生きることができる所なのである。先に召された方々はそこで今も生きているのである。

2018年7月1日(日)

「私を贖うために」

        テキスト:ヨハネの福音書14:31(新約聖書211頁)

 

○「しかしそのことは」とは、残虐なサタン的な行為が際立って見えるイエス様の受難、イエス様の贖いの十字架のことを指す。(贖いとは、人間を罪の奴隷から、イエス様の死の代価によって買い取って下さったということ。罪の奴隷から解放して下さったということ。)イエス様の受難、贖いの十字架は、「わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行っていることを世が知るため」になされるのであるとイエス様は言われた。イエス様の贖いの十字架は、神様のご計画であった。

○イエス様は贖いの十字架は、「父の命じられたとおりに行っている」ことだと言われた。イエス様はヨハネ5:19でこのように言われた。「父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」イエス様の贖いの十字架は、イエス様よりも先に父なる神様が、その愛の御業をイエス様に示されたのである。そして、人類に対する父なる神様の愛の御業をご自分も行いたいと望まれるイエス様が、神様の贖いの計画通りに歩まれたのである。十字架は父なる神様ご自身も自ら十字架にかかられたということを世が知るためであった。「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」イエス様は贖いの計画を成し遂げに行こうと言われた。「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれた」(Ⅰコリント15:3)「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。」(Ⅰテモテ2:6)イエス様は私を罪の奴隷から解放するために十字架にかかって下さった。

2018年7月8日(日)

「わたしにとどまりなさい」

             テキスト:ヨハネの福音書15:1~14(新約聖書211頁)

 

「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」(ヨハネ14:31)イエス様は贖(*1)いの計画を成し遂げに行こうと言われた。イエス様の贖いの十字架を信じる者は、新しい契約によってイエス様とつながる者となる。かつて旧い契約の下にあったイスラエルの民(「純良種の良いぶどう」エレミヤ2:21)は、イザヤの預言通り、「甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。」(イザヤ5:2)神様がご自分とイスラエルの民とがつながるためにと遣わされた預言者を何度となく迫害し、更にはこの後イエス様をも憎み、そして殺す。かつてのイスラエルの民、そして、イエス様を憎む者は、「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き」(2節)「枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」(6節)とイエス様は言われる。イエス様は何度も「わたしにとどまりなさい」ということを言われた(4、5、6、7、9、10節)

1.イエス様につながって(とどまって)生きるには

 ○イエス様の戒めに生きる:イエス様の戒めとは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと」(12節)である。イエス様が十字架によって示して下さった愛をたくさん知る必要がある。その愛を知ることによって、隣人を自分のごとくに愛する者へと導かれるのである。

 ○教会とつながる:エペソ5:23には「キリストは教会のかしらであって」とあり、コロサイ1:24には「キリストのからだとは、教会のことです。」とある。イエス様につながって生きるには教会とつながって生きる必要がある。「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」(エペソ1:23)教会とつながりながら満たされて生きるのである。

2.イエス様につながって(とどまって)いなければ

 ○死んだ者と同じである:ぶどうの木の枝は、ぶどうの木につながっていてこそ生きているものとなる。

 ○実を結ぶことができない:「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。」(4節)「実」とは、イエス様の贖いの十字架を信じ、イエス様につながる者が起こされるということ。そのためにも、私たちはイエス様につながり、実を結ぶために必要な養分を頂くのである。

*1 贖いとは、人間を罪の奴隷からイエス様の死の代価によって買い取って下さったということ。罪の奴隷から解放して下さったということ。

2018年7月15日(日)

「宣教の実の喜びで満たされるイエス様の友」

         テキスト:ヨハネの福音書15:1~15(新約聖書211頁)

 

イエス様の贖いの十字架を信じる者は、新しい契約によってイエス様とつながる者となる。(以下の1.と、2.は先週学んだこと)

1.イエス様につながって(とどまって)生きるには

 ○イエス様の戒め(「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと」12節)に生きる。

 ○教会とつながって生きる:「キリストは教会のかしらであって」(エペソ5:23)「キリストのからだとは、教会のことです。」(コロサイ1:24)「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」(エペソ1:23)教会とつながりながら満たされて生きる。

2.イエス様につながって(とどまって)いなければ

 ○死んだ者と同じである:ぶどうの木の枝は、ぶどうの木につながっていてこそ生きているものとなる。

 ○実を結ぶことができない:「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。」(4節)「実」とは、イエス様の贖いの十字架を信じ、イエス様につながる者が起こされるということ。

3.イエス様につながっている者は、実を結ぶという喜びをイエス様と共有する

11節「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」「これらのこと」とは、上記の1.と、2.の内容であるが、イエス様につながっている者を通して、イエス様につながる者が起こされるということは、イエス様の喜び(「わたしの喜び」)であり、その同じ喜びがクリスチャンの心の中にもある(喜びの共有)。そして、その喜びは、イエス様から満ち溢れるほどに与えられる。

4.イエス様につながっている者はイエス様の友である

15節「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」「しもべ」ギリシャ語デューロスは、かつては、「神の奴隷」、「神の召使い」という称号としても使われ、モーセ(申命記34:5)や、ヨシュア(ヨシュア記24:29)や、ダビデ(詩篇89:20)にも、そのような称号が使われた。すなわち、それは決して恥ずかしい称号ではなかった。にもかかわらず、なお、イエス様は、「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。・・・わたしはあなたがたを友と呼びました。」と言って下さる(ルカ12:4「わたしの友であるあなたがたに言います」)。そのように「友」と呼んで下さる理由は、「しもべは主人のすることを知らない」が、イエス様は「父から聞いたことをみな」弟子たちに知らせたからだと言われる。イエス様は、父なる神様から聞いた贖いの十字架の計画を弟子たちに知らせた。イエス様につながっている者は、イエス様の「友」であり、友である故に、贖いの十字架の計画を教えて頂き、そして、その宣教を託して下さっているのである。

2018年7月22日(日)

「捜し、待ち続ける天のお父様」

    テキスト:新約聖書ルカの福音書15:1~24(146頁)

 

○この、見つからなくなった羊と銀貨のたとえ話に共通していることは、持ち主が、羊や銀貨を「なくした」(4節、8節「なくした」)ということと、そして、羊や銀貨を見つけるまで探し続ける持ち主の姿と、見つけ出した時に、持ち主が大喜びする姿である。共に持ち主は父なる神様を表わしている。

○羊の体長や体重は品種により大きく異なり、メスの体重はおよそ45~100kg、オスはより大きくて45~160㎏ある。生後2か月ほどの子羊で20~30㎏であるが、このたとえ話での羊は子羊を意図しているのではないと思われる。なくした羊を捜し出し、見つけた持ち主は大喜びで重い重い羊をかついで帰ってお祝をしたのである。

○銀貨は持ち主のところに戻りたいなどの感情はない。

○この、羊と銀貨のたとえの主眼は、見つけ出されたというところにある。

○11節からの放蕩息子のたとえの弟息子は、イエス様の話を聞こうとして、みもとに近寄って来た(1節)、「取税人、罪人」と呼ばれていた人々を表わしている。取税人は祖国のユダヤを征服したローマ政府のために税金を徴収するための請負人であった。あらゆる不法な徴収によって私服を肥やしていた彼らをユダヤの人々は盗賊や殺人者と同一の人種とみなし、仲間はずれにし嫌っていた。しかし、この職に就きたくお金を出して取税人の権利を買い取りその職に就く者もいた。しかし、そこまでしてもその職に就きたいと思うに至るその人の人生には、家庭環境等々、様々なことがあったのであろう。また、仕事柄、礼拝することができない取税人やその他の人々をユダヤの人々は「罪人」と呼んだ。

○16節「豚の食べるいなご豆」

当時の裕福なローマ世界では、人がいなご豆を口にするということはなかったであろう。(いなご豆はちょうほうされたが、そこら辺に生えているものだった)

○「我に返った」というのは、弟息子が自らの力で我に返ったということを伝えようとしているのではない。羊、銀貨のたとえから考えても、この「我に返った」のは、父なる神様の側からの働きかけを表している。神様が弟息子を我に返らせたのである。

 

○17~19節「しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」もちろん、このたとえに出てくるお父さん(父なる神様を表わしている)は、愛に満ちた方であるから、この息子が、財産を失い、惨めな思い、孤独感を味わい、それ故にそのお父さんのところに戻りたいという思いを持ったということは当然考えられることであるが、羊、銀貨のたとえ(羊、銀貨のたとえの主眼は、持ち主に見つけ出されたということ)の一連の流れからして、この息子が、お父さんのところに戻りたいと思った一番の理由は、飢え死にしそうだったからであると考えられる。しかし、理由はどうであれ、戻りたいという思いにさせて下さったのは父なる神様であるということを表わしている。

○この失われた羊と銀貨のたとえの主眼点は、探し続ける持ち主と探し出した時の持ち主の計り知れない喜びであり、そして、この出て行った息子のたとえの主眼点は、息子が戻ってくると信じて待ち続ける愛に満ちたお父さんにある。

○神様は、人間を、「御前で聖く、傷のない」「神の子ども」としてお造りになり、ご自身との愛の交わりの中で満たされて、喜んで生きて欲しいとの願いで、人間を造られた。これが神様が人間を造られた目的である。そのような人間に対する神様のお考えは首尾一貫しており、変わることがない。故に、罪(神様から的をはずし)を犯し、神様ご自身との愛の交わりが壊れてしまった人間を、もう一度、ご自身との愛の交わりに生きるものとして回復させようと、イエス・キリストによる贖いの十字架を実行されたのである。イエス・キリストの贖いの十字架は、人間を本来の姿(神様が人間を造られた目的)に回復させるためのものであった。

○天の父なる神様は、神様との愛の交わりが壊れてしまっている人々を「探し続け」(働きかけ続け)、神様との愛の交わりに戻ってくることを待ち続けておられるのである。

○ヨハネの手紙第一 4:10

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

2018年7月29日(日)

「あなたはいつも私といっしょにいる」

                      テキスト:ルカの福音書15:11~32(新約聖書147頁)

 

 

○ルカ15:1~3「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。『この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。』そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。」11節から記されている放蕩息子のたとえと言われるイエス様の話しの主眼は、パリサイ人・律法学者たちの神様観を正すことにあった。彼らの神様観は29節のことばで言い表されている。「しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。』」

○パリサイ人・律法学者たちは、「長年の間、天の父なる神様に仕え」ていると感じていた。彼らは、神様との関係を、雇う側と仕える側の関係と捉えていたのである。

○神様は、人と、いのちの交わり、愛の交わりを持ちたいと願い、人に生命を与えてくださった。神様は、人間が何かをしなければ存在できないような御方ではない。人間から何かをしてもらうことを期待して人間を造られたわけではない。しかし、人間は、神様に「報いる」という意味で自分が何かをしなくてはならないのではないかと考えやすい者であり、神様にきちんとお返ししていない自分のことを、神様が「怒って」いるのではないかというような「おびえ」を感じたりしながら生きやすい者なのである。そして、自分にむち打って、熱心になって、何とか神様を喜ばせようとしてしまったりし、そのようにして、神様が喜んでくださったように思える時には、神様を近くに感じられたり、そのようにできなかった時には、神様が御顔を背けておられるように感じられたりしてしまいやすい者であろうと思う。それは、人間の内側に住みついている罪の性質である自己中心性によって、「報い」を求めるという自己中心的な「計算」をしてしまうというものがあるからかもしれない。あるいは、自己保身ゆえに、神様の御旨に従っていれば自分を守ってくれる神様だと思い、自分を守るための手段として神様を愛そうとしているのかもしれない。

○パリサイ人・律法学者たちも、このような神様との関係に生きていたのだと思われる。そして、神様の戒めを重く感じ、苦痛になっているのだと、イエス様は彼らの心の中を表現されたのである。

○神様の律法は、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」という戒めと、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めに集約され、まとめられる。これは、神様との交わりのあり方と、そして、隣人との交わりのあり方を示したものである。罪が人間の中に入る以前のアダムとエバは、考えること、行うことが、神様の律法に一致していて、自然と造り主である神様を愛し、神様を中心として生きるとともに、隣人を自分自身のごとくに愛する状態にあった。これが、神様のかたちに造られた人間の本来の状態であった。しかし、罪が人間の中に入って以降は、この神様の律法を完全に守ることのできる人間はいない。しかし、パリサイ人・律法学者たちは、戒めを破ったことは一度もないと自負していたのである。そして、長年の間、天の父なる神様に仕え、戒めを一度も破ったことのない自分たちに対して、それに見合った報酬を頂けていないと感じていたのである。

○しかし、そんなパリサイ人・律法学者たちに、天のお父様は、「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。」と言ってくださっているというのである。

「おまえはいつも私といっしょにいる」、それは、天のお父様との愛の交わりの中に入れてくださっているということである。しかも、イエス様の敵対者であったようなパリサイ人・律法学者たちに「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。」と語り続けてくださっているのである。何故、天のお父様は、このような思いで、パリサイ人・律法学者たちを見てくださっていたのか?もちろん、神は愛だからということにはなるが、それとともに、神様が人間を造られた目的は首尾一貫して変わらないからであると言える。神様は、人間と、いのちの交わり、愛の交わりを持ちたいと願い、人に生命を与えられた。人間関係でもそうではないかと思うが、交わりを持つ関係の中で一番喜びを感じるのは、相手が喜んでいる姿を見る時ではないだろうか。天のお父様が私たちと共に生きてくださっていて一番喜ばれるのも、私たちが喜んで生きている姿なのだと思う。神様から頂いた生命を喜んでいる姿こそが、神様の一番の喜びだと思う。パリサイ人・律法学者たちに欠けていた一番大きなことは、この喜びだったのだろう。天のお父様は、喜んで生きていないその姿をどれほど心配し、そして、苦しんでおられたであろうか・・。天のお父様は、そんなパリサイ人・律法学者たちに、「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。」と語り続けてくださっていたのである。

○そして、それは、今日において、パリサイ人・律法学者たちのような考え方で生きている一人一人にも同じく、天のお父様は語り続けてくださっているのである。

2018年8月5日(日)

「福音宣教のためにも選ばれた」

            テキスト:ヨハネの福音書15:1~16(新約聖書212頁)

 

○イエス様の贖いの十字架を信じる者は、新しい契約によってイエス様とつながる者となる。イエス様は弟子たちに(イエス様とすでにつながっている者たちに)何度も、「わたしにとどまりなさい」(つながっていなさい)ということを言われた(4、5、6、7、9、10節)。4節「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。」イエス様につながっていなければ実を結ぶことができない(イエス様につながって生きるとは、イエス様の戒め「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと」(12節)に生きようとすること)。「実」とは、イエス様の贖いの十字架を信じ、イエス様につながる者が起こされるということ。そして、イエス様につながっていれば多くの実を結ぶ(「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」(5節)。

○イエス様は、弟子たちがイエス様の贖いの十字架・復活を宣べ伝え、信じる者が起こされるためにということのためにも弟子たちを選んだのだと言われた(「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため」16節)。福音を宣べ伝えるために弟子たちが地上に存在させられたということではない。イエス様を信じた弟子たちには福音宣教の働きが託されるということである。それは、「友」と呼んで下さるイエス様との関係の中で、聖霊の働きかけの中で贖われた喜びが動機となり福音を宣べ伝える者となるのである。

○「また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(16節)イエス様は、私たちがイエス様の名によって父なる神様に、イエス様を信じる者が起こされることを求めれば、信じる者を起こして下さると約束して下さった。信じる者が起こされることはイエス様の喜びであり、その同じ喜びがクリスチャンの心の中にもある(喜びの共有)。そして、その喜びは、イエス様から満ち溢れるほどに与えられる(11節)。

○イエス様の戒め「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと」(12節)に生きようとしていれば、そして、イエス様を信じる者が起こされることを求めれば、信じる者は起こされるのである。私たちは、私たちを友と呼んで下さるイエス様に、福音宣教のためにも選ばれた者なのである。

2018年8月12日(日)

「神様に尋ねつつ現実をそのまま受けとめる」

          テキスト:伝道者の書1:12~15(旧約聖書1,102頁)

 

○13節「天の下で行われるいっさいの事」とは、「日の下で」ということばと対比的に使われていることばであり、「日の下で」が、この目に見える現実の世界を表しているのに対して、「天の下で」は、この目には見えない世界のことを表しており、それは、神様がなさっておられる、神様の領域のことを表している。

○著者ソロモンは、目に見える現実の背後にあって神様がなさっておられる領域を知ろうとし、「知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした。」が、「これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ。」とあるように、それは労苦する辛いことだった。私たちの日常の現実においても、何故このようなことが自分に起こっているのだろうか?何故、神様は、自分にとって苦しいこの状況をこのままにされているのだろうか?と思い悩み、疲れ果て、希望を見失うこともあるであろう。しかし、私たちが神様のなさっている領域について尋ね、探り出そうとする営みは、神様が私たちに与えたつらい仕事なのだということを覚えつつ、なお、私たちは神様に対して問いかける必要がある。問いかけても分からなくても、問いかける必要があるのである。それは、神様から私たちに与えられたつらい仕事だからである。

○14節「私は、日の下で行われるすべてのわざを見たが、見よ、すべては空しく、風を追うようなものだ。」、ソロモンは、この地上で行われているすべての営みと、そこに起こってくる現実を見る時に、そのすべてがむなしく、風を追いかけているようなものだと述べる。伝道者の書の大切な教えは、神様抜きでこの世界を見たならばすべてがむなしいということであるが、本日の聖書箇所が述べる大切な事柄は、目に見える現実の背後にあって神様がなさっておられる事柄を尋ねることと、そして、15節「曲げられたものを、まっすぐにはできない。欠けているものを、数えることはできない。」とあるように、神様が曲げておられるものを私たちはまっすぐにはできないということである。神様がなさっている事柄を私たちが変えることはできないのである。目に見える現実を尋ね求めても答えが見えないことがあるであろう。しかし、私たちがその現実をそのまま受けとめる大切さが述べられているのである。どんな時でも変わらぬ愛を注いでくださっている神様を信じながら、今ある現実をそのまま受けとめるのである。

2018年8月19日(日)

「死んで終わりならば今のすべては空しい」

         テキスト:伝道者の書2:12~17(旧約聖書1,103頁)

 

○ソロモンは、神様が知恵の心と判断する心をお与えになったが故に、彼の知的優秀さは後代までの語りぐさとなったほどの人物だった。そんなソロモンから見ると、ほとんどの人間の生き方は愚かに見えたであろう。

○13節「私は見た。光がやみにまさっているように、知恵は愚かさにまさっていることを。」ソロモンは、神様から授かった知恵をもって生きる者は、神様とは無関係に生きる者に優っていると述べる。

○14節「知恵ある者は、その頭に目があるが、愚かな者はやみの中を歩く。」ソロモンは、神様から授かった知恵を持つ者は、自分の人生の見通しをつけることができるという点で優れていると述べる。「しかし、みな、同じ結末に行き着くことを私は知った。」すべての人間に死はおとずれるということがわかったと述べる。15節「私は心の中で言った。『私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、それでは私の知恵は私に何の益になろうか。』私は心の中で語った。『これもまたむなしい』と。」すべての人間に死がおとずれ、死んで終わってしまうとすれば、神様から授かった知恵も死ということに対して無力であるならば、その知恵が何の益になるのか?これもまたむなしいと述べている。

○16節「事実、知恵ある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、いっさいは忘れられてしまう。知恵ある者も愚かな者とともに死んでいなくなる。」この地上で、いかに賞賛を受けても、時が経つとすべてが忘れ去られてしまうということのみならず、愚かに見える者とともに同じく死んでいなくなる。そのように考えるとソロモンには「私は生きていることを憎んだ。日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだ。すべてはむなしく、風を追うようなものだから。」(17節)という思いが湧き出てくるのである。

○イエス様を自分の罪からの救い主と信じた私たちは、永遠に神様と共に生き続けるということを知っている。そして、常に、その永遠という視点で今を見る必要がある。神様と共に生きる、生き続けるという視点で今何をすべきなのかを考える必要がある。

○この人生が死んで終わりと考えるならば、「目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみを」(1:10)するという快楽の追求に走るということもあるだろう。何をしたって意味がないと無気力になることもあるだろう。

○死んで終わりならば、今のすべては空しいのである。

2018年8月26日(日)

「人間にとってのすべてとは」

              テキスト:伝道者の書12:13~14(旧約聖書1,115頁)

 

○13節「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。」とは、「これらすべてを聴いてきたことの結論とは」という意味。よって13節は、「これらすべてを聴いてきたことの結論とは、神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」ということばである。

14節には「神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」とあり、「さばく」ということばが出てくるが、伝道者の書の中心的なメッセージは、神様を抜きにしたならば全てが空しいということであり、伝道者の書には、人の行いに対して神様がさばきを与えるという思想よりも、毎日の生活を、家族や友との交わりを、神様の恵みとして受け止め、今、この時を喜びながら生きることの勧めが描かれている。すなわち、この伝道者の書における「神を恐れる」とは、神様を恐ろしい方として委縮することではない。13節にあるように、「神を恐れる」とは「神の命令を守る」ということであり、「神の命令」とは、神様と隣人との交わりのあり方を示された、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」という戒めと、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めに集約される。

○私たち人間は、神様との愛の交わりの中で、神様のもとで生きることによって満たされて生きるようにと命を与えられた存在である。伝道者の書の中の有名なみことばの一つである、12章1節の「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」というみことばも、あなたの身体と五感が機能しているうちに、「今、ここで」の感覚を大切にして、あなたの創造者に感謝して生きなさいという勧めである。

○私たちイエス様を信じる者は、神様の「さばき」「判決」を恐れる必要がない。イエス様は私たちが神様との交わりに戻れるように、私たちのすべての罪を背負い、罪人のままの私たちを神の子どもとして受け入れるために、ご自分の命を十字架上にて捨て、よみがえって下さったからである。それほどまでに私たちを愛して止まないのだということを示して下さった。

○私たちが世の終わりの時に神様の御前で申し開きをするのは、犯してしまった罪や失敗の数々ではない。私たちがその時に申し開きをするのは、地上での生涯において、私に命を、身体と心と五感を与えて下さった創造者を覚えて、神様に感謝し、喜び、楽しみながら生きたかどうかである。当然、そこでも、喜べたかどうかで、評価や判決がなされるのではない。

○「これらすべてを聴いてきたことの結論とは、神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」私たちは、自分に命が与えられた目的にかなって、命を与えてくださった創造者を覚え、今この時、与えられている恵みに感謝をし、神様と隣人とを愛して生きるように努めて生きることによって、幸いな生涯をおくるお互いでありたいと思う。これが人間にとってのすべてであるから。

2018年8月26日(日)

「すべては神様の恵みであると認めて生きる」

          テキスト:伝道者の書2:18~26(旧約聖書1,104頁)

 

○18節「私は、日の下で骨折ったいっさいの労苦を憎んだ。後継者のために残さなければならないからである。」ソロモンは、後継者のことに思いを向けた結果、これまでの人生において自分が骨折ったいっさいの労苦を憎んだとある。21節には「どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分の分け前を譲らなければならない。これもまた、むなしく、非常に悪いことだ。」とある。

○ソロモンが死ぬと、その子レハブアムが王となり、莫大な遺産を受け継ぐが、レハブアムは、ソロモンの晩年の圧政に不満を抱く人々への対応に思慮を欠く言動を取り、その結果、ヤロブアムを王とする10部族の分離独立を許してしまうという歴史がある。レハブアムはソロモンの死後に王となるが、ソロモン王の晩年に、後継者問題があがる度に、子どものレハブアムの名前があがっていたのであろう。レハブアムは「何の労苦もしなかった」だけにとどまらず、人間性にも(Ⅱ歴代誌10:1~14参照)疑問を感じる人物であり、後継者問題が出る度に、ソロモンは自分の生涯を空しく思い、絶望感まで抱いたのであろう。

○ソロモンは22、23節で「実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい。」と述べている。しかし、絶望感まで抱く後継者問題に思いを馳せていった結果、ソロモンは1つの真理が分かったと述べている。24節「人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦に満足を見いだすよりほかに、何も良いことがない。これもまた、神の御手によることがわかった。」労苦から生まれる結果に期待するのではなく、労苦のただ中に喜びを見い出させて下さる神様の御業が。神様がいのちを守ってくださるのでなければ、誰も「食べたり」「楽しんだり」はできないのだと述べている(25節)。

○神様の存在を抜きにして生きている者は、あくせく働き財産を蓄えても、それを自分で楽しむことができず、それを、神様は、みこころにかなう人に与えてしまわれるのだと述べている(26節)。ここに記されている神様のみこころにかなう人とは、富も知恵も、自分で獲得したものではなく、神様の恵みであると謙遜に認める人のことである。

○自分の生涯に対する空しさ、絶望感から解放される術は、すべては神様の恵みであると認めて生きるということである。

2018年9月9日(日)

「すべてを神様の時に美しくしてくださる」

       テキスト:伝道者の書3:9~11(旧約聖書1,105頁)

 

○9節「働く者は労苦して何の益を得よう。」とは、先に学んだ1章3節や2章11節の繰り返しであり、10節「私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。」とは、1章13節とほぼ同じ繰り返しである。伝道者の書の大切な教えは、神様抜きでこの世界を見たならばそのすべてがむなしいということであるが、神様の御前にあって自分はどのように生きているのかという視点で自分の人生を見ていく時に、自分の人生における労苦も、労苦だけではない違ったものに見えてくるのであるということを本日の聖書箇所も示している。

○11節「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」これは、地上のすべての「時」を支配しておられる神様が、「ご自身の時」に、「すべて」のことを、「美しい」と言える状況に変えてくださると期待し、今この現実を喜ぶことができるということである。それは、神様が「人の心に永遠を与えられた。」からである。すなわち、神様の視点でものごとを見ることができる心を与えられたからである。

○それでも、「人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(11節後半)とあるように、今ある現実に、どのような神様のご計画があるのかを知り尽くすことは私たちにはできないのである。

○分からないことは分からないままにして、地上のすべての「時」を支配しておられる神様が、「ご自身の時」に、「すべて」のことを、「美しい」と言える状況に変えてくださると期待して生きていきなさいと神様は語っておられるのである。

2018年9月16日(日)

「イエス様の証人への励まし」

        テキスト:ヨハネの福音書15:26~16:7(新約聖書213頁)

 

①聖霊と証人との宣教

イエス様は、弟子たちがイエス様の贖いの十字架・復活を宣べ伝え、信じる者が起こされるためにということのためにも弟子たちを選んだのだと言われた(ヨハネ15:16)。イエス様を信じた弟子たちには福音宣教の働きが託された。しかし、その働きを弟子たちが一人で担うのではない。復活した後、イエス様が父なる神様のもとから遣わす助け主としての聖霊と、イエス様のことばと御業の目撃者である証人とが共に宣べ伝えていくのである。イエス様の宣教活動を目撃した弟子たちが宣教をしていくということに大きな意味がある。そして、私たちもみことばを通しての目撃者(証人)とされている。

②宣教時に起こる迫害に備えて

「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。」(2節)弟子たちが宣教をする時、迫害されるということも起こる。弟子たちは諸会堂から追放され、彼らを殺す者がそうすることが神様に受け入れられる礼拝であると思う時が来ると予告している。迫害者がそのようにするのは、弟子たちがこの世のものではないということの故であり(ヨハネ15:19参照)、また、迫害者が父なる神様という御方もイエス様をも知らない故である(「彼らがこういうことを行うのは、父をもわたしをも知らないからです。」3節)。しかし、弟子たちの信仰が揺り動かされることのないように、イエス様は事前に、迫害がどのような性質のもので、なぜ起こるのかを伝えて下さったのである。「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。」(1節、「つまずくことのないため」は、「不意を食らうことのないために」とも訳すことができる)「しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。」(4節)みことばによる事前予告無しと、事前予告有りでは、事が起こった時の受け止め方が違うことを知っておられるイエス様が、弟子たちに迫害に関する事前予告をして下さったのである。

③迫害時に助けて下さる聖霊

「人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」(マタイ10:17~20)イエス様と同じ本質を持つもう一人の助け主である聖霊は、弟子たちの証言が迫害者によって損なわれることのないように助けて下さる。

「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」(7節)

2018年9月23日(日)

「聖霊は疑いの余地を残さない迄に明確に示す」

         テキスト:ヨハネの福音書16:8~11(新約聖書213頁)

 

イエス様の贖いの十字架・復活を宣べ伝える福音宣教の働きは、イエス様の十字架・復活の後、イエス様が父なる神様のもとから遣わす助け主としての聖霊と、イエス様のみことばと御業の目撃者である証人とが共に宣べ伝えていくのであるが、本日の聖書箇所から、聖霊が証しして下さるという3つの点を学ぶ。イエス様は言われた「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」(8節)「認めさせます」と訳したギリシャ語エレゲインは、証人や公判中の者や議論の反対者を厳しく詰問する時に用いることば、ある人が自らの誤りを理解し承認するまで、あるいはかつて分からなかったある議論の真意を認めるまで彼を詰問するという意味で使われることばである。聖霊が疑いの余地が一つも残らない迄に明確に示すということが述べられている。

①聖霊は「罪について」疑いの余地が一つも残らない迄に明確に示す。

9節「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」ここで述べられている「罪について」とは、イエス様を神であり、罪からの救い主であると信じないということが罪であるということ。「罪からの救い」とは、イエス様を神であり罪(神様から的を外していること、及び、犯す数々の行為罪)からの救い主であると信じることによって、罪が赦される(神様からの的外れの回復と、犯す数々の行為罪の赦し)ことである。

②聖霊は「義について」疑いの余地が一つも残らない迄に明確に示す。

10節「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。」イエス様は十字架刑にて死なれたが、甦り、父なる神様のもとへ昇天された。この出来事を信じるにはイエス様の弟子たちの証言を信じる以外にはなかった。そして今日私たちにおいては、弟子たちの証言が残されている神様のみことばを信じる以外にはない。私たちの罪が赦され、義と認められるということも、神様のみことばを信じることによって義と認められるのである。ガラテヤ人への手紙2:16「しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。」

③聖霊は「さばきについて」疑いの余地が一つも残らない迄に明確に示す。

11節「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」「イエス様を神であり、罪からの救い主であると信じる者は救われる」という神様からの愛のメッセージを知り、理解していながらも拒否し続けた者は、「神様との交わりの回復」がなされないままになってしまうということが、神様からの「さばき」である。自らの意志で拒否し続ける者には、「神様との交わりの回復」「赦される」すべが残されていないのである。「この世を支配する者」サタンは、イエス様の十字架・復活によって、「赦される」すべが残されていない者となったのである。

聖霊は証しされる。疑いの余地が一つも残らない迄に。

2018年9月30日(日)

「御霊が示す真理によって」

         テキスト:ヨハネの福音書16:12~15(新約聖書214頁)

 

○本日の聖書箇所には、弟子たちをすべての真理に導くという御霊の働きが記されている。

○12節「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。」イエス様が「話すことがまだたくさんある」と言われたのは、イエス様の十字架・復活のことである。弟子たちには、今、そのことを聞き、耐える力がないとイエス様は言われた。13節「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」イエス様の十字架・復活、そして昇天後に送られてくる御霊が来ると、耐える力が与えられるとは述べていない。何の違いがあるのか?「今あなたがたはそれに耐える力がありません。」と言われているその時は、十字架・復活の出来事が起こる前である。十字架・復活の出来事を聞かされたならば、弟子たちに湧き出てくる思い感情は、そのような悲惨な出来事は起こって欲しくない。神であるイエス様に対しては、そのような悲惨な出来事は起こらないようにして欲しいという願い等であろう。その思い感情の強さを、イエス様は「今あなたがたはそれに耐える力がありません。」と言われたのではないだろうか・・。御霊が送られて来てから御霊が語る十字架・復活の出来事(13節の「やがて起ころうとしていること」とは、十字架・復活のことを指す)は、すでに、十字架・復活の出来事が起きた後のことである。すなわち、弟子たちにとって最愛なる師であるイエス様が十字架刑で死ぬということを受け入れるということは非常に難しく、受け入れられないまま悲惨に思えるような出来事をむかえてしまうということは変えることのできない現実なのであるが、それに対し、「真理の御霊が来て」弟子たちに成して下さる心の問題等に対する解決の術は、「すべての真理に導き入れる」ということなのである。ここで述べられている「すべての真理」とは、イエス様の十字架・復活が弟子たちの人生にどのような関係があるのかを示すということである。「御霊はわたしの栄光を現します。」御霊はイエス様の栄光を現す。ここで述べられている「栄光」とは、十字架・復活によって現れるイエス様の栄光のことであり、それは、イエス様の十字架・復活は自分の罪のためであると信じる者を罪人のまま受け入れるという神様の愛である。その愛は父なる神様の愛であり、イエス様の愛であり、その愛を御霊が知らせて下さるのである。15節「父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。」

○今日も同じく御霊は、イエス様の十字架・復活によって表わされた神様の愛を示し続けて下さる。私たちに起こって来る、受け入れるに困難を覚える様々な出来事に対する解決の術も、御霊が示して下さる真理(イエス様の十字架・復活)にあるのではないだろうか。

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