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2019年1月1日(火・元日)

「絶望感に呑み込まれてはいけない」

                                                                                                         テキスト:詩篇42:1~11(旧約聖書946頁)

 

○1~2節「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。」この詩篇の著者は敵対者によってエルサレムでの神殿礼拝に参加できない状況に置かれている嘆きを、たましいの渇きとして表現している。「鹿」とは雌鹿のことを指していると解される。臆病な雌鹿であっても、のどの渇きをいやすためには、恐ろしい獣の脅威があっても谷川の水を慕う。「生ける神」とは生ける水の源であって、信仰者の渇きをいやし、力を与える御方を指す。「いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。」(2節)「神の御前に出」るとは、神殿での礼拝の表現であり、著者は、いつになったら公的な礼拝を信仰者と共にささげることができるのですかと神様に問いかける。著者は、「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中『おまえの神はどこにいるのか』と私に言う間。」(3節)というような悲惨な状況下に置かれている。そのような中にあって、かつての幸せな日々を思い起こしながら(「私はあの事などを思い起こし、私の前で心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。」4節)、「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」(5節)と自問自答しながら、神様に信頼を置くようにと自分の心を神様に向けようともがいているようにも思える。「うなだれている」のギリシャ語70人訳には「深い悲しみ」という意味のことばが用いられ、イエス様はこの同じことばを用いて、ゲッセマネの園で、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」(マタイ26:38)とご自分の気持ちをそのまま正直に表現された。本日の箇所から2つの点を覚えたい。

 ①<私たちは絶望感を抱く自分を恥じる必要はない>

神様との断絶刑という誰も経験したことのない、することのない十字架をご自分が受けることを目の前にしているイエス様と私たちを比較できるのかという面もあるが、イエス様でさえ絶望感を味わっておられたというのは聖書が残して下さった事実であり、本日の箇所からも、私たちは絶望感を抱く自分を恥じる必要はないということが分かる。

②<神様への信頼と嘆きの繰り返しは矛盾ではない>

6~7節で著者はエルサレムから離れ、礼拝の場から切り離されている故の悲しみを表現するが、8節では、そのような中にあっても神様との交わり(祈り)が持てることを感謝している。しかし9節ではまた絶望感を訴える。このような神様への信頼と嘆きが繰り返されることは矛盾ではなく、交互に生まれるものであることをこの聖書の箇所は示している。私たちはこの地においては旅人であり寄留者として、神様との交わりへの「渇き」を持ち続け、また、「絶望」もする。しかし、そのことを意識しないようにするのではなく、しっかりと自覚し、意識する必要がある。ローマ8:22~26には「被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている」と記されている。そして、私たち自身も共に心の中でうめくことによって、御霊が弱い私たちを助け、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださるのだと述べられている。それらの経験を経て、信仰者は、「御顔の救い」(5節)から「私の顔の救い」(11節)へと、「救い」が「私の顔」に表わされるのである。

2019年1月6日(日)

「気落ちした者を慰めてくださる神がいるから」

                                                                                                      テキスト:Ⅱコリント7:5~7(新約聖書353頁)

 

○パウロの人生は実に多くの困難に満ちていた。彼は、よく騒動に巻き込まれ、時々あらぬ疑いをかけられた。むちで打たれ、牢屋に入れられ、暴徒に襲われた。とても忙しく、時々、睡眠を取ることもできず、食物、泊まるところ、衣服に不自由することもあった。お金に困る思いもした。5度も「39回のむち」を受けた。一度、石で打たれたこともあった。飢えと寒さを経験し、3度も船の難破に遭遇した。同胞のユダヤ人、異邦人から、危険な目に遭わされた。たびたび死にそうにもなった。肉体には取り去ってもらいたい病のようなものがあり、祈ってもその祈りにこたえられない経験もした。

○コリントの人々に2度目の手紙を書いた時、パウロはアジヤの大都市の1つであるエペソにいた。彼はその地でさまざまな困難を経験したと述べている。「私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。」(Ⅱコリント1:8~9)アジヤで経験した苦しみは彼をひどく圧迫し、その重荷は耐えられないほど重く、そこから逃げる道すら見つけられないほどだった。パウロは万策つき、その経験によって押しつぶされるように感じるあまり、死を覚悟した。しかし、パウロは神様に信頼を置くことを絶えず宣言することによって、心のうちに希望を燃え立たせた。「これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。」(Ⅱコリント1:9)自分の力ではどうすることもできない出来事に遭遇したパウロは、神様に頼らざるを得ない状況に追い込まれた。パウロは、そのことを良いことであると考えた。パウロはしばしば、自分が経験したさまざまな困難に触れた後、「しかし」や「それでも」ということばをつけて、否定的なことがらを肯定的にとらえようとした。「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」(Ⅱコリント4:8~9)「私たちは・・死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」(Ⅱコリント6:8~10)

○パウロは抱えている困難を口で言い表し、「しかし」「それでも」ということばを付け足して、その状況下でもイエス様が働いてくださっていることを信じていた。Ⅱコリント1:10「ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。」パウロは、どんな時にも神様から答えをいただくことを待ち望んでいた。パウロがコリントの教会の人達を諭すために書いた手紙をテトスに託した時は、コリントの人達の反応が気がかりで心配で仕方なくなった。しかし、テトスが良い報告を持ち帰って来た時、「気落ちした者を慰めてくださる神」と告白している。この同じ神様が私たちと共に歩んでくださっている。

2019年1月13日(日)

「キリストの力が私をおおうために」

                                                                  テキスト:Ⅱコリント12:1~10(新約聖書360頁)

 

パウロは、神様から示された特別な「幻と啓示」について述べている。なぜこの経験を述べたのかと言えば、当時コリントの教会には、パウロに対する反対者である偽使徒のような者たちがいたが、パウロは自分は偽使徒のような者ではないことをコリント教会の信徒たちに伝えるために、自分の経験を誇るためにではなく、コリント教会の信徒たちが福音の真理からはずれていかないよう守るために自分の神秘的な経験をあえて述べた。

 パウロは実にすばらしい経験をしたが、そのすばらしい経験は、すべて神様から与えられたものであって、自分自身には誇るべきものは何もないと述べている。だから、自分自身については「自分の弱さ以外には誇りません。」と述べている。しかし、「その啓示があまりにもすばらしい」ため、高ぶることのないようにと、パウロは肉体に一つのとげを与えられたと述べている(7節)。このとげは、神様が与えたものである。「サタンの使い」という表現をしているが、神様のお許しなくして、サタンがクリスチャンの体に害を加えることはできない。

 この「とげ」が何であったかについては色々な説がある。①罪によって堕落した性質を過剰に覚える故の精神的限界②コリントの反対者たちによるもの③ある種の肉体的、精神的疾患、例えば眼病、熱病、てんかん、神経的障害など。いずれにしても、生活の障害と感じるものであった。

 パウロは、このとげを去らせてくださるようにと、三度も主に願ったとある。「三度も」とは、ゲッセマネの園で祈られたイエス様の祈りを思い起こさせる切なる祈りであることの表現である。パウロはこの苦痛から救い出されることを願ったが、主の答えは、その苦しみの中でも主の恵みは十分であるという答えであった。

  3つの点を覚えたい。

①<高ぶることのないようにと残される「とげ」>

 パウロは、「とげ」を去らせてくださるようにと切なる願いを主に祈るが、その「とげ」は残される。パウロはそのことを、高ぶることのないようにと、「とげ」が残されていると理解した。私たちにも、高ぶることのないようにと、あえて残されている「とげ」があるのかもしれない。

②<苦しみの中にも主の恵みは十分にある>

 パウロにとって不快に思われた「とげ」の残った状態でも、「わたしの恵みは、あなたに十分である。」(9節)と主は言われた。

③<私が弱い時にこそキリストの力がおおう>

 パウロは自力ではどうすることもできない現実に直面した時、キリストの力が自分をおおうことを知った。その喜びを知った故に、「むしろ大いに喜んで弱さを誇り」、「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(10節)と述べた。

2019年1月20日(日)

「幸せで喜んで生きるために」

                                                           テキスト:哀歌3:22~23a(旧約聖書1354頁)

 

○哀歌は預言者エレミヤが書いたと言われている。エレミヤは南ユダ王国の預言者として紀元前627年から583年頃まで活動した。この時代は、紀元前586年に南ユダ王国が崩壊し、民はバビロンに捕らえ移されるという、イスラエル史において、最も暗い、悲劇的な時代であった。哀歌はエレサレムがバビロン帝国によって滅ぼされてから、さほど時間が経っていない時に、南ユダの地で記されたと言われている。

○エルサレムの崩壊、南ユダ王国の滅亡は、住民たちにとっては、住み慣れた故郷を離れて遠い遠い、異邦の地バビロンに捕囚として連れ去られる悲劇でもあった。

○バビロン軍に首都エレサレムが包囲され、陥落していく時、飢饉が町を襲い(兵糧攻め)、食料が不足し、自分の子どもさえも食べるという異常な状況だったということである。エレミヤはそれらの想像を絶する悲惨な出来事が起こったのは、「私たちが罪を犯したからです。」(哀歌5:16)と述べている。それは偶像崇拝の罪であった。

3つの点を覚えたい。

①「教訓を生かさないという危険」

偶像崇拝の罪は長きに亘っていた、年数にしていえば、約300年近くも(その間、善い王様によって偶像崇拝から離れる時期もあったが)、預言者を通しての神様の警告を無視してきた。その間、北イスラエル王国が200年余り無視し続けた結果、アッシリヤという国に滅ぼされたという教訓があったにもかかわらず、南ユダ王国も無視し続け、教訓を生かせなかった故、神殿の崩壊、南ユダ王国の滅亡という悲劇を招いたのである。神様は忍耐深いお方である。300年近くも忍耐し続け、そのままでは異邦人に滅ぼされると繰り返し警告していたにもかかわらず、南ユダ王国は先の教訓を生かせなかったのである。「彼女は自分の末路を思わなかった。それで、驚くほど落ちぶれて、だれも慰める者がない。」(哀歌1:9)

②「自分の姿に気付く」

エレミヤは、予告されていた悲劇が起こっても、それを信じることができない時もあった。しかし、現実に破壊された都を見る時に、はじめて、自分の身に起こった事の意味が分かるようになった。「私たちの心が病んでいるのはこのためです。私たちの目が暗くなったのもこのためです。」(哀歌5:17)神様は私たちが幸せで喜んで生きることを何よりも望んでおられる(Ⅰテサロニケ5:16~18 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです)。しかし、神様の約束にはいつも条件が伴っている。罪をないがしろにしていて、神様からの幸いを得ることはできないのである。神様の赦しと寛容は、人が自分の罪を認め、悔い改めることを条件として約束されているのである。北イスラエル王国、南ユダ王国は長らく自分たちの罪と愚かさに気付かなかったが、自らの身に現実に起こった悲惨と失望の中で自分の惨めな姿に気付き、悔い改めたことにより、神様からの赦しと喜びと平和が提供されて行った。

③「主との契約は無限」

エレミヤは悲劇のどん底を味わい、愛する住民は捕囚民になって行くという苦しみが続いている状況で、有名なことばを語った。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。」(哀歌3:22,23)「恵み」(ヘブル語、ヘセド)は、基本的な意味は、特に契約に対し、また、契約の創始者である神様に対する忠誠あるいは献身という意味で使われる。エレミヤは、「私たちが滅びうせなかったのは、」「契約的恵み」によるのだと述べているのである。エレミヤは、神様はイスラエル民族と結んだ契約を破棄することはないので、今、ここに自分がいる、生きていると述べているのである。エレミヤは究極のどん底を経験し続けている中で、「神様の子どもである自分に、主のあわれみは尽きず、それは朝ごとに新しい。」と述べる。これからなおも続く、住民の捕囚という憂き目の中にあっても、毎朝、主のあわれみを感じると述べているのである。

○私たちも、神様からのメッセージに無頓着で、結果、教訓を生かせない生き方をしているということがあるのではないか?神様は忍耐深いお方であられるが、私たちも、神様が私たちを子どもとして愛しているゆえの、メッセージ、警告がある中を生きているという意識をもって生きる必要があるであろう。幸せで喜んで生きるために。

2019年1月20日(日)

「聖め別たれた者として」

                                                                   テキスト:ヨハネの福音書17:16~19(新約聖書216頁)

 

〇16節「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。」この箇所における「この世」とは、イエス様を信じない人々のことであり、イエス様につながっていない人々、その世界を指す。イエス様の弟子たちはイエス様を神であり罪からの救い主であると信じているので、この世のものではない。

〇17節「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」この箇所における「真理」とは、神様のみことばを指す。「聖め別つ」(ギリシャ語、ハギオス)には二つの概念が含まれている。一つ目は、「特別な職務のために区別することを意味する」。二つ目は、特別な職務のために区別するという意味だけではなく、その職務に不可欠である精神や心情や性格の特質を、ある人に備えさせることをも意味している。

〇18節「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」父なる神様がイエス様を世に遣わされたのは、この世をご自分と和解させるためであった。そして、その務めをイエス様は弟子たちに託された。Ⅱコリント5:18~19「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」

〇19節「わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。」イエス様ご自身が特別な職務のために区別された(「聖め別たれた」)ということが意味するのは、人間の罪の身代わりとなって、ご自身の命を十字架上で捨てるということである。そして、イエス様は、イエス様を信じる弟子たちも、みことばによって、隣人愛に生きる者となるようにと祈られた。

〇私たちもイエス様の贖いによる福音、神様の愛を伝える務めが託されている。この世の者ではない、聖め別たれた者、特別な職務のために区別された者とされている。それは、神様のみことばによってそのような者とされていることを知ることができる。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)そして、その務めを託されている私たちには、神様がその務めを遂行するに必要な特質も備えて下さっているのである。

2019年1月1日(火・元日)

「絶望感に呑み込まれてはいけない」

テキスト:詩篇42:1~11(旧約聖書946頁)

 

○1~2節「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。」この詩篇の著者は敵対者によってエルサレムでの神殿礼拝に参加できない状況に置かれている嘆きを、たましいの渇きとして表現している。「鹿」とは雌鹿のことを指していると解される。臆病な雌鹿であっても、のどの渇きをいやすためには、恐ろしい獣の脅威があっても谷川の水を慕う。「生ける神」とは生ける水の源であって、信仰者の渇きをいやし、力を与える御方を指す。「いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。」(2節)「神の御前に出」るとは、神殿での礼拝の表現であり、著者は、いつになったら公的な礼拝を信仰者と共にささげることができるのですかと神様に問いかける。著者は、「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中『おまえの神はどこにいるのか』と私に言う間。」(3節)というような悲惨な状況下に置かれている。そのような中にあって、かつての幸せな日々を思い起こしながら(「私はあの事などを思い起こし、私の前で心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。」4節)、「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」(5節)と自問自答しながら、神様に信頼を置くようにと自分の心を神様に向けようともがいているようにも思える。「うなだれている」のギリシャ語70人訳には「深い悲しみ」という意味のことばが用いられ、イエス様はこの同じことばを用いて、ゲッセマネの園で、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」(マタイ26:38)とご自分の気持ちをそのまま正直に表現された。本日の箇所から2つの点を覚えたい。

 ①<私たちは絶望感を抱く自分を恥じる必要はない>

神様との断絶刑という誰も経験したことのない、することのない十字架をご自分が受けることを目の前にしているイエス様と私たちを比較できるのかという面もあるが、イエス様でさえ絶望感を味わっておられたというのは聖書が残して下さった事実であり、本日の箇所からも、私たちは絶望感を抱く自分を恥じる必要はないということが分かる。

②<神様への信頼と嘆きの繰り返しは矛盾ではない>

6~7節で著者はエルサレムから離れ、礼拝の場から切り離されている故の悲しみを表現するが、8節では、そのような中にあっても神様との交わり(祈り)が持てることを感謝している。しかし9節ではまた絶望感を訴える。このような神様への信頼と嘆きが繰り返されることは矛盾ではなく、交互に生まれるものであることをこの聖書の箇所は示している。私たちはこの地においては旅人であり寄留者として、神様との交わりへの「渇き」を持ち続け、また、「絶望」もする。しかし、そのことを意識しないようにするのではなく、しっかりと自覚し、意識する必要がある。ローマ8:22~26には「被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている」と記されている。そして、私たち自身も共に心の中でうめくことによって、御霊が弱い私たちを助け、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださるのだと述べられている。それらの経験を経て、信仰者は、「御顔の救い」(5節)から「私の顔の救い」(11節)へと、「救い」が「私の顔」に表わされるのである。

2019年1月6日(日)

「気落ちした者を慰めてくださる神がいるから」

テキスト:Ⅱコリント7:5~7(新約聖書353頁)

 

○パウロの人生は実に多くの困難に満ちていた。彼は、よく騒動に巻き込まれ、時々あらぬ疑いをかけられた。むちで打たれ、牢屋に入れられ、暴徒に襲われた。とても忙しく、時々、睡眠を取ることもできず、食物、泊まるところ、衣服に不自由することもあった。お金に困る思いもした。5度も「39回のむち」を受けた。一度、石で打たれたこともあった。飢えと寒さを経験し、3度も船の難破に遭遇した。同胞のユダヤ人、異邦人から、危険な目に遭わされた。たびたび死にそうにもなった。肉体には取り去ってもらいたい病のようなものがあり、祈ってもその祈りにこたえられない経験もした。

○コリントの人々に2度目の手紙を書いた時、パウロはアジヤの大都市の1つであるエペソにいた。彼はその地でさまざまな困難を経験したと述べている。「私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。」(Ⅱコリント1:8~9)アジヤで経験した苦しみは彼をひどく圧迫し、その重荷は耐えられないほど重く、そこから逃げる道すら見つけられないほどだった。パウロは万策つき、その経験によって押しつぶされるように感じるあまり、死を覚悟した。しかし、パウロは神様に信頼を置くことを絶えず宣言することによって、心のうちに希望を燃え立たせた。「これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。」(Ⅱコリント1:9)自分の力ではどうすることもできない出来事に遭遇したパウロは、神様に頼らざるを得ない状況に追い込まれた。パウロは、そのことを良いことであると考えた。パウロはしばしば、自分が経験したさまざまな困難に触れた後、「しかし」や「それでも」ということばをつけて、否定的なことがらを肯定的にとらえようとした。「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」(Ⅱコリント4:8~9)「私たちは・・死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」(Ⅱコリント6:8~10)

○パウロは抱えている困難を口で言い表し、「しかし」「それでも」ということばを付け足して、その状況下でもイエス様が働いてくださっていることを信じていた。Ⅱコリント1:10「ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。」パウロは、どんな時にも神様から答えをいただくことを待ち望んでいた。パウロがコリントの教会の人達を諭すために書いた手紙をテトスに託した時は、コリントの人達の反応が気がかりで心配で仕方なくなった。しかし、テトスが良い報告を持ち帰って来た時、「気落ちした者を慰めてくださる神」と告白している。この同じ神様が私たちと共に歩んでくださっている。

2019年1月13日(日)

「キリストの力が私をおおうために」

          テキスト:Ⅱコリント12:1~10(新約聖書360頁)

 

パウロは、神様から示された特別な「幻と啓示」について述べている。なぜこの経験を述べたのかと言えば、当時コリントの教会には、パウロに対する反対者である偽使徒のような者たちがいたが、パウロは自分は偽使徒のような者ではないことをコリント教会の信徒たちに伝えるために、自分の経験を誇るためにではなく、コリント教会の信徒たちが福音の真理からはずれていかないよう守るために自分の神秘的な経験をあえて述べた。

 パウロは実にすばらしい経験をしたが、そのすばらしい経験は、すべて神様から与えられたものであって、自分自身には誇るべきものは何もないと述べている。だから、自分自身については「自分の弱さ以外には誇りません。」と述べている。しかし、「その啓示があまりにもすばらしい」ため、高ぶることのないようにと、パウロは肉体に一つのとげを与えられたと述べている(7節)。このとげは、神様が与えたものである。「サタンの使い」という表現をしているが、神様のお許しなくして、サタンがクリスチャンの体に害を加えることはできない。

 この「とげ」が何であったかについては色々な説がある。①罪によって堕落した性質を過剰に覚える故の精神的限界②コリントの反対者たちによるもの③ある種の肉体的、精神的疾患、例えば眼病、熱病、てんかん、神経的障害など。いずれにしても、生活の障害と感じるものであった。

 パウロは、このとげを去らせてくださるようにと、三度も主に願ったとある。「三度も」とは、ゲッセマネの園で祈られたイエス様の祈りを思い起こさせる切なる祈りであることの表現である。パウロはこの苦痛から救い出されることを願ったが、主の答えは、その苦しみの中でも主の恵みは十分であるという答えであった。

 3つの点を覚えたい。

①<高ぶることのないようにと残される「とげ」>

 パウロは、「とげ」を去らせてくださるようにと切なる願いを主に祈るが、その「とげ」は残される。パウロはそのことを、高ぶることのないようにと、「とげ」が残されていると理解した。私たちにも、高ぶることのないようにと、あえて残されている「とげ」があるのかもしれない。

②<苦しみの中にも主の恵みは十分にある>

 パウロにとって不快に思われた「とげ」の残った状態でも、「わたしの恵みは、あなたに十分である。」(9節)と主は言われた。

③<私が弱い時にこそキリストの力がおおう>

 パウロは自力ではどうすることもできない現実に直面した時、キリストの力が自分をおおうことを知った。その喜びを知った故に、「むしろ大いに喜んで弱さを誇り」、「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(10節)と述べた。

2019年1月20日(日)

「幸せで喜んで生きるために」

               テキスト:哀歌3:22~23a(旧約聖書1354頁)

 

○哀歌は預言者エレミヤが書いたと言われている。エレミヤは南ユダ王国の預言者として紀元前627年から583年頃まで活動した。この時代は、紀元前586年に南ユダ王国が崩壊し、民はバビロンに捕らえ移されるという、イスラエル史において、最も暗い、悲劇的な時代であった。哀歌はエレサレムがバビロン帝国によって滅ぼされてから、さほど時間が経っていない時に、南ユダの地で記されたと言われている。

○エルサレムの崩壊、南ユダ王国の滅亡は、住民たちにとっては、住み慣れた故郷を離れて遠い遠い、異邦の地バビロンに捕囚として連れ去られる悲劇でもあった。

○バビロン軍に首都エレサレムが包囲され、陥落していく時、飢饉が町を襲い(兵糧攻め)、食料が不足し、自分の子どもさえも食べるという異常な状況だったということである。エレミヤはそれらの想像を絶する悲惨な出来事が起こったのは、「私たちが罪を犯したからです。」(哀歌5:16)と述べている。それは偶像崇拝の罪であった。

3つの点を覚えたい。

①「教訓を生かさないという危険」

偶像崇拝の罪は長きに亘っていた、年数にしていえば、約300年近くも(その間、善い王様によって偶像崇拝から離れる時期もあったが)、預言者を通しての神様の警告を無視してきた。その間、北イスラエル王国が200年余り無視し続けた結果、アッシリヤという国に滅ぼされたという教訓があったにもかかわらず、南ユダ王国も無視し続け、教訓を生かせなかった故、神殿の崩壊、南ユダ王国の滅亡という悲劇を招いたのである。神様は忍耐深いお方である。300年近くも忍耐し続け、そのままでは異邦人に滅ぼされると繰り返し警告していたにもかかわらず、南ユダ王国は先の教訓を生かせなかったのである。「彼女は自分の末路を思わなかった。それで、驚くほど落ちぶれて、だれも慰める者がない。」(哀歌1:9)

②「自分の姿に気付く」

エレミヤは、予告されていた悲劇が起こっても、それを信じることができない時もあった。しかし、現実に破壊された都を見る時に、はじめて、自分の身に起こった事の意味が分かるようになった。「私たちの心が病んでいるのはこのためです。私たちの目が暗くなったのもこのためです。」(哀歌5:17)神様は私たちが幸せで喜んで生きることを何よりも望んでおられる(Ⅰテサロニケ5:16~18 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです)。しかし、神様の約束にはいつも条件が伴っている。罪をないがしろにしていて、神様からの幸いを得ることはできないのである。神様の赦しと寛容は、人が自分の罪を認め、悔い改めることを条件として約束されているのである。北イスラエル王国、南ユダ王国は長らく自分たちの罪と愚かさに気付かなかったが、自らの身に現実に起こった悲惨と失望の中で自分の惨めな姿に気付き、悔い改めたことにより、神様からの赦しと喜びと平和が提供されて行った。

③「主との契約は無限」

エレミヤは悲劇のどん底を味わい、愛する住民は捕囚民になって行くという苦しみが続いている状況で、有名なことばを語った。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。」(哀歌3:22,23)「恵み」(ヘブル語、ヘセド)は、基本的な意味は、特に契約に対し、また、契約の創始者である神様に対する忠誠あるいは献身という意味で使われる。エレミヤは、「私たちが滅びうせなかったのは、」「契約的恵み」によるのだと述べているのである。エレミヤは、神様はイスラエル民族と結んだ契約を破棄することはないので、今、ここに自分がいる、生きていると述べているのである。エレミヤは究極のどん底を経験し続けている中で、「神様の子どもである自分に、主のあわれみは尽きず、それは朝ごとに新しい。」と述べる。これからなおも続く、住民の捕囚という憂き目の中にあっても、毎朝、主のあわれみを感じると述べているのである。

○私たちも、神様からのメッセージに無頓着で、結果、教訓を生かせない生き方をしているということがあるのではないか?神様は忍耐深いお方であられるが、私たちも、神様が私たちを子どもとして愛しているゆえの、メッセージ、警告がある中を生きているという意識をもって生きる必要があるであろう。幸せで喜んで生きるために。

2019年1月20日(日)

「聖め別たれた者として」

     テキスト:ヨハネの福音書17:16~19(新約聖書216頁)

 

〇16節「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。」この箇所における「この世」とは、イエス様を信じない人々のことであり、イエス様につながっていない人々、その世界を指す。イエス様の弟子たちはイエス様を神であり罪からの救い主であると信じているので、この世のものではない。

〇17節「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」この箇所における「真理」とは、神様のみことばを指す。「聖め別つ」(ギリシャ語、ハギオス)には二つの概念が含まれている。一つ目は、「特別な職務のために区別することを意味する」。二つ目は、特別な職務のために区別するという意味だけではなく、その職務に不可欠である精神や心情や性格の特質を、ある人に備えさせることをも意味している。

〇18節「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」父なる神様がイエス様を世に遣わされたのは、この世をご自分と和解させるためであった。そして、その務めをイエス様は弟子たちに託された。Ⅱコリント5:18~19「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」

〇19節「わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。」イエス様ご自身が特別な職務のために区別された(「聖め別たれた」)ということが意味するのは、人間の罪の身代わりとなって、ご自身の命を十字架上で捨てるということである。そして、イエス様は、イエス様を信じる弟子たちも、みことばによって、隣人愛に生きる者となるようにと祈られた。

〇私たちもイエス様の贖いによる福音、神様の愛を伝える務めが託されている。この世の者ではない、聖め別たれた者、特別な職務のために区別された者とされている。それは、神様のみことばによってそのような者とされていることを知ることができる。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)そして、その務めを託されている私たちには、神様がその務めを遂行するに必要な特質も備えて下さっているのである。

2019年2月3日(日)

「世が福音のみことばを信じるために」

         テキスト:ヨハネの福音書17:20~21(新約聖書216頁)

 

○イエス様の弟子たちは、聖め別たれた者、特別な職務のために区別された者として、この後(イエス様の十字架・復活・昇天・聖霊降臨後)、イエス様の贖いによる福音を宣べ伝える者となっていく。その宣教はイエス様が弟子たちに与えた(ヨハネ17:14「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。」)、神様の福音の内容が示されたみことばを伝えることによってなされる。そして、宣べ伝えられるみことばを信じる人々が起こる。20節「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」

○ここでイエス様が父なる神様に願った祈りが3つある。

①<教会が一致するように>

「あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。」クリスチャンが、教会が一致する一致とは、父なる神様とイエス様との一致のような一致である。それは、隣人を自分のごとくに愛するという思いと行動が全てであるということにおいて全く同じである父なる神様とイエス様のようなということである。すなわち、イエス様は、クリスチャンに、教会に、互いに愛し合うようにと祈られたのである。

②<神様との交わりの中で生きるように>

「彼らもわたしたちにおるようになるためです。」

人間は、神様との愛の交わりの中で、神様のもとで生きることによって満たされて生きるようにと命を与えられた存在である。しかし、人類の先祖アダムは自らの意志で、造り主である神様のもとから離れて行った。自らが神のようになり、自分の考え方をルールの基準として(簡単に言えば自己中心)生きたいと思う、そのような道を選び取ったのである。その道は神様との断絶の道であり、終わることのない断絶へと向かう滅びの道である。しかし、イエス様の贖いによる福音を信じる者は神様との交わりが回復されるのである。神様との交わりが、人が愛し合う原動力なのである。

③<互いに愛する姿を見て福音を信じる者が起こされるように>

「そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」

クリスチャン同士が隣人愛に生きようとしている姿を見る者が、その現象が、神であるイエス・キリストが地上に来てなさったこと、すなわち、人間の罪(神様から離れ、的を外していること、及び、犯す数々の行為罪)の身代わりとなって十字架上で身代わりの刑罰を受けて死に、そして復活されたという神様の愛に起因しているということを知り、そして、神様の福音のみことばを信じる者が起こされるようにとイエス様は祈られた。

2019年2月10日(日)

「神様の愛を知ることができるように」

               テキスト:ヨハネの福音書17:22~26(新約聖書217頁)

 

本日の聖書箇所からもイエス様が父なる神様に願った3つの祈りから学びたい。

(1)<クリスチャン全体が一つとなるように>

22節「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。」イエス様は父なる神様から与えられた栄光を弟子たちに与えた。その「栄光」とは、人類を贖い出す神様の救いの御業を表わしている。この22節は、イエス様の十字架・復活による贖いの御業を信じた弟子たちが、罪(神様から離れ、的を外していること、及び、犯す数々の行為罪)赦され、神様との交わりが回復させられた(23節「わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。」)ということを示している。しかも、「彼らが全うされて一つとなるためです」(23節)新改訳2017では「彼らが完全に一つになるためです」とあるように、イエス様を信じ、罪赦され、神様との交わりが回復せられたのは、クリスチャン全体が互いに愛し合うためでもある。イエス様はクリスチャン全体が一つとなるようにと祈られた。

(2)<父なる神様が世の人々を愛しておられることを知ることができるように>

23節「それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」父なる神様がイエス様を地上に遣わされたのは、世を愛しているからである。「世」とは、この箇所においては、イエス様を信じない人々のことである。父なる神様は御子であるイエス様を地上に遣わし、人間の罪の身代わり刑を十字架上で受けさせた。それは、イエス様の十字架・復活は自分の罪のためであったと信じる一人一人が罪赦され、父なる神様との交わりが回復せられるためであった。父なる神様は御子であるイエス様を愛されたように、まだイエス様を信じていない一人一人をも愛されたのである。そのことを世の人々が知ることができるようにとイエス様は祈られた。

(3)<父なる神様の愛とイエス様ご自身が弟子たちの内におられることを知ることができるように>26節「そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」神様の御名とは、知りうる限りの神様の存在、本性、みこころを意味する。イエス様は弟子たちに神様の御名を知らせた。そして知らせ続けると言われた。それは、父なる神様が御子であるイエス様を愛しているその愛が弟子たちの内にもあり、また、神であられるイエス様ご自身が弟子たちの内におられるということを弟子たちが知ることができるようにとのためであった。

これらの祈りは今日この地上で生きる私たちのためにも祈られた。

2019年2月17日(日)

「起ころうとするすべてのことを知り得ないから」

         テキスト:ヨハネの福音書18:1~11(新約聖書217頁)

 

イスカリオテのユダは銀貨三十枚でイエス様を祭司長、律法学者たちに引き渡す(マタイ26:14,15)。イエス様が十字架刑に処せられることを知ったユダのことをマタイ27:3~5ではこのように記している。「そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、『私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして』と言った。しかし、彼らは、『私たちの知ったことか。自分で始末することだ』と言った。それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。」ユダは、イエス様が罪を犯すことのない正しいお方であったことを知っていた。その方を裏切った自分の卑劣な行為を心から後悔した。そして、もう、これは死んでお詫びするしかないと思い自殺した。イスカリオテのユダは決していい加減な男ではなかった。自分の犯してしまった卑劣な行為に気づくと、出来る限りのことをしてイエス様が刑に処せられないよう努めた。まず、祭司長、長老たちのところに言って、「わたしは間違っていた。罪のない人をあなたがたに売り渡してしまった」と真正直に告白する。それから、裏切りの代償として受け取った銀貨三十枚を返そうとした。そうすることによって、もしかすると、今からでもイエス様を救うことができるかもしれないと考えたのではないか。罪のない師匠であるイエス様が十字架刑に処せられるなどということが起こってはいけないと必死になって何とかしようとしたが叶わず、取り返しのつかないことをしてしまったと、自責の念に堪えられず死ぬことを選んだ。このような姿を見ると、ユダはお金欲しさにイエス様を裏切ったのではないと思える。某註解書にあるように、ユダは、イエス様こそ、ユダヤをローマの属国から解放するリーダーであると期待し付き従ってきたが、なかなか腰を上げないイエス様に業を煮やし、ローマの一隊(3節、通常六百人)ほどの人数でイエス様を捕縛しに来るような事が起これば、神の業でローマを打ち破り、そして、ユダヤの解放の時が訪れると・・このような策を企てたのではないかと思える。しかし、いずれにしても、イスカリオテのユダに関しては、私たちは分からないことは分からないままにするよりほかはないと思う。イエス様は、「しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」(ヨハネ6:64)「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」(ヨハネ6:70)と、イスカリオテのユダが裏切ることを預言していた。そして、イエス様は「自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられた」(4節)とある。かたや、イスカリオテのユダの姿、そして、剣で大祭司のしもべの右耳を切り落とすシモン・ペテロの姿は、<自分の身に起ころうとするすべてのことを知り得ない>故の行動であると言えるのではないか。

イエス様は、神の御子であるご自身が人間の罪の身代わり刑を受けることで、全人類に救いの道が開かれること、そしてその道こそが父なる神様のみこころであることを知っておられた。(「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。」ヨハネ17:11)。更に、ゲッセマネの園での祈り(マタイ26:36~46)で、父なる神様のみこころを再確認された(11節「父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」)。

イエス様は「自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので」、イエス様を捕らえに来た人たちに「だれを捜すのか」と二度問いかけた(4節、7節)。そのことによって弟子たちが捕らえられることのないようにされた。9節「それは、『あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした』とイエスが言われたことばが実現するためであった。」(ヨハネ17:12のことば)。イエス様は、弟子たちのイエス様に対する信仰(イエス様は神であり罪からの救い主であるという信仰)が失われないようにと、弟子たちが捕らえられることのないようにされたのである。

私たちは<自分の身に起ころうとするすべてのことを知り得ない>故に、神様への信仰が揺らぐこともあるであろう。イエス様を信じた私たちは、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(ヨハネ10:28)とあるように、神様が私たちの信仰を守って下さっている。それと共に、私たちの側の歩みとしては、聖書のみことばから神様のご性質、御旨を知り、私の歩み方を悟らせて頂くという神様との交わりが必要なのである。

2019年2月24日(日)

「イエス(神は救い)の意味」

         テキスト:マルコの福音書10:45(新約聖書88頁)

 

 「イエス」とは、「神は救い」という意味のヘブル語「ヨシュア」のギリシャ語読みである。何を意味しているのかと言えば、それは、人間の罪からの救いということである。罪とは、神様から的を外していること、及び、犯す数々の行為罪のことであり、それは、神様の意思に反する思いと行動であり、神様とそのことばへの信頼の欠如のことである。マルコ10:45には、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」とある。「贖い」とは、一般的に、代価を払って奴隷を解放することを意味する。イエス様は、罪の奴隷状態にある人間を解放するためにご自身の命を代価として提供された。

 罪の奴隷状態と言っても、すべての人がいつも凶悪で何の良いものも持っていないということではない。私たち人間は神様に背き、自らの意志で神様から離反したにもかかわらず、「神のかたち」に似せて造られた者としての尊厳をある程度保持している。しかし、愛においても、きよさにおいても、神様の標準には程遠く、その標準に到底達することはできない。そのような私たち人間には罪の赦しが必要であり、私たちの罪が赦され、罪の奴隷状態から自由にされるためにイエス様はご自分の命を差し出して下さった。

 神様は愛の神であるが、同時に、聖なる公正な義なる神でもある。「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。」(Ⅰヨハネ1:5)神様はこのような方であり、罪を見逃しにはなさらない。よって、最初の人類アダムが犯した罪(原罪)に対して、「神様との交わりの損失」(イザヤ59:2)、「自然界との不調和」(ローマ8:22)、「人間関係の亀裂」(最初はアダムとエバに見る夫婦関係の亀裂)ということがもたらされたのである(神様からの栄誉を受けることができなくなってしまった。ローマ3:23)。

 イエス(神は救い)様は、十字架の贖いによって、罪によってもたらされた上記の悪しき結果からの救いの道を開いて下さった。私たちを罪から救うと共に、身代わりの死(贖いの代価)によって、義なる神様の要求を満たして下さったのである。

 

 

2019年3月3日(日)

「弱い私たちを愛し続けて下さる神様」

        テキスト:ヨハネの福音書18:12~27(新約聖書218頁)

 

①「人間の愛の限界」

○ペテロは「あなたのためにはいのちも捨てます。」(ヨハネ13:37)と豪語していたが、イエス様とは無関係の者であると三度もイエス様を否認してしまう。「それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。」(27節)

○ペテロはイエス様の捕縛をさせまいとし、一人、剣をぬいた(ヨハネ18:10)。

○ペテロはイエス様を残して立ち去ることができなかった。

②「神様の愛は無限」

○「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(ヨハネ13:38)イエス様はペテロが否認することを知っておられたが、「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)と、ペテロの信仰がなくならないように祈ったから、必ず、立ち直ると宣言された。

 ○ローマ人への手紙8:34~39「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。・・(中略)しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」私たちもペテロ同様、多くの失敗をする者であろう。しかし、神様は、何ものも神様の愛から私たちを引き離すことはできないと約束して下さっている。

2019年3月10日(日)

「真理とは何ですか」

      テキスト:ヨハネの福音書18:28~38(a)(新約聖書219頁)

 

○28節「さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸に入らなかった。」

イエス様を連行したユダヤの指導者たちは、総督官邸には入らなかった。過越の祭りを祝う食事を食べるには、ユダヤ人は祭儀的に潔くなければならなかった。彼らは祭儀的な潔めについては細心の注意を払うだけで、過越の儀式的な潔めを定めた神様の教えの意味については全くの無関心であり、イエス様に対するねたみ憎悪につき動かされてイエス様を十字架にかけることに邁進した。

○29節「そこで、ピラトは彼らのところに出て来て言った。『あなたがたは、この人に対して何を告発するのですか。』」ピラトは、ユダヤの指導者たちが、イエス様に対するねたみによって、イエス様を殺したいという思いで訴えに来たことを見抜いていた。ユダヤの指導者たちが作り上げた告訴は、イエス様が自分を神であると述べていることに対する神への冒涜という告訴だったが、彼らはピラトがそのような訴えを取り上げないことをよく知っていた。

○30節「彼らはピラトに答えた。『もしこの人が悪いことをしていなかったら、私たちはこの人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう。』」ユダヤの指導者たちは、イエスは自分をユダヤ人の王であると主張している故に、政治的反乱を起こす危険分子であり、ローマに対する反逆罪に問われるべきたと訴えた。

○31節「そこでピラトは彼らに言った。『あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。』ユダヤ人たちは彼に言った。『私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません。』」ローマ政府はユダヤ人にかなりの自治権をゆるしていたが、死刑を執行する権限は与えていなかった。

○32節「これは、ご自分がどのような死に方をされるのかを示して話されたイエスのことばが成就するためであった。」イエス様はご自身が十字架刑で死ぬことを知っておられた。「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」(ヨハネ12:32)人類の救いに関する神様の計画が成就するためには、イエス様はユダヤ教における神への冒涜罪への処罰としての石打ちの刑によってではなく、十字架刑によって死ななければならなかった。

○33節「そこで、ピラトはもう一度官邸に入って、イエスを呼んで言った。『あなたは、ユダヤ人の王ですか。』」ユダヤの指導者たちが官邸に入ることを拒んだたために、ピラトはイエス様を個人的に尋問した。

○34節「イエスは答えられた。『あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。』」イエス様は逆にピラトにその訴えの出所を尋ねた。ピラトあなた自身の思いから尋ねているのか、それとも人から間接的に聞いた情報によるのか。

○35節「ピラトは答えた。『私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。』」ピラトは、私はユダヤ人ではない。ユダヤ人のことについて、私が何か知っているとでも思うのかと答えている。ピラトはユダヤ人のつまらない争い事に巻き込まれたくなかった。ピラトは政治家としてこの時すでに二つ事件に対する判断において汚点を残していたということである。ピラトはそれらの過去の失策もあり、ここでユダヤ人たちに反乱を起こさせて自分の地位が危うくなってはいけないと考えていたようである。ピラトはユダヤの指導者たちの訴えが言いがかかり的なものであることを見抜いていたが、保身のために正しい判断を下すことができなかった。

○36節「イエスは答えられた。『わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。』」二つの異なる国が対比されている。一方は、ローマ帝国の権威と力に裏打ちされた、世の武器によって支えられるこの世の国。もう一方は、十字架に上げられることを通してイエス様が王として治めるこの世のものではない国である。

○37節「そこでピラトはイエスに言った。『それでは、あなたは王なのですか。』イエスは答えられた。『わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。』」イエス様の王国は真理の王国である。神のことばが受肉されたイエス様は真理そのものであり、イエス様は父なる神様をあかしするために地上に来られた。イエス様のことばに聞き従う者は真理に属する者である。

 38節「ピラトはイエスに言った。『真理とは何ですか。』」

本日の聖書箇所から2つの点を覚えたい。

①「真理に属さない者の姿」

○神様のことばの真意を悟ろうとせず、ねたみ・憎悪につき動かされてイエス様を抹殺しようと企てるユダヤの指導者たち。

○ピラトはイエス様が無罪であることを分かっていたが、自己保身のために正しい判断を下すことができなかった。

②「真理に属する者とは」

 37節「そこでピラトはイエスに言った。『それでは、あなたは王なのですか。』イエスは答えられた。『わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。』」

神のことばそのものであり、真理そのものであるイエス様のことばに聞き従う者は真理に属する者である。

2019年3月17日(日)

「私たちの代わりに罪とされた」

    テキスト:ヨハネの福音書18:38~19:16(新約聖書219頁)

 

 18:38 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。

ピラトは、イエス様には罪が認められないことを三回にわたって宣言する。

 18:39 しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」

ピラトは、イエス様に罪は認められないという確信をもっていた。ピラトが本気になってイエス様を釈放しようと思えば釈放することができたのだが、彼はユダヤ人の口からイエス様の釈放を要請させるという形でそれを実現しようと考えた。それはユダヤの指導者たちを敵に回すことを避けようという政治的な思惑があったからであろう。

 18:40 すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ」と言った。このバラバは強盗であった。

ルカ23:19には「バラバとは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢に入っていた者である。」とある。バラバはかなり名の知れた罪人であり、盗賊であり、都に起こった暴動に参加したこと、殺人を犯した者であった。

<強盗>ギリシャ語レーステースはヨセフスが熱心党を指す時に用いる言葉で(ヨセフス『ユダヤ戦記』Ⅱ:253-254)、「このバラバは強盗であった」というのは、恐らくバラバが熱心党運動の過激な革命的活動で逮捕されていたことを示す。(実用聖書注解)彼が暴動に参加し、殺人を犯しても、ユダヤをローマから解放するという請願を立てた人物として、ユダヤ人からは単なる罪人だとは見られない、そのような人物だったのではないかという説もある(ウイリアム・バークレー『ヨハネ福音書 下』)。

19:1 そこで、ピラトはイエスを捕らえて、むち打ちにした。

むち打ちの刑は恐るべき極刑の一部であり、それは残虐な拷問であった。背中が完全に現れるように柱に縛り付けられ、金属や、研ぎ澄まされた骨付きの長い革製のむちで打たれた。それは文字通り、人の背中をべろりとかきむしってしまう。そのものすごい試練の後で、まだ意識があるような人はめずらしい。ある者は死に、多くの者は狂乱状態になる。

ピラトは、イエス様をこのように扱うことでユダヤ人たちが満足し、死刑の要求を取り下げることを望んでいたのであろう。

 19:2 また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。

19:3 彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と言い、またイエスの顔を平手で打った。

イエス様は、王様が着る紫の衣を着せられ、王冠にみたてたいばらの冠をかぶらせられ、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫んで挨拶をされ、顔を平手で打たれた。頭からは血が流れ、精神的、肉体的な様々な屈辱を受けられた。

 19:4 ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」

 19:5 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です」と言った。

ピラトはユダヤ人たちの同情心を呼び起こそうとした。「さあ、この人です」との言葉には、「さあ、ここに惨めな人がいる。あなたがたは本当に、こんな哀れな男が皇帝に反旗を翻す王であると言うのか」というニュアンスが含まれていると言える。

 19:6 祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」

しかし、祭司長たちや神殿の役人たちは、イエス様の悲惨な姿を見て同情を覚えるどころか、十字架刑を求めて激しく叫んだ。ピラトは自分の良心に反して判決を下すよりは、ユダヤ人たちが十字架につけるという汚れた仕事をすればよいと言った。ピラトはユダヤ人には十字架につける権限がないことを承知の上でこう言った。

 19:7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」

ここにきてユダヤ人は、ローマ皇帝に反逆する者という訴状を引っ込め、彼らが最も訴えたかった神に対する冒涜罪という告訴を出す。

 19:8 ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた。

この時、ユダヤ最大の祭りである過越の祭りに、おびただしい数の巡礼者が集まっていた。祭司長たちが聖なる律法を盾にしてイエス様を神に対する冒涜罪であると群衆に訴えかければ騒ぎが起こることは必至であった。騒ぎが起これば、自分の地位は危うくなる。また、ピラトは、ローマ皇帝が自分自身を指すのに使った「神の子」という呼称を何の迷いもなく自分自身のことを指して使う目の前にいるイエス様に恐れを抱いたのではないか。

 19:9 そして、また官邸に入って、イエスに言った。「あなたはどこの人ですか。」しかし、イエスは彼に何の答えもされなかった。

ユダヤ人の「神の子」発言を巡って、イエス様が一体何者なのか、どこから神の子たる権威を得たかを問うている。

 19:10 そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」

 19:11 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」

イエス様にとっての権威とは父なる神様からの権威以外にはあり得ない。よって、神様の権威を知りながらイエス様を訴え出るユダヤ人の罪はもっと大きいのであると述べる。

 19:12 こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」

ピラトは出来る限りイエス様の釈放につながるよう努力をした。しかし、イエス様を釈放するならば、カイザル(ローマ皇帝)に反逆することになると脅迫されて、ピラトの心は大きく自己保身の気持ちに傾く。時の皇帝テベリオは「疑い深い暴君」と呼ばれていた。その<カイザルの味方>でないと思われることは危険を冒すことは、ピラトにはとうてい耐えられないことであった。そしてついにピラトはイエス様に死刑の宣告をする決心を固めた。

 19:13 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語ではガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。

公式に判決を言い渡すということ。

 19:14 その日は過越の備え日で、時は第六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」

<過越の備え日>は金曜日であった。<六時>とは夜中から数えるローマ式ではなく、夜明けから数えての第6時と考えられ、昼頃のことである。

<さあ、あなたがたの王です。>というピラトの言葉に、ユダヤ人たちはますます声を荒げ、十字架を要求する。

 

 19:15 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」

<除け。除け。>は<殺せ。殺せ。>とも訳し得る。<カイザルのほかには、私たちに王はありません。>という祭司長たちの言葉は、イエス様を処刑するために出た嘘にすぎない。なぜなら、彼らは唯一まことの神こそまことの王であると信じていたからである。

 19:16 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。

 

 

本日の聖書箇所から3つの点を覚えたい。

①イエス様の十字架刑は歴然とした冤罪の事件であった。

 ・「私は、あの人には罪を認めません。」と、ピラトは、イエス様には罪が認められないことを三回にわたって宣言する(18章38節、19章4節、19章6節)。「ピラトはイエスを釈放しようと努力した。」(19章12節)

②イエス様の苦しみは私の罪のためである。

・「ピラトはイエスを捕らえて、むち打ちにした。」(19章1節)

・「兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。 彼らは、イエスに近寄っては、『ユダヤ人の王さま。ばんざい』と言い、またイエスの顔を平手で打った。」(19章2~3節)

・「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」(イザヤ書53章5節)

・「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。」(Ⅱコリント5章21節)罪の無い方が私たちの身代わりに有罪とされたおかげで、本来死刑判決を受けるはずの私たち罪人が無罪とされた。

③神様が罪人を救う計画は悲惨と矛盾に満ちた人間社会の現実のただ中に行われた。(ハイデルベルク信仰問答 問い38,39)

2019年3月24日(日)

「『神の子』であるとの真実な主張で有罪になった主」

    テキスト:マルコの福音書14:53~65(新約聖書99頁)

 

イエス様の十字架刑は歴然とした冤罪の事件であったが、この裁判は被告とされたイエス様が何をしたかではなく、被告が誰であるか、被告とされたイエス様が自分のことを誰であると言っているかについて裁かれた。

エジプトでも、ローマでも、中国でも、日本でも、「神の子」は、神の子孫であることを意味し、他の宗教の創始者は「わたしは神である」とは言わなかった。しかし、イエス様は違った。

①ヨハネの福音書5章に、イエス様が安息日にある人の足を癒したことでユダヤ人と言い争う場面がある。「このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスは彼らに答えられた。『わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。』このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。」(ヨハネ5:16~18)彼らが問題にしたのは、イエス様が「私たちの父は」ではなく「わたしの父は」と言ったからである。これは、彼らの使用していた言語に戻せば、「わたしは神と等しい存在である」と言っていることになったのである。ユダヤ人たちは、神を「わたしの父」とは言わなかった。その言葉を使う場合は、意味を限定するために、「天にいます」という修飾語をつける必要があった。しかし、イエス様はそれをつかなかった。それは、自分の行動を神の行動と同じレベルに置いていると理解された。すなわち、イエス様が自分を神の子であると言っていると理解されたのである。その結果、ユダヤ人たちの憎悪が燃え上がり、イエス様を殺そうとするようになる。

②更にイエス様はご自分を父なる神と同等の者であると主張しただけでなく、ご自分は父なる神と一つであると主張した。「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)この文の「一つ」という語は人格や目的が「一つ」というのではなく、「本質や性質」が一つということを意味している。この言明で、ユダヤ人たちは、わたしは神であるというイエス様の主張をはっきりと耳にした。イエス様は繰り返し、わたしは本質と性質において神と一つであると主張した。(ヨハネ8:19、12:45、15:23、5:23)

 

③イエス様はご自分には罪を赦す権威があると主張する。「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました』と言われた。」(マルコ2:5)ユダヤの神学によれば、このようなことを言うことができるのは神だけであった。罪を赦す権威や権利を持つ者は、この地上には存在しない。すべての人間は神に対して罪を犯したのであり、故に、神以外に罪を赦すことのできる存在はない。イエス様は罪を赦したことによって神でなければできないことができると主張したのである。

④マルコ14:61、62「大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った『あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。』そこでイエスは言われた。『わたしは、それです。』」

イエス様は自らの発言によってユダヤ人の議会で有罪判決を受けた。イエス様は救い主である故に「神の子」と呼ばれた。神であり救い主であるから、「神の子」と主張し、それ故に十字架にかけられたのであるが、それらすべては罪人を救う神様のご摂理の中にあった。

4つの点を覚えたいと思います。

①「わたしは神と等しい存在である」と主張したイエス様

「このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスは彼らに答えられた。『わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。』このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。」(ヨハネ5:16~18)

②「本質と性質において神と一つである」と主張したイエス様」

「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)

③「罪を赦す権威がある」と主張したイエス様

「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。(マルコ2:5)

④「神の子」と主張したイエス様

「大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った『あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。』そこでイエスは言われた。『わたしは、それです。』」(マルコ14:61、62)

2019年3月31日(日)

「わたしが自分からいのちを捨てるのです」

    テキスト:ヨハネの福音書19:17~22(新約聖書221頁)

 

17節:彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。

○「彼らはイエスを受け取った。」とあるが、彼らが誰であるか明記されていない。十字架刑の執行はローマの権威のもとに置かれていたことなので、実際にはローマ兵が連行したことになるが、しかし、前の文脈との繋がりでは祭司長たちともとれる。著者は、ローマ兵が受け取ったと明記しないことによって、十字架刑に追いやったユダヤ人の罪と不信仰を指摘しているのかもしれない(参考:ヨハネ19:11「ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」)。

○「イエスはご自分で十字架を負って」とあるが、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)は全て、クレネ人シモンがイエス様の代わりに十字架を背負うことになることを記している。ヨハネの福音書は、イエス様が強いられた死を迎えるのではなく、自ら自発的に命を捨てられる(「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。」(ヨハネ10:18))イエス様の姿を表わしたかったのかもしれない。

○処刑場のある丘は、居住区から離れた場所にある「どくろの地」という場所であった。その丘が頭蓋骨の形をしていたのでそう呼ばれたのか、古くから埋葬地であったためなのか、由来ははっきりしないが、今日の聖墳墓教会のある場所が有力視されている。

18節: 彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真ん中にしてであった。

イエス様の他に2人の者が十字架につけられたことは全ての福音書が証言しているが、これは、神のみことばの成就であった。「彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。」(イザヤ53:12)

19節: ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いてあった。

20節:それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。

十字架刑に処せられる者は死刑場に引いていかれるまでの間、首に罪状書きをつるされたか、そのような札に先導されて死刑場に向かった。罪状書きには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いてあった。これは政治的な革命を試み、ローマに反逆したという罪状を表わすものであり、当時の公用語であったラテン語、それにユダヤ人が日常使用していたギリシャ語とヘブル語の三か国語で書かれていた。それ故、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。ユダヤ人にも、ローマ人にも、ギリシャ人にも理解される言語で書かれた罪状書きは、イエス様が全人類の救い主であることを指し示しているのである。また、処刑場が一般道路の近くにあって、通りがかりの人でも読める距離に十字架が立っていたことを示している。

21節: そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください」と言った。

22節: ピラトは答えた。「私の書いたことは私が書いたのです。」

ユダヤ人はこの罪状書きに不満を示したが、ピラトはすでに何度も二の足を踏まされユダヤ人に妥協を迫られてきた故、最後の判断はユダヤ人たちに押し切られる形にはしたくなかったのであろう。福音書の著者は、ピラトのこの処置の中にも神様の深い摂理の御手を見ている。イエス様はその民に拒絶されたけれども、しかしイエス様がイスラエルの真の王であったのは厳然たる事実であることを一枚の罪状書きによって語らせたのである。

 

本日の聖書箇所から3つの点を覚えたいと思います。

①「神様の摂理の下で起こった十字架」

<18節: 彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真ん中にしてであった。>

イエス様の他に2人の者が十字架につけられたことは全ての福音書が証言しているが、これは、神のみことばの成就であった。「彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。」(イザヤ53:12)

②「イエス様は全人類の救い主」

<19節: ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いてあった。20節:それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。>

ユダヤ人にも、ローマ人にも、ギリシャ人にも理解される言語で書かれた罪状書きは、イエス様が全人類の救い主であることを指し示しているのである。

③「私たち罪人のために自ら命を捨てたイエス様」

<17節:彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。>

「イエスはご自分で十字架を負って」とあるが、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)は全て、クレネ人シモンがイエス様の代わりに十字架を背負うことになることを記している。ヨハネの福音書は、イエス様が強いられた死を迎えるのではなく、自ら自発的に命を捨てられる(「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。」(ヨハネ10:18))イエス様の姿を表わしたかったのかもしれない。

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