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2020年1月1日(元日)

「主のことばのとおりにできるようにして下さる主」

テキスト:Ⅰ列王記17:1~16(旧約聖書614頁)

ダビデ王の子ソロモン王の死後、息子レハブアムが王位を継ぐが、彼は父以上に民に重税を課し圧迫する。その結果、北方十部族は謀反を起こし、ヤロブアムを王に立て、イスラエル統一王国は、北イスラエルと南ユダとに分裂する。北のヤロブアム王は、北の民が南の首都エルサレムに礼拝しに行くことをやめさせようとして、ベテルとダンという地に神殿を設け、二つの金の子牛を造ってそれを拝ませた。以来、北イスラエルには、良い政治を行う王は一人も起こらず、殺害の相次ぐ暗黒な歴史を繰り返してその滅亡を急がせた。中でも最悪の王はアハブであり、彼の治世は最暗黒の時代であった。アハブは、妻として迎えたシドン人のイゼベルのために、礼拝の場所としてサマリヤの宮殿内にバアル(豊作をもたらすと信じられていた偶像神)礼拝の神殿を建て、そして祭壇を築いた(外国の妻を迎えた場合には、外交的儀礼習慣としても、その外国人の妻の宗教を重んじ、礼拝のための神殿などを設けることが一般に行われた)。後の考古学からは、神殿からほんの数歩の墓場から、神殿で犠牲にされた幼児たちの遺体を入れた壺が多数発見された。これはバアル礼拝の性格を示す1つであり、バアルとアシュタロテの預言者たちが幼児の公の殺人者であったことを示している。イゼベルは、自分の故国の宗教を北イスラエルの民に強要しようと努め、その結果、国はこぞって主に逆らい、偶像に仕えることになっていった。そのような時に、預言者エリヤは「ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」(1節)と、神様のさばきがあることをアハブ王に告げた。その結果、アハブ王の迫害の危険から身を隠す必要が起こった。

 エリヤへの神様のことばは「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」(3、4節)であった。

 ヘンリーH.ハーレイはこう述べている。「力や人の目を驚かす示威は、神の計画に危機が差し迫った時には必要でも、神の世界での真の御業はそのような方法では完成されないこと、神のご自身の本性と相反することをなし、また、人にさせることもあるが、それは緊急な時のことだけである。」

 本日の聖書箇所から2つの点を覚えたい。

①<緊急時になされる主の御業>

 〇生命の源の雨と露を閉じた。1節「ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」〇烏を用いて人を養った。4節「わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」〇尽きないかめの粉や壺の油で支えた。14~16節「イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。」

②<理解しにくい出来事を理解しやすいようにして下さる主>

緊急時になされる主の御業は、当然、人間には理解しにくい出来事である。しかし、これらのエリヤに起こった出来事は、迫害から身を隠すという、エリヤの生命を守るという重要な意味があった。ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりは人目につかない場所であった。食事の手配も人間ではないほうが良かった。シドンのツァレファテという外国の地も人目につかない場所という理由であった。やもめの女性に養ってもらうということにも同様の意味があったのであろう。エリヤは、これらの行動を「主のことばのとおりにした。」(5節)が、しかし、それさえも、主が、主のことばのとおりに行動できるようにして下さったのである。

2020年1月5日(日)

「主の摂理をも変更させる主の慈しみ」

テキスト:Ⅰ列王記17:17~24(旧約聖書615頁)

 

やもめの女性の息子が病気で亡くなる。18節「彼女はエリヤに言った。『神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。』」女性は、息子の死に遭遇させられるくらいなら、食料が尽きて、息子と共に死んでいた方が良かったと嘆く。

人の生命の終わりも神様だけが知っておられる。やもめの女性の息子が病気で亡くなったのは神様の摂理の中で起こった出来事であった。

死者のよみがえりの記事は聖書にいくつかあるが、イエス様は3人もの死人をよみがえらせている(ヤイロの娘:マタイ9:18-26、マルコ5:22-43、ルカ8:41-56。ナインのやもめの息子:ルカ7:11-15。ベタニヤでラザロ:ヨハネ11:1-44)。その内、友人ラザロはよみがえらせることが定められていた(ヨハネ11:4)にもかかわらず、イエス様はその死に面して「涙を流された」(ヨハネ11:35)。また、ナインのやもめの息子の死に面した時には、「主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい』と言われ」(ルカ7:13)、そして息子をよみがえらせた。

私たちの身の周りで起こる全ては、偶然によることなく神様によってもたらされているということを神の摂理と言うが、人の死も神様の摂理の中で起こるにもかかわらず、その神様が定められた齢を変えることもあるのである。それは、残された人たちをかわいそうに思い、涙を流される神様の慈しみによるのである。

20~22節「彼は主に祈って言った。『私の神、主よ。私を世話してくれたこのやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。』そして、彼は三度、その子の上に身を伏せて、主に祈って言った。『私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください。』主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうちに返り、その子は生き返った。」

私たちは慈しみ深い主のご摂理の中で生かされている。

2020年1月12日(日)

「悲惨に思える出来事の中にも主の御手が」

テキスト:Ⅰ列王記18:1~15(旧約聖書615頁)

 

 サマリヤの飢饉は悲惨な状態であった。アハブ王は、飢饉の原因はエリヤにあると見ていた。この国家の危機の解決は、「私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」(17:1)と語ったエリヤを捜し出して、干ばつを終わらせ、雨が降るように告げさせることだと考えていた。アハブは家畜のための水・牧草を捜すため、王宮で役職に就いていたオバデヤを呼び寄せた。アハブとオバデヤが指揮者となり2つのグループに分かれて捜し出すことによって、オバデヤとエリヤは対面(面識はないと考えられる)する。オバデヤはエリヤの服装などから、アハブと妻イゼベルが殺そうとしている預言者エリヤであることが分かった。

 エリヤは、オバデヤに、自分の来たことをアハブ王に告げるように求める。オバデヤは預言者エリヤが、神の霊の働きによって活動し、しばしばそのいる場所を変更し、移動することをも知っていたであろう。よって、アハブを呼び、エリヤのいることを告げても、もしエリヤがいなくなっていれば、自分はアハブに殺されてしまうと考えた。

 オバデヤは真の神を恐れて礼拝をしていた人物と考えられる(3節「オバデヤは非常に主を恐れていた。」)。イゼベルは熱心なバアル礼拝者であり、イゼベルが真の神の預言者たちを殺した時に、オバデヤは預言者100人を保護し、パンと水で彼らを養った。オバデヤはエリヤという預言者がどのような預言者であるか分からない故に、命がけで預言者たちを保護したにもかかわらず、なお自分が命の危険にさらされることになるとすればそれは理不尽であると訴える。

 オバデヤの恐れている事情を理解したエリヤは、「私が仕えている万軍の主は生きておられます。必ず私は、きょう、彼の前に出ましょう。」(15節)と確約し、オバデヤはアハブにエリヤのことばを告げる(18:16)。

聖書は、イゼベルによる大迫害の時にも、主を恐れるオバデヤのような人物が王宮の高官としていたことを記す。

 イゼベルによって殺された預言者もいた。しかし、オバデヤの命がけの行動によって助けられた預言者100人がいた。そして、エリヤのことばを信じたオバデヤによって神様の計画は動く。このイゼベルがいた恐ろしい時代に神様のなさった御業は、私たちの生活にどのような力を与えるであろうか。

2020年1月19日(日)

「主との交わりに戻って来て欲しい」

テキスト:Ⅰ列王記18:16~40(旧約聖書616頁)

 

 「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう。」(18:1、2)との主のことばにより、エリヤはアハブに会う。アハブはエリヤが干ばつを引き起こしたのだと考えており、エリヤに対して、「イスラエルを煩わすもの。」(17節)トラブル・メーカーだと吐き捨てるように言う。それに対しエリヤは、「私はイスラエルを煩わしません。あなたとあなたの父の家こそそうです。現にあなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。」(18節)と反論する。エリヤは、干ばつの原因は真の神に対する背信にあるのだと述べる。そして、「さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエル(民の代表者たち)と、イゼベルの食卓につく(イゼベル直属でイゼベルに雇用されている)四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者とを集めなさい。」(19節)と告げる。そして、集められたイゼベル直属の預言者たちに、「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」(21節)と告げる。彼らは、完全に真の神を放棄してバアル宗教に改宗してしまったというのではなく、バアル宗教を適当に取り入れながら、真の神に対する宗教的なものをも捨てないという、不安定で、不誠実な歩みをしていたのである。アハブはもともと宗教的なことに関心が強い人物ではなかった。

エリヤは、バアルの預言者四百五十人、アシェラの預言者四百人に対して、真の神はどなたであるのかをはっきりさせようと対決を申し出る。エリヤは、「火をもって答える神、その方が神である。」(24節)というこの戦いを決する提議を述べる。バアル教は元来太陽を主神とする宗教であり、火の神が火をもって答えるということに対して誰の異議もなく、「それがよい」(24節)と応じて戦いが始まるが、生きてはいない偶像の神バアルが火を下せるわけがなく、バアルによって火が下されることはできなかった。それに対しエリヤは、主の祭壇を十二の石で(現在の部族分裂の状態を悲しみ、主にあって一つであることを願い)建て直し、その祭壇の回りに、二セアの種を入れるほどのみぞ(それだけの量の種をまくことのできる範囲にみぞを掘った)を堀り、そして、燃えやすくする代わりに、四つのかめに水を満たし、それを、いけにえの雄牛とたきぎの上に三度も注いだ。水は祭壇の周囲に流れ、またみぞにも満ちるほどであった。

 エリヤはバアルの預言者たちに、真の神様がなさる御業というものは、まやかしのない、まさに神様以外にはすることのできない御業であることを示そうとしたのである。そしてエリヤは、「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行ったということが、きょう、明らかになりますように。私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」(36、37節)と神様に祈り求めた。そして、神様は火を下し、すべてを焼き尽くすという御業をなされた。

 39、40節「民はみな、これを見て、ひれ伏し、『主こそ神です。主こそ神です』と言った。 そこでエリヤは彼らに命じた。『バアルの預言者たちを捕らえよ。ひとりものがすな。』彼らがバアルの預言者たちを捕らえると、エリヤは彼らをキション川に連れて下り、そこで彼らを殺した。」エリヤは申命記(13:5、13:13~18、17:2~5)で命じられている通りに、また、モーセとピネハスの行動に倣って(民数記25:1~13)、バアルの預言者たちを殺した。エリヤはそうすることによって偶像礼拝の罪と危険(後の考古学からは、バアル礼拝の神殿からほんの数歩の墓場から、神殿で犠牲にされた幼児たちの遺体を入れた壺が多数発見された。これはバアル礼拝の性格を示す1つであり、バアルの預言者たちが幼児の公の殺人者であったことを示している)からイスラエルの民を遠ざけようとした。

 神様は、エリヤを用いて、生きておられる真の神様の存在をまざまざと示された。それは、真の神様から心が離れてしまっているアハブをはじめとしたイスラエルの民に戻って来て欲しいという神様の愛の御旨が表された御業だったのである。

2020年1月26日(日)

「イエス様の二性一人格は十字架のため」

テキスト:ヘブル2:17 (新約聖書426頁)

 

イエス・キリストの二性一人格論論争に関して、451年に開かれたカルケドン公会議において、イエス・キリストという方について以下なような決議がなされた。「神性によれば御父と同質、人性によれば私たちと同質」「二つの本性において混同されず、変わることなく、分割されず、分離されない」

ヨハネの福音書1:1「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」ヨハネの福音書1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

「ことば」とは、イエス・キリストのことである。そのことば(イエス・キリスト)は、神とともにおり、同時に神そのものであった。そのような御方が、一人の完全な人間となって私たちの間に来てくださった。このことばを書いたイエス様の弟子のヨハネは、三年余りイエス様と寝食を共にしたが、そのヨハネがイエス様を「父のみもとから来られた(神の)ひとり子」と理解し、その栄光を地上で目撃したと記した。ヘブル人への手紙2:17には、「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。」とある。「すべての点で私たち人間と同じように」なられた。同じようになるとは、まさに、神であり神の御子である方が完全に一人の人間となられたということである。イエス・キリストは人間となる必要があった。それは、罪を犯し、救いを必要としているのが人間だからである。人間が罪を犯したので、人間が罪の償いをしなければならないのであるが、すでに自分で罪を犯している人が、他の人の罪を償うことはできないのである。罪は神様に対する借金のようなもので、自分自身で借金のある人が、他の人の借金を肩代わりすることができるはずはない。よって、罪の償いをすることができるのは、罪を犯したことのない者だけである。しかし、そのような人はどこにもいない故に、神の御子イエス・キリストが罪のない人間とならなければならなかったのである。そして、私たちの罪によって引き起こされた神の怒りをなだめるために十字架にかかられたのである。イエス・キリストは神であると共に、人間なのである。とはいえ、半神半人なのではなく、100%神であり、100%人間なのである。

 聖書には三名の御方が神と呼ばれている。父なる神、子なる神(イエス)、聖霊なる神であるが、この三者は人格(位格)において三つに区別できるが、本質においては、同じ一人の神であって、互いに上下の差異はない。本質において一つでありながら、位格において三つであるこのような神のあり方を三位一体と呼んでいる。イエス・キリストの二性一人格も同じように、私たちの理解力をはるかに越えている。しかし、神は人間と同じ存在ではない。人間が経験的に知ることが出来ないのである。しかし、聖書のことばを学ぶ時、私たちは、イエス・キリストをこのように理解する以外にないと受け止めるのである。Ⅰコリント2:9「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

2020年2月2日(日)

「エリヤよ。ここで何をしているのか。」

テキスト:Ⅰ列王記19:1~18(旧約聖書619頁)

 

アハブは、エリヤがバアルの預言者たち850人を殺したことをイゼベルに告げた(1節)。バアル崇拝者のイゼベルは怒り、エリヤに使者を送り、今にも殺すかのように告げる。その言葉を聞いたエリヤは、自分の身と、同伴していたと考えられる若い者の身の安全のためにベエル・シェバに行く。そこで、エリヤは、かつて、モーセが神様とただ一人だけで見えることができるようにと、しもべたちのもとを離れたように(出エジプト24:2)、若い者を残して、神様に願い、訴える時を持つ。「自分は荒野へ一日の道のりを入って行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」

弱りきったエリヤは、眠り、そして、御使いが与える食事で精力を得て、四十日四十夜、歩いてホレブの山に行くと、そこでエリヤへの神様のことばがある。「エリヤよ。ここで何をしているのか」(9節)。その問いかけにエリヤは答える。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」同じ問答がもう一度繰り返された後、神様はエリヤに新たな務めを与える。

本日の聖書箇所から3つの点を覚えたいと思います。

①「疲れきった状態では神様の存在が見えなくなる」

エリヤは、御使いが食べ物を運んできても、その存在に気付かない。神様は疲れきったエリヤにまず必要な、十分な睡眠と食事を下さった。疲れきったエリヤの尻を叩いて、「何を恐れているんだ!!」と従わせるような神様ではない。神様が「エリヤよ。ここで何をしているのか」(9節)と問うと、神様は責めているのではないのに、「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」(10、14節)と、過去の熱心であったことを自己防衛的に語っている。

②「神様に熱心に仕える時の盲点」

エリヤは、自分だけが神様に熱心に仕えていると不満を漏らす(10、14節)。しかし、実際には、イゼベルが主の預言者たちを殺した時に、100人の預言者を救い出した、主を恐れる王宮の高官オバデヤ(18章3節)がいたり、オバデヤに救い出された100人の預言者がいたり、また、18節にあるように、「しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」このような七千人の存在があった。

 神様は、熱心に仕えたことと、いのちを取ろうと狙われることとの関係は、神様に仕える者にとって必ずしも不可解ではないと思えるようになることを求めておられる。

③「神様は存在意義を再確認させることで立ち直らせる」

神様は、かつてモーセに現れて大切な啓示を与えた神の山ホレブにエリヤを導き、エリヤは預言者として失格などしていないのだと示す。神様は、「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と問いかけ、エリヤに新しい務めがすでに用意されていることを示し、意気消沈しているエリヤを立ち直らせる。

エリヤは寂しい山峡に育った孤独の子であったと、ヘンリー・H・ハーレイは言う。そして約25年間、非常に困難な働きをしたと。いつしか、エリヤはイゼベルに恐れを抱いた自分を神様に見せてはいけないと思ってしまっていたのかもしれない。

2020年2月9日(日)

「殺人者カインに向けられる神様の憐み」

テキスト:創世記4:1~16 (旧約聖書5頁)

 

 カインとアベルは神様の命令によってではなく、それぞれ自発的に神様に収穫感謝のささげ物をする。神様は、アベルとそのささげ物とに目を留められたが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。そのことに対してカインはひどく怒り、顔を伏せた(5節)。なぜ神様はカインとそのささげ物には目を留めず、アベルとそのささげ物に目を留められたのであろうか?ヘブル11:4には、「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ」とあり、Ⅰヨハネ3:12には、「カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。」とある。また、7節には、「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」とある。

アベルは何を「正しく行い」、カインは何を「正しく行っていなかった」のだろうか?多くの注解書からしても、ささげ物の種類の違いではないことは確かであろう。カインによる殺人が起きたことで、その経緯として、この、ささげ物を持ってきた二人の、神様への思い、態度に焦点があてられることになったのであろうが、しかし、二人の心の態度にさほどの差がなければ、神様は両方とも受け入れられたのではないか。しかし、さほどの差ではなく、大きな差があったのだろう。それは、カインには、日頃から、神様のことを意にも留めないような心の態度があったのではないか。かたやのアベルは、そのカインとは違っていた。それが「それも最上のものを持って来た」(4節)ということばに表れていると思われる。

神様は、怒り憤るカインに、「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。 あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(6~7節)と、アベルの神様への思いと、カインの神様への思いとの差に対してアベルを憎らしく思っているカインに、その思いに引きずられてはならないと、やさしく警告される。

「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。」(7節)。罪は野獣が獲物を狙って待ち伏せして襲い掛かるようにして人に罪を犯させる。カインは神様の警告を無視した結果、アベルを殺してしまう。10節「そこで、仰せられた。『あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。』」死んですでに声なき者であるからこそ神様に向かって叫ぶ。律法には(民数記35:16~19)殺人者は必ず殺されなければならないとあるが、復讐してくれるはずの近親者によって殺されたアベルのためには、主への叫びよりほかはなく、その叫びに神様が行動されるのである。

カインは土地にのろわれて耕作不可能になり、地上のさすらい人になるとの宣告を受ける(11~12節)。13~14節「カインは主に申し上げた。『私の咎は、大きすぎて、にないきれません。ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。』」カインは神様に、自分の犯した罪の大きさに目もくれず、刑罰の大きさについて訴える。カインは赦しを請うのではなく、不満の叫びをあげ、アベルの近親者からの復讐を恐れる(アダム・エバの子らの家族の範囲内での人口の増加)。

15節「主は彼に仰せられた。『それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。』そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。」不満に満ちたカインの訴えに対し、神様は、仮にカインを殺す者があれば、神様がその者に復讐するということばによって、復讐によってカインが殺されることはないと保証して下さる。そして、殺されないためのしるしを与えて下さった。

神様は、悔い改めなき罪人のカインにも、憐みを惜しまれない。それは、カインがその罪にもかかわらず、神様によってそのいのちの存続を許されているということからも分かるのである。

2020年2月16日(日)

「ひとりの従順によって義人とされる」

テキスト:創世記6:1~22 (旧約聖書8頁)

 

アダムとエバの長男カインの築いた文明はギリシヤやローマの文明に匹敵するほどのものであったようである。しかし、弟アベルを殺したという、とてつもない罪を犯しながら、悔い改めることのなかったカインから増え広がった人間は、罪を持った人間がただ増加していくということにつながり、道徳的堕落も拡大することになった。1~2節「さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。」とある。「地上に人の悪が増大」(5節)した中にあって、かろうじて神様のことを気に掛ける程度の信仰者(神の子ら)がいたのであるが、彼らは、それとは反対に全く神様への信仰心のかけらもない世俗的な生き方をする女性たちと結婚したとある。しかも、その選び方は「人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで」であった。表面的な美しさに惹かれて神様のみこころを無視して罪を犯したエバの時と同様に。

このような不信仰と堕落に対して神様は警告をされた。3節「そこで、主は、『わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう』と仰せられた。」人は神様の霊によって「生きもの」となった(創世記2:7)。神様の霊が人のうちにとどまらないならば、人は死すべき肉にすぎず、もはや真の意味で生きている者とは言えない。それで、神様は人の齢を百二十年にしようと言われた。これは、人の寿命が短くなるという意味とも考えられるが、神様がさばきを下す前に、百二十年の猶予期間を与えたということであろう。(洪水後もしばらくは四百年以上の寿命があった。創世記11:10~17)

5節「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」これは人間の悪い心を強調して述べている。神様は人に警告を与えた後に、人の心と行動を見ておられたが、人が心の中で考えること、計画することがいつも悪いことだけに傾くのみであった。神様は罪を指摘し、人が悔い改めるのを忍耐深く待っておられたが、人は悔い改めるどころか、ますます罪の深みに進んで行った。「それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」(6節)とある。これは、神様の創造の御業に失敗があったということではない。Ⅰサムエル15:29には、「実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない。」とある。神様は、人間が創造の目的からあまりにもかけ離れて生きていたために、残念に思われ、心を痛められたのである。そこでついに、さばきを下すという宣告がなされる。「そして主は仰せられた。『わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。』」(7節)

8~9節「しかし、ノアは、主の心にかなっていた。これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」このような暴虐の時代にあって、ただ一人、ノアだけは主のみこころにかなっていた。「正しい」はおもに人に対するものであり、「全き」は神様に対するものである。これは、ノアが神様の前に完全無欠な人間であったということではない。ノアも弱さを持ち、失敗を犯す人間であった。しかし、ノアは、神様への信頼とそれ故の忠実さがあったのである。

神様は、ノアとその家族と各種類の鳥、動物、地を這うものを含むすべての種類の生き物を大洪水から救うために、巨大な箱舟を造るという救いの計画を示された。神様は彼らを救い出すために、ノアと契約を結ばれた。「しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟に入りなさい。」(18節)「生めよ。ふえよ」とのアダムへの約束は、ノアとノアの子孫を通して果たされるのである。

箱舟を造り、動物たちを集め、必要な食物を備えることは、想像を絶するほどの大仕事であろう。そして120年間余りの長い年月に亘って、神様からのさばきの警告を語るノアとその家族に向けられた嘲笑は絶えることがなかったであろう。Ⅱペテロ2:5には、「また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。」とある。ヘブル11:7には「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」とある。絶えざる嘲笑の的となっても、ノアは神様への信仰によって臆することがなかったのである。22節「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」ノアは「すべて」の神様の命令に聞き従ったのである。自分にとって都合の良い、従いやすい命令にだけでなく、従いにくい命令にさえも従ったのである。このノアによって多くのものが救い出されたのである。

今日の世界も罪に汚染された堕落しきった世界とも言えるであろう。しかし、ローマ5:19「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」とあるように、イエス様の贖いの十字架によって、罪人が義人とされる救いの道があるのである。

2020年2月23日(日)

「人の心は何よりも陰険でそれは直らない」

テキスト:創世記11:1~9 (旧約聖書15頁)

 

1~2節「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。」ノアの子、セム、ハム、ヤペテは当然一つの言葉を用いていたに違いない。そしてその子孫も、様々な方言を用いていたにしても、互いに意志の疎通をはかることができる状態だったに違いない。人々は、東の方から移動して来て、シヌアルの地、つまりバビロニヤの地に平地を見付け、そこに定住した。3節「彼らは互いに言った。『さあ、れんがを作ってよく焼こう。』彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。」彼らは建築の面でも技術を向上させ、「れんが」を造ることができるようになった。メソポタミヤ地方では、石は多く産出しないので、彼らは石の代わりに「れんが」を発明し、そのことによって以前より堅固な建物を建てることができるようになった。やがて、れんがの代わりに瀝青(アスファルト、れんがの接着と、水などの浸透を防ぐ目的でメソポタミヤでは広く用いられた)を用いるようになると、更に高い建物を建てることが可能になった。4節「そのうちに彼らは言うようになった。『さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。』」彼らは、技術が発達するにつれて、「名をあげ」る(威信を示す)ために、頂が天にまでも届く(自分たちの能力は神様の領域にまで到達できるとの過信)との過信による塔を建てようとする。彼らは人間の欲望・利害が一致した仲間同士で塔を建てて見せると息巻く。5節「そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。」人間のこのような企てに対して神様は無関心ではおられなかった。ここで「人間」と訳されていることばは、もろい人間を意味している。神様は神の領域にまでと高慢になる人間に、その領域に来ることなどできないのだと言わんばかりに降りて来られたと表現されている。。6~9節「主は仰せになった。『彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。』こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」神様は、人が神への反逆において一つ心になり、神に反逆する文明を築こうとするならば、それはやがて手の付けられないものとなり、人類の最終的な破滅にまで至るであろうと考えられ、そこで、人間のことばを混乱させ、互いに意志の疎通ができないようにされた。これによって人間は一致して神に反逆することができなくなったのである。人の心に思い計ることは、ノアの洪水の後(約100年後)も相変わらず悪いことだけに傾いていくのであった(6章5節「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」)。神様の介入がなければ誰も人間の罪悪の増長を制することはできないのである。

 ノアの時代の大洪水で、悪をさばかれる神様を目の当たりにしたノアの家族たちは、その後に生まれてきた人々に大洪水の出来事を語っていったはずである。しかし大洪水から約100年が経過するとバベルの塔の出来事が起こるのである。エレミヤ17:9には「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」とある。もともと人間は肉体・魂(人間の感情、頭脳、精神等)・霊の3つの部分を備えたものとして造られた。霊とは、人間が神様との交わりを持つ部分であり、神様に関する真理を理解する部分である。人間の先祖アダムは罪を犯した結果、神様との交わりを失い、その子孫である人間は神様との交わりを失った状態で生まれてくる。すなわち霊の部分が死んだまま生まれてきている。故に、自分の心の悪も知ることができないのである。地上の世界で見れば、100年程経つとまた悪が増大するのである。私たちは、ただ神様の恵みにより、イエス・キリストを罪からの救い主として信じ、霊の部分に神様からのいのち、聖霊が与えられた者である。しかし罪赦された罪人であり、悪いことに傾く思いを持ち合わせている。故に神様の思いに置き換えて生きていく必要があるのである。聖霊の助けを頂きながら、思考をみことばに置き換え、罪に気づいたらすぐに言い表して神様との交わりに戻って生きるのである。

2020年3月1日(日)

「イエス・キリストによって祝福を受けている」

テキスト:創世記11:27~12:5 (旧約聖書16頁)

 

聖書は神様が人間を罪から救い出す救済史である。憐れみ、恵みに満ちた神様は、人間の先祖アダムが罪を犯した直後から、サタンを踏み砕くと約束して下さった。後に、ひとり子の神であるイエス・キリストをこの世に遣わし、罪を犯した人間の罪を取って、それをキリストのからだに負わせ、十字架につけ、信じる者を神様のもとに立ち返らせる日が来ることを、この時はまだ兆し程度ではあったが、予告して下さった。神様は、ノアの時代に、人の悪が増大した地上に大洪水を起こし、箱舟によってノアとその家族だけを救い出された。また、ノアの洪水の後、約100年後に、人が神への反逆において一つ心になり、神に反逆する文明を築こうとしたバベルの塔の建築を、言葉を混乱させ、意思疎通ができないようにされ、反逆を制された。

アブラムはノアの子どもセム・ハム・ヤペテのセムの子孫であるが、アブラムの家族が住んでいたカルデヤ人のウルという地は、月神ナンナ礼拝を行う偶像礼拝者たちが住む地であった(「あなたがたの先祖たち、アブラハムの父で、ナホルの父でもあるテラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた。」ヨシュア記24:2)。ノアから、「ほめたたえよ。セムの神、主を。」と祝福されたセムの子孫が、バベルの塔の出来事以来、主から離れ、偶像礼拝に埋没して行ったのである。神様は偶像崇拝の地からアブラムを救い出される。神様はアブラムとその子孫を通して、地上のすべての民族が祝福されると約束された。それはアブラムの子孫イエス・キリストの贖いの十字架によって実現していく。神様はアブラムを偶像崇拝の町である故郷から導き出し、約束の地に連れて行く。アブラムとその子孫が、その地において神様のみこころにかなう信仰による民族を形成し、彼らを通して世界の諸民族が神様の祝福にあずかるようにとの神様の計画があったからである。

神様はアブラムに語られた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(1節)神様は、示す地へ行けば、「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」(2節)「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(3節)と言われた。

「大いなる国民とし」とは、アブラムから多くの国民が分かれ出るまでになるということであり、「あなたを祝福し」とは、アブラムに所属するすべてのもの、彼の家畜、財産まで祝福され豊かにされるということであり、「あなたの名を大いなるものとしよう」とは、アブラムの信仰の故に、彼が「信仰の父」と呼ばれるようになるということである。「あなたの名は祝福となる」とは、アブラムが祝福されるだけでなく、アブラム自身が祝福の原因となり、彼が他の人に神様の祝福を取り次ぐ器となるということである。「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」とは、アブラムの幸いを願う者もまた神様の祝福を受け、アブラムに反対する者は、神様がアブラムに与えた使命に反対する者である故に罰せられなければならないというような意味である。

神様のことばを聞いたアブラムは、「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。」(4節)とある。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。アブラムは175歳で亡くなった(創世記25:7)ので、我々が仮に90歳まで生きるとしたら、アブラムがハランを出発した年齢は、我々にとっては38歳頃に出発するということになるので、年齢の面では別に驚くような年ではなかったと考えられるが、「主がお告げになったとおりに出かけた」とは、アブラムのすばやい行動を示そうとしており、ヘブル11:8には、「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」とある。アブラムは見えるものによってではなく、主のみことばを信じて、故郷、親戚からも離れ、旅立ったのである。途中、ウルと同じような月神礼拝が行われていたハランにとどまってしまった時もあったが、しかし、主のみことばに従い約束の地カナンに向かって行ったのである。

 5節「アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。」アブラムと共に旅立ったのは、妻のサライと甥のロト、そしてハランで加えられた人々であった。この加えられた人々とは恐らく召使たちであったと思われる。この一行に父のテラは加わらなかった。アブラムはハランで得た財産を持って行った。ハラン滞在は問題ではあったが、神様は恵みによってそれをも益として下さり、アブラムに財産として増し加えて下さったのである。すべてを伴っての出発は、再び帰る意志のない故郷との訣別を示していた。

今日、私たちは、イエス・キリストを罪からの贖い主と信じる信仰によって、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(3節)という祝福に預かっている者である。

2020年3月8日(日)

「思い描いた現実が見えない時に」

テキスト:創世記12:6~9 (旧約聖書17頁)

 

6節「アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。」

ハランを出発したアブラムは妻のサライと、甥のロト、そして、羊の群れ、家畜の群れ、しもべたち、動物の世話人を連れ、それらの全員が宿泊する天幕も持参して、カナンまでおよそ640キロもある旅をして、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。

しかし、ようやくたどり着いたその地にはカナン人が住んでいた。カナン人は偶像礼拝者であった。主の約束された地は誰も住んでいない地、何の戦いもなくして取得することができる地ではなかった。むしろ偶像礼拝者たちが、自分自身の所有地として住み着き、そこに自分たちの文化、文明、国家を築いていたのである。アブラムの心の中には様々な不安がよぎったのではないだろうか・・。この先、先住民から、何故おまえたちはカナンの神を拝まないのか?と問われ続けるのだろうか・・。アブラムには「これが主の示す約束の地なのだろうか」という思いも起こったのではないか。

そんなアブラムを励ますために、神様はアブラムに現れ、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた(7節)。これは、神様について「現れる」と表現されている聖書の最初の例である(アダムやエバは神様の声を聞いた(3:8)。カイン、ノアへも神様は語られた(4:6~9、6:13、7:1)が、「現れた」とは言われていない)。しかし、アブラムが具体的に何を見たのかについての言及はなく、それが声を伴っていたことだけが示されている。アブラムにはまだ子どもがいなかったが、神様は必ず子どもが与えられるという約束をして下さり、それと同時にカナン人の手にあるように思われるこの地は神様の地であり、神様がそれをアブラムの子孫に与えると約束し、励まして下さったのである。

「アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。」(7節)ようやくたどり着いたカナンの地の住民が偶像礼拝者たちである状況に立たされたアブラムは、そんな自分を励まして下さる神様に祭壇を築いたのである。かつてノアが築いたように(8:20)、アブラムも祭壇を築き、いけにえをささげたのであろう。励まして下さった神様への感謝と、そして、恐れに満ちてしまいそうなアブラムは祭壇を築き、幼子のように神様にすがり、礼拝をしたくなったのであろう。(その後アブラムはベテルとアイの間に移住するが、そこにもやはり祭壇を築き(8節)、行く先々において祭壇を築いた。)

私たちの生涯においても、神様のみこころと信じて歩み出したが、思い描いていた世界とはかけ離れた現実に立たされることがあるということが本日の聖書箇所からも分かる。しかし、神様は、私たちにも、そのご臨在と共に、再度、みことばの約束の変わらぬことを示して下さり、励まし、進ませて下さるのである。

2020年3月15日(日)

「人間の策に走ってしまったアブラム」

テキスト:創世記12:9~20 (旧約聖書17頁)

 

アブラムは南へ進んで行き、ネゲブのほうへと旅を続けた(9節)。約束の地を目にして、確かに神様がこの地を与えて下さるのだと再確認させてもらったアブラムは、偶像崇拝問題以外の厳しい問題に直面するのである。アブラムがネゲブに滞在している間に非常に激しい飢饉があった(10節)。雨量の多少に左右されるパレスチナの土地よりも、ナイル川の水に支えられていたエジプトの状況は、はるかに安定しており、食物も豊富にあった。パレスチナが飢饉の時には、人々はエジプトに食物を求めて流れて行った。11~13節「彼はエジプトに近づき、そこに入ろうとするとき、妻のサライに言った。『聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。』」サライはこの時、少なくとも65歳になっていたと思われる(4節、17章17節)。それは、今日の我々の30代か40代に相当したであろう。アブラムは美しいサライを妻にしているために殺されるかもしれないと思った。当時は、王が美女を宮廷にそばめとして召し入れるのは普通のことであった。神様を恐れることのない異邦社会では、その美女が人妻であっても夫を殺害してでも召し抱えることがあったようである。アブラムはそのことを恐れ、異母妹であった妻サライに、そのような危険がおよんだ時には、自分たちのことを兄と妹だと言うように頼んでおいた。当時、一般には上流社会で行われた制度に、ある婦人が妻であると同時に、血縁はないのに妹としての地位も獲得しているということがあった。この二重の立場は普通の妻の場合より、有利な特権と保護を与えられた。サライは事実アブラムの異母妹であった(20章12節)し、当時の制度を利用しているということであれば、「私の妹だと言ってくれ」ということは、全くのうそではなかったが、明らかに人を欺くための言葉であり、結果的には妻に姦淫をさせてまでも自分の命を救おうとする卑劣なたくらみであると言われても仕方のないことである。しかもアブラムにはこの手口は3回(この箇所以外にも20:2、26:7)も見られる。恐らく当時の世界ではしばしば行われたことだったのであろうが、アブラムも当時のやり方に倣ってこのような行動をとってしまったのである。

アブラムはこの世的な策に走り、妻のサライを失っても仕方のないところであったが、神様はアブラムに与えた約束、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」(7節)の故にサライを無事に救い出し、アブラムのもとに返された。アブラムは神様から何のとがめも受けず、サライの代償として得た富をそのまま携えてエジプトを出たのである。

本日の箇所から私たちは何を聴くことができるだろうか。もし、アブラムがパレスチナの地に留まることでアブラムの命が絶たれるなどということが起こり、人類を罪から救い出す救済の計画が崩れるのであれば、神様からアブラムに対し、「エジプトに行き、食料を得なさい」ということばがあったはずである。

厳しい飢饉に際して、どのように対処すべきかの神様からのことばがなかったのであるから、パレスチナの地に留まっていても、アブラムたちは神様の守りの中で生きることができたであろう。後に信仰の父と呼ばれるアブラムも、厳しい飢饉の中にあっても神様は守って下さるという信仰が、まだこの時には持ててはいなかったのであろう。そして、嘘をつかなければ妻サライの故に自分は殺されると思ってしまうところにも神様への信頼を持つことができていないアブラムの姿がある。

しかし、パロとその家がひどい災害で痛めつけられたことを通して、生きて働かれる神様という御方を知ったのではないか。そして、神様にみこころを尋ねることの必要性も・・。

2020年3月22日(日)

「互いに愛し合うために」

            テキスト:ヨハネの福音書13:1~20 (新約聖書207頁)

 

パレスチナの道路は、全然舗装されておらず、ほこりっぽかった。乾燥した気候の折には、ほこりはかなりうずまり、雨期にはどろんこ道となった。一般民衆が履いていた履物はサンダルであった。それらのサンダルは簡単な底革で、2,3本のひもで足に結び付けられていた。それは道路のほこりや泥を防ぐには、ほとんど役に立たなかった。パレスチナの風習では、人々は祝宴に出かける前には沐浴をした。彼らは招待主の家に着いた時、もう一度沐浴する必要はなかった。ただし、しなければならないことは足を洗うことだった。洗足とは、彼らが客として家に入る前になされるパレスチナの儀礼であった。そして、祝宴で客の足を洗うことは、奴隷の務めであった。イエス様は上着を脱ぎ、奴隷の姿になり、奴隷がするように手ぬぐいを腰に巻き付け、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い、仕える者の姿の特徴である腰の手ぬぐいで拭き始めた。イエス様が行った弟子たちへの洗足の行動には2つの大きな意味があることが分かるが、本日はその1つ目を覚えたい。

イエス様は、「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」(7節)と言われた。ペテロは自分の足を洗おうとしているイエス様に対して、「決して私の足をお洗いにならないでください。」(8節)と言った。そのことばに対してイエス様は、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」(8節)と言われた。「あなたはわたしと何の関係もありません。」ということばは、「あなたはわたしと共にある分け前がありません」とも訳せることばであるが、ペテロはイエス様から何かを(イエス様がユダヤの王に就いた時に頂けるのではと思っている自分の地位?)頂きそこねるのではと思い、慌てて、「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」(9節)と述べる。「あなたはわたしと共にある分け前」とは、神の子どもとされた故に授かる様々な相続のことを指している。その授かる相続の1つに、「全身のきよめ」というものがあるということであるが、それは、神様は、イエス様を信じる者を、全くきよい者として見て下さるという約束である。イエス様は、洗足の行動に秘められた十字架と復活の1つの意味をパレスチナの風習である沐浴と洗足の儀式を例に示唆されたのである。

10節「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。」「全身きよいのです」というみことばは、神様は、イエス様を信じた私たちを全くきよい者として見て下さっているということを示している。しかしその一方で、私たちは罪赦された罪人であり、罪を犯してしまうという現実がある。しかし、洗足の必要がその都度あるように、犯してしまう罪をその都度、神様に言い表して生きていくのである。そして、罪を言い表したならば、Ⅰヨハネ1:8~9、「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」の約束にあるように、その罪を赦して下さったことを信じ(すなわちイエス様にあって忘れる)、悔い改める(「心を変えること」「考え直すこと」)ことである。

そして、悔い改めの実を結ぶために、悪習慣となっている行為を神様に気づかせて頂き、古い罪ある習慣を断ち切り、キリストにある新しい、きよい習慣を身につける必要があるのである。エペソ4:22~24にあるみことば、「あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」に従い、キリストにある新しい、きよい習慣を身につける必要があるのである。

最後の晩餐の席でイエス様が弟子たちに最も伝えたかったことは、ヨハネ13章34節のことばであろう。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」私たちが互いに愛し合って生きるためにも、愛し合えていない自分に気づいたならば、みことばに基づき、その罪を神様に言い表し、罪の赦しを信じ、愛することを妨げているものを具体的に捨て(悔い改め)、互いに愛し合っていくのである。イエス様の十字架・復活によって全くきよい者と見て下さっている神様の恵みを覚え、聖霊の助けによって。

2020年3月29日(日)

「自分が一番偉いと思うのはやめなさい」

                   テキスト:ヨハネの福音書13:12~17 (新約聖書207頁)

 

最後の晩餐の席でイエス様が弟子たちに最も伝えたかったことは、ヨハネ13章34節のことばであろう。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」私たちが互いに愛し合って生きるためにも、愛し合えていない自分に気づいたならば、みことばに基づき、その罪を神様に言い表し、罪の赦しを信じ、愛することを妨げているものを具体的に捨て(悔い改め)、互いに愛し合っていくのである。イエス様の十字架・復活によって全くきよい者と見て下さっている神様の恵みを覚え、聖霊の助けによって歩むことを繰り返して生きていくのである。

本日は洗足の記事から、互いに愛し合って生きるために必要な2つ目のことを覚えたい。それは「自分が一番偉いと思う」心を悔い改めて(「心を変えること」「考え直すこと」)生きることである。

ルカの福音書22:24によると、最後の晩餐の食卓で、「この中でだれが一番偉いだろうかという論議」が弟子たちの間で起こったと記されている。弟子たちは、もう間もなく師であるイエス様がローマの国を武力で破り、ローマの国からユダヤを解放し、ユダヤの王に就くだろうと思っていた。そしてその時に備え、誰がどのポストに就くのかと、各々がライバル心をむき出しにして牽制しあっていたのである。イエス様はそのような弟子たちに対して、奴隷の姿になり、洗足の行動を見せることで、「この中で誰が一番偉いだろうかというような議論はやめなさい」と教えたのである。

ルカ22:25~27「すると、イエスは彼らに言われた。『異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。』」

ヨハネ13:13「あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。」イエス様は神であり、人間的な言い方をすれば偉い中でも特別に偉大な方である。しかし、私たち人間は、神様の目から見て、誰が偉くて、誰が偉くないなどということはないのである。人間に上位下位などないのである。しかし、私たちは心のどこかで、自分を他の誰かよりも偉いと思ってしまうことがあると言えるだろう。誰かを自分より下位だと思ってしまう心から出る態度行動はないだろうか・・。イエス様は言われる。14節「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」15節「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」イエス様は、「あなたがたもするように」と言われる。それは、具体的に、「この中で誰が一番偉いだろうかというような議論をやめる」ことであり、「自分が一番偉いと思う」心に気づいたならば、その思いを悔い改めて(「心を変えること」「考え直すこと」)、具体的に誰に対してどのように間違った思いがあったのかを考え、その思いを聖霊に変えて頂くことを願いながら、互いに愛し合って生きていくのである。洗足のように日々の繰り返しであっても、「新しい人を身に着る」(エペソ4:24)べく、キリストにある新しい、きよい習慣を身につけるために生きていくのである。

2020年4月5日(日)

「怒る神から赦しの神へ」

         テキスト:ローマ人への手紙3:23~26(新約聖書293頁)

 

マルコの福音書15:15~20節、「兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、それから、『ユダヤ人の王さま。ばんざい』と叫んであいさつをし始めた。また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。」

イエス様は死刑判決が下された後、むち打ちの刑を受けられた。むち打ちの刑は恐るべき極刑の一部であり、それは残虐な拷問であった。むちは金属や、骨付きの皮製であり、死の一歩手前まで行われ、体からは血が流れた。イエス様は更に、王様が着る紫の衣を着せられ、王冠にみたてたいばらの冠をかぶせられ、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫んで挨拶をされ、葦の棒で頭をたたかれ、つばきをかけられ、ひざまずいて拝んだりされた。嘲弄され、頭からは血が流れ、精神的、肉体的な様々な屈辱を受けられた。これだけでも耐えられないような苦痛であるが、イエス様はその後、両手足に釘を打ちつけられ十字架につけられた。十字架は、ローマ帝国における死刑の方法であり、それは、生きたままで十字架につけて、何もしないで、かなり長い時間十字架にかけられ死を待つというものだった。十字架刑の受刑者は、体力がなくなるにつれて、身体を持ち上げて息をすることができなくなり、呼吸困難と血液循環障害を起こして死ぬ。その間、人々の罵声を浴びながら死を迎えるという残酷な刑が十字架刑であった。

イエス・キリストのこの残虐な十字架刑は私たちの罪のためであると聖書は述べている。「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれた」(Ⅰコリント15:3)「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。」(Ⅱコリント5:21)また、本日の聖書箇所には、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」とある。

「なだめの供え物」とは、旧約聖書で人間の罪に対する神様の怒りが取り除かれるために、血を流してささげる動物の犠牲のことを指す。ここには罪に対して怒る神様がおられ、この怒りがイエス・キリストの十字架の贖い(贖いとは、「買い取ること」を意味する語。この言い回しは当時、特に、奴隷の自由を買うときに使われた。イエス・キリストの贖いの十字架を信じていない者は罪の奴隷)によって取り除かれるということが示されている。罪に対して怒る神様の姿は、「さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。」(マルコ15:33)という異常現象にも表されている。

父なる神様と御子イエス・キリストは、無限、永遠、不変の愛(人間では計り知ることのできない愛)によって結ばれており、十字架刑の時まではその愛が破られるということは、一瞬たりともなかった。しかし、イエス・キリストの十字架刑は、人間が釘づけにされるという苦しみのみならず、父なる神様との断絶が行われたのである。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)それは人類が誰一人として経験したことのない、父なる神様からの断絶状態に置かされたイエス・キリストの叫びだったのである。イエス・キリストは私たちの罪を背負い、神様の怒りを身に受け、神様との断絶刑という究極の刑を受けて下さったのである。

しかし、罪ある人間を、イエス・キリストの贖いの死によって、信じる者を義と認めると神様は約束して下さった。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」義認とは、人が神様の前に義と宣言されることによって、神様がご自身と新しい法的関係を確立されることを言う。神様はもはや罪に対して怒れる神様ではなく、赦しを与える御方なのである。

2020年4月12日(日)

「キリストの復活がもたらす恵み」

    テキスト:ヨハネの福音書20:1~10(新約聖書222頁)

 

マタイ27:66には「そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。」とある。その封印はローマの権力と権威を表わす印であった。墓の入口から石を動かすためには封印を破らなければならず、封印を破ればローマの法律によって刑罰を受けなければならなかった。しかし、女性たちは、「墓から石が取りのけてあるのを見た」のである。マタイの福音書28:1~4にはこう記されている。「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。 番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」そこには圧倒的なイエス様復活の歴史的証拠がある。ローマの封印は破られていた。誰でも封印を破った者は逆さ十字架の刑に処せられることになっていた。しかし警備にあたっていた番兵たちは逃げ去ってしまった。東ローマの皇帝ユスティニアヌスは「ローマ法大全」(49:16)で、番兵たちが死刑に処せられるべき罪状を列挙している。それは、眠り込んでしまうことや、警備にあたっていた場所から離れてしまうことなど十八もある。

本日は、イエス・キリストの復活が私たちにもたらすものを覚えたい。

①ローマ人への手紙4:25には、「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」とある。キリストの十字架の贖い、そして、キリストの復活を信じる者は、神様に「自分の罪が赦された、義と認められたと確信できる」のである。

②ローマ人への手紙6:4には、「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」とある。キリストの十字架の贖い、そして、キリストの復活を信じる者は、「罪に打ち勝つ力を与えられる」のである。神様に義と認められた者は、神様との新しい法的関係が確立された。しかしそれは罪ある人間の法的変化であり、心の内的、質的な変化のことではない。ローマ6:6には、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」とあるが、義と認められた私たちは、かつての罪に染まった生活様式・思考様式(古い人)を続けるのではなく、みことばの原則に従って、信仰生活の領域、生活の手直しをし、新しい聖書的な生き方を一つ一つ具体的に身に着けていく(新しい人(エペソ4:24)、新しい歩み)必要があるのである。ローマ人への手紙6章、エペソ人への手紙4章の古い人、新しい人とは、二つの異なった「生き方」「ライフスタイル」なのである。聖霊・みことばの力によって罪に打ち勝って生きる者とされているのである。

③コリント人への手紙第Ⅰ 15:20~23には、「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。」とある。人類の先祖アダムの罪の故に、全人類は肉体の死を経験する者となった。しかし、キリストが復活された故に、キリストの十字架の贖い・復活を信じる者すべては、キリストの再臨の時に復活させられるのである。

2020年4月19日(日)

「死は勝利にのまれた」

          テキスト:Ⅰコリント15:54、57 (新約聖書343頁)

 

ピリピ人への手紙3:20~21「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」

 このみことばは、主イエス・キリストが再び来られる時、私たちの「卑しいからだ」を「栄光のからだ」に変えて下さることを約束している。私たちの現在のからだが「卑しいからだ」と呼ばれるのは、この地上に生きている間、このからだが罪のために利用されてきたからである。このからだは多くの病を経験し、いつか必ず朽ち果てていく。このからだは、私たちがこの地上で一時的に生きるために与えられた、身にまとう着物にすぎないのである。そのような「卑しいからだ」が、イエス様の再臨の時に、「栄光のからだ」へと変えられるのである。イエス様は、十字架による死から復活し、その保証をして下さったのである。

 人は死ぬと、肉体と魂とが分離し、肉体は朽ち果てる。しかし、人間の魂は消滅しない。イエス様の贖いの十字架・復活を信じる者は、イエス様の再臨の時に、魂に栄光のからだが与えられるのである。

 イエス様は復活し、死を征服して下さった。コリント人への手紙第一 15:54には、「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します。」とある。このみことばは、死の完全な敗北と滅亡を表している。

 ローマ人への手紙6:23には、「罪から来る報酬は死です。」とある。罪と死はセットであり、罪と死は、人をひどく苦しめる。しかし、「神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(コリント人への手紙第一 15:57)

イエス様は復活され、人類の最後の敵である死を征服して下さった。故に、私たちはみことばを信じ、死を恐れずに歩みたい。

2020年4月26日(日)

「あなたを強め、助け、守る」

イザヤ書41章10節(1190頁)

イザヤは北王国イスラエルがアッシリヤに滅ぼされた時、南王国ユダの預言者であった。活動期間は紀元前745~695年の約50年間。その当時、アッシリヤ帝国は拡大し、近隣の諸民族を併合しつつあった。イザヤがまだ青年であった頃(前734年)、アッシリヤは北王国イスラエルのほとんどの民を連れ去った。その13年後(前721年)、北王国イスラエルの首都サマリヤは陥落し、北王国イスラエルの残りの者が連れ去られた。イザヤは全生涯において、迫ってくるアッシリヤの権力の脅威の陰で過ごした。彼は、南王国ユダのエルサレムを除く全民族の滅亡がアッシリヤの手でなされるのをその目で見た。

イザヤ書の40章以降の記述は、イザヤの死の後の未来に起こる、バビロン帝国による南ユダ王国の壊滅、バビロンへの補囚以後のことが記されている。

イザヤはイスラエルの民に、神様への背信の罪、人間の力のみに信頼をし、神様への信頼を喪失した罪、また、偶像崇拝の罪を指摘して、真の神様に対して悔い改め(考え方を変えるという表明とその生き方)が必要であると熱心に語ってきた。個人的にイザヤの勧告、信仰を支持した者たちも少なくなかったであろうが、国全体としては、イザヤのことばは受け入れられなかったと言える。北イスラエルに臨んだアッシリヤによる滅亡そして補囚という出来事を、自分たちへの警告また教訓として厳粛に受けとめるべきであったにもかかわらず、それを無視し、またイザヤたち預言者を通しての主のことばを聞き入れなかったので、結果的には、南ユダ王国もまた、バビロン帝国による侵攻を許し、エルサレムの陥落、そして補囚の憂き目に合わざるを得なかった。しかし、神様は、将来、ペルシャのクロス王という異教徒を用いて、バビロン帝国を崩壊させ、バビロン補囚からのイスラエルの民の帰還と回復があることを約束して下さった。

本日は3つの点を覚えたい。

①<神様は世界の歴史の支配者である>

イザヤ41:4には、「だれが、これを成し遂げたのか。初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。」とある。

誰もが考えもしなかった、異国の王クロスを用いて、神様は、イスラエルの民をバビロン捕囚から解放された。神様は今日においても世界の歴史の支配者である。愛を活動の原動力としておられる神様が。

②<神様はどんな時にも共にいて助けて下さる>

イザヤ41:10~11には、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。見よ。あなたに向かっていきりたつ者はみな、恥を見、はずかしめを受け、あなたと争う者たちは、無いもののようになって滅びる。」とある。

神様は何度も「わたし」と表現され、イスラエルの民が恐れたじろぐ状況にあっても、神様が、「あなたを強め、あなたを助け、あなたを守る」と約束して下さった。イスラエルに対して、「いきりたつ者・・争う者たち」がどれほど強者に見えても、神様が彼らを無き者にしてしまうのである。それは私たちが置かれている状況においても同様である。

③<神様は私たちを愛するが故に助けて下さる>

イザヤ41:8~9には、「しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。』」とある。申命記7:6~8には、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。」とある。神様が私たちを助けて下さるのは、ただ、私たちを愛して下さっているからである。

2020年5月3日(日)

「心配を捨てて生きる」

             テキスト:マタイの福音書6:25~34(新約聖書10頁)

 

 25節「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」イエス様は、「飲食の心配はやめなさい」と言われ、いのちは食べ物より大切なものであり、その自分のいのちを心配したからといって少しでも延ばすこともできないのだからと言われた。飲食の心配をしてしまう時、空の鳥を心にかけ、養っておられる天のお父様のことを考なければならない。私たちは、そんな「鳥よりも、もっとすぐれたもの」であると言い聞かせなければならない(26節)。着物の心配をしてしまう時、栄華を極めたソロモン以上に美しい装いをしている野のゆりを育てておられる天のお父様のことを考えなければならない。「あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、まして」私に、よくしてくださらないわけがないと言い聞かせなければならない(28~30節)。なぜ、「ならない」と言うのかと言えば、私たちは、「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着るべき」だからである。みことばに反する古い生き方を捨て、みことばに従う生き方を選び取っていく必要があるからである(エペソ4:22~24)。

 イエス様がこのことばを語られたこの時、イエス様の目の前には、現実に最低限の飲食・着物の心配をせざるを得ない人々がいた。ここにいた人々は天地万物を造られた神様の存在を信じていた。故に、なぜ神様がいるのに、私は貧しい生活をしなければならないのだろうと思う人たちもいたであろう。しかし、イエス様は「捜しなさい。そうすれば見つかります。」(マタイ7:7)と言われ、捜し求める人が神様を見出すのだと言われた。神様のみことばを頼りに神様を捜し求め続ける人が神様を見出すのだと。故に、「なぜ神様がいるのに」という思いに囚われそうになったなら、神様を捜し求める生き方を選び取っていく必要があるのである。

 イエス様は、最低限の飲食・着物の心配をせざるを得ない人々に対して、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」と言われた。それは、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」という戒めと、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ22:34~40)という戒めに生きようとしていれば、そうすれば、生きるために必要な最低限の飲食・着物はすべて、神様が与えてくださるという約束である。しかし、それと共に、イエス様は、イエス様の贖いの十字架・復活を信じる者に与えられる、罪の赦し、永遠のいのちのことをもさして言われたのであろう。「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」(27節)私たちは心配したからといて、自分の肉体のいのちを少しでも延ばすことができない者である。しかし、イエス様を信じる者の魂は永遠に神様と共に生き続けるのである。だから、「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(34節)「心配は私たちのすることではない」とのみことばに生きる、新しい生き方を常に選び取っていく者でありたい。

2020年5月10日(日)

「自力では解決できないと気付かされることの恵み」

             テキスト:Ⅱコリント12:7~9(新約聖書360頁)

 

 「私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」

 このことばは、パウロが病の中にあって語ったことばであると言われる。パウロのこの病(「一つのとげ」と表現している)は不治の病であったと言われている。パウロはこの病が治るようにと何度も神様に祈ったが、病は治ることがなかった。何故、全能なる神様が治して下さらないのかと考えた末、パウロはこの病にも意味があることを教えられる。その意味は

「この病は、パウロが高ぶることのないようにと神様が与えたものである」ということだった。

パウロは、「第三の天」とか「パラダイス」とか呼ぶ所に引き上げられ、神様ご自身からのことばを聞いた。それは、あまりにもすばらしい経験で、パウロを使徒と認めようとせず、福音宣教を妨げる人たちを黙らせるために、この経験を誇らしげに語りたくなるという誘惑材料にもなり得たのである。そのために、高ぶることのないようにと与えられたのがこの病であるとパウロは理解したのである。しかし、すばらしい経験を与えて下さった神様が、その経験によって高ぶらないようにと、パウロを悩ませる病をお与えになるということも簡単には理解できなかったのではないか。いずれにしても、パウロにとっては、当初、不治の病は、福音宣教の妨げになるとしか思えなかったかもしれない。しかし、癒しを願い求める祈りの応えは、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」であった。

私たちは、時に、神様の恵みというものを勘違いしやすい者ではないだろうか。私たちに何の病も苦労もなく、平穏無事であることが神様の恵みであると・・。しかし、パウロはこの時、自分にとっては不都合極まりない、自力で治すこともできない病をかかえるという、変えることのできないこの状況を、神様にゆだねる以外には術がないこの状況こそが、すなわち、神様の力以外にはどうすることもできないと心底思える状況こそが、実は、神様の恵みが十分な時なのであると教えられたのである。自己の力を頼まず、ただ神様の力が自分を覆って下さることが分かるというこれこそが、神様の恵みが十分な時なのだと教えられたのである。

 私たちも自分の思い通りにはいかないことが多々あるであろう。そのような時、「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」このみことばを思い起こし、この時こそが、神様の恵みが十分な時なのだと、神様のみことばに考え方を変えていきたい。

2020年5月17日(日)

「神が私たちの味方なのだから」

            テキスト:ローマ人への手紙8:31~34(新約聖書302頁)

 

31節「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」

この手紙が書かれた当時、クリスチャンに敵対するものと言えば、それは、当時のローマ帝国を指した。ローマにいるクリスチャンはローマ帝国と戦わなければならなくなるのであった。それは、最も力ある巨大帝国であり、恐ろしくて強い帝国であり、極めて冷酷かつ残酷で、政治的な力の維持のためには手段を選ばない帝国であった。そのローマ帝国が教会に敵対しており、それは、これからもっと激しくなるというのが当時の状況であった。

パウロがまだ生存していた時代でも、教会のリーダーは、パウロや、僅かな漁師の弟子たちと、取税人をやめたマタイ、医者のルカ、他にも一握りの人たちしかいないという、教会もまだ非常に小さくて弱い存在であった。その教会が巨大なローマ帝国を倒すなどとはとても考えられない話だったのである。そして、その後、パウロもペテロも皆殺されて、教会の迫害はますます激しくなっていったが、大きなリーダーたちを失って、弱くなったかに見える教会がローマ帝国と戦い、そして勝ったのである。弱く小さな存在であった信者たちが、みことばに立って、イエス・キリストに従い続けた結果、大ローマ帝国は倒され、教会は成長し続けていったのである。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」は、このみことばが書かれたその後の歴史も証明しているのである。

そして、本日の聖書箇所が示すもう1つの私たちに敵対するもの、それは内住の罪である。私たちの内に住みつく罪は私たちを訴える。「そんなあなたでは神は認めてくださらない」「さすがに神も、もう、あなたの罪を赦すことはしない」と、しかし、神が私たちの味方であるから敵対できないのだと聖書は宣言する。パウロは述べている。「義と認め続けている方は神です。」(33節)「キリスト・イエスがとりなし続けておられます。」(34節)(この人はキリストの贖いの十字架・復活を信じた故、罪の刑罰を受けた者とみなされている。すなわち律法を100%守った者であると、とりなし続けて下さっている)キリストにより贖われた私たちを内住の罪は訴えることができないのである。

神は私たちの味方である。この御方が味方である故に、私たちに向かってくる災難や、神のみこころに逆らうように仕向けるサタンの攻撃や、内住の罪の訴えを恐れることはもはや必要ないのである。神が味方であることは、イエス・キリストの十字架によって示されたのである。神は、「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡す」ほどに私たちを愛しておられるのである。人類の罪の刑罰を受けさせるために、そのひとり子であるイエス・キリストを死に渡し(見放し)たのである。これほどまでに私たちを愛しておられる神は、キリストによる贖いによって、私たちに敵対し、罪に定めようとするものを退けるためのすべてのものを、私たちの栄化の時まで恵み豊かに与えてくださるのである。

「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」

2020年5月24日(日)

「聖霊の働きかけを通して分かるその存在」

             テキスト:ヨハネの福音書14:16(新約聖書210頁)

 

 来週は教会歴のペンテコステ、聖霊降臨を記念し、感謝する日である。万物を造られた父なる神様。贖い主なる神、御子イエス・キリスト。そして、聖霊なる神様の三位一体の神様の中でも、聖霊なる神様という御方は分かりにくいという面があるかもしれない。それは、聖霊は、まさに聖なる「霊」であるからということがあるのかもしれない。

 イエス様は、ユダヤの最高議会の議員ニコデモに、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)と言われた。それに対し、ニコデモは、「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」(ヨハネ3:4)と尋ねる。「私に初めからやり直しなさいと言うのですか?しかも、それは、母の胎にもう一度入って生まれ直さなければならないということでしょうか?」と。

それに対してイエス様は、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」(ヨハネ3:5)と答える。

「水」とは、悔い改めを表明する行為を指したが、「悔い改める」ということばの本来の意味は、「考え方を変える」という意味である。

ニコデモにとって必要であった「根本的な変革」とは、「律法を守り、従う自分を神様は愛してくださる」という考え方を変えることであった。しかし、それは、ニコデモが長年、当時のユダヤの社会にあって培ってきた考え方であり、それを変革することは人間のわざではできないのだとイエス様は言われた。それは、聖霊なる神様のなさる業なのだと。

イエス様は、「新しく生まれる」とは、例えていうならばこういうことだと言われた。「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:7~8)

イエス様は、「人は、風がどこから来てどこへ行くかを知らないのだと言う。しかし、風の音を聞くと、これが風であるということを知識として知っているので、風が吹いているのだと思っているのであると。そして、それは、単なる思い込みではなく、確かな事であるように、聖霊なる神様の御業によって人が変革させられるというのも確かなことなのだと言われた。

イエス様が語ることをこの時には理解できなかったニコデモも、その後、イエス様を罪からの救い主である神であると信じて生まれ変わった(ヨハネ19:39)。

「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

聖霊なる神様をどのようにして知るのか。それは、聖霊の働きかけを通して知ることができるのである。

イエス様は聖霊なる神様をこのように言われた。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」(ヨハネ14:16)

「助け主」(ギリシャ後パラクレートス)は、困難や、苦悩や、疑惑や、あるいは当惑のもとにある人を助けるために招き入れられる弁護する専門家を指すことばである。イエス様を信じた私たちの内に住んでおられる聖霊なる神様はそのような御方である。

私たちが、困難や、苦悩や、疑惑や、あるいは当惑のもとに置かれた時、神様のみことばを信じて歩む私たちに働きかけて下さるその働きかけを通して、聖霊なる神様がおられることが分かるのである。

2020年5月31日(日)

「初代教会に立ち返って」

             テキスト:使徒の働き2:41~42(新約聖書231頁)

 

 「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」

 イエス・キリストが復活をして、わずか50日後に、エルサレムに最初のキリスト教会が誕生した。聖霊降臨により、ペテロが群集に対して、イエス・キリストの贖いの十字架・復活を信じることによる罪からの救いを語り、そのことばに心を刺された人々約三千人が、悔い改め、洗礼を受けて、教会の会員として加えられた。これが今日ある教会の形の出発点となった。そして、この時以来、教会は全世界に拡大していった。「教会」の本来の意味は、「呼び出された人々」「召集された人々」である。教会はイエス・キリストに呼び出された人々、召集された人々の群れである(会堂のことではない)。

 教会が誕生した時、最初のクリスチャンたちは、教会に集い、4つのことを守っていたことが分かる。

 1つ目は、「使徒たちの教えを堅く守っていた」ということである。「使徒たちの教え」とは、「新約聖書」のことである。新約聖書は使徒たちによって書かれ、そこには聖書の中心的な教えが記されていた。教会が誕生した時、最初のクリスチャンたちは聖書を学び、そのことばに従って歩んだのである。いつの時代も教会にとって危険なのは、この世の価値観に惑わされていく教会の歩みであろう。また、牧師や教会の言動が常に正しいわけではない。私たちも初代教会に学び、みことばを学び、みことばに立って、みことばに照らし合わせられながら歩む教会でありたい。

 2つ目は、「交わりを持っていた」ということである。そこにはイエス様が力説された、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)に生きる具体的な助け合いがあったのである。「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」(マタイ7:12)このみことばに生きる交わりがあったのである。神様はクリスチャンが孤独に生きることを願っておられない。教会は完全ではなく、罪赦された罪人の集まりであり不完全ではあるが、すべてのクリスチャンが教会の中で神の家族の一員として、互いに兄弟姉妹として、愛の交わりをもって生きることを願っておられる。

 3つ目は、「パンを裂いた」とある、今日の教会でも続けられている、聖餐式を守っていたということである。それは、イエス・キリストが十字架につく直前に弟子たちに行うように命じた、パンとぶどう酒(あるいはぶどう液)を用いてイエス・キリストの十字架による救いを覚えることである。罪深い私が、イエス・キリストの生きたからだの器官とされている、イエス・キリストの命が私の内にも通っていることを信じ、感謝するのである。

 4つ目は、共に「祈り」をしていたということである。初代教会のクリスチャンたちは、「主の祈り」を中心にして祈っていたのであろう。聖書のみことばは、私たちが神様から聞く手段であるのに対して、祈りは私たちが神様に語る手段である。聖書から神様の御声を聞き、祈りによって神様に語ることによって、私たちは神様との人格的な交わりの中を生きるのである。

2020年6月7日(日)

「聖霊の働きかけ①」

             テキスト:ヨハネの福音書16:14(新約聖書214頁)

 

 カルヴァンは、「神の恵みはことごとく体をなしてキリストに宿る。そのキリストの恵みを現実化するのが聖霊の働きである」と述べている。先週は教会歴のペンテコステで、聖霊降臨を祝ったが、今週からしばらくは、聖霊の私たちに対する働きかけを学びたい。

  • 聖霊はイエス・キリストの栄光を現す

ヨハネ16:14には、「御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」とある。聖霊はイエス様の栄光を現す。ここで述べられている「栄光」とは、十字架・復活によって現れるイエス様の栄光のことであり、それは、イエス様の十字架・復活は自分の罪のためであると信じる者を罪人のまま受け入れるという神様の愛である。

  • 聖霊はまだ罪からの救いを受けていない人々に救いの必要性を悟らせる

 ヨハネ16:8~9には、「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」とある。「認めさせます」と訳したギリシャ語エレゲインは、証人や公判中の者や議論の反対者を厳しく詰問する時に用いることばであり、ある人が自らの誤りを理解し承認するまで、あるいはかつて分からなかったある議論の真意を認めるまで彼を詰問するという意味で使われることばである。聖霊が疑いの余地が一つも残らない迄に明確に示すということが述べられている。

 ここで述べられている「罪について」とは、イエス様を神であり、罪からの救い主であると信じないということが罪であるということ。「罪からの救い」とは、イエス様を神であり罪(原罪、及び、犯す数々の行為罪)からの救い主であると信じることによって、罪が赦されることである。聖霊は「罪について」疑いの余地が一つも残らない迄に明確に示すのである。

 「義について」とは、人の罪が赦されるには、その人の義が必要なのではなく、イエス・キリストを罪からの救い主であると信じることによって与えられる神の義が必要であるということを指す。

 「さばきについて」とは、人間は死後に必ず裁きの場に立たされるということである。よって、人はイエス・キリストを罪からの救い主として信じ、罪赦されて、神の義を与えられる必要があるのである。

 聖霊は、まだ罪からの救いを受けていない人々に、「罪について、義について、さばきについて」疑いの余地が一つも残らない迄に明確に示し、救いの必要性を悟らせるのである。

  • 聖霊は、救い主を受け入れる人を新しく生まれさせる

 テトスへの手紙3:5には、「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」とある。「聖霊による、新生と更新」とは、聖霊によって新しく生まれること、そして聖霊によって新しく生まれた者は全く新しくされていることを表す。聖霊は、私たちを新しく作り替えることによって私たちをきよめられるのである。聖霊は、救い主を受け入れる人を新しく生まれさせるのである。

2020年6月14日(日)

「聖霊の働きかけ②」

            テキスト:ヨハネの福音書14:16~17(新約聖書210頁)

 

 カルヴァンは、「神の恵みはことごとく体をなしてキリストに宿る。そのキリストの恵みを現実化するのが聖霊の働きである」と述べている。本日も、聖霊の私たちに対する働きかけを学びたい。

1.聖霊はイエス・キリストを信じる人の心の中に住み、いつまでも共におられる。

ヨハネ14:16~17には、「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」とある。

「もうひとりの助け主」とは、「御霊」という神である(「聖霊」も同じ御方を指す。以下、「御霊」と「聖霊」が混在するが、同じ御方のことを述べている)。「御霊」は、「あなたがたのうちにおられる」御方である。コロサイ人への手紙1:27には、「あなたがたの中におられるキリスト」という表現があるが、私たちの内におられる御霊という御方がどのような御方なのかは、イエス様という御方を知れば分かるのである。そして、そのイエス様の恵みを現実化するのが聖霊の働きなのである。この聖霊は、「いつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです」とあるように、イエス・キリストを信じる人の心の中に住み、いつまでも共にいてくださるのである。いつまでも、いつでもである。私たちが聖く歩んでいるように思える時だけではなく、罪を犯す自分に失望した時も、愛のない自分に失望した時も、どんな時でも共におられるのである。聖霊はイエス様に代わって、弱い私たちを助け(「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます」ローマ8:26)、力を与え(ローマ15:19)、希望にあふれさせてくださる(「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」ローマ15:13)のである。

2.聖霊はイエス・キリストを信じる人たちに神の子どもであることを確信させる。

ローマ人への手紙8:14~16には、「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」とある。

「子としてくださる」と訳されていることばは、「法的に養子にする」という意味のことばである。私たちは、私たちを養子にしてくださる御霊を受け、御霊により法的に神の養子とされたのである。御霊は、キリストの義が私たちの義と見なされるという神のみことばに私たちが信頼を置くように導くことによって、法的に神の養子としてくださったのである。私たちは、神の律法を完全に守ることはできない。よって、本来ならば神の子どもにはなれない者なのである。しかし、御霊は、キリストを信じる者には、キリストの義(律法を完全に守り、また、律法違反の罪の罰を受けてくださったということ)をあなたの義と見なすという神のみことばを示し、信じさせてくださった。そのことにより、私たちは神の養子とされたのである。聖霊は度あるごとに私たちにその真理を思い起こさせ、神の子どもであることを確信させてくださるのである。

2020年6月21日(日)

「聖霊は御国を受け継ぐことの保証」

  テキスト:エペソ人への手紙1:13~14(a) (新約聖書373頁)

カルヴァンは、「神の恵みはことごとく体をなしてキリストに宿る。そのキリストの恵みを現実化するのが聖霊の働きである」「キリストが我々のものとなるのは、我々が信仰によってキリストを受け入れるからである。そして、その信仰は人間の可能性による到達ではなく、聖霊の働きである」と述べている。本日も聖霊の働きについて学びます。

<13節:この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。>

「この方にあって」とは、「キリストにあって」ということ、「あなたがたもまた」とは、異邦人(ユダヤ人ではない)クリスチャンのことを指している。「真理のことば、あなたがたの救いの福音」とは、神であるイエス・キリストが、私たちの罪の贖いのために十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださったということを信じる者には、罪の赦しと、永遠のいのち(神と共に生きるいのち)が与えられるという良き知らせのこと。ユダヤ人クリスチャンも異邦人クリスチャンも、この福音を、「キリストにあって」、すなわち、キリストの恵みによって、「聞き」「またそれを信じた」ことにより、「約束の聖霊をもって証印を押され」たのである。「証印」とは、所有権や保証を示す印のことをである。聖霊の内住こそ、罪から救われ、神の民とされたことの証印なのである。

<14節:聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。>

「保証」とは、売買契約を保証する手付金のことを指す。聖霊の内住は、私たちが御国を受け継ぐことを保証する手付金であるということ。私たちが現時点で体験する聖霊の働きは、神様がクリスチャンに対して用意されているすべての恵みを受け継ぐ終末の時(御国を受け継ぐ時)の保証であり、御国を受け継ぐという計り知れない恵みの前味のようなものである。

御国とはどのようなところなのかがこのように記されている。黙示録21:3~4、「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」そこは、神の住まいが人とともにあって、神が私たちとともに住んでいてくださる。何の妨げもない神との直接的な交わりが与えられる。その祝福は、「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」(黙示録22:5)と描写されている。御国を受け継ぐ時、神が私たちの全ての涙をぬぐい取ってくださり、もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもないのである。なぜなら、「以前のもの」すなわち、罪と死と苦悩に満ちた古い世界が過ぎ去り、全てが新しくなるからである。

私たちは、福音を「聞き」「またそれを信じた」ことにより、罪から救われ、神の民とされたことの証印である「聖霊」を受けた。そして、内住される聖霊は私たちが御国を受け継ぐことを保証する手付金なのである。

2020年6月28日(日)

「聖霊によって信仰を与えられて」

           テキスト:エペソ人への手紙2:8 (新約374頁)

 本日は行田教会の教会員・関係者で召天された方々のことを覚えて、その信仰の歩みを導かれた主を礼拝する、召天者記念礼拝です。

 召天者の方々は牧師、宣教師、信徒であったり様々な方々です。そして、イエス様を救い主として信じるようになっていくそのプロセスも様々です。

 エペソ人への手紙2:8には、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」とある。

 信仰は、聖霊による神の賜物である。それは、私たちの外から来るということであり、生まれながらの人の心の中には存在しないものなのである。

 信仰には、2種類の性質がある。それは、認識(知ること)と信頼(信頼すること)である。「神のみことば(聖書)への私たちの確かな認識」と「聖霊が福音を通して私たちの心に起こしてくださる心からの信頼」である。

 ローマ10:17には、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とある。

 聖書の中に、ルデヤという女性の話が出てくる。紫布を商う商人だった彼女がある集会でパウロの話に耳を傾けていた時、「主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。」(使徒16:14)とある。他にも聞いていた人はいたと思われるが、その時、主はルデヤの心を開いて、パウロの語る福音に心を留めるようにされたのである。そして、その結果、「彼女も、またその家族もバプテスマを受けた」(使徒16:15)のである。

 本日、召天者として覚えさせて頂いたイエス様を自分の罪からの救い主として信じた方々も、聖霊によって、神のみことばを聞き、そのみことばの約束の確かさを認識し、そして、聖霊が福音のみことばの確かさに、心からの信頼を起こさせて下さったのである。それは人間の努力によるものではなく、聖霊の働きによってなされたのである。

 人がイエス・キリストを救い主として信じ受け入れるというのは神の不思議な導きである。各々にその時が訪れるのか否かも私たちには分からない。また、その時も分からない。それは私たちには計り知れない、神のご計画により、聖霊の御業によって起こるのである。

2020年7月5日(日)

「この死の体も変えられるから」

         テキスト:ローマ人への手紙7:14~8:2 (新約300頁)

 

 「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(7:24)これは、初代教会の時代に、命がけで大勢の人々に福音を伝えた使徒パウロのことばです。パウロは神様の律法を愛していました。かつてはパリサイ派の律法の専門家であったパウロは、律法の内容のすばらしさを熟知し、「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」(12節)と述べ、「神の律法を喜び」(22節)、律法を守って生きたいと常に思い生きていました(18節、21節)。しかし、律法を自力で守ろうとすると守れない自分がありました。それは、自力で律法を守ろうとすると、内に住みつく罪の働きかけにより、かえって律法を守れないということになるからだと理解していました。それは、律法が律法の機能を果たしているということであって、律法は良いものなのですが、内住の罪故に、律法の働きにより、逆に罪を犯してしまう自分を知っていました。

 しかし、律法を守れない、むしろ「したくない悪を行って」しまう自分の姿は、自分が求めている姿ではないとパウロは述べています。「私には、自分のしていることがわかりません。」(15節)とありますが、「わかりません」と訳したことばは「認めません」とも訳せることばであり、自分の内面の状態をしっかりと分析し理解しているパウロの姿からしても、「自分のしていることがわからない」のではなく、「認めない」ということを述べているのです。パウロが理解している自分の姿とは、聖い律法を守ることを真剣に求めているという自分です。罪を犯す自分の姿は自分が求めている姿ではない、そんな自分を認めないと告白しているのです。

 神様の律法を愛し、神様の願うことを何一つそぐわずに行いたいと心底願っているパウロが語る、「したくない悪」とは何のことを言っているのかと考えると、おそらく、倫理的にも相当に高いレベルのことを守れない自分のことを述べているのではないかと思います。神様を全身全霊をもって愛しているのか?隣人への愛はイエス様のような犠牲愛で貫かれているのか?そのようなことが、やろうと思っていてもできない自分に気づく時にパウロは、そんな自分に失望・落胆していたのだと思います。

 パウロが求めていたレベルとは違えど、私たちも同じような葛藤があり、そんな自分に嫌気がさしてしまうことがあるのではないでしょうか?本当はこんな自分では嫌だと思っていても、嫌な自分がしょっちゅう顔を出して来るということがあるのではないでしょうか?

 聖書から見ますと、私たちは生まれついての罪人です。人類の先祖アダムが神様の御旨に逆らって罪を犯したように、私たちも神様の御旨に反逆する罪人でした(ローマ5:12)。「罪から来る報酬は死です。」とローマ人への手紙6:23にはありますが、かつての私たちは、罪をご主人様として仕え、せっせと罪を犯し、そして、その報酬としてご主人様である罪から頂く最終的なものは、神様との永遠の断絶である「死」でした。

 クリスチャンとなった私たちには、この神様との永遠の断絶である「死」はありません。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(8:1、2)このみことばもその約束をしています。しかし、生きている限り、「だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と叫ぶような、心の内なる戦いは続くのです。

 パウロからすれば、神様の律法に反した自分は、「死」の宣告を受けるしかない者なのです。それ故、その「死」の宣告を受けるしかない体をもって生きていることを嘆くのです。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(7:24)と。

 しかし、自分で認めたくない自分を見せられる時、自分に対して嫌悪感にさいなまれる時、その度にパウロは、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」(7:25)と、改めて、ただ感謝しかないと痛感するのです。主イエス・キリストにあって、この惨めさからの救いを約束されているからです。「この死の、からだ」は、かの日には、栄光のからだに変えられるという希望があることに気づくのです。そして、この地上にあっては、「肉では罪の律法に仕えている」という惨めさを担いながらも、希望に満たされて、「この死の、からだ」との苦闘を続けていこうと、また歩み出すのです。

2020年7月12日(日)

「自力では神様の元に戻れないから」

             テキスト:ルカの福音書18:26~27 (新約153頁)

 

 私たち人間は生まれついての罪人であり、内に住みつく罪を持っています。パウロは、神様の律法を愛し、神様の願うことを何一つそぐわずに行いたいと心底願っているのに、神様を全身全霊をもって愛しているのか?隣人への愛はイエス様のような犠牲愛で貫かれているのか?そのようなことが、やろうと思っていてもできない自分に気づく時に、失望・落胆し、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(7:24)と嘆きました。イエス・キリストの贖いの十字架・復活がなければ、本来は、神様の律法に反した自分は、「死」の宣告を受けるしかない者であり、その「死」の宣告を受けるしかない体をもって生きていることの惨めさを嘆きました。(先週の宣教)

 パウロは内住の罪に真摯に向き合い、聖霊の神に委ねながら、内なる罪と戦いながら生きました。ハイデルベルク信仰問答には(問6~8)、罪による腐敗した性質に対する人間の反応は二つあると記されています。その一つは開き直りであると。「生まれつき」皆がそうであれば、考えてもしかたないではないか、と。しかし、罪をいい加減にすることは、自分の生き方自体をいい加減にしてしまい、悲惨な現実を何一つ変えることができない。人間が本当に生まれ変わるためには、生まれ持った性質に向き合わねばならないのだと記されています。

 そして、もう一つの反応は、責任転嫁であると記されています。「神は人をそのように邪悪で歪んだものに創造なさったのですか」と。生まれつき腐敗しているのなら、そのように造った方が悪いではないか、と。

 創世記1:27には、「神は人をご自身のかたちとして創造された。」とありますが、それは、神様は霊ですから、顔かたちを似せてということではなく、性質が似ているということです。神様は人格的な方であり、愛が本質的な特性です。最初の人間アダムもそのような存在として造られたのであり、邪悪で歪んだものではなく、「非常に良い」(創世記1:31)ものとして造られたのです。

 神様は世界をお造りになり、人間をお造りになった。神様は人を男と女とに造り、エデンの園と呼ばれる所に置いて下さった。人は完璧な存在に造られ、完璧な状態と環境に置かれていた。人は望み得るすべてを得ていた。困難や死に直面することもなく、欠けたものは何もなかった。神様との交わりに何の隔てもなく、その交わりを保ちつつ生きていた。神様は言われた。「わたしが望むような形で生きよ。あなたには大いなる自由を与える。ただ一つだけ、してはならないことがある」と。神様は人に一つのおきてを与えて言われた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16、17)と。しかし、サタンは蛇を通して行動し、アダムとエバを誘惑した。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」(創世記3:1)。「神様がこんな制限付きの人生を提供するなんて、人間にとって不公平ではないか。神様の言われたことを鵜呑みにしないで、その命令など無視し、あの木の実を取ってみなさい。そうすれば多くの知識や情報を得て、神様のごとくになれる。神様が計画されているよりもはるかにすばらしい人生があるのだ」と。そして、人はサタンのうそを受け入れてしまった。

 その結果は、個々人としてであれ、全体としてであれ、世界が今日経験している悲哀、悲惨、死、そしてあらゆる問題は、この一つの罪から生じている。悲劇の根幹は、人が諸問題や悲惨さの中に追いやられたということよりも、そもそも人間が神様に背き、神様から離れてしまったことにある。そして人間は、神様の御旨を尋ねながら人生を送るかわりに、アダムが、自分が神のようでありたいという思いに惹かれていったように、自分にとって一番良いことが何かは自分で知ることができるという生き方を繰り返しているのである。自分の人生を神様以上に上手に仕切ることができると・・・。そして罪人である人間は今日に至るまで、罪の性質に対して、「開き直り」「責任転嫁」をし続けているのです。

 詩篇14:1、3には、「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている。彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」と記されています。

 人間は罪を犯し、神様との幸いな状態から落ちてしまいました。そして、落ちてしまった所に自力で戻りうる善は少しも持ち合わせていないのです。再び神様の元に戻れる道はイエス・キリストの贖いの十字架・復活を受け入れるしかないのだと聖書は示します。憐れみ、恵みに満ちた神様は、罪を犯した人間の罪を取って、それをキリストのからだに負わせ、十字架につけ、信じる者を神様のもとに立ち返らせる道を開いて下さったのです。「それでは、だれが救われることができるでしょう。イエスは言われた。『人にはできないことが、神にはできるのです。』」(ルカ18:26、27)

2020年7月19日(日)

「正しく公平な神」

             テキスト:ヘブル人への手紙9:27 (新約435頁)

 

 人類の先祖アダムが神様の法を破り罪を犯したことにより、その後の人類は生まれながらに罪ある者となって生まれてくることになった。それは神様が定めておられた代表制度による。神様はアダムを契約の代表者として私たち人間の契約の頭とした。それ故、アダムが犯してしまった罪は、アダムが代表しているすべての者に転嫁される。あたかも私たちが罪を犯したのと同じこととして取り扱われるのである。代表の行為は、代表されている者たちすべてが同時に一緒に行ったと見なされるのである。

 神様は最初の人間アダムを「非常に良い」(創世記1:31)ものとして、神様の法を守れる者として造られた。しかし、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16、17)という、何かとてつもなく難しい法ではなく、簡単に守れたはずの法を破ってしまった。

 出エジプト記34:6、7には、「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。」とある。神様は憐み深い御方であるが、しかし、正しい御方でもある。よって、神様は犯した罪の罰を見逃すということはないのである。ヘブル9:27には、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と記されている。

 人間は、代表者アダムの罪を同時に行ったと見なされるということのみならず、アダムが、自分が神のようでありたいという思いに惹かれていったように、自分にとって一番良いことが何かは自分で知ることができるという生き方をアダムと同様に行い、神様から離れ、神様に罪を犯しているのである。

 ガラテヤ人への手紙3:10には、「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」とあるが、すべての人間は神様の法を犯し、神様のさばきを免れ得ないのである。神様のさばきは、律法に従って極めて公平かつ客観的になされるのである。

 しかし、人間に罰を負わせたくない神様は、イエス・キリストに罰を負わせ、イエス・キリストをのろわれた者とした。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13)

 イエス・キリストが私のために罰を負い、のろわれて下さったと信じる者には神様のさばきは下らない。世の終わりには、神様の公平なさばきが明らかになる。イエス・キリストを信じた者は神様の御国を相続する。しかし、イエス・キリストを信じなかった者には永遠の刑罰が与えられる(マタイ25:31~46)。その中間に立つ人は誰もいない。もし人間が死んで肉体も魂も消滅してすべてが終わりならば、これほど不公平なことはないと思う人もいるかもしれない。しかし、神様は、正義のために生きた者も、悪のために生きた者も、死んでしまえばすべては同じであるという不公平なことはなさらないのである。神様は正しく公平な御方なのである。

2020年7月26日(日)

「イエス様ゆえに実現した十字架の御業」

                  テキスト:ヘブル人への手紙12:3 (新約聖書440頁)

 

イエス・キリストは私たち人間の罪を負い、十字架にかかり、私たち人間の代わりにのろわれた者となって下さいました(ガラテヤ3:13)。故に、そのことを信じる者には神様の刑罰は下りません。

イエス・キリストは、その十字架による御業を完成させるために、神であるご自分が人間の姿をとって地上に来て下さったのです。

ヨハネの福音書1:1には、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」とあり、ヨハネの福音書1:14には、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」と記されています。

この「ことば」とは、イエス・キリストのことを指しています。よって、イエス・キリストは、神とともにおり、イエス・キリストは神そのものであったと述べている。そのような御方が、一人の完全な人間となって私たちの間に来て下さったということです。このことばを記したイエス・キリストの弟子のヨハネは、三年半余りイエス様と寝食を共にしましたが、イエス様を「父のみもとから来られた(神の)ひとり子」と理解し、その栄光を地上で目撃したと記したのです。カルヴァンはこのように述べています。「キリストは神のように見えたのでなく、正真正銘神であり、人間の様子をしていたのでなく、紛れもなく人間であった。そのように見えたのでなく、実際にそうであったのだ。そうでなければ、救いはそのように見えるだけの救いに終わるであろう。」

ヘブル人への手紙2:17には、「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。」とある。同じようになるとは、まさに、神であり神の御子である御方が完全に一人の人間となられたということを表しています。神であるイエス・キリストは人間となる必要があったのです。それは、人間の罪の償いは人間がしなければならないと神様が定めておられたからです。しかも、全く罪のない、全くきよい、全く正しい人間でなければならなかったのです。借金を抱えている人が他の人の借金を負うことができないように、すでに自分で罪を犯している人が、他の人の罪を償うことはできない故に、罪を犯したことのない者だけが罪の償いをすることができたのです。しかし、そのような人間はこの地上のどこにもいない故に、神の御子であり神であるイエス・キリストが罪のない人間として地上に来て下さったのです。そして、私たち人間の罪によって引き起こされた神の怒りをなだめるために十字架にかかられたのです。

神である御方が人間にならなければならなかったその理由の一つとして、「神様の怒りの重荷を一身に負うことは人間には不可能だからです」とハイデルベルク信仰問答は述べています(その方が、御自分の神性の力によって、神の怒りの重荷をその人間性において耐え忍び)。罪に対する神様の怒りは、神様との交わりが究極に絶たれる断絶刑として表され、これを耐え忍ぶことのできる人間はいないのです。「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」(ヘブル12:3)

それらの全ての要求を満たすことのできる唯一の御方がイエス・キリストだったのです。まことの正しい人間であり、まことの神であるイエス・キリストだけが、人間の罪を贖う十字架の御業を成就させることができたのです。

2020年8月2日

「福音を信じて救われた」

                   テキスト:ヨハネの福音書5:39(新約聖書183頁)

 

 「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」

 当時のユダヤ人の聖書の調べ方は、当時の宗教指導者であるパリサイ人、律法学者たちの教えに基づいての調べ方でした。それは、自分が律法違反をしていないかを常に気に留め、自分が律法違反で咎められないように生きるための調べ方でした。律法を守れば神様から祝福を受け、守れなければ災いの下に置かれるという神観から聖書(律法)を調べていたのです。彼らにとっては、律法を守ることによって祝福を受けるということが神様から頂く「いのち」だったのです。

 イエス様は、「聖書が、わたしについて証言しているのです。」と言われました。聖書は、そのすべてがイエス様について証言している書物なのです。イエス様は神様の愛そのものの御方です。イエス様の愛を告げる飛び上がるほど嬉しい知らせが記されているのが神様のことばである聖書です。

 聖書は他の書物と同様に、読みようによっては色々な読み方ができてしまうのですが、聖書は「福音」として読まなければならないのです。福音とは、「良い知らせ」という意味ですが、それは神様からの賜物であり、「良い知らせ」の内容は、イエス・キリストの十字架・復活は私の罪のためであったと信じる者に与えられる罪の赦しと、神の子としての身分にあずかるという救いです。すなわち、罪の赦しと神様との和解の知らせです。

 聖書は神様からのラブレターと言われます。神様がご自分の思い、私たちに対する愛を自ら伝えようとして生まれた書物です。よって、聖書を読んだ時に神様の愛が伝わらなくては読み間違えていることになるのです。

 イエス様は、私たちを愛し、罪による滅びの底から救って下さいました。そのことを私たちは聖書が述べる福音によって知らされ、そして、信じる者とされたのです。

2020年8月9日

「神様の御旨が自分の思いに反していたら」

                   テキスト:ヨナ書1:1~17(旧約聖書1,514頁)

 

 ヨナ書の一番大きなテーマは、「どんな人をも滅びることを望まれない神様」であると言えます。その趣旨に沿ってヨナ書を見ていきたいと思います。

 2節「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」預言者ヨナに神様からの特別な使命が与えられました。当時の紀元前700年代頃のニネベはアッシリヤ王国の首都であり、当時近隣のバビロンをもしのぐ世界最大の大都市と言われました。現在のイラクの中心の町にあたります。当時、アッシリヤが征服民に対して行った拷問と虐殺の残忍さは周知され、恐れられていたということですが、このアッシリヤという国が道徳的に腐敗し、神様の御心に反し、それが限界に達した故に、神様はヨナを遣わして、異教の民ニネベの罪に対して罪の悔い改めを訴えよと告げたのです。

 しかし、ヨナはその使命を放棄しました。それは、後のヨナ書4:2のヨナの告白にある通り(「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。」)、ヨナの宣教によってニネベが悔い改めて、神様がわざわいを思い直され、ニネベが栄えていくなどということが起きたとしたら、それは、ヨナにとってはあってはならないことだったからです。悪いことをしているのだから、神様の怒りを受けて滅びてしまえばいいのだと思っていたのです。

 ヨナはイスラエルの国の繁栄を熱心に求めた愛国者でした。神様の救いは選民ユダヤ人のみに限られるべきと考えていたのです。ヨナ等の愛国者にとっては、ユダヤ人以外はみな敵であったのです。ヨナにとっては、敵国アッシリヤの復興を見るよりは、むしろ死んだほうがましだと思ったのです。ヨナの信念はすごいです。それは神様の御旨に沿ってはいませんでしたが。

 神様の御旨は、御自分が命を与えた人間が滅びることを決して望んでいないのです。「わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」(ヨナ書4:11)

 私たちは自分の思いに反することが神様のみこころだった場合に従いにくいという性質を持っているのです。新聖書講解の註解にはこのように記されています。「自分の思い通りにしたい、ほんの少しだけみことばからはずれるかもしれないが、神様はきっと赦してくださるだろう」と自分を説き伏せ、神様をも納得させられると思っていたり、「聖書の言っていることは正しい。しかし・・・」と口実を探したり・・と。

 私たちの歩みは、思いは、神様の御旨に沿っているのだろうか・・。みことばに照らしながら、目を逸らさずに、神様に矯正されていく必要があるのだと思います。

2020年8月16日

「ただ命乞いをしたヨナを救う神様」

               テキスト:ヨナ書1:15~2:10(旧約聖書1,515頁)

 

 ヨナ書の一番大きなテーマは、「どんな人をも滅びることを望まれない神様」であると言えます。続いて本日のテキストも、その趣旨に沿ってヨナ書を見ていきたいと思います。

 15節「こうして、彼らはヨナをかかえて海に投げ込んだ。すると、海は激しい怒りをやめて静かになった。」

 17節「主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。」神様は大きな魚を備えてヨナを飲み込ませました。この大きな魚は何の魚だったのかは分かりませんが、大きな魚に飲み込まれたヨナは三日三晩、魚の腹の中にいたのです。この出来事が事実であったことはイエス様の証言からも分かります。マタイ12:40「ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」私たちが聖書を神のことばであると信じる大きな要因は、歴史上の人物でもあった神であるイエス・キリストが、聖書は神のことばであると示しているからだと言えます。ヨナが三日三晩、魚の腹の中にいたという奇跡も、「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1:1)という聖書の冒頭のことばを信じられるなら、聖書に記されるすべての奇跡が信じられるとも言えるでしょう。

 ヨナは水夫たちに「私を捕らえて、海に投げ込みなさい。」と言いました。イスラエルの敵国であるアッシリヤの首都ニネベが神様に悔い改めて神様に祝福される姿を見るよりは死んだ方がましだと思っていたかもしれないヨナでしたが、すぐに溺死できなかった故に、ヨナは自分に迫る死ということを意識せざるを得なくなったのです。そして、死にたくないと思ったのです。イスラエル人ですから、死んでも天国に行くからそれでいいと思えていてもおかしくはないのですが、神様の命令を拒否して逃亡しようとした自分が心にひっかかっていたのでしょうか?「主の御顔を避けて」いた時の神様との交わりが絶たれているように思えたヨナは、死後の自分の行き場所に不安がよぎったのでしょうか?その時ヨナは、「私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。」と述べています。ヨナはもう一度、「主の御顔を避ける」以前の自分に戻りたいと思い、「もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです」(4節)と神様に願いました。ヨナが魚の腹の中から、苦しみの中から神様にお願いすると、神様はヨナの声を聞き、答えて下さったと述べています。「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。」(2節)命が果てていく寸前で神様はヨナの命の危機から救って下さったのです。

 命の危機を脱してほどなくしてからでしょうか、ヨナは告白しています。「むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」(8、9節)「むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。」とありますが、この時、ヨナの頭に浮かんだことは、アッシリヤ帝国の人々だったに違いありません。直後に「しかし」と言い、「私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。」と言っています。

 ヨナは、ニネベに罪の悔い改めを迫りなさいという神様の命令に逆らったが故に、結果、海の真中に投げ込まれ命の危機を招きました。しかし、神様に助けを呼び求め、命の危機から脱しました。

 本来は、神様がニネベのすべての人をも愛しているということを理解し、その神様の御旨を拒否したことに対する悔い改めが必要だったでしょう。しかし、そこまでには至らずも、神様はヨナの命を救って下さいました。まさしく「救いは主のものです。」

 イエス様が語られた放蕩息子のたとえでもそうでしたが、自分の何が間違っていたのかということまでは行きつかず、ただ、命乞いをした息子をそのままで受け入れ、ただ戻ってきた息子を心から喜ばれた神様の姿が、このヨナの状況でも表されていたのです。

 私たちが自分の罪から来る滅びから救われたのも、ただ神様が私たちの命を、存在を愛しているが故です。

 本日のヨナの記事ですが、神様は、ヨナが命の危機に瀕して、神様との交わりが与えられていることのすばらしさに改めて気づき、神様のところに戻りたいと思えた、そのヨナを喜ばれたのです。神様はそのような御方なのです。

2020年8月23日

「思い直される神様」

                  テキスト:ヨナ書3:1~10(旧約聖書1,516頁)

 

 1節「再びヨナに次のような主のことばがあった。」神様からの命令をかたくなに拒否したヨナに「再び」神様は同じ命令を与えます。神様はヨナに、どうしてあの時わたしの命令に従わなかったのかと追及しません。神様はヨナがどのような思いで命令を拒否したのかをご存じでした。神様はどんな人をも滅びることを望まない御方です。それは残虐な行為に走っていたアッシリヤ帝国の人々に対しても同じでした。ヨナにとってはアッシリヤは、悪行に満ちた国、神様から滅ぼされてしかるべき国、イスラエルにとっては脅威の国、憎むべき敵国でした。ヨナのその思いは簡単には変わりませんでした。ヨナは「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」(4節)と叫びますが、そこには、ニネベの人々に悔い改めを説くというよりは、ただ神様の裁きだけを告げている姿があります。歪んだ愛国心等々、神様の御思いからはずれたままのヨナですが、神様はそのままのヨナを受け止め、再び、同じ使命を与えられるのです。神様は私たちにも同じように扱って下さっているのです。弱さを受け止めて下さる神様でなければ、私たちの自力では、いつか、つぶれてしまう者ではないでしょうか・・。

 ヨナの宣教を聞いて、ニネベの人々は悔い改めの態度を示しました。断食ををして、すべての人が荒布を着ました。荒布は、当時、悲しみに暮れる時に着る服でした。断食、荒布、灰の中にすわるという行為はすべて悔い改めの印でした。ニネベの人々は家畜にも悔い改めを命じましたが、これは彼らが徹底的に悔い改めたことを表しています。「もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない。」(9節)ニネベの人々は、神様を恐れ、そして、神様の赦しのわずかな可能性に賭けたのでした。

 罪の赦しは自分ではどうすることもできないのです。自分の罪深さを克服することもだれにもできないのです。ただ神様の憐み故に、イエス・キリストの十字架の贖いによって、私たちは罪を赦され、罪を赦され続けているのです。

 神様は、ニネベの人々が悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になり、裁きを思い直されました。神様は思い直される御方なのです。何度も何度も忍耐をもって思い直される御方なのです。

 ヨナはニネベの人々なんかは赦されてはならないと思っていましたが、ヨナ自身も神様に何度も何度も赦されてきたのです。

2020年8月30日

「まず、自分に注がれている神様の愛を信じよう」

                         テキスト:ヨナ書3:10~4:11(旧約聖書1,516頁)

 

 ヨナは神様がニネベを滅ぼすことを思い直されたことに怒り、そして、神様に祈りの中で言います。「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。」(1~2節)

 ヨナにとってみれば、自国を襲う残忍なアッシリヤ帝国、そして、その首都ニネベは、神様に滅ぼしてもらいたい存在でした。しかし、神様は、ニネベの人々が悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になり、彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった(3章10節)のです。

 ヨナは、神様という御方は「情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていた」と言い、そして案の定、わざわいを思い直してしまった。もう自分は「生きているより死んだほうがまし」なので、いのちを取って下さいと訴えている。なぜ、そこまでの思いに至ってしまったのだろうか・・。ヘンリー・H・ハーレイは、「ヨナは預言者であると共に有名な政治家であった」と述べていますが、有名な政治家でもあったヨナが単身でニネベに乗り込み、神様からの警告を叫んだのに、滅ぼすことを思い直した神様によって、自分の政治家としての面子が、ニネベにも、そして、自国にも丸つぶれになってしまったからだろうか・・。色々と考えられますが、それら様々な思いの中で、ニネベが滅ぼされずに済むということが死ぬほどに嫌だったのでしょう。人間には死んでも嫌だということがあるのかもしれません。

 神様はそんなヨネに、「あなたは当然のことのように怒るのか。」(4節)と、その怒りは本当に当然のことなのか?と問いかけますが、ヨナはニネベの町を一望出来る山上に仮小屋を建て、40日そこにとどまって、町がどうなるか見極めようとします。(5節)それは、ヨナが神様に訴えたことにより、神様がもう一度考えを変え、ニネベにわざわいを下してくれるのではないかという期待をもっての行動だったのではないでしょうか・・。あるいは、わざわいを下してくれるまで、私はここを動きませんというようなストライキのような行動だったのではないでしょうか・・。

 仮小屋は40日間も住むには決して快適なものでななく、猛烈な暑さをしのぐための仮小屋に灼熱の太陽が容赦なく照り付けました。神様はヨナの気持ちをなだめるように、そして、落ち着いて、ヨナの怒りは当然のことなのかを考えさせるために、一本のとうごま(ひょうたん、あるいは、かぼちゃの類であると言われる。この植物は柔らかいつる状の茎とぶどうの葉のような大きな葉を有し、2,3日の短期間のうちに大きく生長して十分な日陰を作ることができる。しかし、茎が少し損傷しただけでも枯れてしまうひ弱な性質を持っている)を備えて下さった。しかし、ヨナの心が変わらないので、神様は一匹の虫を備え、一夜で、とうごまを枯れさせました。そして、ニネベの人々にわざわいを下し、滅びることが本当に一番最善のことなのかを考えさせるために、焼けつくような東風を備え、太陽がヨナの頭に照りつくようにされました。ヨナは現在でいう熱中症のようになり、自分の死を願って、「私は生きているより死んだほうがましだ。」(8節)と言いました。

 9~11節「すると、神はヨナに仰せられた。『このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。』ヨナは言った。『私が死ぬほど怒るのは当然のことです。』主は仰せられた。『あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。』」

 神様は一夜で生え、一夜で滅びたとうごまの出来事は、神様ご自身がその主権の中でなさったことなのだとヨナに教えました。そして、ニネベの人々を造ったのも神様であり、命を与えたニネベの十二万以上の人々と数多くの家畜の命が滅ぶのをわたしが望むと思うのかとヨナに教えたのです。

 遠藤嘉信先生はその著書『主の御顔を避けて ヨナ書に示された神の「永遠の愛」』の中で、ヨナは神様という御方が自分に対しては、情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かであることを知らないのだと述べています。知識としては(出エジプト34:6~7)あったけれど、自分に注がれる神の愛を十分には信じていなかったのだと思いますと述べています。

 何よりもまず、自分に注がれる神様の愛を、私に対して、「情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かな」神様に信頼していなければ、他者に注がれる神様の愛を喜ぶことはできないのかもしれません。

 ヨナ書の中からは、ヨナが、「どんな人をも滅びることを望まれない神様」であることを受け止め、心を変えたかどうかは分かりません。しかし、歴史には、アッシリヤの征服が一時中止され、その間に、イスラエルは失った領土を回復したことが残っています。アッシリヤが一時ではあってもイスラエルへの征服行為を止めたことによって、イスラエルの領土回復につながったことで、ある意味、ヨナの預言者、政治家の面子も保たれ、それらのことを通して、ヨナは固執した自分の考え方を変えられていったかもしれません。

 私たちが持つ様々な怒りは当然のことなのでしょうか?

 私たちは、「情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かな」神様の愛が自分に注がれ続けていることを信じられているでしょうか?

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