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2020年9月6日

「労苦のうちに幸せを見つけて」

                     テキスト:ヨナ書3:10~4:11(旧約聖書1,516頁)

 

 北イスラエル王国の預言者であり政治家でもあったヨナが活動した時代は、隣国への征服を試みる大国アッシリヤの脅威にさらされている時代でした。それと共に、神様への背きを繰り返す自国の民という危機的な状況にあった時代でした。その時代にあって、神様からのことばを民衆に語り、自国の政治を司るという働きをしていたヨナですが、ヨナは自分の仕事をどのように捉え、どんな思いでその働きをしていたのであろうか・・。

 危機的な時代での困難な働きに、ヨナは大変に疲れていたのではないでしょうか・・。すでに大変に疲れていたところに、ニネベへの宣教命令が神様から告げられたのではないでしょうか。それは、「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」(1章2節)ということでした。この命令はヨナにとっては死ぬほどに嫌なことでした。ニネベの人々が心を変えれば、情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直される神様はニネベの人々を赦すに違いないと思っていたからです。ヨナにとってみれば、自国を襲う残忍なアッシリヤ帝国、そして、その首都ニネベは、神様に滅ぼしてもらいたい存在だったからです。

 創世記3章17節、19節には、「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。」とあります。これは、人間の先祖アダムが神様に背き罪を犯した故に、人間に定められたことです。ヨナも苦しんで食を得ていました。しかし、旧約聖書、伝道者の書5章18節、19節にはこのように記されています。「見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。」

 聖書は、「骨折るすべての労苦の中に幸せを見出すこと」は、人生にとっての「善いこと」なのだと示しています。その幸せとは、食べたり、飲んだりすること、すなわち、生きていく中での一番身近な楽しみを楽しみとして味わうこと。食べること、飲むことができる楽しみのみならず、神様から与えられているすべてのものを感謝し楽しむこと。そしてその楽しみは、労苦があってこそ与えられている楽しみであることを味わうことです。そのような意識は労苦をも喜ぶことができるようにするのだと。そのような幸せを自分のものとして味わうことができるのは神様からの賜物なのです。

 ヨナも骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけることができたはずです。(できていたことの方が多かったのかもしれませんが・・)

 ①逃亡中での船が嵐に遭遇した時、「ヨナは船底に降りて行って横になり、ぐっすり寝込んでい」ました。(1章5節)ヨナは、過酷な労働の中で、ぐっすり寝込むことができるという幸せを神様に与えられていたのです。

 ②ヨナは逃亡中の船の中で、船員、乗客たちに、何故自分がこの船に乗っているのかを話していました。「人々は、彼が主の御顔を避けてのがれようとしていることを知っていた。ヨナが先に、これを彼らに告げていたからである。」(1章10節)自国の人々には言えないことがあったかもしれません。でも、異国の人々の中にあって、異国の人々だからこそ、ヨナは、自分の仕事のこと、その不満などを話すことができたのです。そんな機会をも神様が備えて下さっていたのです。

 ③ヨナは大魚の腹の中で瀕死の状態に置かれた時、もう一度生きたいという感情を持つことができました。「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。」(2章2節)

 ④「主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。」(2章10節)このような体験は、人によっては恐怖心しか残らないのかもしれません。しかし、ヨナの性格を想像すると、ヨナは、このスリリングな瞬間の体験で、こだわっていた心の中のものを一瞬忘れられたかもしれません。

 ⑤神様はヨナの頭上を襲う日照りによる不機嫌を直そうとして下さいました。一見些細にも思える不機嫌をも神様は直そうとして下さるのです。

 私たちは、労苦の中にも神様が備えて下さっている幸せを見つけ味わっているでしょうか・・

2020年9月13日(日)

「イエス・キリストとは誰であるかを伝えたくて」

              テキスト:マルコの福音書1:1 (新約聖書64頁)

 

〇『マルコの福音書』の大まかな緒論

 「マルコの福音書」の著者がマルコであるとの記述は本文中に見出すことはできませんが、有力な初代教父たちが、著者はマルコであると証言しています(使徒の働き12:12の「マルコと呼ばれているヨハネ」が『マルコの福音書』の著者)。ペテロの手紙第一の手紙の末尾には、「わたしの子マルコ」と記されていて、イエス・キリストの12弟子の筆頭であったペテロとマルコは非常に親しくしていたことがうかがえます。マルコは初代教会の時代にペテロの従者として活躍しました。マルコはペテロがアラム語で話したイエス・キリストの証言をまとめて、ギリシャ語で書き記したと言われています。本書は、ユダヤ人ではない異邦人をおもな読者の対象としていると考えられます。

〇メッセージの概要

 1節「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」は、この書の表題のようなものであり、「イエス・キリストの福音はこのように始まったのです」と述べているのです。それは2~8節に記されていますバプテスマのヨハネの出現、活動によって始まったということです。

 「神の子」という敬称は、初代教会が、復活し昇天したイエス・キリストに対して用いましたが、マルコ自身もペテロの証言等(1:11 天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」9:7 そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。)からイエス・キリストは地上に来る以前から、初めから既に「神の子」であったということを信じていたのだと思います。

「イエス」とは、「神は救い」という意味のヘブル語「ヨシュア」のギリシャ語よみで、福音書の時代のごく普通の人名でした。 

「キリスト」とは、「油を注がれた者」という意味のヘブル語「メシヤ」のギリシャ語よみです。油注ぎとは、王や祭司、預言者など特別な使命に任命される際の儀式でした。

 「福音」とは、当時、一般的には、戦いに勝利したという吉報や、皇帝、王などに世継ぎである王子が生まれたという知らせのことを言い、「良い知らせ」のことを意味しました。新約聖書では、イエス・キリストの救いに関するメッセージを「福音」と呼ぶのが一般的な現象でした。その「福音」は、イエス・キリストが誰であるかにかかっていたのです。

 本の書き出しは重要です。読者をいかに引き付けるかは、書き出しのいかんにかかっていると言ってもいいでしょう。テレビドラマにおいても、視聴者に初回にどれだけのインパクトを与えられるかが、その後の視聴率に大きくかかわります。

 マルコのみならず、すべての福音書の焦点は、イエス・キリストの受難と復活にあります。マルコは、福音の中心であるイエス・キリストの十字架の記事を早く書きたかったために、表題をコンパクトにまとめ、すぐに(2節以降)、イエス・キリストとは誰であるかということを記していったのです。

2020年9月20日(日)

「救いに導く 道備え」

           テキスト:マルコの福音書1:1~6 (新約聖書64頁)

 1節「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」は、この書の表題のようなものであり、「イエス・キリストの福音はこのように始まったのです」と述べているのです。それは2~8節に記されていますバプテスマのヨハネの出現、活動によって始まったということです。

 バプテスマのヨハネの記事は、4つの福音書全てに(マルコ以外では、マタイ3:1~17、ルカ3:1~20、ヨハネ1:6~8、1:19~37)記されています。そして4つの福音書全てが、バプテスマのヨハネの宣教活動は、旧約時代の預言者イザヤの預言の成就なのだと記しています。

 ユダヤ人に旧約聖書のメシヤ預言を示し、イエス・キリストこそが、旧約聖書のメシヤ預言の成就なのだと訴えかけることは、ユダヤ人に対する宣教の必須のような方法なのだと思います。マルコの福音書は、主に異邦人に向けて記された書物ですが、やはり、これは重要な宣教方法なのだということが分かります。

 バプテスマのヨハネは預言の通りに、荒野で、「罪の赦しのための悔い改めのバプテスマ」のことを叫び、宣べ伝えました。

 当時のイスラエル民族は、自分たちは神から選ばれた民である故に、何をしても許されるというような間違った選民意識を持ち、宣教的偽善と高慢な心で、神様の御旨からはかけ離れた状態でした。バプテスマのヨハネは、イエス・キリストをメシヤとして迎え入れる心の準備をさせるために、悔い改めて、神に立ち返るよう宣べ伝えたのです。

 「悔い改め」とは、「転回する」、「心を変える」、「立ち返る」という意味のことばです。それは、単に過去の罪を後悔するとか、残念に思うとかいうことではなく、決心して方向転換をし、神に立ち返った生活をするという意味があります。

 バプテスマのヨハネが、イスラエルの民衆に、神に罪を赦して頂くために、神に立ち返らなければならない。心を変え、生活を変えなければならないと叫ぶと、それに呼応した多くの人々が、自分の罪を告白して、悔い改めの表明としてのバプテスマを受けたとあります(5節)。

 この働きが、バプテスマのヨハネに与えられた使命でした。これが、イエス・キリストをメシヤとして迎え入れるための道備えだったのです。

 バプテスマのヨハネは、祭司ザカリヤと妻エリサベツの老年に生まれ(前7年頃)、ユダヤの荒野で成長しました(ルカ1:80)。彼の荒野での生活は、らくだの毛で織った着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜でした(6節)。その荒野で神様のことばを受け(紀元26年頃、ルカ3:2)たことにより、悔い改めを迫る宣教活動を始めたのです。

 2節「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。」この「使い」は、旧約聖書マラキ書4:5によればエリヤであると記されています。ルカの福音書1:17にも、バプテスマのヨハネが来るべきエリヤであると記されています。エリヤは旧約聖書の世界の最大の預言者の一人ですが、列王記第Ⅱ 1章8節にはエリヤの姿として、「毛衣を着て、腰に皮帯を締めた人」であると記されています。バプテスマのヨハネはまさにエリヤの風貌をして現れたのです。旧約聖書で預言されていたメシヤ来臨前の使いエリヤの風貌をすることで、この後、旧約聖書で預言されていたメシヤが来るということを示したのだと思います。それ故に、「ユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた」(ユダヤ全土、ことにエルサレムから)(5節)のです。

 神様は、イスラエルの人々に、そして、異邦人にも、イエス・キリストこそ、人間を罪から救う救い主なのだということが受け入れられるように、受け入れやすくするための道備えを、バプテスマのヨハネを通してして下さいました。神様は、私たちにも道備えをして下さり、救いに導いて下さったのです。

2020年9月27日(日)

「あなたは、わたしの愛する子」

          テキスト:マルコの福音書1:7~11 (新約聖書64頁)

 

 バプテスマのヨハネが悔い改め(心を変えて、神に立ち返った生活をするという表明)を迫る宣教活動を始めると、彼の宣教を聞こうと、続々と群衆が押しかけ、聞いた者たちの多くの者が罪を告白してヨルダン川で彼からバプテスマを受けました。

 バプテスマのヨハネ自身も、自分の活動の大きさ、影響力の大きさを感じていたと思いますが、それは全て、神様から与えられた使命故の神様の力であると思っていたと思います(「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。」7節)。

 その影響力の大きさは、祭司とレビ人をエルサレムから派遣し、バプテスマのヨハネに対して、あなたは預言されていたメシヤなのか?あるいは、メシヤ来臨の前に現れると言われていた偉大な預言者なのか?と尋問した(ヨハネの福音書1:19~25)ことからも分かります。イエス様ご自身も、バプテスマのヨハネは預言者の最後を飾る最大の預言者と評しておられます(ルカ7:24~28)。

 その影響力の大きさ故に、バプテスマのヨハネはイエス様のことを指して、「私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。」(7節)と言ったのだと思います。「くつのひもを解く」のは、当時の奴隷の仕事でした。奴隷などというものが存在していたことがいけませんが、バプテスマのヨハネが言いたかったことは、イエス・キリストという御方は神であり、自分はあくまでも人間であり、イエス・キリストは、私なんぞと比較対象されるような方ではないのだということなのです。

 バプテスマのヨハネには、聖霊のバプテスマを授けることはできませんでした(イエス様による贖いの御業がこの時には完成していなかった)。バプテスマのヨハネが行っていた水のバプテスマは、悔い改めを表明する行為・形式でした。

 聖霊のバプテスマとは、イエス・キリストは神であり、罪からの救い主であると信じる者に聖霊の神が宿ることを指します。聖霊のバプテスマは、その人をイエス・キリストの内にある者とし、キリストの体と統合させるのです。それは、キリストの教会に結束させて、キリストを証しする聖霊の力づけがなされる時でもあります。

 イエス様には罪はありませんでしたが(罪がなく、罪を犯さず、ヘブル4:15、Ⅰペテロ2:22)、人間の姿をとって地上に来られたイエス様は、人間が受けていくべき、バプテスマの形を見せて下さいました。イエス様が水の中から上がられると、すぐその時、天が裂けて御霊が鳩のようにイエス様に下られました。これは、聖霊の神が下って宿ることを表して下さったのです(10節)。

 そして、天から声がしたとあります。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」(11節)これは、もちろん、天の父なる神様が、御子イエス様に対して語られたことばです。しかし、これは、イエス様に倣い、バプテスマを受ける一人一人にも同様に、父なる神様が語って下さることばでもあるのです。

2020年10月4日(日)

「あなたが神となりなさいという誘惑」

         テキスト:マルコの福音書1:12~13 (新約聖書64頁)

 

 12節「そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。」イエス様はバプテスマのヨハネからバプテスマを受けるとすぐに、御霊なる神によって荒野に追いやられました。それは、サタンの誘惑を受けるためでした。地上におられた時のイエス様は100%神であり、また、100%人間でしたが、神は悪に誘惑されることがない(ヤコブ1:13)ので、サタンが誘惑したのは、人間としてのイエス様でした。サタンは、人間としてのイエス様に罪を犯させることによって、人類の救いの道を閉ざそうとしたのです。罪を贖う十字架刑は、罪のない人間が受けなければならなかったからです。

 御霊はなぜサタンの誘惑を受けるようにと、イエス様を荒野に追いやったのでしょうか?ヘブル人の手紙4章15節にはこう記されています。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」イエス様は、私たち人間がサタンの誘惑に遭う時のことを分かっていると私たちに伝えるためにサタンの誘惑を受けて下さったのです。イエス様はサタンの誘惑に負けませんでしたが、イエス様もサタンの誘惑を経験されたので、私たちが誘惑を受ける時の気持ちや、誘惑に負けてしまう弱さも、イエス様は分かって下さっているというのです。イエス様は分かって下さっているということを私たちに伝えるためにサタンの誘惑を受けて下さったのです。また、サタンの誘惑を受けて下さったのは、私たち人間に対するサタンの誘惑とはどのようなものであるのかを私たちに示して下さるためでもありました。

 サタンの誘惑の仕方は、マタイ4:1~11、ルカ4:1~13に記されていますが、それは一言で言えば、「あなたは神のようになりなさい」という誘惑でした。石をパンに変えたり、国々のいっさいの権力と栄光を得たり、神殿の頂きから飛び降り、それを御使いたちに命じて生命を守らせようとしたり。イエス様は神ですから、石をパンに変えたり等々、全てそのように自在にすることができました。しかし、これは人間イエスに対する誘惑なのです。

 アダムとエバがサタンにそそのかされ罪を犯した時に、「善悪を知る」ようになったと記されています(創世記3:5、3:22)。それは、アダムが神から離れ、自分で善悪を決めていくという、自分が善悪の基準になったということを意味しています。今日においても、神から離れて生きている人間の基準は自分です。その結果は想像を絶する自己中心であったりするのです。

 サタンの人間に対する誘惑の中心は、「あなたが神となりなさい。」という誘惑なのです。「神のお考えではなく、あなたが全てのルールの基準となりなさい。」「神のお考えではなく、あなた自身が決めることが正しいのですよ。」「神を抜きにして、あなた自身が人から賞賛を受ければいいのですよ。」という誘惑なのです。

 イエス様はサタンの誘惑を全て、神のみことばによって退けられました。それは、「わたしの判断基準はすべて神にある。」という告白なのです。

 私たちにはサタンの誘惑があります。その時、私たちも、私たちの思い・考えが本当に神様の思い・考えに沿っているのだろうかと今一度考え、神様の御旨である神様のみことばを選び取って生きていきたいと思います。イエス様は私たちの弱さを分かって下さっています。イエス様が誘惑を受けられた時、「御使いたちがイエスに仕えていた」(13節)とありますが、私たちが誘惑を受ける時、イエス様が私たちと共にいて下さるのですから。

2020年10月11日(日)

「悔い改めて福音を信じなさい」

         テキスト:マルコの福音書1:14~15 (新約聖書64頁)

 

 バプテスマのヨハネは、国主ヘロデ・アンテパス(紀元前4~紀元39年、ガリラヤおよびペレヤの国主として統治したヘロデ大王の子)が異母兄ヘロデ・ピリポの妻ヘロデヤを妻とするという不法を犯したことを咎め、断固として引かなかったことにより、妻ヘロデヤが殺意を抱き、ヘロデ・アンテパスによって斬首され、殉教する。イエス様は、バプテスマのヨハネが捕らえられて後、ガリラヤに行き、神の福音を宣べたとありますが、神であるイエス様はバプテスマのヨハネが捕らえられた時、この後に、殉教することも分かっておられたのだと思います。また、バプテスマのヨハネが殉教しないで済むようにすることもできたと思います。しかし、バプテスマのヨハネがイエス様の贖いの十字架の道備えをするという働きの中に、殉教ということも含まれていたのではないかと思います。私たちには分からない神様のご計画の中で、バプテスマのヨハネの殉教も含めての道備えだったのでしょう。バプテスマのヨハネはイエス様の購いの十字架を予告するようにして殉教しました。イエス様の贖いの十字架の道備えをしたバプテスマのヨハネの殉教は私たちのための殉教だったとも言えるのではないでしょうか。

 バプテスマのヨハネとイエス様は親戚関係にありましたから、バプテスマのヨハネのこの先のことを分かっていたイエス様であっても、捕らえられたという知らせがどれほどイエス様を悲しませたかは計り知れません。しかし、バプテスマのヨハネが捕らえられたことは、道備えの終わりを意味し、イエス様による人類救済の贖いの十字架への道がスタートしたことを聖書は示しています。そのスタートとして、イエス様は、神の福音を宣べられました。宣教とは、事実の告知であると奥村修武師は述べています。イエス様は神様から与えられた福音、良き知らせの事実として、「時が満ち、神の国は近くなった」と告げました。神様が定められた時、すなわち、旧約時代からの神様の人類救済のための約束が成就するために、神様が定められた時が到来し、神様の支配が来たのですと告げました。神様の定められた時が来て、イエス様による人類救済の御業が始められたことによって神様の国に入ることが身近になったのです。その神の国に入るために、悔い改めて、すなわち、神様に背を向けて、神を神とせず歩んでいた歩みを方向転換し、神様に立ち返り、神を神とする生き方をし、福音を信じなさいと言われました。具体的には、神様が人類のために、イエス様に人類の罪を負わせ十字架にかけ、そして、よみがえらせたことは自分の罪(神を神としなかった)のためであったと信じなさいということです。

 私たちの罪からの救いのために、バプテスマのヨハネの犠牲があり、イエス様の十字架がありました。私たちの救いは、多くの犠牲のもとにもたらされたのです。それを神様の側から用意し、与えて下さいました。神様の方から、神の国を近づけて下さったのです。だから、「悔い改めて福音を信じなさい」とイエス様は宣べ続けたのです。

2020年10月18日(日)

「わたしについて来なさい。心が動かされた招き」

         テキスト:マルコの福音書1:16~20 (新約聖書64頁)

 

 イエス様はガリラヤ湖で漁師4人を福音宣教のための弟子として招きました。なぜ弟子を集める必要があったのか・・。それは、イエス様は後に、十字架・復活後に昇天されるからでした。イエス様が天に帰られた後、福音宣教を担っていく弟子が必要だったからです。

 神様は人間を用いずとも神様のお力で福音宣教をしていくということもできたでしょう。しかし、あくまでも人をお用いになるのです。神様は、人が心で訴えかける言葉に心で応える人がいることを望まれるのです。神様は人間が好きなのです。そもそも、神様は人間がいなくとも、神様だけで何の欠乏もなく存在できたのです。なのに、人間を造られたのは、人間を造り、人間とのコミュニケーションを楽しみにされたからです。

 イエス様がシモン(別名をペテロ、イエス様の十二弟子の代表的人物)とその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネの前に現れるのは、この時が最初ではなかったのでしょう。これ以前に、ヨハネ1:35~42の出来事があったと考えられ、ルカの福音書では、ナザレの会堂での伝道(4:16~30)、ガリラヤのカペナウムでの悪霊につかれた人の癒し(4:31~37)、シモンの姑の熱病の癒し(4:38,39)、等(4:40~44)の出来事に続いて、イエス様のことばにより大漁を得たという記事があり(5:1~11)、その中で「人間をとる漁師」になるという宣教への召命が記されているからです。

 神様はマジックのようにして、イエス様の弟子になる者を起こしたのではないのです。イエス様は普通の人間ではなく、神なのではないかという思いを事前に与え、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」ということばに心が動かされるような準備をされていたのです。漁師の経験のないイエス様のことばに従ったところ、大漁を得たという驚くべき出来事が事前にあってこそ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」ということばが響いたのです。

 当時、ラビ(律法の教師)に弟子が従っていく場合、入門を申し込むのも弟子の側であり、そして弟子が従っていくかどうかの選択も基本的には弟子の方が行っていました。ところが、イエス様と弟子たちの間では、イエス様の方から声をかけ、弟子として招いています。アンデレは本日の記事の弟子としての招き以前に、イエス様をラビ(律法の教師)と呼んでいます(ヨハネ1:38)。はじめはバプテスマのヨハネの弟子だったアンデレは、イエス様をラビと呼ぶにふさわしい御方だと思わされていたのです。その御方の方から弟子としての招きがあったのですから、ユダヤ人であれば、すべてをなげうって従っていくというのも、うなずけることなのです。弟子たちにとっては大変に光栄なことであり、心躍らされる招きだったのです。そして弟子たちはイエス様の招きに対して転職を即決したのです。

 神様の招きは、人の心が自然に反応するような招きなのです。神様の愛が、神様の愛に溢れたことばが人の心を動かすのです。

 私たちの宣教の業が人の心を動かすとすれば、神様の愛が、神様の愛に溢れたことばが伝えられることによってなのです。

2020年10月25日(日)

「真に権威ある御方から」

         テキスト:マルコの福音書1:21~28 (新約聖書65頁)

 

 ユダヤの人々は安息日に、ユダヤ教の集会場(会堂という)に集い、祈り、律法学者が聖書を朗読し、解釈するのを聞きました。学者や長老たちだけでなく、会堂管理者の許可を得た者は誰でも律法を解き明かし、説教をすることができました。イエス様はこのように許可を得て教えられたのだと思われます。

 律法学者とは、モーセ五書、及び、それと同等の権威を持つと見なされた口伝律法(偉大なラビ(律法の教師)の教え、しきたり、伝統)の専門家であり、それらを人々の生活に解釈・適用する教師(ラビ)のことを言います。律法学者は常に、過去の偉大な教師の名を引用し、それを後ろ盾にし、自分の解釈の正当性を立証していたのですが、イエス様はそれとは違い、他の権威の後ろ盾を必要とせずに、ご自身の権威で、ご自身が権威ある者であるから、権威ある者として語られたのです。そのように権威ある者のように語ることなどは到底できない時代であり、よって、権威ある者のようにして語る人はいなかったのです。しかし、イエス様は神であり、権威ある者でした。聖書のことばはイエス様のことばであるから、イエス様は律法をご自身のことばとして語り、ご自身が定めた律法の真意を解き明かされたのです。民衆は、そのようにして権威ある者として語るイエス様の教えに驚いたのです。

 イエス様は律法学者の解き明かしを耳にしてきた民衆に対して、「しかし、わたしはあなたがたに言います。」(マタイ5章)と、律法の示す本当の意味を解き明かされました。

 私たちに必要なことも、イエス様のことばの真意を、みことばの真意に耳を傾けることだと言えるでしょう。教会で言い伝えられてきたことや、伝統、クリスチャンの習慣等ではなく・・。

 イエス様は全被造物を支配する者として、その権威で、汚れた霊につかれた人から汚れた霊を追い出しました。汚れた霊につかれた人は、常日頃から会堂の礼拝に出ていたと思われます。しかし、真に権威のある御方によってでしか汚れた霊につかれた人を解放させてあげることはできなかったのです。

 私たちは、真に権威ある御方が共にいて下さいます。そして、真に権威ある御方イエス様のみことばに耳を傾けて歩んでいくお互いでありたいと思います。

2020年11月1日(日)

「幼子のように主を信頼しよう」

         テキスト:マルコの福音書1:29~34 (新約聖書65頁)

 

 イエス様はシモン(ペテロ)のしゅうとめに手を触れることによって、熱病(高熱を発する病気)をいやされました。イエス様の話を聞きつけて、人々は病人や悪霊につかれた人たちをイエス様のもとに連れてきました。イエス様は病人をいやし、悪霊につかれた人たちを解放しました。

 しかし、後にイエス様がこれらの町々を、たくさんの奇蹟を見ながらも悔い改めなかったとして責めている箇所があります。

 「それから、イエスは、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。・・・・『カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。』」(マタイ11:20~24)

 ソドムはその不道徳、特に性的な不品行のゆえにゴモラと共に硫黄の火で滅ぼされた町でした(創世記18~19章)。ガリラヤの町々の人々は、神であるイエス様をじかに見、じかに奇蹟を見ました。それは、イエス様が地上におられなかった時代の人々よりもはるかに有利な立場にありながらも、イエス様の奇蹟をただ驚き、歓迎するだけで、イエス様という方がどのような方なのか、イエス様が語っていることは何なのかを全く意に留めなかったのです。

 「ソドムの地のほうが、さばきの日には、まだカペナウムより罰が軽い」とは、カペナウムの多くの人々は、イエス様を神であり、救い主として受け入れることができる要素をふんだんに用意されたにも関わらず、それを拒んだ故に、罪からの救いの術がないのだということを述べているのです。

 神様は、自らを賢い者や知恵のある者として高ぶる者ではなく、幼子のように単純に心を開き信頼する者に、神の国の真理を明らかにされるとイエス様は言われました。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。」(マタイ11:25)

 人々は病気をいやしてもらいたく、悪霊を追放してもらいたく、イエス様に殺到しました。今日、人々が殺到する所はどのような所なのでしょうか・・・。

 私たちももちろん、病気はすぐに治りたいですし、悪霊につかれたような症状があるなら、すぐに追い出してもらいたいと思うのは普通の感情だと思います。しかし、何よりも大切なことは、イエス様に信頼するということなのです。イエス様がどのような御方なのかを自らに言い聞かせ、どのように信頼に足る御方なのかを自らに言い聞かせ、信頼するのです。イエス様の約束のみことばに信頼を置くのです。

 神を神ともせずに歩んでいたならば、神様に方向転換(悔い改める)をするのです。

 幼子のように神様に信頼するのです。

2020年11月8日(日)

「すべての必要をご存じであることを確信する」

         テキスト:マルコの福音書1:35 (新約聖書65頁)

 「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」

 「朝早くまだ暗いうちに」とは、まだ完全に夜が明けきらず、薄暗い時。

イエス様は多忙な日々の働きの中で、「朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」なぜ、疲れているはずなのに、もっと寝ていようとはせずに、「朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」のであろうか?

 それは、イエス様にとっては、この祈りの時がどうしても必要な時だったからです。日中は大勢の人々に囲まれていて、神様との1対1の関係を意識することがむずかしかったのでしょう。

 地上におられた時のイエス様は100%人間でもありました。ただ単に100%神だけのイエス様であったならば、父なる神様との1対1の人格的な交わりの時を確保するということも必要はなかったでしょう。

 祈りの中心は神様との1対1の人格的な交わりにあるのです。故に、イエス様は、「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。」(マタイ6:6)と教えられたのです。それは、人には見られていないので、形式的な祈りや、祈る時間や量だけが問題になるような祈り、決まり文句の反復は必要ないのです。(『だから、こう祈りなさい』鞭木由行著、21頁)鞭木先生は、「そのような祈り(形式的な祈り、時間や量だけが問題になるような祈り)は、神が無知であり、私たちに対して関心がないような存在であることを前提としています。言い換えると、そこには神との人格的な交わりがないのです。救われて『神の子』とされながら『父なる神』との交わりがなく、その結果、祈りの量的側面だけが頼りとなる祈りになってしまうのです。」と述べておられます。

 イエス様は弟子の1人が、「私たちにも祈りを教えてください」という願いに対して、「祈るときにはこう祈りなさい」と言って主の祈りを教えられました。鞭木先生は、「主の祈りは、祈るべきことをすべて網羅しています。祈りの完璧な要約です。ですから、祈れないときでも心から主の祈りを祈るならば、私たちはすべてを祈ったといえるのです。」(同書、13頁)と述べておられます。

 「主の祈り」の冒頭は、「天にいます私たちの父よ」です。これは、私たちが神様に対して子どもとしての信頼を持って祈ることを示しています。繰り返しますが、祈りは、神様との1対1の人格的な交わりの時です。私たちの祈りで神様を動かすのではありません。言うなれば、祈りは、神様が私たちの必要をすでに知り、私たちの祈りに応えるようにして、すべての必要を満たそうとしてくださる御方であることを確信させて頂く時なのです。

 「あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」(マタイ6:32)このことを神様との1対1の人格的な交わりの時で確信させて頂くのです。

2020年11月15日(日)

「何よりも必要なことは」

         テキスト:マルコの福音書1:36~39 (新約聖書65頁)

 

 ペテロたちは、気が付くとイエス様が見当たらないので、イエス様を捜しに行き、イエス様を見つけると、弟子たちみんながイエス様を捜していますと言った。それに対しイエス様は弟子たちに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」

 弟子たちがイエス様を捜しに来たのは、単にイエス様の姿が見当たらなかったからというだけではないでしょう。一時どこかに行って姿が見えなくても、大人ですから、いずれ戻って来ると思うのが普通でしょう。しかし弟子たちがあえて捜しに来たのは、先に居た場所に、まだ、大勢の病人たちが押し寄せて来るだろうと思ったからではないでしょうか・・。そのことは当然、イエス様も思っていたでしょう。では、なぜ、イエス様は、まだ治されていない病人がいるであろうにもかかわらず、「さあ、近くの別の村里へ行こう。」と言われたのでしょうか?それは、そこにも福音を知らせる必要があったからです。

 この時イエス様が語っていた福音(良き知らせ)とは、旧約時代からの神様の人類救済のための約束が成就するために、今、神様が定められた時が到来し、イエス様による人類救済の御業が始められたという良き知らせです。

 イエス様は「そこにも福音を知らせよう」と言われました。すなわち、イエス様は、先に居た場所には福音を知らせ終わったと思っていたのです。イエス様は、福音を知らせはしましたが、福音を信じさせることはしなかったのです。イエス様が父なる神様から地上に遣わされたのは福音を宣べ伝えるためでした。病人を治したり、悪霊を追い出したりすることは第一義的な使命ではなかったのです。

 私たち人間にとって、何よりもまず必要なことは、福音を信じることなのです。神様が人類のために、イエス様に人類の罪を負わせ、十字架につけ、そして、イエス様を死からよみがえらせたのは、自分の罪(神を神とせず歩んでいた)のためであったと信じることなのです。違う言い方をすれば、私たちに命を与え、私たちを愛して止まない神様のもとに立ち返ることなのです。

 私たちにとっても、病気はすぐにでも治りたいものだと思います。しかし、何よりもまず必要なことは、神様のもとに立ち返り、神様と共に生きることなのです。

 イエス様を信じ、神様のもとに立ち返らせて頂いた一人一人は、イエス様に倣って、福音を知らせることが必要です。福音を信じさせようとするのではなく・・。これが何よりも必要なことだからです。

2020年11月22日(日)

「深くあわれんで下さるイエス様の心」

         テキスト:マルコの福音書1:40~45 (新約聖書66頁)

 

 ツァラアトは、皮膚に現れるだけでなく、家の壁や衣服にも認められる現象であり、それが厳密に何を指しているかは未だに明らかではありません。「ツァラアトに冒された人」とは、何らかの原因により、人体の表面が冒された状態を描写しています。そして、これは単に肉体的な病であるだけでなく、社会的な苦痛をももたらしました。この病にかかった者は、社会から追放され、人々から隔離されてひっそりと暮らしていました。それは肉親から引き離され、友人を失い、社会生活も失うことを意味していました。その生活は祭司によって「きよい」(治ったということ)と宣言されるまで続きました。

 40節「さて、ツァラアトに冒された人がイエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。『お心一つで、私をきよくしていただけます。』」「お心一つ」と訳されたことばは、「意志を働かせる」という意味のことばでもあります。ツァラアトに冒された人は、イエス様が治そうとされるならば、私のツァラアトは癒されますと言った。本来ならば隔離された環境にいたはずのツァラアトに冒された人が、大勢の人々がいるであろうイエス様のいた場所にお願いに来たということは大変に勇気のいる行動でした。ツァラアトに冒された人は、どこからかイエス様のうわさを聞きつけ、イエス様ならば自分の病を治して下さると信じ、隔離された場所からイエス様に会いに来て懇願したのです。

 その姿を見たイエス様は「深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって・・『わたしの心だ。きよくなれ。』」と言われた。「すると、すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよくなった。」とあります。当時はツァラアトに触れればその人も汚れる(病気がうつるということよりは、宗教的な意味で汚れがうつる)と考えられていました。しかし、イエス様は、あえて彼にさわって、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われたのです。たとえ社会が隔離し追放しようとも、イエス様は手を伸ばして触ってくださり、これが私の意志だと言ってくださったのです。ツァラアトに冒されていた人は、どれほど嬉しかったのでしょうか・・。病が治ったという喜びのみならず、自分の存在を宗教的に汚れた者だと見てはいないということを、手を伸ばして触るという行動でイエス様は表して下さったのです。

 そして病が治ると、この後、どのようにして社会生活に復帰していくのか、その手立てを教えてくれたのです。

 しかし、彼は、病が治った喜びを抑えきれずに、イエス様が言われた「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。」(イエス様は病気のいやしが、ご自分の中心的な働きだと誤解されるのを防ぐためにこのように言ったと思われる)ということを守れず、この癒しの出来事をふれ回り、言い広め始めてしまいました。「そのためイエスは表立って町の中に入ることができず、町はずれの寂しい所におられた。しかし、人々は、あらゆる所からイエスのもとにやって来た。」とあります。

 イエス様が父なる神様から地上に遣わされたのは福音を宣べ伝えるためでした。病人を治したり、悪霊を追い出したりすることは第一義的な使命ではなかったのです。そのために、先の場所でも、まだ、病を治してもらいたい人々がいたであろうにもかかわらず、「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」(1章38節)と言って、別の村里に来たのです。しかし、ツァラアトに冒された人の治りたいという切なる願いに対して、イエス様はそれを無碍にはせず、深くあわれんで下さる御方なのです。そして、周りの人々が、あなたを蔑み、見下そうとも、わたしはあなたの存在をそのままの姿で愛している、ということを、手を伸ばして、触って、これがわたしの心だと言って表して下さったのです。

2020年11月29日(日)

「試練脱出の道は神様にある」

                     テキスト:Ⅰコリント10:13 (331頁)

 

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

〇聖書が示す試練には以下のようなものがあります。

 ・人間が神様に背くことによって与えられる試練(出エジプト時の民の偶像崇拝、Ⅰコリント10:1~12)があります。人が神様に背く時 に、神様の方に心が向くようにと、神様が与えます。

 ・サタンの働きかけによる試練(Ⅰコリント7:5、マタイ4:1以下、Ⅱコリント2:11、Ⅰテサロニケ3:5)があります。サタンの働きかけは私たちにとって試練となりえます。しかし、それらも神様のお許しのもとに行われるのです。

 

 いずれにしても、サタンの試みを神様が承認したという面も含めて、試練は神様から出ていると言えます。しかし、私たちを愛して止まない神様から出ているので、それら試練も私たちのために、私たちの成長等のために神様が与える試練であると言えます。

〇試練は私たちが耐えることのできる範囲内の試練である。

「あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。」

〇試練脱出の道は神様にある

「むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

 出エジプトの時、民は神様を信頼できずに偶像崇拝に走りました。神様は民が神様に信頼を置くようにと試練に遭わせ、民をトレーニングしました。それらも民のためにでした。

 試練脱出の道は、人間の知恵ではなく、神様そのものにあるのです。神様に信頼を置くことによって開かれるのです。

 

 私たちは、試練がどこから来ているのか分からなければ、その終わりも分からずに苦しむでしょう。しかし、試練の出どころが神様であり、試練の脱出の道も神様にあるのだということを知っていることは幸いなのです。

2020年12月6日(日)

「主のことばによって与えられる力」

    テキスト:マタイの福音書1:18~25 (新約聖書1頁)

 

18節「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。」

この時、ヨセフとマリヤは婚約期間中であった。ユダヤの婚約は、法律上は夫婦として認められていたが、一年の婚約期間を過ごした後に、夫婦としての実生活が始まるということになっていた。この婚約期間中にマリヤは聖霊の働きかけによって妊娠する。ヨセフは「聖霊によって身重になった」ということをマリヤから聞かされていたのであろうが、「聖霊によって身重になった」ということをどれだけ信じられていたかは分からない。また、そのお腹の子が自分と血のつながった子どもではないということは分かるので、そのことが世間に知られれば、マリヤは姦淫を犯したということになり、旧約時代のユダヤの法律では、姦淫の罪は死刑に処せられるということになるが、しかしこの時代では、申命記24:1に基づいて離婚するというのが規則であった。しかしそれでもヨセフが離婚の手続きではなく、マリヤを姦淫罪として告発し、公の裁判にかけることもできたが、「ヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」とある。「夫のヨセフは正しい人であって」とあるが、これは品行方正ということに主点を置いているのではなく、ヨセフは、神様を信じ、神様の目に正しいとされることを選びとっていく人であるということを示している。ヨセフは、神様の目に正しいとされることを選びとった結果、マリヤをさらし者にはしたくないという思いを選び、公にはしないで離婚状を書いて内密に去らせるという決断をしたのである。

この決断に至るまでのヨセフの悩み苦しみは如何ばかりであったろうか。

①仮に、婚約期間一年が満たない内にマリヤを妻として迎え入れれば、法律違反として咎められる可能性がある。②婚約期間であるにもかかわらず、お腹が大きくなってきたことを世間から指摘された場合には、神様の目に正しいとされることを選びとるヨセフは嘘はつけないので、「聖霊によって身重になった」と真実のままに答えるであろうが、そのことを世間が信じなければ、ヨセフ以外の人との関係でできた子どもということで訴えられ、マリヤが姦淫罪とされてしまう可能性がある。姦淫罪とされることを回避するには、マリヤに離婚状を渡すしかなく、結婚をするという喜びに満ちていたヨセフにとって、愛する婚約者に離婚状を渡し、別れなければならないというとてつもない悲しみがあったであろう。③離婚状を渡すことになれば、女手一つで子どもを育てていかなければならなくなることも考えられ、マリヤが世間の冷たい目にさらされながら生きていかなければならないという苦しみを思うと、やりきれない思いが溢れたことだろう。

どのように考えても、今後の未来には、苦しみ、悲しみしか思い浮かばなかったのではないだろうか。どうすることもできないと悲嘆にくれるしかないようなその時に、「主の使いが夢に現れて言った。」のである。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(20、21節)

ヨセフは、主の使いのことばを、ただの夢とは思わなかったのであろうか。

神様からの語りかけであれば、たとえ夢の中であろうと、ただの夢とは思わないのであろう。故に、ヨセフは、眠りからさめると、主の使いに命じられたとおりに、マリヤを妻として迎え入れ生活していくのである。

私たちが聖書を通して語りかけられる神様のことばも、ただの文章のことばではなく、その人にある種の決断を与え、新たなる生きる力を与え、その人の歩みを後押しするのである。

23節「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)このことばは、直接的にはマタイが記したことばであるが、ヨセフが困難極まると思える状況で、主の使いのことばにすがり、歩んだ結果、その歩む道に「神がともにおられた」ということをヨセフ自身が語っていたこともマタイが思い出しながら、預言者のことば(イザヤ7:14)を記したのであろう。

主のことばによって決断に導かれ、新たなる生きる力を与えられたヨセフの行動の末に、罪からの救い主がこの地上にお生まれになったのである。

2020年12月13日(日)

「神様の愛に導かれている歴史」

                    テキスト:ルカの福音書2:1~20(新約聖書109頁)

 

○ヨセフとマリヤは住民登録のために居住地ナザレからヨセフの故郷ベツレヘムに向かう。ナザレからベツレヘムまでは約170キロ、当時では1週間くらいかかった。身重のマリヤにはかなり厳しい旅であった。マリヤはろばに乗って向かったと思われるが、いつ生まれるか分からない赤ちゃんのことを思うと常に不安が襲ってきてもおかしくはなかったであろう。それはヨセフにおいても同じであったであろう。

○「神様の摂理」とは、身の周りで起こる全てが偶然によることなく神様によってもたらされており、良いものを与えようと働いていて下さる神様の御業であるが、当然、マリヤの胎から神であるイエス様がご降誕される出来事も神様の摂理の中で起こったのである。

①ベツレヘムでイエス様を産まなければならなかったマリヤ

イエス様の誕生の地がベツレヘムであることは、これより約700年前の預言者ミカが預言していた。ミカ書5:2「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」ベツレヘムはダビデ王の誕生の地であり、御子の誕生の地がベツレヘムであることを神様は定めておられた。神様の摂理の中で、神様は、遠方の異国のローマ皇帝の勅令(公式な法律ではなく、行政指令であろう)を用い、そして、身重のマリヤがベツレヘムに行きイエス様を出産することを定めておられた。著者のルカは、神様を歴史の主であると見ている。

 神様は、私たち1人1人の歴史にも、不思議な働きかけをされ、事を動かしておられる。私たちも神様の摂理の中で生かされている。

②家畜小屋でイエス様を産まなければならなかったマリヤ

ルカ2:6~7「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」ナザレからベツレヘムにやっとの思いで着いたが、「宿屋」はすでに一杯であった。「宿屋」は家の「客間」をも意味するが、いずれにしても、出産に適したプライベートな場所がなく、二人は牛やろばが寝る家畜小屋に泊まることになった。その夜、イエス様は生まれ、布にくるんで、飼葉おけに寝かされた。そこは動物の様々な臭いもあったであろう決してきれいな場所ではなかった。しかし、マリヤは家畜小屋でイエス様を産まなければならなかったのである。それは、おそらく、この後に訪れる羊飼いたちに、真っ先に、「すばらしい喜び」を知らせようと神様が計画されていたからであろう。

 当時のベツレヘムの羊飼いは、身分的に低く見られ、貧しかった故に、ローマ帝国の人口調査の対象から外され、価値なしと見捨てられていた。特に宗教的には、彼らが安息日を含む宗教上の礼拝に参加しにくかったため、当時の宗教指導者からは人間扱いをされず蔑まれていた。そのような羊飼いたちに、真っ先に、救い主イエス様に会わせるには、羊飼いたちの生活の場である家畜小屋でなければならなかったのであろう。立派な王宮や貴族の館では、羊飼いは、そこに居合わせることはできなかったのである。

 イエス様降誕の出来事には、人を愛し、人に細かいご配慮をして下さる神様の姿が表されている。神であるイエス様は、愛する人間を罪から救う救い主としてこの地上にお生まれ下さったのである。

2020年12月20日(日)

「私たちの弱さに同情して下さるイエス様」

                   テキスト:ヘブル人への手紙4:15(新約聖書428頁)

 

 父なる神様は、聖霊の神の働きにより、処女マリヤの胎に神であるイエス様を宿すことによって、100%神であり、100%人間であるイエス様をこの地上に誕生させました。何故、神である御方が人間の姿を取り、この地上に来る必要があったのでしょうか。色々な意味がある中で2つの大きな点を見たいと思います。

 ①人間の罪の身代わり刑を受けるために

 イエス様は33歳頃に十字架刑に処せられますが、それは、十字架上で人間の罪(神を神とせず、神様を意ともしないこと、それによって犯す数々の行為罪)を負い、身代わりの刑を受けるためでした。イエス様は私の罪のために死にそして私が新しい命で生きるためによみがえられたことを信じる者には、罪の赦しと永遠の命(神様と共に生き続ける命)が与えられます。

 ②私たちの弱さに同情できる御方であることを示すため

 イエス様は人間として生まれて下さった故に、人間としての様々な苦しみに遭われました。ヘブル人への手紙4:15には「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」とある。「私たちの大祭司」とは、イエス様のことを指しています。「私たちの弱さ」とは、罪の誘惑を受け、そして、神様のみこころとは違う、的外れな生き方、すなわち罪を犯してしまう私たちの弱さのことを指しています。また、「同情」と訳されたことばは、「共に苦しむ」ということを表現するために使われることばであるので、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。」ということばは、「イエス様は、私たちが罪の誘惑を受け、罪を犯してしまう弱さに対して共に苦しみことができない方ではありません」という意味のことばであることが分かります。イエス様はアダムの罪の性質の遺伝子とは無関係に、聖霊の神の働きかけによって、地上に存在した方であり、私たち人間のように内側に罪を宿して生まれた者ではありませんでした。にも関わらず、「罪は犯されませんでしたが」と記されていることから分かることは、罪の誘惑とは、肉体を持つ人間の内側から起こるものではなく、外側から働きかけてくるものであるということです。すなわち、それは、人間の外側から働きかけるサタンの誘惑であります。人としてのイエス様は人間の外側から働きかけるサタンのすべての誘惑を受けたということです。イエス様は誘惑を受けても罪は犯しませんでしたが、ご自分がサタンのすべての誘惑を経験されたので、私たち人間がサタンの誘惑を受け、罪を犯してしまうその弱さと、その苦しみなどを理解してくださり、そして、そのことをご自分のことのように共に苦しんでくださっているというです。

 私たち人間は生まれついての罪人であり、内に住みつく罪を持っています。サタンの誘惑は内なる罪を刺激し、罪を犯させようとします。それと共にイエス様を救い主として信じた者には、内に御霊なる神様が宿っています。クリスチャンは御霊なる神様の力を頂きながら内なる罪と戦いながら生き続ける者です。

 地上におられた時のイエス様は100%神であり、100%人間でした。神100%だけであったならばサタンの誘惑もありませんでした。イエス様は、100%神であり、100%人間でもあったが故に、私たちの内側に相反するようにして存在する、御霊なる神様と内住の罪のことも理解できるのだと聖書は示しているのです。

 イエス様は、地上の生涯の最後の日の前夜、弟子たちと共に過越の食事をされてから、ゲッセマネの園という所に行かれ、父なる神様に祈られました。イエス様は側近とも言える3人の弟子に、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」(マタイ26:38)と言われた。この当時、先生と呼ばれていた律法学者が弟子に自分の弱さとも取られ得る姿を見せるということはあり得なかったであろうと思います。しかし、イエス様は弟子たちに対し、正直な思いをそのまま伝えられました。

 イエス様は、十字架上で息を引き取る間際に大声で叫ばれました。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)。このことばを叫ぶ前にイエス様を罵倒していた人々は、このことばを聞いたことによって、なおイエス様を見下したであろうと思います。人間的に見れば、死に際を格好良くしようなどと繕うこともできたであろうと思います。しかし、イエス様はこの時も、人にも神様にも正直なままでいました。

 父なる神様とイエス様は、無限、永遠、不変の愛(人間では計り知ることのできない愛)によって結ばれていて、十字架刑の時まではその絆が破られるということは、一瞬たりともありませんでした。しかし、イエス様の十字架刑は、人間が釘づけにされるという苦しみのみならず、イエス様ができれば避けたかった、父なる神様との断絶が行われたのです。このことだけは何としても避けたいという思いと願いは、イエス様にとっては最も自然で当然の願いでした。これは、イエス様が100%人間となられた故に味わなければならなくなったことでした。

 私たちは内側に御霊なる神様と内住の罪を宿しているという簡単には理解できない微妙な存在です。それ故に、内住の罪との戦いに苦しみ、疲れ果ててしまうこともあるでしょう。自分の醜さにほとほと嫌気がさしてしまうこともあるでしょう。しかし、イエス様はそんな私たちのことを知っておられるのです。同情して下さっているのです。神であるイエス様ご自身が人間の姿をとってこの地上に来られた故に味わわれた様々な苦しみの経験があるからです。ですから、私たちは、サタンの誘惑に内住の罪が反応をして負ける時も、惨めに思えるその姿を隠すことなく、神様にお見せしましょう。

2020年12月27日(日)

「咎を赦して下さった主への感謝」

                   テキスト:詩篇103篇1~5(旧約聖書1,008頁)

 この詩は、バビロン捕囚(紀元前586年)からの帰国(紀元前539年)を果たし、エルサレム神殿の再建が実現した(紀元前515年)喜びの時代に書かれた詩であると考えられている。(ダビデを記念して作られた詩)

 「わがたましいよ。主をほめたたえよ。」(1節)詩人は自分に向けて語っている。「私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。」(1節)「私のうちにあるすべてのものよ。」この脳が、この首が、この肩が、この腕が・・・すべて神様の御手の中にあって守られた全てが・・という意識であろう。

 2節「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」

 神様が良くして下さったことの1つ1つが列挙される。

 ○「すべての咎を赦し」(3節)イスラエルの民は神様のみこころに反し、偶像崇拝の罪を犯し続けた。それは約300年間という長きに亘るものだった。神様はわたしに信頼しなければ異邦人に滅ぼされると預言者を通して繰り返し警告していたにもかかわらず、北イスラエル王国は200年余り無視し続けた結果、アッシリヤという国に滅ぼされる。その後、北イスラエル王国の教訓を生かすことなく、南ユダ王国も無視し続けたため、バビロン帝国によるエルサレム神殿の崩壊、南ユダ王国の滅亡という悲劇を招いた。神様への背信の結果、イスラエルの民は約50年間にわたる捕囚民という憂き目にも遭った。しかし、神様は時至って、イスラエルの背信の罪をすべて赦して下さった。

 ○「あなたのすべての病をいやし」(3節)イスラエルの民のバビロン捕囚とエルサレムの荒廃のことを指す。

 ○「あなたのいのちを穴から贖い」(4節)滅びの穴であるバビロンから神様は救って下さった。そして、「恵みとあわれみとの冠をかぶらせ」て下さったと詩人は語る。神様の「恵み」は、愛するに値しないと思えるような者をなお愛し続け、その愛によって私たちを罪の支配から解放することに現されている。「あわれみ」は、真実な父が放蕩息子に対して抱くような思いを表す。

○「あなたの一生を良いもので満たされる」(5節)神様が良くして下さった数々を思い起こすことによって、この後も良くして下さる神様に信頼を置くことができ、結果、魂は満たされるのである。その主の御業への感謝は、鷲の羽毛が生え変わるように、繰り返し若さを新たにするのだと詩人は語る。

この詩は咎を赦して下さった神様への感謝が溢れ出ている。

私たちの一年も振り返る時、同様の感謝が溢れ出るのではないだろうか。

2021年1月1日(金・元日)

「自力では解決できない時こそ」

             テキスト:Ⅱコリント12:1~10(新約聖書360頁)

 

 「私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(7~9節)

 このことばは、パウロが病の中にあって語ったことばであると言われる。パウロのこの病(「一つのとげ」と表現している)は不治の病であったと言われている。パウロはこの病が治るようにと何度も神様に祈ったが、病は治ることがなかった。何故、全能なる神様が治して下さらないのかと考えた末、パウロはこの病にも意味があることを教えられる。その意味は

、この病は、自分が高ぶることのないようにと神様が与えたものであるということだった。

パウロは、「第三の天」とか「パラダイス」とか呼ぶ所に引き上げられ、神様ご自身からのことばを聞いた。それは、あまりにもすばらしい経験で、パウロを使徒と認めようとせず、福音宣教を妨げる人たちを黙らせるために、この経験を誇らしげに語りたくなるという誘惑材料にもなり得たのである。そのために、高ぶることのないようにと与えられたのがこの病であるとパウロは理解したのである。パウロにとっては、当初、不治の病は、福音宣教の妨げになるとしか思えなかったかもしれない。しかし、癒しを願い求める祈りの応えは、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」であった。

私たちは、時に、神様の恵みというものを勘違いしやすい者ではないだろうか。私たちに何の病も苦労もなく、平穏無事であることが神様の恵みであると・・。しかし、パウロはこの時、自分にとっては不都合極まりない、治すこともできない病をかかえるという、変えることのできないこの状況を、神様にゆだねる以外には術がないこの状況こそが、すなわち、神様の力以外にはどうすることもできないと心底思える状況こそが、実は、神様の恵みが十分な時なのであると教えられたのである。故にパウロは語る。「ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(10節、新改訳2017)新改訳第3版では「甘んじています」を新改訳2017では「喜んでいます」となっている。ちなみに新共同訳では「満足しています」と訳している。パウロは、「弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難」の時こそ、キリストの力が自分を覆って下さるから、「弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難」を喜ぶのだと言っている。

「弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難」これらのどれ一つでも自分の身に起こってはほしくないと思ってしまう自分がある。「むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」というパウロの信仰の域には到底いきつかないようにも思う。しかし程度の差はあれ、私たちも生きている限り、「弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難」を経験するものである。その時には、これは自分ではどうすることもできないのだと自分の心に言い聞かせ、この時こそ、イエス様の恵みが十分な時であって、この時こそ、イエス様の力が自分を覆って下さるという約束のみことばに自分の思考を変えていきたい。自己の力を頼まず、ただ神様の力が自分を覆って下さることが分かるというこれこそが、神様の恵みが十分な時なのだと教えられたのである。

 私たちも自分の思い通りにはいかないことが多々あるであろう。そのような時、「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」このみことばを思い起こし、この時こそが、神様の恵みが十分な時なのだと、神様のみことばに考え方を変えていきたい。

2021年1月3日(日)

「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」

                   テキスト:マタイの福音書16:13~20(新約聖書32頁)

 

 「人々は人の子をだれだと言っていますか。」(13節)イエス様は、ガリラヤの群衆たちがいないヨルダン川の源流の近くの、ユダヤ人の地域ではない、ピリポ・カイザリヤの地方で、人々は私のことを誰だと言っていますかと12弟子に尋ねた。それは、パリサイ人やサドカイ人たちが、イエス様を悪霊の力を借りて奇蹟を行っている者であるとか、イエス様という御方に対して疑いを持たせるような話しを群衆にしていたからである。

 イエス様の問いかけに対して弟子たちは、群衆が語っていることの主要点は、「預言者のひとり」であると言っていますと答える(14節)。それに対しイエス様は、他の人々がどのように思っていたとしても、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(15節)と尋ねる。ペテロは弟子たちを代表して、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(16節)と答える。

 この場所ピリポ・カイザリヤは、自然の神とされていた偶像のパンの神(ギリシャ神話の牧神)を礼拝する中心地であり、ギリシャの神々はこのピリポ・カイザリヤの付近に集中していた。また、パン神の祭壇の近くにはローマ皇帝の像を安置した白い大理石の神殿があった。このような自然崇拝、人間崇拝の場でイエス様は、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(15節)と尋ねたのである。それに対しペテロは、イエス様はそのような生きてはいない神々ではなく、偶像ではなく、「生ける神」であり、父なる神様と特別な関係にある神様の子であり、旧約時代から預言されていた「キリスト」救い主ですと告白したのである。

 その告白に対してイエス様は、「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」(17節)と言われた。

 ペテロをはじめとする弟子たちのイエス様理解は、この時点ではまだ無理解(人間の罪の身代わりに十字架にかかる救い主という理解とはほど遠かった)に近い状態ではあったが、イエス様はこの時点でのペテロのイエス様理解は神様がペテロに示してくださったのだと言われた。聖書は、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」(Ⅰコリント12:3)と述べている。

 18節「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」ピリポ・カイザリヤには、数十メートルにも及ぶ見上げるような岩盤があり、その岩の上に偶像の神パンの神殿が建てられていた。イエス様は目の前にそびえ立つ岩盤と偶像を前にして、ペテロの信仰告白を岩と見立て、その信仰告白の上に、イエス様がイエス様の教会を建てると言われたのである。教会はイエス・キリストを、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白する者の集まりである。

 「ハデスの門」は、死人の住む所の城門を指し、死の力を意味している。キリストの教会は、罪の刑罰である死の力にも打ち勝つことができるのである。なぜならば、教会のかしらであるキリストは、人類の罪を背負い、十字架でその罰を受け、死を打ち破ってよみがえられたからである。

 今も、神様の方から人間に、イエス様に対する信仰を与え、イエス様ご自身がイエス様の教会を建てられるのである。ハデスの門もイエス様の教会には打ち勝つことはできないのである。

2021年1月10日(日)

「すべての権威はこの御方にある」

                   テキスト:マルコの福音書2:1~12(新約聖書66頁)

 

 本日の聖書箇所には、中風の人への癒しの御業が記されています。中風とは、脳出血後に起こる、からだの麻痺の病気ですが、この中風をわずらっている人は、四人の人(ルカ5:18によれば男たち)に床のまま運ばれてきました。しかし、群衆のためイエス様に近づけなかったので、彼らは屋上に上って屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をイエス様のおられるあたりにつり降ろしました。

 イエス様は、彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。(5節)なぜ、彼らの信仰を見たイエス様は、すぐに中風の人の病を癒すことをされなかったのでしょうか?それは、中風の人の何よりもの苦しみが罪責感にあったからではないでしょうか。中風の人、本人が何か特別な罪を犯したのかどうかは分かりません。当時は病の原因は本人または家族親類などの罪によるものだという考え方がありましたから、そのような世間の人々の目にさらされ、人々が自分を見るような罪人として、自分もいつしか自分をそのような罪人として見るようになっていたのかもしれません。もしもそうであるとすれば、中風という病と共に、罪責感という精神的なものも体に害を与えていたでしょう。周囲の人々もそんな彼を見るに見かねてイエス様が来ているという場所に中風の人を連れてきたのではないでしょうか。いずれにしましても、イエス様が「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われたのは、中風の人にとって何よりも必要であったのは罪が赦されたという確信だったからです。人間にとってどうしてもなくてはならないものは、神様に罪が赦されるということです。イエス様が地上に来られた目的も、人間の罪が赦されるための福音(イエス様が自分の罪の身代わりとなって十字架で死に、よみがえられたと信じるならば、その信じる者の罪を赦す)を伝えるためでした。

 イエス様の「子よ。あなたの罪は赦されました」ということばに対して、律法学者たちは「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」(7節)と心の中で理屈を言ったと記されています。この律法学者たちは、ユダヤの最高議会から送られてきていた偽預言者をチェックする人たちでした。彼らの心の中の言葉は、イエス様の「罪は赦されました」という宣告は、罪を指摘するという預言者的役割以上の越権行為であり、また、神への冒涜であると、一見すると正当な判断をしたまでの言葉なのですが、イエス様は彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、すぐにご自分の霊で見抜いたとあります。(8節)

 律法学者たちの心の中での理屈とは、「罪は赦された」と言うことは簡単(現実に肉眼では赦されたかどうかは分からないから)であっても、病を癒すことは簡単にできることではないから、このイエスは病を癒すことはせずに「罪は赦された」ということばを述べたにすぎないのだという心の中の言葉です。イエス様はそんな律法学者たちに、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」(10節)と言ってから、中風の人の麻痺を癒されました。それは人間にとって何よりも必要なことは罪が赦されることであるので、罪を赦す権威を持っておられるイエス様が中風の人の罪を赦し、そしてその後、この中風の人を様々な面で苦しめていた病をも治したのです。

 「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。(より簡単か)」(9節)ということばの意味は、病は場合によっては医者によって治っても、罪を赦すということは神以外にはできないことであるということです。そして、イエス様は、ご自分のことばには、「罪を赦す」権威も、「病を癒す」権威もあるということを示されたのです。

 並行記事のマタイの福音書には、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」(マタイ9:2)と記されています。「しっかりしなさい。罪は赦されたのだから。」というイエス様のことばです。

 中風の人は罪赦され、罪責感からも解放され、また、麻痺という病も癒されました。

イエス様は神であり、すべての権威を持っておられるからです。

2021年1月17日(日)

「律法を守るから愛しているのではない」

                   テキスト:マルコの福音書2:13~17(新約聖書67頁)

 

 アルパヨの子レビは普通マタイと同一視されている。レビは取税人であった。レビはルカの福音書に出てくるザアカイのような金持の取税人ではなく、その下請け的な取税人であった。取税人は祖国のユダヤを征服したローマ政府のために税金を徴収するための請負人であった。あらゆる不法な徴収によって私服を肥やすことができた彼らをユダヤの人々は盗賊や殺人者と同一の人種とみなし、仲間はずれにし嫌っていた。また、仕事柄、礼拝することができない取税人やその他の人々をユダヤの人々は「罪人」と呼んだ。しかし、この職に就きたくてお金を出して取税人の権利を買い取りその職に就く者もいた。しかし、そこまでしてもその職に就きたいと思うに至るその人の人生には、家庭環境等々、様々なことがあったのであろう。

 14節「イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、『わたしについて来なさい』と言われた。すると彼は立ち上がって従った。」レビはこの時初めてイエス様を見たのではなかったであろう。15節にはこう記されている。「それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。」パリサイ人・律法学者たちの教えによって「罪人」と呼ばれ仲間はずれにされていた人たちが、イエス様の教え、イエス様の人柄に共感し、大勢、従っていたのである。レビもイエス様の教えを聞いたりしたことがあり、イエス様のことばに心惹かれていたのであろう。

 パリサイ派とは、当時のユダヤ人社会の一分派で、パリサイとは「分離するの意」に由来し、彼らは、当時の律法によって神の前に汚れている事や汚れた者とみなされる人々には一切触れないようにした。彼らは律法を守ることを第一義と考え、行為によって義とされると思い行動する徹底的な律法主義者であった。彼らの生き方は当然、罪人とみなす者(異邦人、取税人、遊女ら)との交わりを避けることによって貫かれた。

 そんなパリサイ人・律法学者たちの教え・行動とイエス様とは違ったのである。イエス様はレビに招かれ食卓に着いたように、以前から罪人と呼ばれる人々と食卓に着いていたのである。その姿に当然レビは驚かされていたであろう。レビが何故、取税人という職業に就きたいと思ったのかは分からない。しかし、心には計り知れない暗闇があったに違いない。そのレビの心にパリサイ人・律法学者たちの教え・行動は響かなかったのである。パリサイ人・律法学者たちは律法を守ることによって神様に受け入れられていると思っていた。しかしイエス様は違ったのである。イエス様は人に命を与え、この地上に人を存在させた御方である。レビの存在そのものを愛しておられるイエス様のことばと行動はレビの心に響いていたのである。イエス様に弟子の一人として招かれたレビは即決でイエス様に従っていくのである。

 16~17節「パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。『なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。』イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』」パリサイ派の律法学者たちは、律法を守っていると自負し、故に自分を正しい人だと思っていたのである。自分で自分を正しいと思っている人は神様を必要としないのである。イエス様はむしろ罪人呼ばわりされている取税人等、心の闇をかかえ苦しんでいる人たちのために神様から遣わされたのだと言われた。

 私たちも罪の性質として、律法を守っている自分を神様は受け入れて下さるという思いを心の奥底に持ち合わせているのではないか。しかし、神様はそんなことで受け入れて下さるのではないことを本日の聖書箇所は示している。

2021年1月24日(日)

「人にほめられたい思いから来る偽善」

                   テキスト:マルコの福音書2:15~20(新約聖書67頁)

 

 パリサイ派の律法学者たちは、イエス様がレビの家での食卓で、取税人や罪人(仕事柄、礼拝することができない取税人やその他の人々をユダヤの人々は「罪人」と呼んだ)たち大勢と食事をしていることを非難した。その非難に対してイエス様は、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(17節)と応えるが、彼らはそのことばの真意を考えようともせずにイエス様たちへの非難を続ける。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」(18節)(ヨハネの弟子たちとは、バプテスマのヨハネの弟子たちのこと)この非難の言葉に対してイエス様は、「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。」(19~20節)と応える。イエス様が応えたことばはこういうことである。

 「もし、あなたが花婿だとして、あなたが祝いの席に招いた友だちが、喜び、飲食をしようとしている時に、あなたは友に断食をさせますか?。同じように、この食卓の席にいる一人一人はわたしと共に居て喜んでいるのです。今、彼らに断食させる必要などないのです。断食する必要を覚える時には断食をし、祈るのです。」

 旧約の律法は、年一度の断食だけを命じていたが、パリサイ人たちは週に二度の断食をしていた。マタイ6:5にイエス様のことばがこう記されている。「祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。」また、ルカ18:9~14には、「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。『ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。』」と記されている。

 パリサイ人たちが断食をし祈る目的は、人にほめられたいためであった。また、パリサイ人たちは、断食をし祈っていない者を見下していた。

 イエス様は「花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。」(20節)と言われた。それは、イエス様が十字架にかけられる時のことを指している。それは究極な困難の時である。その時には、ここに居る者たちは、何を差し置いても祈るのだと、イエス様は弟子たちを擁護し、パリサイ人たちの非難に応えた。

 私たちも、ややもすると、パリサイ人たちのようになりやすい者である。

2021年1月31日(日)

「恵みのゆえに、信仰によって救われる」

                   テキスト:マルコの福音書2:21~22(新約聖書67頁)

 

 21節「だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。」古い着物に真新しい布切れで継ぎをすれば、新しい布切れはまださらしていないので水に濡れると縮んでしまい、弱くなっている古い着物は裂けてしまう。

 22節「また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」新しいぶどう酒は、まだ十分に発酵しきっていないので、膨張力を失ってしまった古い皮袋は張り裂けてしまう。

 古い着物、古い皮袋は、パリサイ人・律法学者たちの律法主義的な生き方を指している。

イエス様は「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(2:17)と言われた。パリサイ人・律法学者たちは律法を守ることによって神様に認められようとしていた。しかし、神様は神である一人子イエス様を罪人を招くために地上に送って下さった。人間の側から神に近づく道ではなく、神の側から救いが臨んだのである。

 ガラテヤ2:16には、「しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」とある。

 人の罪が救われるのは、イエス様の十字架・復活は私の罪のためであったと信じることによるのである。律法の行いによって義と認められようとする律法主義は、「ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます」とあるように、信仰によって救われる道の妨げになるのである。

 エペソ2:8には、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」とある。

 人は恵みのゆえに、信仰によって救われるのである。

2021年2月7日(日)

「クリスチャンの行動の優先順位」

                            テキスト:マルコの福音書2:23~3:6(新約聖書68頁)

 

 私たちクリスチャンは、何かの行動を起こす時、そこにいくつかの行動の選択肢がある場合に、その内のどの行動を取るべきか迷うことがあると思います。

 本日の聖書箇所は、クリスチャンが行動を起こしていく時に、何を優先にしていくべきかを教えてくださいます。

 イエス様と弟子たちは、麦畑の中の小道を歩いていました。弟子たちはお腹が空き(マタイ12:1~8参照)穂を摘んで、手でもみ出しては食べていました(ルカ6:1参照)。その行為自体はなんらとがめられるようなことではありませんでした。旧約の律法にも、麦畑を通る者は、鎌で刈ったり(盗みの行為とされた)しないかぎりは、その実を摘むことが許されていました。(申命記23:25)それは、一時的な飢えをしのぐための行為であり、同胞に対する憐れみの表れということで認められていたことでした。パリサイ人たちが問題にしているのは、盗みのことではなく、彼らが定めた安息日の守り方のことでした。麦の穂を摘む行為、手でもみ出す行為は、安息日に労働をしてはならないという彼らの「安息日律法」の労働に当たる違反行為であると抗議したのです。その抗議に対してイエス様は、彼らに答えて言われました。「ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。アビヤタルが大祭司のころ、ダビデは神の家(祭司の家のこと)に入って、祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを、自分も食べ、またともにいた者たちにも与えたではありませんか。」(25~26節)

 ダビデは、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンであることを知っていましたが、サウル王のダビデに対する殺意の行動から共に逃げてきた供の者の飢え・疲労を癒してあげたいと思い、供えのパンを食べたのです。それは、隣人が必要としていることを親身に考えた末に選んだダビデの行動だったのです。

 イエス様は、ダビデの行動は、「祭司以外の者が食べてはならない供えのパン」という律法よりも、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(レビ記19:18、十戒の後半の要約)という行動を優先した結果取った行動であると言われたのです。

 3章1~6節には別の安息日(ルカ6:6参照)での出来事が記されています。イエス様が片手のなえた人の手を元通りになるよう癒されたという驚くべき出来事です。それは、パリサイ人たちがイエス様を訴える口実を見つけるため、じっと見ていたその場であり、会堂の人々からよく見える真ん中に片手のなえた人を立たせて行われた出来事でした。

 パリサイ人たちが定める「安息日律法」においては、治癒は仕事であり、安息日に治癒をすることはパリサイ人たちにとっては「安息日律法」の違反に当たることでした。実際には、生命に危険が及ぶ場合には病人を救うなんらかの処置がとられていましたが、この片手のなえた人は生命の危険が及ぶ病人には該当しませんでしたから、イエス様がこの人を治癒したならば訴えようとしていたのです。しかし、イエス様は、そんな彼らの考えを知っていた上で治癒の行為をされたのです。

 イエス様はパリサイ人たちに、「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」と言われた(3:4)。(現にパリサイ人たちはこの時イエス様に殺意を持った3:6)

 イエス様は、どんな規則があろうとも、安息日に善(隣人を愛すること)をすることは常に正しいのだと言われたのです。イエス様は、「人の子は安息日にも主です。」(2:28)と言われました。それは、安息日の律法に関しても、わたし(イエス様)が律法の基準であると言われたのです。そのイエス様が言われます。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」(2:27)

 イエス様は、律法は要約すると、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という二つの戒めになると言われました。(マタイ22:37~40)神の律法は、言うなれば人間関係のための律法です。人間関係のために神様を愛する必要があり、そして、アガペーの愛(神様の愛を表す犠牲愛)で隣人を愛せよと聖書は述べています。安息日律法に関してもわたしが律法の基準であると言われたイエス様は、この律法理解に立ち、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」これよりも優先すべき律法・規則はないのであるということを示されたのです。

 私たちも、現実の生活において、このイエス様の律法理解に立ち、何を優先にしていくべきかを判断していくのです。

2021年2月14日(日)

「イエス様を救い主として信じられるのは」

                            テキスト:マルコの福音書3:7~12(新約聖書68頁)

 

 「それから、イエスは弟子たちとともに湖のほうに退かれた。」(7節)イエス様たちは、イエス様に殺意を抱いたパリサイ人たちから離れて行った。それはひと時の休みを得るためであったかもしれない。しかし、大勢の群集が近隣からも遠方からもついてきた(7~8節)。それは病気に悩む人たちが癒されることを願って追ってきたのである(10節)。

 先には、会堂でのイエス様の安息日における癒しに対して、パリサイ人たちが非難をあびせたばかりであったが、病気に苦しむ人たちにとっては一時でも早く治りたいという人間にとってはあたりまえの姿であった。

 一方で、汚れた霊につかれた者たちがイエス様を見ると、みもとにひれ伏し、「あなたこそ神の子です」と叫んだ(11節)。これはイエス様がどういう御方なのかの的を得ていた。しかしイエス様は、汚れた霊につかれた者たちが叫ぶその動機を考えると、安易に言い広めることを制止された(12節)。

 イエス様がどういう御方なのかということは、奇跡を見て、簡単に理解できたり信じられたりすることではなかったのである。それは昔も今も同じである。

 人は病を癒して欲しくて、問題を解決して欲しくて、イエス様のところに殺到することはあっても、イエス様が罪からの救い主であることを理解し信じようとしないということを本日の聖書箇所も示している。

 聖書は語る。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」(Ⅰコリント12:3)人がイエス様を信じることができるのは、イエス様についてのみことばを聞き、そこに聖霊が働かれることによるのである。人知を超えた領域である。

2021年2月21日(日)

「互いに愛し合いなさい」

                            テキスト:マルコの福音書3:13~19(新約聖書69頁)

 

 イエス様は十二弟子を任命されました。この時にはすでに多くの弟子たちがいたとルカ6:17には記されています。イエス様はそのような多くの弟子の中から十二人を選びました。並行記事のルカ6:12を見ますと、「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」とあるので、十二人の名前は父なる神様から告げられたのだと思います。それは、「わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」ヨハネ14:10や、ヨハネ5:19、20、ヨハネ8:28からも分かります。

 この十二人は奇妙な寄せ集めであり、その中には、ローマのために税金を取り立てて自国の裏切り者のような存在であった取税人マタイがおり、他方、ローマ人をことごとく殺害することを誓っていた急進的な愛国主義者である熱心党の党員シモンもいました。また、イエス様を裏切ることになるイスカリオテ・ユダもいました。

 このような十二人を任命した理由が3つ記されていますが、

 その1つ目は<彼らを身近に置くため>でした。十二弟子がイエス様の身近に置かれたが故に感じ取ることができた、学ぶことができたことは何だったのでしょうか・・。たくさんのことがあったと思います。その中には、祈りがあったでしょう。ルカ11:1~2には、イエス様が祈り終えた時、弟子の一人が近寄って来て、イエス様に、「私たちにも祈りを教えてください」と願ったとあります。その弟子の願いに応えてイエス様は、「祈るときにはこう祈りなさい」と言って主の祈りを教えました。

 イエス様は弟子たちを身近に置き、たくさんのことを教えたに違いありません。しかし、その中でも最も教えたかったことはこの事柄に違いないと思います。ヨハネ13:34にはこう記されています。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」イエス様は、ご自身の愛の行動に倣って互いに愛し合いなさいと言われました。この「愛」は、アガペーということばが使われていて、それは、見返りを期待しない一方通行に流れる犠牲愛であり、それは弟子たちのために、全人類の罪の贖いのために十字架上で命を捨てられたイエス様の愛に表れています。その愛に倣って互いに愛し合うこと、この事を何よりも教えたかったのだと思います。

 任命した理由の2つ目は、<彼らを遣わして福音を宣べさせ>るためです。福音とは、「良い知らせ」という意味ですが、それは神様からの賜物です。罪の赦しと、イエス・キリストを通して買い戻されて神の子としての身分にあずかる救いです。すなわち、罪の赦しと神様との和解の知らせです。その「良い知らせ」を宣べさせるために任命されました。

 任命した理由の3つ目は、<悪霊を追い出す権威を持たせるため>です。悪霊にとりつかれて苦しんでいる人々がいました。イエス様は弟子たちにその人たちを救い出す権威を持たせました。

 福音を宣べ伝えようとすることも、サタンの働きかけに苦しむ人を助けたいとすることも、イエス様の十字架に表された私たちに対する神様の愛を受け取り、その喜びにつき動かされなければできないことなのです。

 イエス様は言われました。「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:35)

 イエス様は私たちにも、「互いに愛し合いなさい。」と、何を差し置いても語っておられるはずです。

2021年2月28日(日)

「永遠に赦されることのない罪」

                            テキスト:マルコの福音書3:20~30(新約聖書69頁)

 20節「イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった。」イエス様たちは、食事をする暇もなく、押し寄せて来る群集に対応した。その異常にも思える活動を耳にしたイエス様の身内の者たちは、イエス様を連れ戻そうとした。「気が狂ったのだ」と言う人たちの声を聞き、イエス様が何ゆえにこのような年中無休のような活動をしているのかを確かめようとしたのかもしれませんが、それよりも、イエス様たちの身体を心配して・・ということがあったのだと思います。

 エルサレムから調査に来た律法学者たちは、イエス様を「ベルゼブル(悪霊の名称)に取りつかれている」と言い、イエス様による悪霊追放は、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。

 一世紀のユダヤ教においては、悪魔祓いが広く行われていたようである(マルコ9:38、使徒19:14参照)。この時代のユダヤにおいて悪魔祓いは物珍しい現象ではなかったのであるが、悪魔祓いが常に成功していたわけではなかった。しかし、イエス様による悪霊追放は常に成功していたのである。律法学者たちが調査に来たのは、調査ということではなく、イエス様への妬みもあり、イエス様による悪霊追放は、イエス様が悪霊の仲間であって、悪霊のかしらベルゼブルの力を借りて悪霊を追い出しているのだと群衆に吹き込むためだったのです。

 そのような律法学者たちの言いがかりに対してイエス様は応えました。「内輪もめする国は滅びるから、悪霊の国でも、かしらと手下どもで争いを起こすはずはない」「悪霊に縛られている人を解放しようとするならば、まず、悪霊のかしらを縛り上げなければならないのだから、わたしが、悪霊追放をしているということは、わたしが悪霊のかしらよりも力を持っているということを証明していることになるのです」・・と。

 そして、イエス様は言われました。「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」 (28~29節)イエス様が使う「まことに、あなたがたに告げます。」という言い回しは、これから言うことは、信頼の置ける真実な神様のことばです。と、鋭く注意を喚起する時に使われます。イエス様は、人間が犯すどんな罪やどんな冒涜の言葉もすべて赦されますと言われました。イエス様をそしる言葉もである(ルカ12:10)。それほどに、地上におけるイエス様の罪を赦す権威は膨大で普遍的なのです。しかし、そうであっても、重大な例外があるのだと言われました。それは、「聖霊をけがす」罪だということです。その罪とは、イエス様のことばと行いを通して現れる神様の救いの力と恵みを意図的・意識的に拒絶することです。人を救いに導こうとする聖霊の働きかけを意図的・意識的に拒絶するならば、その人に罪の赦しの術はないのだとイエス様は言われたのです。

 この時の律法学者たちは、まさしくそれに該当していたのです。

2021年3月7日(日)

「神の国の家族」

                            テキスト:マルコの福音書3:31~35(新約聖書70頁)

 

 イエス様の母マリヤとイエス様の兄弟たちは、年中無休のような活動をしているイエス様たちの身体を心配して、それらの事情を聞こうとして来ましたが満員の家に入ることが出来ず、人をやって呼び出そうとしました。「ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、外であなたをたずねています」(32節)

 それを聞いてイエス様は応えました。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」(33節)そして、周りに座っている人たちを見回して言われました。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(34~35節)

 本日の箇所から3つのことを覚えたいと思います。

 1つ目は<神の国に入る条件>です。

「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」(33節)というイエス様のことばは一見、大変に冷たいことばのようにも聞こえますが、このことばを最も伝えたかったのは、群集の中に混じっていた律法学者たちであったと思われます。彼らはアブラハムの肉の子孫であるゆえに(マタイ3:9、ヨハネ8:39)、神の国に入る優先権を持っていると、確信をもって主張した。しかし、イエス様は神の国に入ることができるのは、「神のみこころを行う人」だと言われたのです。それは、神様のみこころを受け入れる人です。神様が遣わされた神である神の御子イエス・キリストを自分の罪からの救い主として信じることです。律法学者たちは、イエス様のことばと行いを通して現れる神様の救いの力と恵みを意図的・意識的に拒絶していたのです。

 2つ目は<だれでも招かれている神の国>です。

イエス様は言われました。「神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(35節)神の国の家族に入れて頂く特権は、誰に対しても提供されているのです。イエス様の目の前には様々な人々がいました。それらの人々に対してイエス様は言われました。人間が犯すどんな罪やどんな冒涜の言葉もすべて赦されますと(3章28節)。神様は、イエス様を救い主として信じて罪赦され神の国に入りなさいと全ての人を招いているのです。

 3つ目は<霊による新しい神の国の家族>です。

イエス様を救い主として信じた者はイエス様と霊による新しい家族になるのです。私のことを愛し、常に心配し、配慮に欠けることのない御方が私のことを家族だと言って下さるのです。それは当然、血肉による絆よりもはるかに深い絆で結ばれているのです。そして、イエス様を救い主として信じた一人一人は、イエス様を頭とした神の家族なのです。「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」(エペソ2:19)「神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:22~23)

2021年3月14日(日)

「苦しみを受けることを確信させた祈り」

                       テキスト:マタイの福音書26:36~46(新約聖書56頁)

 

 イエス様は、地上の生涯の最後の日の前夜、弟子たちと共に過越の食事をされて後、ゲッセマネの園という所に行かれ、父なる神様に祈られた。イエス様は側近とも言える3人の弟子、ペテロ、ヨハネ、ヤコブに、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」(38節)と言われた。イエス様が述べておられる、「杯」(39節)、「悲しみのあまり死ぬほど」である事とはこの後に起こる十字架刑である。父なる神様とイエス様は、無限、永遠、不変の愛(人間では計り知ることのできない愛)によって結ばれていて、十字架刑の時まではその愛が破られるということは、一瞬たりともありませんでした。しかし、イエス様の十字架刑は、人間が釘づけにされるという苦しみのみならず、イエス様ができれば避けたかった、父なる神様との断絶が行われたのです。

 イエス様は、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(39節)と祈られました。イエス様は、できることならば十字架刑を避けたいが、しかし、十字架にかかることがあなたのみこころならば、あなたのみこころの方がなりますようにと祈りました。自分の願いが実現することではなく、父なる神様のみこころが実現することを願いました。祈りとは、「みこころがなりますように」という願いなのです。

 40~41節「それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。『あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。』」誘惑とは、サタンの誘惑である。サタンの思惑は常に、信仰者の魂を神様から引き離すことにあります。イエス様に対してでさえ、できることならば十字架刑(神様との魂の断絶)を受けたくないという思いに対して、十字架をやめればいいではないかとささやきかけるサタンの誘惑があったのです。この時、弟子たちは疲れて1時間足らずも目をあけていることができずに眠ってしまっていましたが、人間の肉体を持っていたイエス様は、ご自身の肉体の弱さを認め、また、そこに付け込もうとするサタンの誘惑に対して、それを祈りによって克服されたのです。

 私たちは弱い肉体を持っていることを自覚しているようでいて、自力で、その弱い肉体で事を解決しようとしやすい者かと思いますが、弱い肉体を支えるのは、神様との交わり・祈りによって強められる霊であるということを覚えたいと思います。

 イエス様は、「わが父よ。できますならば」と祈りましたが、イエス様は、十字架以外の方法で人類を罪から救い出すことも全能の神様には可能であることを知っていた故に、「できますならば」と祈られたのだと思います。しかし、十字架でなければならなかったのです。

 ガラテヤ人への手紙3章13節にはこう記されています。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。」律法ののろいとは、律法を自ら行いその功績によって神様との正しい関係・義を持ちたいと願いながら、実際には律法を実行し得ない者として絶望的状態に陥るか、あるいは、律法を行い得ていると錯覚し高慢になることであるが、イエス様は私たち罪人のためにのろわれた者となって下さいました。私たちを律法ののろいから贖い出す方法は十字架しかなかったのです。

 イエス様は苦しみもだえ、汗が血のしずくのように地に落ちるほど(ルカ22:44)、三度祈る中で、十字架にかけられることが父なる神様のみこころと確信し、人類の罪を背負い、神様との魂の断絶刑を受けていかれたのです。

 ゲッセマネでの祈りの箇所には数えきれないほどの多くの意味がありますが、その中から本日は3つの点を覚えました。①<祈りとは、「みこころがなりますように」という願いである>②<弱い肉体を支えるのは、神様との交わり・祈りによって強められる霊である>③<私たちを律法ののろいから贖い出す方法はイエス様の十字架しかなかった>

2021年3月21日(日)

「人間が考えるメシヤ像のズレ」

                       テキスト:マタイの福音書26:57~68(新約聖書58頁)

                                       27:11~26(新約聖書59頁)

 

 イエス様はまず、ユダヤ人によって裁かれた。ユダヤの最高裁判所サンヘドリンの議員たちが招集され、夜の間に審問が行われ、明け方に公式の判決が下され、それから、ローマの総督ピラトのもとへ急送された(27:1~2)。

 ローマの助けで大祭司職に就いていたカヤパを議長とするサンヘドリンの意志はすでにイエス様を死刑にすることで固まっていた。そこで、イエス様が神を冒涜する者であることを立証する証拠(偽証であるが)を求めたが、思いのほか立証は困難であった。最後の証言、「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる』と言いました。」(61節)は正確ではないが(ヨハネ2:19によれば自ら壊すとは言っていない)、ユダヤ人の反感を煽るのにも、ローマ人に対してイエス様の危険性を印象付けるのにも有効であると大祭司カヤパは考えた。そして、冒涜罪に当たる言葉を言うであろうとイエス様に質問をした。「あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」(63節)それに対して答えたイエス様のことば、「あなたの言うとおりです。」(64節)は、直訳すると、「あなたが言った」となる。その意味は、「それは、あなたがたが考えるメシヤであって、わたしが自分自身について宣べるメシヤではないが、しかし、あなたの言うことを否定はしない」ということである。

 「あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」に対して答えた「あなたの言うとおりです。」(あなたが言った)この答えだけであれば、冒涜罪にはならなかったかもしれないが、「あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」(64節)ということばは、これは神にしかできないことであり、自らを神であると主張した、神への冒涜だと宣言した(65節)。カヤパはイエス様のことばを直接聞いている議員たちに判定を求め、彼らは、イエス様が神への冒涜の罪を犯したから、「死刑に当たる」(66節)と答えた。そしてその後、彼らはイエス様の顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、平手で打ち、「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか」(67~68節)と、イエス様に侮辱の数々を浴びせたのである。

 ユダヤの宗教・政治の指導者たちは、イエス様に対する妬みと、そして、イエス様とイエス様に賛同する者たちがローマに対して暴動を起こすのではないかと思ったのだろう。そして暴動が起きるとローマから過越の祭りを中止させられるのではないかということを恐れ、イエス様を捕らえ、ローマに反逆をする者という訴えをローマの総督ピラトに起こし、過越の祭りを中止させられないよう、すぐにイエス様を殺したいと図ったのである。

 ピラトはイエス様の無罪を宣告しながらも、ユダヤ人の民衆が暴動を起こした場合にローマ皇帝から受ける自分への扱いに恐れ、自分のメンツ、自己保身のため、罪のないイエス様を有罪にし、十字架につけたのである。

 神であられたイエス様が地上に来られた目的は、神であるイエス様ご自身が人間の罪の身代わりとなり十字架で死ぬことにあった。それ故に人々に、ご自分が誰であるのかを示し続けてこられた。不治の病を治したり、罪を赦したり・・、神にしかできないことをイエス様は行い、ご自分が神であることを示された。しかし、ユダヤの宗教・政治の指導者たちも、ローマの総督ピラトも、イエス様がご自身について宣べる、「神の子キリスト」、「神であり、救い主(罪からの救い主という意味であった)」ということを信じられなかったのである。人間が考える、思いつくメシヤ像は常にズレがあるのである。

2021年3月28日(日)

「主の愛が天国に導く」

               テキスト:ルカの福音書23:32~49 (新約聖書167頁)

 

 ふたりの犯罪人が、イエス様とともに十字架にかけられた。34節に「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』」とある。ここで使われている「わからない」(「無知」)は、知的欠陥というより、罪のある状態を示す用語として使われている。すなわち、神様から的を外した状態を指す。人は神様から的が外れている結果として行為罪を犯すのである。34節後半から38節には、的外れ故のひどい行為が記されている。

 39節には「十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、『あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え』と言った。」とあるが、はじめは犯罪人の2人共がイエス様を罵っていたと、マタイ、マルコの福音書には記されている(マタイ27:44、マルコ15:32)。しかし、ルカの福音書には、悪口言う犯罪人の1人に、もう1人の犯罪人が彼をたしなめて言ったとある。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(40~42節)イエス様は金曜日の夜に捕らえられ、急遽行われた裁判は夜を徹して行われた故、イエス様が何の罪に問われ十字架刑に処せられているのかを、この犯罪人は知るよしもなかった。故に、十字架刑に処せられるほどの重罪を犯したが故に十字架刑に処せられているのだろうと考えるのが普通ではないだろうか。イエス様のうわさ(病人の病を治し、死人をも生き返らせた等の数々の奇蹟を行い、神様は愛なる御方であることを説き明かすすばらしい人物)は耳にしていたかもしれないが、いずれにしても、「この方は、悪いことは何もしなかった」と確信し、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」という言葉が出たのは、自分を罵倒し、侮辱の残虐行為を行っている者たちに対して、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈るイエス様の姿を見たからと言えるであろう。

 ローマの軍隊の百人隊長(この時、イエス様を処刑する責任を負っていた)は、イエス様の死後直後に、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった」(47節)と言ったとあるが、それは、イエス様の十字架刑に関連して起こっているのだと思わずにはいられない天変地異の出来事(44~45節)を目の当たりにしたということもあると思うが、それよりも、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈るイエス様の姿に、人間を超えているものを感じたからであろう。

 犯罪人の1人は、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言うことで自分が死んだ後、天国に行けるなどとは思っていなかったであろう。命乞いをするつもりもなかったであろう。ただ、イエス様の愛に満ちた姿を見せられた時に、自らの心の醜さを痛感したのであろう。そして、イエス様が御国の位に着かれる時には、十字架刑の時に、私のような醜い者もあなたのような御方と共にいたということを思い出して頂くだけで光栄ですという思いを述べたのであろう。そんな彼にイエス様は、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(43節)と、思い出すレベルではということを語られた。それはイエス様と共に天国にいるという約束だった。

 神様から的を外した状態の人間が神様の存在に心が動かされるのは、人知を超えた愛を感じた時なのであろう。

 イエス様の人知を超えた愛は人を神様に方向転換(悔い改める)させ、天国に導いて下さるのである。

2021年4月4日(日)

「イエス様のよみがえりを信じさせて下さった」

               テキスト:ルカの福音書24:1~12 (新約聖書172頁)

 

 イエス様の遺体が納められていた墓にイエス様の遺体がなく、途方に暮れている女性たちの近くに、まばゆいばかりの衣を着た二人の人(御使いである)が来た。

 この地上では見たことのない、人間ではない存在だったため、女性たちは恐ろしくなって地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言ったとある。

 「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」(5~7節)

 このことばを聞くと、「彼女たちはイエスのことばを思い出した。」(8節)とある。原文通りに訳すと、「思い出す」の動詞は受動態であり、「思い出させられた」となる。彼女たちは、イエス様の語られていたみことばを思い出させられたのである。

 彼女たちは「墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。」(9節)すなわち、十一弟子とそのほかの人たち全部に、まばゆいばかりの衣を着た二人の人から聞かされたイエス様のみことばを語ったのである。

 しかし、「この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。」(11節)とある。

 なぜ、イエス様の語られていたみことばも含むすべての報告を聞いても、彼女たちを信用しなかったのであろうか。3年余りの歳月、共にイエス様につき従ってきた仲間である彼女たちの語ることを信用しなかったのであろうか。

 かつて、イエス様が死人をよみがえらせるという出来事を目撃していたにもかかわらず、死んでしまったイエスご自身が生き返るなんていうことは、あまりにも非現実的で受けとめられなかったのであろうか。現代人の多くはそれを神話であるとしている。

 しかし、イエス様の復活はキリスト教の中心である。イエス様を神であり、罪(神様から的を外していること、及び、犯す数々の行為罪)からの救い主であると信じる者に、罪の赦し(神様からの的外れの回復と、犯す数々の行為罪の赦し)と、永遠のいのち(神様との愛の交わりの中で神様と共に生きるいのち)を与えるために、イエス様は十字架にかかられ、甦られた。そのことを信じる者は永遠のいのちと復活のいのちに与る。その者は、死を迎えても、魂は神様と共に生き続け、イエス様の再臨の時には新しい体が与えられ、体と魂共々に神様と共に生き続けるのである。イエス様の復活を信じる信仰は、将来の確かな希望なのである。

 この時の彼女たちは、空の墓は見ているが、イエス様の復活のお姿を目撃してはいない。それでも、イエス様が復活されたということを信じられたのは、イエス様の語られていたみことばを思い出させられたからであると言えるだろう。

 しかし、使徒たちはこの時、イエス様の語られていたみことばを思い出させられていなかったために信じられなかったのであると言えるであろう。この時にはまだ、神様が使徒たちに、みことばを思い出させようとされなかったのである。そのような神様が定めておられる神様の時は私たちには計り知れない。

 イエス様の復活の出来事の事実は、あったかなかったかのどちらかである。

 クリスチャンは、復活を目撃した証人の証言録(聖書)を信じているが、それも、ある時に、神様が証言録(聖書)を信じさせてくださった故に信じられているのである。

 神様は、すべての事柄に時を定めておられ、神様のご計画の遂行のために、神様の定めておられるその時に、みことばを思い出させ、みことばを信じさせてくださるのである。

 私たちも、ある時には、自分の身に起こっている事柄の意味が分からなかったり、神様のみことばが信じられなかったりすることもあるだろう。しかし、神様は、神様が定めておられるその時に、私たちにもみことばを思い出させ、みことばを信じさせてくださるのである。

2021年4月11日(日)

「キリストと共に新たな命で生きる」

      テキスト:ルカの福音書24:13~35 (新約聖書172頁)

 

 13節「ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。」この二人の弟子はクレオパと、そして、ここに誰であるかは記されていませんが、彼の奥さんであろうと言われています。14節「彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。」「話し合う」ということば「ホミレオー」は、単なるうわさ話しではなく、答えを見出そうとする語り合いを意味しています。イエス様の弟子集団の中で歩んでいたこの夫婦も、あまりにも突然のイエス様の逮捕、十字架刑による死によって、混乱状態にあり、何が何だか頭の整理がつかないまま失意の中にあったのだと思います。イエス様の遺体が墓の中になかったこと、そして、そこに二人の御使いが現れ、イエス様ご自身も語っておられたように、よみがえられたのだと御使いが語ったということを、マグダラのマリヤ等の女性たちが、繰り返し繰り返し語っても、このクレオパ夫妻もまた、女性たちの証言を信じられなかったのです。そして、エマオという自分たちが住んでいた村(エルサレムから約11㎞離れていた)に帰って行こうとしていたのです。

 15節「話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。」16節「しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。」とあります。「さえぎられていて」は、動詞の未完了受動態という使われ方がされていて、「さえぎられ続けていた」ということを表す他に、「支配され続けていた」、「捕えられ続けていた」、「固執され続けていた」ということを表しています。二人の目は「さえぎられ続けていた」故に、イエス様が近づいて共に歩いていても、イエス様だとは分からなかったのです。このさえぎられていた「目」は明らかに肉眼の目のことではありません。聖書の中に、霊の目ということばはありませんが、心の目ということばは一か所だけあります。ここで使われている目は肉眼の目ではありませんので、心の目ということで理解したいと思います。

 イエス様は復活の姿を二人に現したことからはじまり、エマオという村に着くまでの道中ずっと、二人の心の目が開かれるようにと働きかけ続けます。しかし、簡単には心の目は開かれませんでした。二人の心の目は、「捕えられ続けていた」、「固執され続けていた」のです。死んだ人間がよみがえるなどということはありえないという考え方に捕らえられ、固執し続けられ、その考え方から抜け出ることができなかったのでしょう。それは、この時、自分たちの肉眼でイエス様の復活のお姿を見ていてもです

(復活の姿はそれ以前の姿とは違う、何か特別な姿だったという面もあるが)。「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」(Ⅰコリント12:3)とみことばにあるように、神様が人間に働きかけ信じられるようにしてくださらなければ、十字架刑によって死んだイエス様がよみがえったということを信じることはできないのです。

 そんな二人にイエス様は、最後の晩餐を思い起こさせるような出来事を視覚を通して見せることによって、31節「彼らの目が開かれ、イエスだと分かった」のです。「開かれ」は受動態という形の動詞であり、まさしく、二人の心の目を、神様が開いて下さったのです。

 クレオパ夫妻は、女性弟子たちが語るイエス様のよみがえりの証言を信じられず、エマオという自分たちが住んでいた村に帰って行こうとしていました。クレオパ夫妻がイエス様の弟子たちとの繋がりがあったのは、イエス様がユダヤのリーダーとなり、自分たちがその下で働くという一つの目的によってだったと思います。しかし、イエス様が死んでしまったと思っている以上、もうイエス様の弟子たちと共に生きていく意味も見い出せず、自分の進もうとしていた目標を失い、失意の中にあったのだろうと思います。しかし、失意の中にある夫妻の心の中に、イエス様が道々お話しくださる間も、聖書を説き明かしてくださる間も、心は内で燃えていたのです。(32節)

 イエス様の働きかけによって心の目が開かれたクレオパ夫妻は、イエス様の弟子たちのいるエルサレムに戻って行くのです。(33節)イエス様の弟子たちと共に生きていく意味を失い故郷に戻った夫妻が何のためらいもなく、Uターンするかのように弟子たちとの交わりの中に戻って行ったのです。人生における失意の時にもイエス様は心に燃えるともしびを与え、そして、心を捕らえ、固執させているものを取り除いて下さり、再び歩みださせて下さるのです。

 イエス・キリストを自分の罪からの救い主として信じた者は、イエス・キリストと結び合わされたのであり、キリストと共に十字架で死んだのであり、そしてまた、よみがえられたキリストと共に新しい命で生きるのです。クレオパ夫妻のように。

2021年4月18日(日)

「卑しいからだが変えられるという希望」

          テキスト:Ⅰコリント15:50~58 (新約聖書352頁)

 

 50節「兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」「血肉のからだ」は、現在、地上に生きるいのちを表す表現として、それほど珍しいものではなく、肉体の二大構成要素、腐敗しやすい二大要素に注意を向けている。このからだは朽ちていくものであることを示している。新約聖書では血と肉とが結合した場合、意味は必ず肉体を指すものとなる。

 「血肉のからだは神の国を相続できません。」来るべき世に行くのは、このからだではないのである。このからだでは御国に入ることはできないのである。

 51~52節「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」イエス様の再臨の時にクリスチャンたち(その時、生きている者も、すでに召された者も)は、そのからだがイエス様の復活のからだに似た栄光に輝くからだに変えられる。それは、52節にあるように、終わりのラッパ(地上で起きる出来事の全ての終わりを意味している)とともに、「一瞬のうちに」(人がまばたきをするくらい一瞬)変えられるのである。

 53節「この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。」からだそのものは、本当の人格ではなく、私たちがこの地上で一時的に生きるために与えられた身にまとう着物にすぎない。ピリピ3:21では、私たちの現在のからだを「卑しいからだ」と呼んでいるが、それは、この地上に生きている間、このからだが罪のために利用されてきたからである。このからだは多くの病を経験し、そしていつか必ず朽ち果てていくものなのである。しかし御国においては、完成された人格とともに、別の着物を着ることになる。イエス様が復活された栄光に輝くからだと同じ姿に変えられるのである。

 54節「そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。『死は勝利に吞み込まれた。』」「死」とは、肉体と魂の分離を表しますが、「死は勝利に吞み込まれた。」の「死」は、人をひどく苦しめるものとしての表現として使われており、そして、その「死は勝利に吞み込まれた。」と述べている。「勝利に吞み込まれた」とは、死の完全な敗北と滅亡を表している。

 55~56節「『死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」「とげ」とは、突き棒や針のようなものを表し、「死よ。」と「死」を擬人化し、「死」が「とげ」のようなもので人をひどく苦しめるその「とげ」とは「罪」なのであると述べている。そして、「罪」は「律法」を力の源のようにして利用をしているのだと述べている。

 神様が人間に与えた律法とは、「愛の律法」であり、それは、神様と隣人の愛を受け入れ、神様と隣人を愛することを求める律法である。「律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。」(ローマ7:12)この律法を罪が利用することによって、神と隣人を愛せない人間を罪人であると宣告するのである。律法は宣告はするが、人を救いに導く力がないのである。

 57節「しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」しかし、イエス様を信じる私たちに、神様は勝利を与えてくださった。神様と隣人を愛することを求める律法の要求を全てまっとうされたイエス様と一つとされている私たちも律法の要求を全てまっとうした者として見てくださる故に、罪に対しても関係のない者として下さったのである。人をひどく苦しめる「死」に勝利をされたイエス様は死んでよみがえられた。そのイエス様を信じる私たちを神様は、死と罪と律法に打ち勝った者としてくださったのである。その目に見える保証がイエス様の復活だったのである。

 58節「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」コリントの人は、気まぐれで、理由もなく右から左に、簡単に動いてしまう傾向があった。だから、パウロは彼らに、復活の真理、全人類と全被造物への神様の最終計画をしっかりと握りしめて歩んで欲しかった。人間の存在というものが死で終わりならば、その生涯は浪費とも言える。しかし、神様はイエス様の復活を通して、「死」は、クリスチャンにとって終わりではないことを保証してくださった。だから、パウロは、クリスチャンにとって、今生きている生涯における「労苦」はむだではないのだと励ましているのである。

2021年4月25日(日)

「聖霊は世の誤りを明らかにする」

         テキスト:ヨハネの福音書16:7~11(新約聖書218頁)

 

 7節「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」

 イエス様の贖いの十字架・復活を宣べ伝える福音宣教の働きは、イエス様の十字架・復活の後、イエス様が父なる神様のもとから遣わす助け主としての聖霊と、イエス様のみことばと御業の目撃者である証人とが共に宣べ伝えていくのであるが、イエス様が天に帰られた(昇天)後、迫害は弟子たちに向けられる。しかし、弟子たちがイエス様について証言する時、助け主なる聖霊が彼らを助ける。イエス様がこの地上を去っていくことによって、イエス様を信じる一人一人に助け主なる聖霊が与えられるから、イエス様がこの地上を去っていくことは益をもたらすのであると述べている。聖霊が与えられる益の大きな点は、イエス様を証言する時に与えられる助けなのである。

 聖霊はイエス様を証言する弟子たちを助け、同時に、世の誤りを明らかにする。

「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。」(8節)「明らかになさいます。」と訳したギリシャ語エレゲインは、証人や公判中の者や議論の反対者を厳しく詰問する時に用いることば、ある人が自らの誤りを理解し承認するまで、あるいはかつて分からなかったある議論の真意を認めるまで彼を詰問するという意味で使われることばである。聖霊が疑いの余地が一つも残らない迄に明確に示すということが述べられているのである。聖霊は3つのことを明確に示す。

①聖霊は「罪について」疑いの余地が一つも残らない迄に明確に示す。

9節「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」ここで述べられている「罪について」とは、イエス様を神であり、罪からの救い主であると信じないということが罪であるということである。当時のユダヤの人々、特にパリサイ人・律法学者たちは、イエス様が行う数々の奇蹟を見ながらも、イエス様が神であり、旧約時代から預言されていたメシヤであることを認めなかった。聖霊は「罪について」疑いの余地が一つも残らない迄に明確に示すのである。

②聖霊は「義について」疑いの余地が一つも残らない迄に明確に示す。

10節「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。」パリサイ人・律法学者たちはイエス様を死刑に定めたが、イエス様が十字架の死から甦り、父なる神様のもとへ昇天された事実は、イエス様の無実が証明されたことになったのである。

③聖霊は「さばきについて」疑いの余地が一つも残らない迄に明確に示す。

11節「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」イエス様はこの世の支配者たちの手に落ちて敗北の死を遂げたかのようであるが、そのイエス様が死人の中から復活することによって逆にこの世の君であるサタンは敗北し、さばかれるのである。そして、聖霊はさばきは必ずあるということを人に確信させるのである。

 私たちにもたらされる聖霊の益は、疑いの余地が一つも残らない迄に証言をされる聖霊の働きなのである。聖霊の働きによりイエス様を信じる者が起こされること、このことこそが私たちの益なのである。

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