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「教会はたましいが生き返らせられるところ」

  • 佐々木 優
  • 2024年7月28日
  • 読了時間: 4分

2024年7月28日(日)

テキスト:使徒の働き7:44~50(新約聖書247頁)


 本日もステパノの最高議会での弁論の箇所から扱います。

 ヘレニスト・ユダヤ教徒(外国育ちのギリシャ語を使うユダヤ教徒)たちがステパノを訴え出た理由は、エルサレム神殿とそれにまつわる儀式律法の廃棄を教えたということで、神とモーセを冒涜した罪だということだった。

7:44 私たちの先祖たちのためには、荒野にあかしの幕屋がありました。それは、見たとおりの形に造れとモーセに言われた方の命令どおりのものでした。

 イスラエルの民は荒野で幕屋を造った。これは「あかしの幕屋」と呼ばれるもので、木の柱やわくとそれにかぶせる幕とからなる長方形のテントで、中には、十戒(戒めというよりは十のことばと訳した方がいい)が書かれた石板が2枚入っていた。この幕屋はモーセに与えられた指示と「形」に従って造られた、持ち運びできる礼拝の場所であった。イスラエルの民はこれを荒野の旅の間ずっと運んでいた。

7:45 私たちの先祖たちは、この幕屋を受け継いで、神が自分たちの前から追い払ってくださった異邦の民の所有地に、ヨシュアとともにそれを運び入れ、ダビデの時代に至りました。

 モーセの時代に造られた幕屋は、ヨシュアの指導のもとにカナンの地に入った次の世代のイスラエルの民によって受け継がれた。イスラエルの民は、いくつかの民族によって占有されていた土地を神さまがこれらの民族を追い払うことができるようにされたことで所有するようになった。

7:46 ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの家のために、幕屋のとどまるところを求めました。

7:47 そして、ソロモンが神のために家を建てました。

 幕屋は、ヨシュアの時代からダビデの時代まで用いられた。ダビデは神さまの恵みを頂き、統一国家の支配者となり、この地の所有を確立する。そこでダビデは「ヤコブの家のために」、神さまのための住まいを自分が建てて良いかどうかを神さまに尋ねるが、ダビデの願いは聞かれず、息子のソロモンが神殿を建てることになった。この時に、神殿は幕屋に取って代わった。

7:48 しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。

7:49 『天はわたしの王座、地はわたしの足台。あなたがたは、わたしのためにどのような家を建てようとするのか。──主のことば──わたしの安息の場は、いったいどこにあるのか。

7:50 これらすべては、わたしの手が造ったものではないか。』

 ダビデも神さまから示された設計図を持っていた(Ⅰ歴代誌28:19)し、ソロモンもその設計図に従って神殿を建設したのであり、決して自分勝手に神殿を建てたのではなかった。しかし、ダビデとソロモンの意図とは異なり、神さまは人間が造った家に閉じ込められるような方ではない。

 モーセの時代に造られた「あかしの幕屋」のもう一つの呼び名は「会見の幕屋」だった。それは、神さまがここの礼拝を通して民と会見して下さる所であった。イスラエルはこの幕屋で礼拝する時、神さまの「あかし」のみことばによって神さまのご存在・ご性質・ご要求を知り、霊的に神さまと「会見」したのであった。ステパノは、この「あかしの幕屋」が「荒野に」あったと述べる(44節)。モーセは「シナイ山で彼に語った御使いや私たちの先祖たちとともに、荒野の集会にいて、私たちに与えるための生きたみことばを授かりました。」(38節)。つまりこの「あかしの幕屋」は「教会」(イエス・キリストに呼び出された人々、召集された人々の群れ。会堂のことではない)だったということである。たとい「荒野に」あっても、ただの「幕屋」でも、そこで「生きたみことば」を聞き、神さまと会見できるならばそれが教会であるということ。

 神殿建造は、発案したダビデが即刻実行しなくてはならないほどに必要欠くべからざるものではなかった。ソロモンの代まで延期ができたし、延期をしてもイスラエルの礼拝生活には差し支えはなかった。建てたソロモン自身が「いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません」と承知をしていたのである。

 にもかかわらず、サンヘドリンの議員、そして、ヘレニスト・ユダヤ教徒もエルサレム神殿に狂気じみた崇敬を寄せていることをステパノは指摘したのである。

 イエスさまは、「宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、鳩を売っている者たちに言われた。『それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。』」(ヨハネ2:14~16)と言われた。

 ステパノはイエスさまのこの出来事を聞いていたのではないか・・

 サンヘドリンの議員がエルサレム神殿に固執する大きな要因には、自分たちの懐に入るお金のことがあったのであろう。

 教会は集う一人一人のたましいを生き返らせる神さまが臨在されるところなのである。 


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