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「教会の愛の交わりを壊す罪」

  • 佐々木 優
  • 2023年10月14日
  • 読了時間: 4分

2023年10月15日(日)


テキスト:使徒の働き5:1~11(新約聖書240頁)  当時のエルサレム教会には、救済の手を待ちわびている貧困者が大勢いたと考えられている。当時はイエス・キリストを信じる者が出ると、その者を会堂から追放するという措置がとられていた。会堂からの追放は単に思想信条の弾圧ではなく、ユダヤ社会から締め出され、仕事もできなくなり、経済的にも大変困難な状況に陥ることを意味した。そこでエルサレム教会のクリスチャンたちは、各自がその時持っている財産を持ち寄って共同生活をするようになっていた。よって、イエス・キリストを信じるという告白をするということには、人間的な見方をするならば並々ならぬ覚悟も必要であった。聖霊の働きかけなくしては告白することはできなかったであろう。アナニア、サッピラ夫妻もそのような中で告白した二人であったがサタンの働きかけに乗り、最終的には急死するという事件が記されているのが本日の聖書箇所である。  バルナバは持っていた畑を売り、莫大な献金をささげた。アナニア、サッピラ夫妻もそのバルナバの姿に感化されたのであろうか、自分たちの土地を売り、代金の一部を自分のために取っておき、一部だけを献金として持ってきた。問題は一部だけを持ってきたことにあるのではなかった。ペテロも言っている通り、それはもともと「あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になった」(4節)ものだった。ペテロが後にサッピラに「あなたがたは地所をこの値段で売ったのか」と尋ねると、「はい、その値段です」(8節)と偽り、いかにも土地を売った代金の全部であるかのように見せかけて、夫婦で共謀して、教会を、そして、聖霊の神を欺こうとした罪だった。  2節、3節で「取っておく」と訳されたことばは、口語訳では「ごまかす」と訳されたことばであり、テトスへの手紙2:10では「盗み」と訳されており、そこでは奴隷が主人の物を着服するという意味で使われている。すなわち、アナニア、サッピラ夫妻は自分たちの土地を売る時に全額を献金するために売ったということであり、売った代金の一部を全額だと偽ったうそというより、神様にささげたものを着服した罪だとして指摘されたのであった。  何故、ペテロがそのことを察知できたのかは聖霊がペテロに示したということになるが、かつて旧約のヨシュアの時代に、エリコを攻め落としてすべてを焼いて主にささげよと命じられたイスラエル軍の中で、一兵卒アカンがこっそり金銀晴れ着の類を着服した。その時にもこの「盗み・ごまかし」ということばが使われている(ヨシュア7:1)。その時にはアカンとその一家が罰せられているが、ペテロは聖霊によってアカンの行った罪と目の前で起こっている出来事を関連づけて示されたのではないか・・。  アナニア、サッピラ夫妻の急死もアカンと同じく神様からのさばきであると、すべての註解書に記されていると言っても良いが、しかし、ペテロのことばには死の宣告は含まれておらず、この死を自然死、あるいはしばしば見られるショックによる心臓疾患の死とみなすこともできると述べる註解書もある。  アナニア、サッピラ夫妻は、ペテロに欺きを指摘された時、教会にはもう居られない、教会のクリスチャンたちに合わせる顔もない。しかし、追放されたユダヤ人のコミュニティ(会堂)にも戻れないと思った時に、尋常ではないショックがあったのかもしれない・・。  神様は正しい御方であり、偽りを嫌う方であることを思うと、アナニア、サッピラ夫妻の急死は神様からのさばきであるともとれるが、ショック死であるともとれるように思える。  神様のさばきというニュアンスには、神様による、誰もが納得する判定という意味合いがある。  アナニア、サッピラ夫妻はサタンにそそのかされて、何をしようとしたのだろうか・・。バルナバと同様に財産のすべてを売り払い献金する愛に満ちた人であると教会の人々に賞賛されたかったのであろうか・・。もしこの欺きがまかり通っていたならば、莫大な献金をした人たちが教会では賞賛を受けるという悪しき交わりがなされていったかもしれない・・。教会の愛の交わりの破壊こそが、ここでは聖霊を欺く罪と言われ、神様はそこにストップをかけられたのではないか・・。結果、夫妻に急死という悲劇が襲ったが、急死後の教会の対応を見ると(10節)、アナニア、サッピラ夫妻の欺きの行動の結果は、誰もが納得せざるを得ない神様の判定として受けとめられたようにも思える。アナニア、サッピラ夫妻はクリスチャンであり、急死後天国に行ったことは間違いない。神様の視点はこの地上での人間の命だけではないことは聖書を通して見ることができる。  私たちにも人に大きく見られたいと思う欲求がある。大きく見られたいがために、話を盛ってしまうこともあるだろう・・。しかし、教会の愛の交わりを阻害する欺きには神様からのストップがあること、神様による、誰もが納得する判定があることも覚えておかなければならないであろう。



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