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「最大限の考慮をして下さる愛なる神さま」

  • 佐々木 優
  • 7月27日
  • 読了時間: 5分

2025年7月27日(日)

テキスト:ルカの福音書23:32~43 (新約聖書170頁)

 

 ふたりの犯罪人が、イエスさまとともに十字架にかけられました。

 39節には「十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、『おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え』と言った。」とあるが、はじめは犯罪人の二人共がイエスさまをののしっていたと、マタイ、マルコの福音書には記されている(マタイ27:44、マルコ15:32)。しかし、ルカの福音書には、悪口言う犯罪人の一人に、もう一人の犯罪人が彼をたしなめて言ったとある。「『おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。』そして言った。『イエスさま。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。』」(40~42節)イエスさまは金曜日の夜に捕らえられ、急遽行われた裁判は夜を徹して行われた故、イエスさまが何の罪に問われ十字架刑に処せられているのかを、この犯罪人は知るよしもなかった。故に、十字架刑に処せられるほどの重罪を犯したが故に十字架刑に処せられているのだろうと考えるのが普通ではないだろうか。イエスさまのうわさ(病人の病を治し、死人をも生き返らせた等の数々の奇蹟を行い、神さまは愛なる御方であることを説き明かすすばらしい人物)は耳にしていたかもしれないが、いずれにしても、「この方は、悪いことを何もしていない」と確信し、「イエスさま。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」という言葉が出たのは、自分を罵倒し、侮辱の残虐行為を行っている者たちに対して、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」と祈るイエスさまの姿を見たからと言えるであろう。

 その犯罪人の一人にイエスさまは言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」パラダイスということばは、囲いのある庭園を意味し、そして、神の住まいである天の国を表している。

 十字架上のイエスさまの両脇には犯罪人がつけられていたが、私たちは片方の犯罪人はイエスさまを神と信じられたから天国行きが宣言された・・人生の究極の土壇場で大逆転で天国へ行けた人という・・天国行きが宣言された犯罪人に視点を合わせて聖書を読みやすいかもしれない・・。もう一人の犯罪人は悪者として・・。

 聖書は恵みの原則で書かれていて、それは逆説で書かれているということです。たとえば報酬は、こちらに理由があって受け取ることができるもの、恵みは、こちらに理由がないのに受け取ることができるものです。報酬の原則は、一日これだけ頑張ったからこれだけのものがいただけるという考え方です。「AだからB」原因があって結果があるという考え方で、「原因・結果論」です。他方、恵みの原則は、ぜんぜん頑張れなかったにもかかわらず、いただけるという考え方です。AとBの結びつきがゆるい状態、あるいは、はずれている状態と言ってもよいかもしれません。「AにもかかわらずB」です。聖書は逆説で書かれているのです。クリスチャンの生涯で言えば、足りない「にもかかわらず」いただいている生涯です。神さまから恵みが注がれるのは、人間の側に何かふさわしいことがあったからではなく、一方的な神さまの愛と配慮のゆえなのです。クリスチャンの人生は、「AだからB」ではなく、「AにもかかわらずB」に生きることです。

 パラダイス行きが宣言された犯罪人は息が絶えた瞬間に天国に行ったことは分かります。イエスさまを神であると告白したから天国、「AだからB」です。では、もう一人の開き直ったように見える犯罪人はどうなったのでしょうか・・「AにもかかわらずB」の恵みの原則からすればこの犯罪人も天国のはずです。

 改めて、この二人が口にしたことばを見てみますと、パラダイス行きを約束された人は、

「イエスさま。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」(42節)と言いました。これは単数であり、自分だけです。しかし、もう一人の開き直ったように見える犯罪人は、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」(39節)と言っています。「おれたちを」と複数です。しかも「自分と」とイエスさまをも含めています。

 どうしてパラダイス行きの人は「私たちを思い出してください」と言わなかったのだろう・・。極限状態でそんな余裕はなかったという単純な理由かもしれません。

 私たちは開き直ったように見える犯罪人はパラダイスに行かなかったに違いないみたいに決めつけているようなところがあるかもしれませんが、なぜ何も書いていないのにパラダイスに行っていないと決めつけるのか・・。 結末は何も書いていないのですから最低限、自分には分かりませんというスタンスをとるべきかもしれません。

 ヨハネの福音書6:39にイエスさまが言われたことばが記されています。「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。」

 イエスさまは、すべての人を天国に連れて行くと言われます。イエスさまを神であると口で告白できないまま命が尽きていこうとしている一人の犯罪人をイエスさまがそのままにしておくことはありえません。 口で言えたか・・それは根本的に重要なことではありません。なぜなら本人とイエスさまのことばにならないスピリチュアルな世界はそこに現に存在しているはずだからです。

 聖書全般を見ると、神さまはわたしたち一人ひとりに異なるものさしを持っておられるということが分かります。聖なる基準をお持ちの神さまでありながら、判定されるときには一人ひとりの摂理、それぞれが生きてきた環境、文化、状況などが最大限考慮される。これが神さまの公平です。紋切り型の基準で人を切るやり方ではなく、一人ひとりを大切にして最大限状況を考慮してくださるのです。私たちはそのような神さまの愛のまなざしの中に生かされているのです。


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