「律法主義者には戻りたくないから」
- 佐々木 優
- 2024年11月17日
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2024年11月17日(日)
テキスト:使徒の働き9:23~25(新約聖書251頁)
<9:23 かなりの日数がたち、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をしたが、>
サウロは、ダマスコ→アラビア→ダマスコと移動し、その後、エルサレムに行くが、「かなりの日数」とは、そのエルサレムに行く前に経過した期間のことを言っている。
<9:24 彼らの陰謀はサウロの知るところとなった。彼らはサウロを殺そうと、昼も夜も町の門を見張っていた。>
サウロを殺そうと計画したのは、Ⅱコリント11:32<ダマスコでアレタ王の代官が、私を捕らえようとしてダマスコの人たちの町を見張りましたが>のパウロの証言を合わせてみると、アレタ王の代官とダマスコのユダヤ人たちである。
「アレタ王」とは、ナバテヤ王国の王であり、サウロが先に訪問していたアラビアの地の王である。サウロはアラビアで宣教活動をした時に、この地のユダヤ人社会に騒動を引き起こしたのではないかと考えられる。ダマスコのユダヤ人たちは、サウロを捕らえようとしていた「アレタ王の代官」の側に立ってサウロを殺そうとしたのである。「アレタ王の代官」はサウロが人目をしのんで脱出しないように町の門に見張りを置いた。
<9:25 そこで、彼の弟子たちは夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁伝いにつり降ろした。>
古代の都市は城壁に囲まれていて、その城壁の上は、しばしば戦車が走り回れる程広かった。そして、これらの城壁の上に数軒の家が建っていて、その窓は城壁から突き出ていたとのこと。サウロは真夜中にこれらの家の一軒に連れて行かれ、そして、かごに入り、綱でつり降ろされたのである。
本日の聖書箇所から3つの点を覚えられればと思います。
1.他者への攻撃性
「アレタ王の代官」はサウロを捕らえて自国に戻り裁判にかけるつもりだったかもしれませんが、ダマスコのユダヤ人たちは殺意に燃えています。なぜでしょうか・・。
①裏切者としてサウロを憎んだということはあるでしょう。
②神は唯一であると信じていたユダヤ教の人たちにとってみれば、イエス・キリストは神であると宣べ伝えていることが受け入れられないということがあるでしょう。
③ユダヤ教こそが真の宗教であるとする思いが、異質のものへの嫌悪感を強めていった。
④律法を誤解していった3段階
段階A:愛と信頼に基づく神さまの自己開示だという受け止め
これが本来の姿であり、ここから人格対人格の温かい関係が始まって行く。
段階B:律法を守れば神さまは自分を受け入れてくれるという間違った思い込み
真面目さが作用すると皮肉なことにこの考えにはまって行く。
段階C:律法を守ればいいという開き直り
律法の文言だけが一人歩きをして、基準をクリアするために守っていればいいのだろう と、そして抜け穴を考え出したりする。
イエスさまは、本来律法は段階Aだったけれども段階BやCに行くと恵みを受けにくくなると伝えようとされた。
⑤自分の気持ちを表現しないまま抑圧している状態が続くと、抑圧していない人が赦せなくなる。・・パリサイ人・律法学者の宗教実践は、心理的には抑圧する方向に向き、その葛藤は、他者への攻撃性として表現されるということ。
2.福音とは何か
本日の聖書箇所から直接的に考えられることではないのですが、「他者への攻撃性」という観点から、その真逆である「福音とは何か」を覚えられればと思います。
「福音とは何か」といえば、何がなくともこれだけはなければならないものが二つあります。
①イエスさまが中心であること
②人の尊厳が大切にされていること
信仰的な言い方があっても、心燃えるような宗教体験があっても、聖なる生き方の提示があっても、人が大切にされないのは福音ではありません。
3.恵みに生きるところには助け手が備えられている
恵みに生きようとするところには律法主義者からの攻撃があると言われます。そのことを覚悟せざるを得ないと言われます。しかし、サウロには3年余りの中で「弟子たち」が与えられていたのです。サウロの語ることばに同意すれば迫害を受けると分かっていてもサウロに協力する人たちがイエスさまから与えられていたのです。
かつての迫害の急先鋒サウロは、今度は自分が迫害を受ける身となっても、かつての律法主義者に戻ることは考えられなかったのです。