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「信じている神さまはどのような方なのか」

  • 佐々木 優
  • 2024年7月20日
  • 読了時間: 6分

2024年7月21日(日)

テキスト:使徒の働き7:38~43(新約聖書246頁)


 本日もステパノの最高議会での弁論の箇所から扱います。

 ヘレニスト・ユダヤ教徒(外国育ちのギリシャ語を使うユダヤ教徒)たちがステパノを訴え出た理由は、エルサレム神殿とそれにまつわる儀式律法の廃棄を教えたということで、神とモーセを冒涜した罪だということだった。

 ステパノは、「エルサレム神殿とそれにまつわる儀式律法の廃棄を教えた」との訴えに対してモーセの例から訴えかける。

 

7:38 また、モーセは、シナイ山で彼に語った御使いや私たちの先祖たちとともに、荒野の集会にいて、私たちに与えるための生きたみことばを授かりました。

7:39 ところが私たちの先祖たちは、彼に従うことを好まず、かえって彼を退け、エジプトをなつかしく思って、

7:40 アロンに言いました。『われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き出した、あのモーセがどうなったのか、分からないから。』

7:41 彼らが子牛を造ったのはそのころで、彼らはこの偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で造った物を楽しんでいました。

 ステパノは訴えかける。あなたがたは私のことを「儀式律法の廃棄を教えた」と訴えているが、そもそもイスラエルの民の先祖たちがモーセと律法に従うことを拒否したという事実があるではないかと・・・。

 榊原康夫師はこの金の子牛に関してこのように註解している。「実際にはイスラエルがアロンに造ってもらった金の「子牛」は、決して「偶像」のつもりではありませんでした。アロンは子牛を造った時、「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ」と言い、「明日は主への祭りである」と布告したのでした(出エジプト32:5,8)。つまり、エジプトからシナイまでの道中、雲の柱・火の柱が主なる神の導きを示してきたように、これからの旅の導きを目に見える形で示してくれる主なる神の「しるし」にすぎません。バビロンやエジプトの神々が聖獣の台座に乗っているように、見えない主なる神がその上に立っておられる台座として子牛だけを造ったのです。」(『使徒の働き』榊原康夫著、いのちのことば社、222頁)

 この金の子牛事件は、イスラエルの民が出エジプト(モーセが神さまのことばを信じて杖を海の上に差し伸べると紅海が分かれ、民は追ってくるエジプト軍から逃れる(出エジプト14:15~31))という神さまの奇跡を経験し、そして、モーセが神さまの生きたみことばを取り次いだ後に起こった。よって、この偶像崇拝は赦されるようなものではないという論調もあるであろう。そして、42節~43節はモーせにそむいたイスラエルに対する神の刑罰が記されているというのが大方の註解である。

 しかし、そうなのだろうか・・。神さまのイメージを肯定的に、「父」、「創造者」、「牧者」のイメージでとらえているか、否定的に、「王」、「裁判官」、「救出者」のイメージで捉えているかでみことばの受け取り方は変わってくる。

 この金の子牛事件以前、出エジプト以前、イスラエルの民はエジプトの地に400年間滞在した。その後半は酷い奴隷状態であった。天地万物の創造者がいると伝え聞いてきた神が存在しているということの実感が消えている者が大半だったのではないか・・。しかし、その民が出エジプトを経験し、伝え聞いてきた神が確かに存在したのだと実感した者も一定数起こったであろう。しかし、神とはいったいどのような御方なのか、よく分からない民に神さまはモーセを通して十戒(戒めというよりは十のことばと訳した方がいい)を与え、神さまの自己開示をし、過酷な奴隷から解放された民に、これからはもう他人の物を盗らなくても大丈夫ですというような主旨の命令ではない主旨のことばをお与えになりました。しかし、長きにわたるエジプトでの生活を経て、そんなに簡単に共にいて下さる神さまに信頼をどっぷりと置けるかと言えば、そうではなかったのはやむを得なかったのではないか・・。

 河村従彦師は聖書の奇跡ということでこのように述べておられる。聖書の奇跡は、「イエスさまが神さまだということを証明しているのではない。古代には奇跡のようなことを行う人がたくさんいたと言われている」「イエスさまは奇跡に頼る信仰を否定し、ご自分から進んで奇跡を行なわれなかった。理由はいくつかあったようだが、奇跡を見ても人は信仰に至らない。万人に説得力のある客観的な奇跡は存在しない。これはどういうことかというと、ある一つの現象でも様々な受け取り方があって、ある人には奇跡、ある人には普通の出来事、ある人には悪霊のわざと受け取られる」

 イエスさまが、奇跡を見ても人が信仰に至るわけでもないと考えておられたとすると、出エジプトの紅海を分ける出来事を経験しても、生きておられる神さまへの信仰が起きなかったとしても不思議ではないし、十戒を受けてもピンとこない人がいてもおかしくないように思う。そのような人たちがいるという可能性があったとして、モーセが十戒を頂くために山へ登り40日間経っても戻ってこないことに不安を抱いて、これからの旅の導きを目に見える形で示してくれる主なる神の「しるし」を造ったイスラエルの民に神さまが刑罰を下すと語ったのではないと思います。

 河村従彦師は「従わない者は神さまの怒りにさらされるとなると聖書全体の神概念も崩壊することになる」「聖書が、神さまが怒られたと表現する時は、従わない者は神さまの怒りにさらされるという意味ではなく、懲罰的な意味でもなく、他の神々のところに戻って行って欲しくなかった時などに、その熱い思いが溢れて、それが人に向けられた時に、それを怒りということばで表現しているのではないか」と述べておられます。

 金の子牛を造った民に神さまは、「そこで、神は彼らに背を向け、彼らが天の万象に仕えるに任せられました。」(42節)とあります。すなわち、どこまでも人間の自由意志を尊重されるのが神さまなのです。決して刑罰の形として背信のイスラエルの民に無関心・冷淡な態度を取られたのではないはずです。色々な背景もあり、不安になってしまったイスラエルの民の気持ちに寄り添って下さるのが神さまです。

 43節「あなたがたは、モレクの幕屋と神ライパンの星を担いでいた。それらは、あなたがたが拝むために造った像ではないか。わたしはあなたがたを、バビロンのかなたへ捕らえ移す。」神さまは、背信の民に悲しみ憐みの表現をされたのだと思います。そして、神さまはバビロン捕囚の憂き目に合ったイスラエルの民と共におられたのです。

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