top of page

「人間と同じようになられたイエスさま」

  • 佐々木 優
  • 7月13日
  • 読了時間: 5分

2025年7月13日(日)

テキスト:使徒の働き10:37~38 (新約聖書255頁)


 38節「それは、ナザレのイエスのことです。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。」

 イスラエルでは、王様の任職時などに油注ぎの式が行われましたが、神さまはイエスさまに聖霊と力によって油を注がれました。何の任職をされたのでしょうか・・ここを見ますと、「巡り歩いて良いわざを行うために」「悪魔に虐げられている人たちをみな癒すために」そのための任職だったと言えるのではないでしょうか・・。

 イエスさまはこの任職がなければこのような働きができなかったのでしょうか・・。

ピリピ人への手紙2:6~8にはこのように記されています。

2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、

2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

 イエスさまがこの地上に来られた時、神であり神の御子であるイエスさまが完全に一人の人間となられ、100%神である方が100%人間となってこの地上に生まれて下さいました。

イエスさまがこの地上におられた時は100%人間でもあったから「巡り歩いて良いわざを行うために」「悪魔に虐げられている人たちをみな癒すために」そのために任職が必要だったのかもしれませんが、しかし、100%神でもあったイエスさまは、油注ぎ(任職)を受けずとも、「巡り歩いて良いわざを行い」「悪魔に虐げられている人たちをみな癒す」こともできたはずです。ではなぜ、神さまはわざわざ、油注ぎ(任職)をされたのでしょうか・・。

 それは、イエスさまが、ご自身と人間とが対等でフェアな関係であるということを分かってもらいたかったからではないでしょうか・・。

 イエスさまは人間となるということで、生まれて来る環境を選べず、また、親の不理解への葛藤も経験されました。

 イエスさまが12歳の時の出来事として、「しかし両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。」(ルカ2:50)とあります。イエスさまは神でもあるが故に理解されにくい面が両親のみならず、兄弟たち(マタイ13:55、56)にもあったのでしょう。

 聖書は、「自分の子どもたちを怒らせてはいけません。」(エペソ6:4)と語りますが、このことばは「あなたの父と母を敬え」(出エジプト20:12)ということばよりも何倍も重要だと言われます。なぜならば、親子はもともとフェアな関係ではないからだと・・。子どもは親を選べません。子どもの側からすれば、生むことをお願いして契約関係を結んで生まれて来たのではないからです。

 親が子どもに何かを要求するためには、まず親の側が親子の関係をフェアで対等な関係に戻す必要があるとも言われます。それなしに親が子どもに要求すれば、子どもの側には不当に要求されたというしこりが残ると言われます。

 親が子どもとフェアで対等な関係になるためには、親の側が子どもを無条件に受容する必要があると・・。それを10年20年とやって初めて、子どもは親と対等になれると・・それが聖書の愛であると・・。

 100%神であるイエスさまは100%人間となってこの地上に生まれて下さいました。それは、私たち人間と対等な関係であることを分かってもらいたかったからではないでしょうか・・・。故に、地上におられた時のイエスさまは神である方なのに、わざわざ油注ぎ(任職)を受けることによって「巡り歩いて良いわざを行い」「悪魔に虐げられている人たちをみな癒す」ことができたのではないでしょうか・・。

 私たちクリスチャンにおいては聖霊の賜物が神さまから与えられます。それは教会の益のために神さまが与えてくださるもので、教会で用いられるときに、自然にみなの納得になって行くものです。神さまから、何の代償もなく、授かっただけのもので、教会のためということであれば、一時的に与えられるものでもあります。ですから、神さまから私たちにも「巡り歩いて良いわざを行ってほしい」「悪魔に虐げられている人たちをみな癒してほしい」という神さまの側からのオファーがある時には限定的にそのような賜物が与えられると言っていいでしょう・・。それは、苦しんでいる人がいればその人を励まして、苦しんでいる人が元気になってほしい・・。悪魔にそそのかされて苦しんでいる人がいれば、神さまが助けて下さるということを伝えてほしい、そしてその苦しんでいる人に元気になってほしいという神さまの側のニーズがあるからです。ですから、私たちの側から「巡り歩いて良いわざを行えるように」「悪魔に虐げられている人たちをみな癒すことができるように」と神さまに求めなくてもよいのです。人間の側から求めた後に何かそのような良いわざをできたように思うと、結果としては人間が誇ったり、あるいは、できない人を見下げたり・・と、神さまにとっては望ましくない方向に向かうからだと思います。

 イエスさまは私たち人間と対等でフェアな関係であることを分かってもらいたくて、人間の姿をとりこの地上に来て下さいました。故に、私たちの弱さを理解して下さる方だと思え、寄り添って下さっているイエスさまにお任せしていれば大丈夫だと思えるのではないでしょうか・・。 

 


最新記事

すべて表示
「何度でもやり直しができる恵みの世界」

2025年8月10日(日) テキスト:ヨナ書1:1~17(旧約聖書1,577頁)    ヨナ書の一番大きなテーマは、「どんな人をも滅びることを望まれない神さま」であると言えます。その趣旨に沿ってヨナ書を見ていきたいと思います。  ...

 
 
「最大限の考慮をして下さるイエスさま」

2025年8月3日(日) テキスト:使徒の働き10:40~42 (新約聖書255頁)  本日も、ペテロが、コルネリウスに、私たち(コルネリウスとペテロ)に幻の中で語りかけて下さった御方、イエスさまとはこのような御方ですと伝えている箇所の続きを見て行きます。...

 
 
「最大限の考慮をして下さる愛なる神さま」

2025年7月27日(日) テキスト:ルカの福音書23:32~43 (新約聖書170頁)     ふたりの犯罪人が、イエスさまとともに十字架にかけられました。  39節には「十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、『おまえはキリストではないか。自分とおれたち...

 
 
bottom of page