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「サウロのようになる必要はない」

  • 佐々木 優
  • 2024年11月10日
  • 読了時間: 5分

2024年11月10日(日)

テキスト:使徒の働き9:17~22(新約聖書251頁)


 9:17 そこでアナニアは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中であなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」

 9:18 するとただちに、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。そこで、彼は立ち上がってバプテスマを受け、

 9:19 食事をして元気になった。

 前回は、私たちの方から神さまのみこころを求めずとも、どうしても必要な時には神さまの方から教えて下さるということ、また、私たちが神さまからのオファーを拒否することもOKであること(アナニアも最初は拒否をした)、仮に拒否をしても神さまはまたのオファーの機会を備えて下さるだけだからであること、神さまからの仕事の依頼には、神さまが事前に準備をしておられ(アナニア、サウロ双方に幻の中で示しておられた)、神さまがなさろうとしておられることが進んでいくのであることを覚えました。

 本日の聖書箇所には、クリスチャンへの迫害の急先鋒サウロがイエスさまと出会ったことにより180度生き方が変わり、力強く「この方こそ神の子です」とイエスさまのことを宣べ伝えるサウロの姿が描かれています。アナニアはサウロに言いました。「あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです

 力強く宣教をするサウロの姿は聖霊に満たされた結果と言えるでしょう。

 聖書には神さまが与えて下さるものとして聖霊の実と聖霊の賜物があることが記されています。

 聖霊の実はガラテヤ5:22~23に記されています。

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

5:23 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。

 神さまとの関わりで「愛、喜び、平安」。人との関わりで「寛容、親切、善意」。自分との関わりで「誠実、柔和、自制」

 他方、聖霊は教会に賜物を与えると書かれています。これは聖霊の実とは別物です。聖霊の賜物とは「イエスさまがご自身の教会に、その務めを適正に遂行できるように与えられた手段、力のこと」と定義できます。「賜物」と訳されているもともとのことばは「カリスマ」で、「無償の賜物、恵みの賜物、授かり物」という意味があります。イエスさまから、何の代償もなく、授かっただけのもので、教会のためということであれば、一時的です。聖霊の賜物は、すべての人が例外なく与えられていると理解してよいと思います。

 第 1 ペテロ4:10

4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。

何のために与えられるのかと言えば、教会と一人ひとりの益のためだということです(第 1 コリント12:7、14:12、エペソ4:12)

 また、聖霊の賜物とは別物で、生まれつき神さまが備えて下さったもので生来の賜物があります。それは創造の祝福として与えられているその人の個性であり、生まれつきの才能も含まれるその人の本質に近いものです。

 聖霊の賜物は、教会の益のために神さまが与えてくださるもので、教会で用いられるとき

に、自然にみなの納得になって行くものであり、他方、生来の賜物は、自分のために用いて花開かせることが目的であり、それが神さまの創造の恵みに応えることになるのです。

 本日の聖書箇所に戻りますが、

9:19 食事をして元気になった。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいて、

9:20 ただちに諸会堂で、「この方こそ神の子です」とイエスのことを宣べ伝え始めた。

9:21 これを聞いた人々はみな驚いて言った。「この人はエルサレムで、この名を呼ぶ人たちを滅ぼした者ではないか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではなかったか。」

9:22 しかし、サウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。

 この21節と22節の間に、アラビアでの滞在の期間が入ります。それは、ガラテヤ1:17に記されています。

1:17 私より先に使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻りました。

 サウロは、ダマスコ→アラビア→ダマスコと移動し、その間、3年弱の時間が経過しました。アラビアとは今のサウジアラビアではなく、ダマスコから今のヨルダンを通過して死海の南部に至る地域であるとのこと、荒野もあるが、ナバテヤ人の町々が点在する地域だということです。サウロは黙想のためではなく、この地域の町々でイエスさまがメシヤであることを伝えた可能性が高いだろうということです。サウロは回心の直後から宣教を開始したということです。サウロは神学的に黙想する必要がないほど、イエスさまをメシヤと認められれば聖書のすべてに精通していたといえる人物だったからです。

 サウロが回心直後からこれほどの宣教熱があったのは、聖霊に満たされたからです。それは教会の益のために神さまが与えてくださったもので、教会で用いられるときに、自然にみなの納得になって行くものだったのです。それはイエスさまがご自身の教会のために、その務めを適正に遂行できるように与えられた手段、力であり、一時的に授けたものだったのです。それと共にサウロの生来の賜物(ポジティブ思考であり、行動派であり、じっとしていられるタイプではなかった)も相まって、回心直後から宣教宣教と動き回ったのだと思われます。

 すなわち、私たちはサウロのようになろうとする必要はないのです。私たちに宣教をする必要があれば、その時、イエスさまが聖霊で満たして下さるからです。ですので、私たちは神さまから与えられている生来の賜物を生かして自分の人生に花を咲かせることに生きて行けば良いのです。それが神さまの創造の恵みに応えることになるからです。


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