「イエス・キリストがあなたを」
- 佐々木 優
- 56 分前
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2025年6月8(日)
テキスト:使徒の働き9:32~43 (新約聖書252頁)
本日は教会歴のペンテコステ、聖霊の神さまが降臨したことを記念し、感謝する日です。目には見えない聖霊の神さまが、イエスさまを信じる一人一人の内側に宿ったということが現実に起こったのだと分かるようにして下さった日を感謝し、記念する日です。なぜ感謝なのでしょうか・・。それは、イエスさまがこの地上に生きておられた時代よりも、もっと近くに感じる存在として私たちと一緒に生きて下さっている時代になったからです。
ペンテコステの時、聖霊の神さまが降臨されましたが、聖書には神さまが与えて下さるものとして聖霊の実と聖霊の賜物があることが記されています。
聖霊の実はガラテヤ5:22~23に記されています。
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。
神さまとの関わりで「愛、喜び、平安」。人との関わりで「寛容、親切、善意」。自分との関わりで「誠実、柔和、自制」
他方、聖霊は教会に賜物を与えると書かれています。これは聖霊の実とは別物です。聖霊の賜物とは「イエスさまがご自身の教会に、その務めを適正に遂行できるように与えられた手段、力のこと」と定義できます。「賜物」と訳されているもともとのことばは「カリスマ」で、「無償の賜物、恵みの賜物、授かり物」という意味があります。イエスさまから、何の代償もなく、授かっただけのもので、教会のためということであれば、一時的です。聖霊の賜物は、すべての人が例外なく与えられていると理解してよいと思います。
第 1 ペテロ4:10
4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。
何のために与えられるのかと言えば、教会と一人ひとりの益のためだということです(第 1 コリント12:7、14:12、エペソ4:12)。
また、聖霊の賜物とは別物で、生まれつき神さまが備えて下さったもので生来の賜物があります。それは創造の祝福として与えられているその人の個性であり、生まれつきの才能も含まれるその人の本質に近いものです。
聖霊の賜物は、教会の益のために神さまが与えてくださるもので、教会で用いられるときに、自然にみなの納得になって行くものであり、他方、生来の賜物は、自分のために用いて花開かせることが目的であり、それが神さまの創造の恵みに応えることになるのです。
聖書は神さまが私たち人間のために何をして下さったか、何をして下さる御方なのかが記されている書です。
本日の箇所で言えば、イエスさまがアイネア(からだが麻痺した状態で八年間床についている人)の病を癒し、病気で亡くなったタビタを生き返らせて下さったということです。それはペテロを通してその御業がなされたのですが、ペテロが「アイネア、イエス・キリストがあなたを癒やしてくださいます。」と言うように、イエスさまがして下さるということを聖書は示しています(この出来事はかつてイエスさまがなさったこととそっくりです。マタイ9:5~6屋根から降ろされた中風人の癒し。ヨハネ5:8ベテスダの池で38年間病気にかかっていた人の癒し。)。この出来事はペテロに一時的に与えられた聖霊の賜物(教会の益のために神さまが与えてくださるもの)により、イエスさまがなさったことと言えるでしょう。
ペテロがリダ(エルサレムから北西40キロのところにある町)に住む聖徒たちのところに下って行ったのも聖霊の賜物によるものと言えるでしょう・・。ペテロの生来の賜物(生まれつき神さまが備えて下さったもの)からすると、エルサレムに留まっていて使徒たちのリーダーをやっていたかったのではないかと思います。
復活されてまもなく、イエスさまはペテロに言われました。「まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」(ヨハネ21:18)自分が望まないところに連れて行かれる可能性がある。そして将来的には殉教の可能性を否定できないというイエスさまのおことばだったと思います。そのおことば通り、ペテロは中心的なところエルサレムから下って行くようになったのです。それは神さまの本意ではなかったのかもしれません。ペテロの生来(創造の祝福として与えられているその人の個性であり、生まれつきの才能も含まれるその人の本質に近いもの)のものを思うとエルサレムにいたかったのではないかと思うからです。そのように思うと、やはり今回の出来事にも背景にはイエスさまの側にニーズがあったのではないかと思うのです。それは、アイネアを癒してあげたい・・タビタを生き返らせてタビタによって支えられていた貧しいやもめ仲間の悲しみ・寂しさ、これから先の生活の不安を取り除いてあげたい・・このようなニーズがあったのではないか・・。
そしてペテロには、ペテロのしたかったこととはズレてしまうかもしれないけれど、緊張を強いられるエルサレムから離れて、背伸びせずに、ペテロに素のままで生きて欲しい・・そんなイエスさまの側のニーズがあったのではないか・・。
使徒の働きは、イエスさまのニーズのために、聖霊がして下さるということを記している書物だからです。