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「すべての人を天国に連れて行くと言われるイエスさま」

  • 佐々木 優
  • 7月20日
  • 読了時間: 4分

2025年7月20日(日)

テキスト:使徒の働き10:39~40 (新約聖書255頁)


 本日も、ペテロが、コルネリウスに、私たち(コルネリウスとペテロ)に幻の中で語りかけて下さった御方、イエスさまとはこのような御方ですと伝えている箇所の続きを見て行きます。

(39節:私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムで行われた、すべてのことの証人です。人々はこのイエスを木にかけて殺しましたが、40節:神はこの方を三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。)

 イエスさまの弟子たちは、イエスさまの地上でのご生涯の三年半を肉眼で見て、イエスさまが十字架にかけられて死んだこと、そして三日目によみがえったことの証人となるためにも神さまからその大役のオファーを受けた人たちでした。それぞれの人生で想像もしていなかったことでしょうが、イエスさまから声をかけられて、律法の先生であると思っていたイエスさまの弟子になれるのだと・・名誉な転職だと思い進んでいった人たちでした。弟子たちからイエスさまの門下生にしてほしいと名乗り出たのではありません。イエスさまの方から声をかけられたのです。そのイエスさまの方からという方向性は私たちにおいても常に同じです。私たちがイエスさまと出会うのも、私たちの信仰生活も・・私たちが求めるという人間側からではないということです。

 イエスさまの弟子たちは、漁師であったり、取税人(ユダヤ人からは嫌われた職業、売国奴と見られた)であったり、熱心党員(ダビデ王朝復興を願う右翼)であったりと、どう考えても寝食を共にしていくのは不可能であるような集団でした。なぜ、このような人たちにイエスさまは声をかけて弟子集団をつくったのでしょうか・・。

 以前に使徒10:34~を学んだ時に、その中で、エペソ人への手紙2:14~17、エペソ人の手紙の3:5~7を見ました。使徒パウロはユダヤ人と異邦人を一つにするためにイエスさまが十字架にかかられたという良き知らせを伝える者にして頂いたと述べていて、『使徒の働き』の中心のテーマもこのことだと言えるであろうこと・・そして、福音という意味の中心もこのことだと言えるのではないか・・。「どんな人のことも、きよくない者であるとか汚れた者であるとか言ってはならない」(使徒10:28)ということをお話ししました。

 イエスさまが声をかけてつくられた弟子集団もユダヤ人と異邦人を一つにするという福音の先駆けだったのだと思います。弟子たちは後にイエスさまの十字架・復活の意味を考えさせられ、自分たちが三年半余り寝食を共にした大きな意味が分かったのかもしれません。

 「人々はこのイエスを木にかけて殺しました」(39節)律法学者・パリサイ人たちを中心にしたユダヤ人はイエスさまを十字架につけて殺しました。ユダヤ人にとって「木にかけられる者」というのは、のろわれた者であることを表すことでした。ガラテヤ人への手紙3:13にはこう記されています。

3:13 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。

 律法はユダヤ人に与えられたものでした。出エジプトの時に、430年の長い年月で忘れかけていた創造主なる神さまをもう一度思い出してもらうための神さまの自己開示でしたが、ユダヤ人はそれを神さまに受け入れてもらうための条件と受け取っていきました。そして、律法を守れば祝され、守れなければ、のろいのもとに置かれるとして、動物の犠牲によって神さまに赦しを請うて生きていたのです。そんなユダヤ人の間違った律法理解、律法の束縛から解放するためにイエスさまは十字架にかかられ、よみがえられたのです。

 律法はユダヤ人に与えられたものです。そして、意味を取り違え、ユダヤ人を苦しめ続けることにもなったものです。しかし、その後、その律法は私たちクリスチャンにおいてはなんとなく聖書に取って代わり、聖書のみことばを守れば祝され、守れなければ神さまは喜ばないという取違えをして今日に至っているように思えます。

 私たちはユダヤ人ではありません。ですので、そもそもモーセの律法の下にはいない者なのです。私たちにとってのイエスさまの十字架、復活は、ユダヤ人と異邦人の隔ての壁である敵意を打ち壊すため(エペソ2:14)であるという意味合いが大きいと思います。それはクリスチャンであるとか、そうでないとか・・そんな変な特権意識を打ち壊すためのもの・・。

ヨハネの福音書6:39にイエスさまの言われたことばが記されています。「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。」

「わたしに与えてくださったすべての者」はまさしく全人類のはずです。「神はえこひいきをする方ではない」(使徒10:34)からです。


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