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「霊の目を開き燃やし続けて下さる御方」

  • 佐々木 優
  • 2022年4月30日
  • 読了時間: 4分

2022年5月1日(日)

テキスト:ルカの福音書24:13~35(172頁)


13節「ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。」この二人の弟子はクレオパ(18節)と、そしてもう一人は、ここに誰であるかは記されていないが、彼の奥さんであろうと言われている。

14節「そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。」

「話し合う」ということば「ホミレオー」は、単なるうわさ話しではなく、答えを見出そうとする語り合いを意味している。イエス様の弟子集団の中で歩んでいたこの夫婦も、あまりにも突然のイエス様の逮捕、十字架刑による死によって、混乱状態にあり、何が何だか頭の整理がつかないまま失意の中にあったのであろう。イエス様の遺体が墓の中になかったこと、そして、そこに二人の御使いが現れ、イエス様ご自身が語っておられたように、イエス様はよみがえられたのだと語ったということを、マグダラのマリヤ等の女性たちが、繰り返し繰り返し語っても、このクレオパ夫妻もまた、女性たちの証言を信じられなかったのである。

15節「話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。」16節「しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。」とある。「さえぎられていて」は、動詞の未完了受動態という使われ方がされていて、「さえぎられ続けていた」ということを表す他に、「支配され続けていた」、「捕えられ続けていた」、「固執され続けていた」ということを表す。二人の目は「さえぎられ続けていた」故に、イエス様が近づいて共に歩いていても、イエス様だとは分からなかったのである。この「目」は明らかに肉眼の目のことではない。聖書の中に、霊の目ということばはないが、心の目ということばは一か所だけある。ここで使われている目は肉眼の目ではないので、心の目ということで理解したいところではあるが、神様に関する事柄が分からなくなっている、見えなくなっているという状況から考えると、霊の目という理解をした方がよいと思われる。

イエス様は復活の姿を二人に現し、エマオという村に着くまでの道中の間ずっと、二人の霊の目が開かれるようにと働きかけ続けた。しかし、簡単には霊の目は開かれなかった。二人の霊の目は、「捕えられ続けていた」、「固執され続けていた」のである。死んだ人間がよみがえるなどということはありえないという考え方に捕らえられ、固執し続けられ、その考えから抜け出ることができなかったのではないか。あるいは、イエス様がユダヤのリーダーとなるということに期待をかけ従ってきたが、自分の進もうとしていた目標を失い、この後、何をして生きていけばよいのか・・。そんな思いに「捕えられ続けていた」のかもしれない。クレオパ夫妻は復活のイエス様のお姿を見てもイエス様が復活したことが分からなかった。そんな二人にイエス様は、最後の晩餐を思い起こさせるような出来事を視覚を通して見せることによって、31節「彼らの目が開かれ、イエスだと分かった」のである。「開かれ」は受動態という形の動詞であり、まさしく、二人の霊の目を、神様が開いて下さったのである。

32節「二人は話し合った。『道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。』」クレオパ夫妻が失意の中にあり、生きる希望を見出せなかったであろうと思われるその時にも、夫妻の心は内で燃えていたというのである。「心は内で」とあるが、それは、神様との繋がりの部分、霊の部分を指しているのであろう。「燃えていた」の動詞は受動態であり、「燃やされ続けていた」ということである。イエス様が共にいて、夫妻の霊に働きかけ続けていたということであろう。故に、夫妻の霊の部分は燃やされ続けていたのである。

クレオパ夫妻の霊の目が開かれ、イエス様だと分かると、イエス様の姿は見えなくなった(31節)。本来が「神は霊」(ヨハネ4:24)であるから、霊の目が開かれた夫妻に肉眼で見える形で復活の姿を現す必要性がなくなったのであろう。それは、霊の目が開かれた故に、肉眼で見えるところに頼る必要性がなくなったということを示しているのではないか・・。目に見える世界に捕らえられ、自分の考えに固執され続けやすい私たち人間であるが、私たちの霊に働きかけ、燃やし続けようとして下さっているイエス様に目を向け、開かれた霊の目で歩む者であ

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