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「誹謗中傷を引き受けられたイエスさま」

  • 佐々木 優
  • 2024年12月11日
  • 読了時間: 4分

2024年12月15日(日)

テキスト:マタイの福音書27:26~50(新約聖書61頁)


 神であり神の御子であるイエスさまは完全に一人の人間となられ、この地上に生まれて下さいました。クリスマスは100%神である方が100%人間となってこの地上に来て下さったことを祝う時です。

 イエスさまが人間となるということで引き受けなければならなかったことを見てきました。①父親が不明な子どもとして誕生

 マタイの福音書1:20「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。」

 ヨセフは形式的な父親であり、イエスさまはヨセフとは血のつながりのない子どもとして生まれた。

「聖霊によって身ごもった」と聞けば、周囲の人々は疑ったであろう。父親が不明、これだけでヘブルの社会では人間扱いされなかったということを考えると大変な出生事情であった。いじめを受けるということもあったかもしれない・・。

②母子家庭

 ヨセフは早死にしたと考えられている。ヨセフは大工を仕事としていたが、当時の大工とは石切り工であり、毎日、石や木を切り出す仕事であった。石の粉塵やかんなくずを浴びながら、若いうちに肺がダメになってしまうので、それで早死にする人が多かった。ヨセフもその一人だったのではないか・・。イエスさまの家庭には兄弟が5人以上はいた(マルコ6:3参照)。父ヨセフが早死にしたとすれば、その後は更に経済的に苦しかったのではないか・・。

 イエスさまは、明日食べる物のない人々のことを理解された(マタイ5:3)。

③親の不理解への葛藤

 イエスさまが12歳の時の出来事として、「しかし両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。」(ルカ2:50)とある。イエスさまは神でもあるが故に理解されにくい面が両親のみならず、兄弟たち(マタイ13:55、56)にもあったであろう。

④生まれて来る環境を選べなかった

 神であるイエスさまは人間としてこの地上に来て下さった故に、私たち人間と同様に生まれて来る環境を選ぶことができなかったのである。親(ヨセフ、マリア)を選びことはできなかったのである。これが人間として生まれて来るということであった。

 本日の聖書箇所ですが、

 マタイ27:46「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 ここには、イエスさまの十字架上での苦しみが描かれています。イエスさまはよく旧約聖書の詩篇のことばを口にされました。イエスさまは詩篇のことばが好きだったようです。この「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」ということばは詩篇22篇1節のことばを口ずさんだのだろうと言われています。この詩篇を記したダビデはイエスさまの約1,000年前に生きたイスラエルの王でした。詩篇22篇1~31節には、ダビデが味わった絶望感が記さています。ダビデがバカにされ、イスラエルの民に拒絶されていることの苦しみを神さまに訴えていることばが綴られています。その6~8節には

「しかし私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的民の蔑みの的です。私を見る者はみな私を嘲ります。口をとがらせ頭を振ります。主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」と記されています。それは、肉体的な痛みよりも、「虫けら」と表現しているように、人間の尊厳を奪われ、軽蔑の的となり、皮肉と罵声を浴びせられることの痛みとして描かれています。この苦しみをイエスさまは十字架上で経験されたのです。イエスさまは見捨てられた人の代表者となって下さったのです。

 イエスさまの十字架の苦しみは、100%神であったイエスさまとしては、人間の罪を背負った故の神さまからの断絶だったと言えるでしょう。

 そして、100%人間としての苦しみは、ユダヤの同胞からの誹謗中傷、人間の尊厳を奪われ、軽蔑の的となり、皮肉と罵声を浴びせられるという計り知れない心の痛みだったと言えるのではないでしょうか・・。

 この苦しみを引き受けるためにイエスさまは人間の姿をとって地上に来て下さったのです。イエスさまはその苦しみの絶頂で、同じ経験を綴ったダビデの・・イエスさまが大好きだった詩篇を歌われたのです。


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