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「自力で天国に入ろうとしなくてもいい」

  • 佐々木 優
  • 3 日前
  • 読了時間: 3分

2025年9月21日(日)

テキスト:マタイの福音書7:13~23節(新約聖書12頁)


 山上の説教には基調になっている二つの対比があります。

 対比1

  カテゴリーA 律法学者・パリサイ人の義

  カテゴリーB 律法学者・パリサイ人の義にまさる義

 対比2 

  カテゴリーA 人に見せる世界、人間の領域に属する見える世界

  カテゴリーB 天におられる神さまの世界、イエスさまが見ておられる見えない世界


 13節「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。」

  「狭い門」の意味を考えますが、このみことばの後に2つのことが書かれています。7章15~20節と7章21~23節です。非常に強いことばで偽預言者のことが言われていますが、内容は2つです。

 ①内側と外側が違う(15節)②内側のことは分からないので、外側に見えるもので判断する以外にない(20節)

 二番目のポイントは、内側のことは見えないから、ある意味どうしようもないということですが、大切なのは内側の見えない世界Bだということです。

 カテゴリーAのような人たちの人生がダメだということではなく、どんなに律儀に律法を守っても、仮に、律法をすべて守り通したとしても(不可能ですが)、一つのことがなければ天国の扉は開かないということなのです。それが、カテゴリーBの律法学者・パリサイ人の義にまさる義なのです。

 神さまは見えないところを見ておられます。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7)ですので、どんなにうわべを繕ってよく見せても実際はお手上げなのです。そうすると、残る可能性はただ一つ、神さまの見えない世界を意識して、その源である神さまにやっていただく以外にはないのです。

 神の国に入るのは人間の何かではなく、神さまがして下さることであり、人間が何かをやったからではなく、やっていただけるという意識だけが問題なのです。

 神さまにやっていただこうと思わずに、何かをやってこそ天国に入れると思っていると、それでは天国の扉が開かないので、天国の門は狭く感じるということであり、イエスさまの言われる「狭い門」になるのです。

 律法学者・パリサイ人の義にまさる義とは、イエスさまのことを指しているのです。自力で神の国に入ろうとするのではなく、自分の存在も人生もまるごとイエスさまにお任せするということなのです。

 神さまは私たちが一生懸命生きて来たことを喜ばれます。それが的外れでも喜んで下さいます(ヘブル6:10)。しかし、やっていることが決定的な意味を持つのではないのです。

 人間の問題(罪の問題、罪の赦しの問題も含め)の解決は神さまの側ではすべて終わっているのです。それはイエスさまの十字架です。イエスさまがいのちまでかけた十字架で終わっているのです。

 「狭い門から入りなさい」自分で狭くしている門ではなく、イエスさまがすべての問題を解決してくれたから開かれる門から入り、ゆったりと、ただイエスさまにやっていただこうとイエスさまにお任せしながら生きていきたいと思います。


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