「自分を赦すことからはじまる平和」
- 佐々木 優
- 2024年12月29日
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2024年12月29日(日)
テキスト:ルカの福音書2:8~20(新約聖書110頁)
神さまは、為政者からは無益な者、そして、人の尊厳を尊ばない宗教指導者からは蔑まれていた羊飼いに、真っ先に「大きな喜び」を知らせました。
そして、天の聖歌隊が現れて神さまを賛美したとあります。
2:13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
2:14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」
「いと高き所」とは最も高い最高のという意味で、神さま、または、神さまの住まわれる場所のことを意味しますが、それは物理的な意味ではなく、スピリチュアルな意味で神さま、あるいは神さまのおられるところというくらいの意味です。
イエスさまが来られた新約の恵みの時代は、地上こそイエスさまが一緒におられる場であると受けとめていいのだということを示しているのです。「地の上で、平和が」イエスさまがおられるからそこに平和の可能性があるということを・・。
「平和」(ヘブル語:シャローム。ギリシャ語:エイレーネー)は平穏無事という意味ではなく、平和、和解、無事、安全、繁栄、健康、成熟、満足、生きる意欲、知恵、霊的悟り、勝利・・というような積極的な意味も含む幅と奥行きのあることばです。それで、それらの意味を汲み取って2:14のことばを私訳すると、このようなニュアンスになるそうです。
「神さまをすばらしい方としてとらえなおし、神さまが喜んでいてくださる私の人生に生きて働くシャロームに希望を抱く」
聖書は、本当の平和は赦しが土台にあるということを示しています。もちろん他人との関係で赦しがあればそこに平和があるだろうと思います。しかし、まず赦しの根幹は、自分を赦すということだと示しています。そして、それが一番難しいのだと・・。
なぜ自分を赦すことが難しいのか・・2つくらいの理由があるのではないかと言われています。
①「見捨てられ不安」です。神さまに受け入れてもらうためには自分が立派でなければいけないという思い込み、間違った思い込みがあり、自分が間違ったことをしたときに立派でない自分を認めたくないと・・心のどこかで自分を否定してしまう。もし認めたら神さまに受け入れられないかもしれないという見捨てら不安です。それで自分を赦さないとしてしまうということです。
②「赦さない快」です。心快い、心地快いという意味です。自分を赦すことが難しいのは自分に失望したときには自分を罰したくなるからです。そして自分を罰しているのが1番心地よいからです。そして自分を赦さないことが快になるのだということです。
赦しの深い部分は自分を赦すことにあり、神さまが私たちを赦して下さったことを信じることは、今、自分を赦すことなのだと・・。神さまの赦しを信じるとは自分を赦すことなのだと・・。
もう自分をいじめる必要はない・・自分に厳しく接するのをやめても良いと・・
イエスさまが赦しておられるのだから・・。
そこに「地の上で、平和」の希望があると・・。