top of page

「自分で立派にならなければという発想からの転換」

  • 佐々木 優
  • 2月2日
  • 読了時間: 2分

2025年2月2日(日)

テキスト:マタイの福音書5:21節~24節、48節(新約聖書7頁)


 イエスさまは、いくつかの律法を取り上げて、その本来の主旨を教えられました。

5:21 昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。

 律法の主旨は、殺さなければいいという話しではなく、もっとその奥にある、人を踏みにじらないあり方が重要なのだと・・。

5:23 ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、

5:24 ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。

 ここで言われていることは、人が自分を恨む理由は、人に対して「ばか者」と言ったからです。殺したか以前に、そもそも人に対して「ばか者」という発想そのものがよくないのだと・・。

 律法学者・パリサイ人の発想では、殺していないから大丈夫だとなりますが、こういった発想では神の国に入れないというのが律法本来の主旨なのです。

 イエスさまは律法の主旨はこういうことですと言われました。しかし、そのように言われても、人間が自分ですら見ることができない心の中に目線を向けておられる神さまを意識したならば、字義通りできるわけがないのです。

 イエスさまは律法を廃棄するために来られたのではありません。恵みの時代であっても律法はレベルを下げてはいないということです。しかし、5章48節を見ますと、「天の父が完全であるように、完全でありなさい。」と書かれています。神さまの完全ですから、人間が絶対に到達できないレベルなのです。ですから、そもそも無理な要求なのです。自分でやろうと思ったら絶対に無理なので、発想の転換が必要なのです。自分のガンバリをやめて、イエスさまにやってもらうしかないという発想に転換するということです。自分で立派にならなければという発想から転換するということです。

最新記事

すべて表示
「何度でもやり直しができる恵みの世界」

2025年8月10日(日) テキスト:ヨナ書1:1~17(旧約聖書1,577頁)    ヨナ書の一番大きなテーマは、「どんな人をも滅びることを望まれない神さま」であると言えます。その趣旨に沿ってヨナ書を見ていきたいと思います。  ...

 
 
「最大限の考慮をして下さるイエスさま」

2025年8月3日(日) テキスト:使徒の働き10:40~42 (新約聖書255頁)  本日も、ペテロが、コルネリウスに、私たち(コルネリウスとペテロ)に幻の中で語りかけて下さった御方、イエスさまとはこのような御方ですと伝えている箇所の続きを見て行きます。...

 
 
「最大限の考慮をして下さる愛なる神さま」

2025年7月27日(日) テキスト:ルカの福音書23:32~43 (新約聖書170頁)     ふたりの犯罪人が、イエスさまとともに十字架にかけられました。  39節には「十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、『おまえはキリストではないか。自分とおれたち...

 
 
bottom of page