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「素のままの詩篇が好きだったイエスさま」

  • 佐々木 優
  • 1月4日
  • 読了時間: 3分

2026年1月4日(日)

テキスト:詩篇22:1~18(旧約聖書952頁)

 

 神であり神の御子である方が完全に一人の人間となられたのが、地上におられた時のイエス・キリストでした。

ヘブル人への手紙の著者は、イエスさまの生き方を「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル5:7)と描いています。

私たちは「神の御子」である方ならば、当然、どのような状況下でも、自分の心を平静に保つことができると思いがちですが、イエスさまは「大きな叫び声と涙をもって」ご自分の気持ちを父なる神さまに訴えておられたと描かれているのです。そこで述べられる「敬虔」ということばには「恐れ、不安」という意味もあり、すべての解決を父なる神さまに期待するという思いがあります。それは多くの人が抱く心の「平安」のイメージとは異なり、神さまがともにいてくださらなければ自分では何もできないという思いであり(人となられたイエスさまの姿)、徹底的に神さまに依存するという意味での「敬虔」であり、自分で自分の心を治めるという西洋のストア主義の理想と正反対の状態だったことを示しているのだと思います。

聖書のほとんどの箇所は、神さまが人間に何を伝えようとしているのか、神さまから人間という方向性を持っています。しかし、旧約聖書の詩篇は人間から神さまにという逆の方向性になっています。

人となられたイエスさまはよくダビデの詩篇を用いてご自分の心の状態を表現されました。ダビデの気持ちと一体化するかのようにダビデの詩篇のことばを味わい、ご自分の人としての苦悩を、詩篇を用いて父なる神さまに訴え、同時にご自分の前に迫ってくる不条理の意味を、詩篇のことばを通して神さまのみこころと受け止めて行きました。

詩篇22篇にはイエスさまが十字架において味わった心の痛みが驚くほど生々しく預言的に描かれています。

「わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。」(1節)このことばはイエスさまが十字架上で叫ばれたことばと同じです(マタイ27:46、マルコ15:34)

私たち人間は生まれてきた時から相対的に罪人です(ざいにんではありません)。それは神さまから霊的に離れて距離のある者として生まれてくるということです。人となられたイエスさまはこのこと以外はすべて私たちと全く同じ人間となって下さいました。私たちが経験する貧しさや不条理感や、肉体の疲れ、裏切りによる心の痛み・・。そして人としての最後、十字架上では、すべての人間と同じように相対的に罪人、神さまから霊的に距離のある者ということを経験されたのです。故に、「わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。」と、神さまからの愛のメッセージが分からなくなったのだと思います。

イエスさまは人間から神さまにという逆の方向性の詩篇を愛されました。それは神さまのみこころが分からずとも、不条理を訴えたり、涙したり・・そのような詩篇を愛されたのです。

神さまのみこころが分からなくてもいい、不条理感を抱いたままでいい、怒りを神さまにぶつけて

い、神さまは素のままの私たちをそのまま受けとめて下さるからです。そして、素のままでも結果的には神さまの義の道(神さまの願っているところとそんなには変わりなく)に導いて下さるのです。

 

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