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「私の人生をコントロールして下さっている」

  • 佐々木 優
  • 2023年12月31日
  • 読了時間: 4分

2023年12月31日(日)

テキスト:詩篇23篇1~6 (旧約聖書954頁)

 

 1節「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」

 この詩篇23篇を記したのは老年になってからのダビデです。

 ダビデは羊飼いの息子であり、彼自身が羊飼いでした。そして、イスラエルの王に君臨し、ユダヤの英雄とうたわれる人物です。

 ダビデは、自分が羊飼いという仕事をしていましたから、羊飼いというものが、どのようなものでなければならないのかを、よく理解していました。

 羊飼いの仕事を簡単に説明すると、羊に草を食べさせるために、お世話をし、狼におそわれないように見張りをし、羊の毛を刈ったりし、そして、夕暮れになるまえに小屋に入れる仕事ということになるそうです。

 羊は極度の近視で、わけもわからず進んで崖から落ちたり、道を踏み外して転んだり、良い飲み水さえ区別することもできない。まさに、羊は、羊飼いがいなければ、どんなに環境の良いところでも、緑の牧場に伏すことも、憩いの水のほとりに行くことも、正しい道に戻ることもできない動物だそうです。

 ダビデは自分をそのような羊にたとえ、神様との関係を羊と羊飼いの関係になぞらえました。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」それは、ただ物質的なことや物理的なことだけをとって、乏しいことはないと言っているのではありません。ダビデは、ダビデの先の王、サウル王から命をねらわれ逃亡生活をしました。また、自分の子であるアブサロムの軍隊に何度も何度も追われ、苦しみました。ひどい欠乏感や、心の苦しみを何度も何度も経験したダビデでした。

 若かりし頃は、自分の羊を救い出すためにライオンと一人で戦うほどの良い羊飼いであったと自負していたダビデですが(Ⅰサムエル17:34、35)、老年に至った時、自分の家庭も治めることができない者であることを深く自覚し、自分を弱く愚かな臆病な羊にたとえ、ただ神様の恵み故にここまで生きて来ることができたことを回顧していることばが「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」なのです。

 何故、ダビデはバテ・シェバ事件(ダビデはバテ・シェバが水浴しているのを見てしまい、欲求を抑えられずに、彼女を王宮に召し入れて妊娠させてしまい、あげくの果てに、その事実を隠すため、彼女の夫ウリヤを戦場で死ぬように画策し、戦死させ、彼女を奪うという大きな罪を犯した)から神様の恵みにより立ち直ったのに、自分の家庭を治めることができなかった(息子アブサロムから命を狙われる)のでしょうか・・

 河村従彦師はこう述べておられる。「人間は人間の現実と弱さを制御できない。やりたいと思うことをできない。しかし同時に、やめたいと思うことをやめられない。」

 ダビデが王様であった時代の王宮の文化があり、ダビデも複数人の妻とそばめがいました。しかし、腹違いの子どもによる問題が息子アブサロムの謀反を招き、結果、アブサロムも死ぬことになりました。(Ⅱサムエル18:6~15)ダビデは泣きながらこう言い続けた。「わが子アブサロム。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブサロム。わが子よ、わが子よ。」(Ⅱサムエル18:33)

 マタイの福音書の冒頭のイエス・キリストの系図は罪と恥の暴露の系図でしたが、ユダヤの英雄ダビデは自分の人生の現実と弱さをコントロールできなかったことを聖書は述べているのです。それは私たちにおいても同じでしょう。聖書は、クリスチャンになれば現実と弱さに勝利しますよなどということを伝えようとしているのではありません。私たちもダビデと同じであり、自分の人生の現実と弱さをコントロールできないけれど、イエス様がコントロールして下さっていると受けとめ続けていくことができることを伝えているのです。

 「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」老年のダビデが回顧したことばは、私の人生は罪、弱さ、失敗の連続だったけれど、コントロールして下さる完璧な羊飼いなる神様がおられたからやってこられたという思いからのことばなのです。

 

 

 

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