「私たちの代わりに怒りを受けたキリスト」
- 佐々木 優
- 2022年4月9日
- 読了時間: 4分
2022年4月10日(日)
テキスト:ローマ人への手紙3:23~26(新約聖書302頁)
マルコの福音書15:15~20節にはこのように記されている。
兵士たちは、イエスを中庭に、すなわち、総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。そして、イエスに紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、それから、「ユダヤ人の王様、万歳」と叫んで敬礼し始めた。また、葦の棒でイエスの頭をたたき、唾をかけ、ひざまずいて拝んだ。彼らはイエスをからかってから、紫の衣を脱がせて、元の衣を着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。
イエス様は死刑判決が下された後、むち打ちの刑を受けられた。むち打ちの刑は恐るべき極刑の一部であり、それは残虐な拷問であった。むちは金属や、骨付きの皮製であり、死の一歩手前まで行われ、体からは血が流れた。イエス様は更に、王様が着る紫の衣を着せられ、王冠にみたてたいばらの冠をかぶせられ、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫んで挨拶をされ、葦の棒で頭をたたかれ、つばきをかけられ、ひざまずいて拝んだりされた。からかわれ、頭からは血が流れ、精神的、肉体的な様々な屈辱を受けられた。これだけでも耐えられないような苦痛であるが、イエス様はその後、両手足に釘を打ちつけられ十字架につけられた。十字架は、ローマ帝国における死刑の方法であり、それは、生きたままで十字架につけて、何もしないで、かなり長い時間十字架にかけられ死を待つというものだった。十字架刑の受刑者は、体力がなくなるにつれて、身体を持ち上げて息をすることができなくなり、呼吸困難と血液循環障害を起こして死ぬ。その間、人々の罵声を浴びながら死を迎えるという残酷な刑が十字架刑であった。
イエス・キリストのこの残虐な十字架刑は私たちの罪のためであると聖書は述べている。「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれた」(Ⅰコリント15:3)「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。」(Ⅱコリント5:21)また、本日の聖書箇所には、「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、 神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。」とある。
「宥めのささげ物」とは、旧約聖書で人間の罪に対する神様の怒りが取り除かれるために、血を流してささげる動物の犠牲のことを指す。ここには罪に対して怒る神様がおられ、この怒りがイエス・キリストの十字架の贖い(贖いとは、「買い取ること」を意味する語。この言い回しは当時、特に、奴隷の自由を買うときに使われた。イエス・キリストの贖いの十字架を信じていない者は罪の奴隷)によって取り除かれるということが示されている。罪に対して怒る神様の姿は、「さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。」(マルコ15:33)という異常現象にも表されている。
父なる神様と御子イエス・キリストは、無限、永遠、不変の愛(人間では計り知ることのできない愛)によって結ばれており、十字架刑の時まではその愛が破られるということは、一瞬たりともなかった。しかし、イエス・キリストの十字架刑は、人間が釘づけにされるという苦しみのみならず、父なる神様との断絶が行われたのである。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)それは人類が誰一人として経験したことのない、父なる神様からの断絶状態に置かされたイエス・キリストの叫びだったのである。イエス・キリストは私たちの罪を背負い、神様の怒りを身に受け、神様との断絶刑という究極の刑を受けて下さったのである。
「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、 神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」義認とは、人が神様の前に義と宣言されることによって、神様がご自身と新しい法的関係を確立されることを言うが、神様は、罪ある人間を、イエス・キリストの贖いの死によって、信じる者を義と認めて下さるのである。