「神様の愛は常に注がれている」
- 佐々木 優
- 2022年7月16日
- 読了時間: 2分
2022年7月17日(日)
テキスト:マルコの福音書11:1~11 (新約聖書90頁)
1~3節:さて、一行がエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニアに来たとき、イエスはこう言って二人の弟子を遣わされた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」
イエス様は、ゼカリヤの預言(ゼカリヤ書9:9)の通りに、エルサレムに入城していく。ゼカリヤ9:9は、王であり救い主である方が、ろばの子に乗って来るという預言であり、イエス様は、ご自分が王であり救い主であることを示すために、ろばの子の準備を事前にされ(友人との取り決めで、弟子たちが合言葉「主がお入り用なのです」を言ったなら、まだだれも乗ったことのない子ろばを貸してほしいという取り決めをされていた)、ろばの子に乗ってエルサレムに入城して行った。
過越の祭りのためにエルサレムに集まって来ていたユダヤ人の群衆は、熱狂的にイエス様を歓迎した。群衆は、「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と叫んだ(「ホサナ」は、ヘブル語で「今、お救い下さい」という意味)。群衆はイエス様をローマ帝国の圧政から解放するメシヤとして大歓迎したのである。それは、イスラエルの敵を粉砕する征服者にふさわしい歓迎の仕方であった。
東方においては、ろばは高貴な動物とされていて、王は戦時中には馬に乗って来るが、平和な時には、ろばに乗ったそうである。イエス様はゼカリヤの預言通りに、戦いの王としてではない王としてエルサレムに入城されたのである。
昔も今も、人の思いは常に神様の御思いからはかけ離れているものなのだろう。しかし、神様は常に、一方的に神様の愛を示し続けておられるのである。