「神様の壮大な愛の御計画の中に」
- 佐々木 優
- 2017年4月1日
- 読了時間: 3分
更新日:2023年11月14日
2017年4月2日(日)
テキスト:ルカの福音書22:63~23:25 (新約聖書165頁)
○22:70~71節:「彼らはみなで言った。『ではあなたは神の子ですか。』すると、イエスは彼らに『あなたがたの言うとおり、わたしはそれです』と言われた。すると彼らは『これでもまだ証人が必要でしょうか。私たち自身が彼の口から直接それを聞いたのだから』と言った。」
イエス様は公然と、ご自分を神と等しい者と宣言し、それにより、ユダヤの最高裁判所サンヘドリンから、このことばが死罪にあたる神への冒涜と見なされた。通常の裁判では、被告のした行為が裁かれるが、ここでのイエス様の裁判はそうではなく、イエス様が自分のことを誰であると言っているかということについて裁かれた。
○イエス様は十字架にかかるためのエルサレム入城の際に言われた。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」(ルカ18:31~33)
イエス様を捕らえに来た者に向かって剣を抜いた弟子のペテロには「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」(マタイ26:52~54)と言われた。イエス様が十字架にかかることは神様のご計画であった。それは、イエス様を神であり救い主であると信じる者に、罪の赦し(神様からの的外れの回復と、犯す数々の行為罪の赦し)と、永遠のいのち(神様との交わりの中で生きるいのち)を与えるためであった。
○当時の宗教・政治の指導者たちは、イエス様に対するねたみもあったが、神への冒涜罪ということでイエス様を捕らえ、ローマに反逆をする者という訴えを総督ピラトに起こした。ピラトはイエス様の無罪を宣告しながらも、ユダヤの民衆の暴動を恐れ、自分のメンツ、自己保身のため、罪のないイエス様を有罪にし、十字架につけた。
○イエス様が私たちの罪のために十字架にかかることは神様のご計画であり、ユダヤの指導者たちやピラトの関わりがなくとも必ず実現することだった。しかし、神様のご計画に一役かうかのように、ユダヤの指導者たちやピラトの人間の醜さが、そこに関わっていくのである。
○私たちには神様の壮大なご計画の過程の詳細は計り知れない。様々な駒がかかわるようにして導かれている様々な関わり等。しかし、私たちは、私たちを愛して止まない神様の壮大な愛のご計画の中に生かされている者であり、それ故に、イエス様の十字架の贖いによって赦された私たちがいるのである。