「神さまが暗闇に光を射し込んで下さる」
- 佐々木 優
- 12月7日
- 読了時間: 4分
2025年12月7日(日)
テキスト:イザヤ書9:1~7 (旧約聖書1,180頁)
イザヤ書は、紀元前700年代に活動した預言者イザヤが記した書物であるが(預言者とは、後の時代に起こる事柄についての予告もするが、同時代の人々に神さまのことばを預かり宣告した人のこと)、この時代は、アッシリア帝国という帝国が強大な勢力を持ち、北イスラエル王国を滅ぼし、征服した国の王侯貴族、指導者、技術者たちを捕虜としてアッシリアに移住させ、そして、アッシリア人をサマリアの地に住まわせるという捕囚政策が行われた時代であった。
このような悲惨なことが起こった理由を聖書は、神さまがイスラエルの民を愛しているということを示していることに気付きながらもなお、死人に尋ね求めるということが行われた故であるとしている。その結果、霊的(神さまとの関係)、国家的、環境的暗黒の状態は長く続いた。霊的には預言者は絶え、国家的には他国に隷属して独立もならず、環境的には被支配の苦しみ、激しい困難に合った。それは「死の陰」の地と言われるほどの全き暗黒の時代であった。
しかし、神さまはさまよう民に心を痛め、預言者イザヤを通して、暗黒の中にある者たちにメッセージを送る。
(9:1 しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。9:2 闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。)
「ゼブルンの地とナフタリの地」は北イスラエル王国全体の領土を指す。
人間の努力、政治的な力ではどうにもならなかった暗闇に神さまが介入して来られる。方向は常に神さまの側からである。
「大きな光」使徒ヨハネはイエスさまを「すべての人を照らすそのまことの光」(ヨハネ1:9)であると言った。イエスさまも自らを「世の光」であると言われ、「わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」(ヨハネ8:12)と言われた。私たち自身に聴き従っていくという力はなくとも、イエスさまがやって下さるから大丈夫だという受け止めはできるかもしれない・・。
イザヤは神さまが重荷を取り除くと預言した(9:3 あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。9:4 あなたが、彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、ミディアンの日になされたように打ち砕かれるからだ。9:5 まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。)。
自分では変えられない現実、不安・・それらを神さまが引き受けて下さるということ。
そして、やがて、神であるイエス・キリスト(メシヤ)の来臨が実現することを預言した。来臨するメシヤは幼子の姿で現れるが、神の子であることを預言した。
(9:6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。)
「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる」とあるが、「生まれる」とは、人間としての誕生を表し、「主権はその肩にあり」とは、民の肩の重荷はメシヤがその肩に重荷を受け止めるから救われるということを示している。
その方の性質は、「不思議な助言者」、人間をはるかに越えた知恵をもたらす者であるということ。「力ある神」であり、「永遠の父」、永遠にわたって御自分の民を保護し、支え、愛する方であり、「平和の君」、御自身の民に平和を与えられる方である(イエスさまの十字架は完璧な罪の赦しの宣言だから、自分を赦し、自分自身と和解をするシャローム・平和)。
ここで強調されているのは、「ひとりのみどりごが生まれる。」ということである。「みどりご」とは、神であるイエスさまが人間と同じようになって下さったということ。「みどりご」は強さの協調ではない。イスラエルの民は十字架で死んだイエスさまを神ではないと否定した。
神さまはイザヤが生きた最暗黒の時代にメシヤ来臨の希望を与えられた。実際にはその預言の成就はその約300年後に成就する(紀元前538年のバビロン捕囚からの解放)のであるが、暗黒のような状況におかれた人間には、その先の将来の希望が今を生きる希望となることがあるのであろう。
イエス・キリストの降誕は私たちにも、今を生きる希望とその先の希望を与えるのである。