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「神が私たちとともにおられる」

  • 佐々木 優
  • 2022年12月11日
  • 読了時間: 3分

2022年12月11日(日)

テキスト:マタイの福音書1:18~25 (1頁)


 「処女が身ごもっている」(23節)「その胎に宿っている子は聖霊によるのです」(20節)

 イエス・キリストの降誕は処女であるマリアを通しての誕生であり、それは聖霊の神の力による御業であった。マリアの処女降誕は、イエス・キリストの出生に人間がかかわっていないということを示しており、100%神のはたらきであることを明らかにしているのである。

 イエス・キリストは人間となる必要があった。それは、罪を犯し、救いを必要としているのが人間だからである。人間が罪を犯したので、人間が罪の償いをしなければならないのであるが、すでに自分で罪を犯している人が、他の人の罪を償うことはできないのである。罪は神様に対する借金のようなもので、自分自身で借金のある人が、他の人の借金を肩代わりすることができるはずはない。よって、罪の償いをすることができるのは、罪を犯したことのない者だけである。しかし、そのような人はどこにもいない故に、神の御子イエス・キリストが罪のない人間とならなければならなかったのである。そして、私たちの罪によって引き起こされた神の怒りをなだめるために十字架にかかられたのである(ヘブル2:17)。イエス・キリストは完全な神であると同時に完全な人であった。一つの人格の中に神の性質と人間の性質を両方備えておられた。ヨハネ1:14には「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とある。

 主の使いは、生れてくる子に「イエス」という名をつけなさいとヨセフに命じた(21節)。「イエス」は旧約聖書でヨシュアと訳出される普通のユダヤ人名で、「主は救う」という意味を持つ。それは、イエス・キリストこそ「ご自分の民をその罪からお救いになる」(21節)方だったからである。イエス・キリストが私たちを救うために地上に来たのは、私たちが罪とその結果から自らを救うことができないからである。私たちはどんなに善良であっても、自分の中に存在する罪深い性質を除去することはできない。イエス・キリストだけがそれをなすことができたからである。

 22節「このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。」

 イエス・キリストの御降誕は、神様のご計画によるものであり、旧約聖書の預言の成就であった。

 23節「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。

 マタイはイザヤ書7:14のことばを引用しているが、イエス・キリストが生涯において実際にインマヌエルと呼ばれていたのではないだろう。マタイが引用した意味は実際の名前であるイエス(主は救う)と関連がある。それは、人間を神様の臨在から引き離しているのは罪であって、罪からの救いは結果として「神が私たちとともにおられる」ということになるからである。それと共に、神であるイエス・キリストは人間の肉体をとり、この地上に来て下さったことはまさに「神が私たちとともにおられる」ということをマタイを含め多くの人々に体現させられたことだった。

 イエス・キリストは私たちを罪から救い、私たちと共にいて下さるために私たちと同じ肉体をもって誕生されたのである。

 「クリスマス」それは、「神が私たちとともにおられる」という、神様から私たちへの愛のメッセージなのである。


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