「目を覚ましていなさい」
- 佐々木 優
- 2022年10月15日
- 読了時間: 2分
2022年10月16日(日)
テキスト:マルコの福音書13:33~37 (新約聖書97頁)
33節:気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。
「目を覚ましている」とは、寝入らぬように目を開く努力を表したことばである。
イエス様がエルサレムに入って来てからは(マルコ11:11~)、エルサレム神殿の指導者たちに対する警告が続いてきた。律法学者・パリサイ人たちは、口先や外見上では神様を崇めているように見せているが、心は遠く神様から離れていた。彼らの多くは、「聖書も神の力も知らなかった」(マルコ12:24)と言えるであろう。彼らは人間の知恵、知識に固執し、霊的な事柄を軽んじ、神様との生きた交わりも希薄となっていた。彼らはイエス様から見ると、「目を覚ましていない」「寝入っている」状態であった。「寝入っている」状態なので、神様との意思の疎通はないのである。
ここまでの聖書の文脈から考えると、「目を覚ましている」とは、神様との生きた交わりを持って生きているということであると考えられるであろう。クリスチャンは罪赦された罪人である故に、神様との意思の疎通が完全になされているわけではないし、わずかばかりの疎通であるとも言えるのではないか・・。しかし、それでも、神様に聴き、語りかけ、問いかけ、願い、助けを乞う生き方は「寝入ってはいない」のである。
「しもべたちそれぞれに、仕事を割り当てて責任を持たせ」(34節)とあるが、人にはそれぞれに賜物が与えられている。この賜物は隣人を自分のごとくに愛そうと努めて生きるために与えられている。隣人愛に努めた結果はそれぞれ違っていて良いのである。良い働きをしているかどうかという結果だけを神様は求めているのではない。人は、神様の愛に応えて隣人愛に努めて生きようとすることが大切なのである。
イエス様は再びこの地上に来られる。しかし、その日その時は誰にも予測できない。35節「家の主人がいつ帰って来るのか、夕方なのか、夜中なのか、鶏の鳴くころなのか、明け方なのか、分からないからです。」
「主人が突然帰って来て」(36節)イエス様が思わぬ時に再臨されても、私たちは常日頃から、神様に聴き、語りかけ、問いかけ、願い、助けを乞うて・・、生きておられる神様との交わりを持ちつつ、隣人愛に努めて生きていくのである。それが「目を覚ましている」状態なのである。