「生きる手立てのすべては神様にある」
- 佐々木 優
- 2022年10月1日
- 読了時間: 2分
2022年10月2日(日)
テキスト:マルコの福音書12:41~44 (新約聖書95頁)
宮の中の婦人の庭と言われる所には、13個のラッパ型の(上部が細く、下に行くにしたがって広がっている)集金箱があった。13の集金箱にはその用途が決められていた(犠牲を焼く薪用とか祭壇で燃やす香料用とか)。
貧しいやもめが投げ入れた献金はレプタ銅貨二つであった。レプタは最小単位の貨幣であり、現在の私たちの生活でいうと、1レプタは約78円である。この女性は持っていた全財産156円を献金したのである。
もし、私たちに全財産が156円だけしか残されていなかったなら、その156円を何に使うのだろうか。最後の156円で、せめて食パン一斤でも買っておこうとか、そのように考えるのではないだろうか。
イエス様は「この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。」(43節)と言われた。献金をしていた金持ちたちを含めたみなの者は、「あり余る中から投げ入れ」ていたが(44節)、貧しいやもめは、「乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れた」のである。
イエス様はエルサレムに入城してからは、何度となく宗教指導者たちの腐敗した姿を示してきた。
当時のユダヤにおいては、宗教は愛のない戒めを意味し、学者たちが教えるのは生きて働かない観念でしかなかったようであるから、当の教えていた律法学者などは、見せかけの宗教行為でうわべを飾るだけの人間になっていた。そこには、生きて働かれる神様との関係は希薄だったのだと思われる。
片や、「乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れた」貧しいやもめがいるが、宗教家たちとこのやもめの違いは、生きた神様との交わりに違いがあったと言えるのではないか・・。
貧しいやもめは、全財産が156円ぐらいしかなかった。しかし、そんな貧しい生活の中にも、神様との生きた関係の中で喜びがあったに違いない。貧しい中にも時折々に神様からの実際の助けもあったのかもしれない・・。
いずれにしても、全財産を献げてしまっても、神様は私を養ってくださるという神様への信頼があったのではないか・・。
私たちも生きる手立てのすべては神様にあるのだと思える信仰者でありたい。