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「死は勝利に吞み込まれた」

  • 佐々木 優
  • 2023年4月15日
  • 読了時間: 4分

2023年4月16日(日)

テキスト:Ⅰコリント15:50~58 (新約聖書352頁)

 50節「兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」「血肉のからだ」は朽ちていくものであることを示している。新約聖書では血と肉とが結合した場合、意味は必ず肉体を指すものとなる。

 「血肉のからだは神の国を相続できません。」来るべき世に行くのは、このからだではないのである。このからだでは御国に入ることはできないのである。

 51~52節「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」イエス様の再臨の時にクリスチャンたち(その時、生きている者も、すでに召された者も)は、そのからだがイエス様の復活のからだに似た栄光に輝くからだに変えられる。それは、52節にあるように、終わりのラッパ(地上で起きる出来事の全ての終わりを意味している)とともに、「一瞬のうちに」(人がまばたきをするくらい一瞬)変えられるのである。

 53節「この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。」からだそのものは、本当の人格ではなく、私たちがこの地上で一時的に生きるために与えられた身にまとう着物にすぎない。ピリピ3:21では、私たちの現在のからだを「卑しいからだ」と呼んでいるが、それは、この地上に生きている間、このからだが罪のために利用されてきたからである。このからだは多くの病を経験し、そしていつか必ず朽ち果てていくものなのである。しかし御国においては、完成された人格とともに、別の着物を着ることになる。イエス様が復活された栄光に輝くからだと同じ姿に変えられるのである。

 54節「そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。『死は勝利に吞み込まれた。』」「死」とは、肉体と魂の分離を表しますが、「死は勝利に吞み込まれた。」の「死」は、人をひどく苦しめるものとしての表現として使われており、そして、その「死は勝利に吞み込まれた。」と述べている。「勝利に吞み込まれた」とは、死の完全な敗北と滅亡を表している。

 55~56節「『死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」「とげ」とは、突き棒や針のようなものを表し、「死よ。」と「死」を擬人化し、「死」が「とげ」のようなもので人をひどく苦しめるその「とげ」とは「罪」なのであると述べている。そして、「罪」は「律法」を力の源のようにして利用をしているのだと述べている。

 神様が人間に与えた律法とは、「愛の律法」であり、それは、神様と隣人の愛を受け入れ、神様と隣人を愛することを求める律法である。「律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。」(ローマ7:12)この律法を罪が利用することによって、神と隣人を愛せない人間を罪人であると宣告するのである。律法は宣告はするが、人を救いに導く力がないのである。

 57節「しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」しかし、イエス様を信じる私たちに、神様は勝利を与えてくださった。神様と隣人を愛することを求める律法の要求を全てまっとうされたイエス様と一つとされている私たちも律法の要求を全てまっとうした者として見てくださる故に、罪に対しても関係のない者として下さったのである。人をひどく苦しめる「死」に勝利をされたイエス様は死んでよみがえられた。そのイエス様を信じる私たちを神様は、死と罪と律法に打ち勝った者としてくださったのである。その目に見える保証がイエス様の復活だったのである。

 58節「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」コリントの人は、気まぐれで、理由もなく右から左に、簡単に動いてしまう傾向があった。だから、パウロは彼らに、復活の真理、全人類と全被造物への神様の最終計画をしっかりと握りしめて歩んで欲しかった。人間の存在というものが死で終わりならば、その生涯は浪費とも言える。しかし、神様はイエス様の復活を通して、「死」は、クリスチャンにとって終わりではないことを保証してくださった。だから、パウロは、クリスチャンにとって、今生きている生涯における「労苦」はむだではないのだと励ましているのである。

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