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「死は勝利にのまれた」

  • 佐々木 優
  • 2017年4月23日
  • 読了時間: 4分

更新日:2023年11月14日

2017年4月23日(日)

テキスト:Ⅰコリント15:50~58 (新約聖書342頁)

50節:「兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」

 「血肉のからだ」は、現在、地上に生きるいのちを表す表現として、それほど珍しいものではなく、肉体の二大構成要素、腐敗しやすい二大要素に注意を向けている。このからだは朽ちていくものであることを示している。


○新約聖書では血と肉とが結合した場合、意味は必ず肉体を指すものとなるようである。


○「血肉のからだは神の国を相続できません。」来るべき世に行くのは、このからだではない。


○イエス様の再臨の時に生きていようと死んでいようと、そのままでは御国に入ることはできないということを意味している。


51~52節:「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」

 イエス様の再臨の時に生きているクリスチャンたちは、そのからだが変えられる。また、イエス様を信じていて召された者たちは「朽ちない」ものによみがえる。それは、52節にあるように、終わりのラッパ(地上で起きる出来事の全ての終わりを意味している)とともに、「一瞬のうちに」(人がまばたきをするくらい一瞬)よみがえるのである。


53節:「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」

 からだそのものは、本当の人格ではなく、身にまとう着物にすぎない。御国においては、完成された人格とともに、別の着物を着ることになる。


54節:「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します。」

 「死」とは、肉体と魂の分離を表しますが、「死は勝利にのまれた」の「死」は、人をひどく苦しめるものとしての表現として使われており、そして、その「死は勝利にのまれた」と述べている。「勝利にのまれた」とは、死の完全な敗北と滅亡を表している。


55~56節「『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」

 「とげ」とは、突き棒や針のようなものを表し、「死よ。」と「死」を擬人化し、「死」が「とげ」のようなもので人をひどく苦しめるその「とげ」とは「罪」なのであると述べている。そして、「罪」は「律法」を力の源のようにして利用をしているのだと述べている。

神様が人間に与えた律法とは、「愛の律法」であり、それは、神様と隣人の愛を受け入れ、神様と隣人を愛することを求める律法。

「聖であり、正しく、また良いもので」(ローマ7:12)ある律法を罪が利用することによって、神と隣人を愛せない人間を罪人であると宣告するのである。律法は宣告はするが、人を救いに導く力がない。


57節:「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」

 しかし、イエス様を信じる私たちに、神様は勝利を与えてくださった。死と罪と律法に打ち勝った者としてくださったというのである。その目に見える保証がイエス様の復活だった。人をひどく苦しめる「死」に勝利をされたイエス様は死んでよみがえられた。イエス様を信じた私たちの肉体の機能もいつかは必ず停止するが、感覚的にはずーっと生き続ける。私たち人間の「罪」の刑罰を代わりに受けてくださったので、罪の刑罰はもうないものとしてくださった。神様と隣人を愛することを求める律法の要求を全てまっとうされたイエス様。そのイエス様と一つとされている私たちも律法の要求を全てまっとうした者として見てくださる。故に、罪に対しても分離した者として下さったのである。


58節:「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」

 コリントの人は、気まぐれで、理由もなく右から左に、簡単に動いてしまう傾向があった。だから、彼らに、復活の真理、全人類と全被造物への神様の最終計画をしっかりと握りしめて歩んで欲しかった。人間の存在というものが死で終わりならば、その生涯は浪費とも言える。しかし、神様はイエス様の復活を通して、「死」は、クリスチャンにとって終わりではないことを保証してくださった。だから、パウロは、クリスチャンにとって、今生きている生涯における「労苦」はむだではないのだと励ましているのである。

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