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「暗闇から希望へ」

  • 佐々木 優
  • 4月20日
  • 読了時間: 3分

2025年4月20日(日)

テキスト:ヨハネの福音書20:1~18 (新約聖書227頁)

 

 ヨハネ20:9「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。」

 イエスさまのよみがえりを知るためには、現実に向き合ってみることが大切だということです。

 新約聖書を見ますと夜の食事があったことが記されています。過ぎ越しの食事は夜でした。それは十字架の闇を象徴していたと思います。しかし夜の食事だけでなく朝の食事もあります。例えばヨハネの21章の4節にありますように、ティベリアの湖畔でイエスさまが弟子たちを慰めてパンを裂い下さった慰めの朝があります。これはイースターの意味を象徴的に表しています。大変なことがあっても朝があると信じて生きることができるということです。暗い闇の期間を経て、それが自分の人生にとって何かの意味があってそして今の自分があるとそう思える。振り返るとあの時間があったから今の恵みがあると言える。それがキリスト者の生き方なのです。

 ヨハネの福音書にも、まず闇があって、そして現実を受け止めながらそれでも希望を見出して生きた人たちが記されています。マグダラのマリアもその一人です。トマスはイエスさまのよみがえりを信じることができませんでした。ペテロは思い出したくもない裏切りの記憶がありました。ヨハネはペテロとの確執がありました。これらの人たちは皆それぞれイエスさまの命によって生きる恵みを与えられた人たちです。例えばイエスさまは挫折したペテロに、罪を犯したペテロにあなたの人生には意味があると語られました。足りないところを取り上げて指摘するのは聖書の神さまではありません。ばちを与えるのも聖書の神さまではありません。恵みとは何かをやった見返りに神さまが注いでくださるものではありません。人間の側に私たちの側に何の功績もないにもかかわらず神さまが注いでくださるものです。立派にキリスト者として生きることができればそれはそれで恵みです。しかしそれだけではありません。人間は弱い者です。しかしそれでもいい、それでいいのです。イエスさまのよみがえりと恵みに触れると頑張りの人生はそこで終わります。これが恵みの世界です。

 マグダラのマリア(「七つの悪霊を追い出してもらった」ルカ8:2、イエスさまの宣教活動の初めの頃から一緒に行動していたと思われる)は失意と絶望の中に置かれていました。しかし、そこで全く新しい展開がある。そういう場所でよみがえりは大きな力を与えるのです。創世記3:9、エデンの園で神さまは言われました。「あなたはどこにいるのか」そして、イエスさまのよみがえりの園でイエスさまはマリアに語りかけられます。なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか(15節)それは、「あなたとわたしはまた一つにされた」というイエスさまの喜びの出来事だったのです。イエスさまがマリマを必要としておられたのです。このイエスさまに出会う時、暗闇から希望を見出していくのです。


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