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「愛は身の丈でいい」

  • 佐々木 優
  • 2025年5月4日
  • 読了時間: 6分

2025年5月4日(日)

テキスト:ヨハネの福音書21:15~17(新約聖書230頁)


21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」

21:16 イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

21:17 イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

 本日の聖書箇所は、イエスさまを三度知らないと否認してしまったペテロが回復に向かっていく場面が記されています。

 イエスさまは三度ペテロにわたしを愛していますかとお尋ねになりました。

 本日の箇所で、「愛」と訳したことばですが、原文(ギリシャ語)では、二種類のことばが使われています。

 1つ目は、「フィレオー」これは、あたたかさや親密さを表す、親しい者の間の愛、友情、友愛を表します。方向性で表しますと、これは同等の関係なので、与え、与えられる、双方向になります。

 2つ目は、「アガパオー」これは、一般的な言葉としてはあまり使われていない、神さまから出る愛で、相手が何かしてくれなくても自分が与える無私の愛、相手に見返りを求めない愛を表します。方向性で表しますと、こちらから相手に向かう、出て行く一方通行、そういう方向になります。

 15節、16節でイエスさまが「愛していますか」と尋ねられたことばは「アガパオー」で、それに対してのペテロの答え「愛している」は「フィレオー」が使われています。しかし、イエスさまは17節では三度目に「フィレオー」で尋ねています。それに対してペテロは同じく「フィレオー」で答えています。

 別のことばが使われているということで二つの考えがあるようです。一つ目は、アガパオーとフィレオーはそれほど厳密に当時使い分けられていたわけではない、使い分けにそれほど意味はない、そもそも当時の会話はアラム語だったと・・。もう一つは、多少の混合はあったとしてもヨハネが違うことばを記録していることにはやはり大きな意味があって、そこから汲み取ることができるメッセージがあるのではないかという考え方です。

 『新改訳2017』でも「アガパオー」「フィレオー」を区別せずに共に「愛する」という日本語に置き換えているのですが、2つのことばを使い分けて訳しているものに本田哲郎先生訳というものがあります。そこには、1回目と2回目のやり取りの「アガパオー」に、「大切にする」という日本語をあてています。そのことばでイエスさまが問いかけたのに対してペテロの返答の「フィレオー」には、「心にかけている」という日本語で訳しています。そして3回目はイエスさまが尋ね方を変えて、「フィレオー」「心にかけている」で問いかけてペテロも「フィレオー」「心にかけている」で答えるというようになっています。

 ヨハネが違うことばを使ったことにはやはり何か意味があったのだろうと思いますので、そのような立場でそこからメッセージを汲み取りたいと思います。

 何故イエスさまは1回目、2回目と「アガパオー」で尋ね、三回目は尋ね方を変えて「フィレオー」で尋ねられたのでしょうか・・

 それは、イエスさまがペテロの現状を肯定して下さったということではないでしょうか・・。イエスさまはペテロに完璧なものを求めておられなかったということではないでしょうか・・。

 ペテロは自分の大失態を身にしみて分かっていました。受難週前のペテロだったら間髪入れずにアガパオーで答えただろうと思います。しかしペテロはその場面でアガパオーなどと言えたはずもありません。「先生、私はアガパオーの愛で先生を愛することはできません。私の愛は取引き程度の愛でしかありません。」こんな思いだったに違いありません。そしてこれが二度繰り返されます。それでイエスさまはその愛で十分だよ、「アガパオーです」なんて言わなくていい、偽りのない生き方はその正直さなのですよと伝えようとされたのだと思います。

 イエスさまは、ご自身を裏切ったことよりも、裏切らないと啖呵をきっていた姿、これが偽りだったのですよと伝えようとされたのかもしれません。

 イエスさまからペテロへの問いかけの第一声は、「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」でした。「この人たちが愛する以上に」・・。マルコの福音書14:29には、「すると、ペテロがイエスに言った。『たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。』」と記されています。ルカの福音書22:24によると、最後の晩餐の食卓で、「自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という論議」が弟子たちの間で起こったと記されています。弟子たちは、もう間もなく、師であるイエスさまがローマの国を武力で破り、ローマの国からユダヤを解放し、ユダヤの王に就くだろうと思っていたのだと思われます。そしてその時に備え、誰がどのポストに就くのかと、各々がライバル心をむき出しにして牽制しあっていたのでしょう。ペテロは、ローマとの戦いが起こった時に、仮に、自分以外のすべての弟子が怖気づき逃げるようなことがあっても、私だけはそんな腰抜けではないと啖呵を切り、No.1のポストをねらうための自己アピールをしたのだと思われます。

 イエスさまはペテロに自分を大きく見せようとしなくてもいい・・。あなたのそのままでいい・・。あなたの素のままでいい・・。と伝えようとされたのではないでしょうか・・。

 聖書が提示している神さまから与えられるアガパオーの愛は、人間が生み出せるものではありません。人間が意志力を働かせて頑張ったところで1ミリもゲットできるものではありません。イエスさまが1回目2回目と「アガパオー」で尋ねられたのは、そもそも神さま的な愛で人を愛そうとしてもそれは無理なのですよと伝えようとされたのではないでしょうか・・。聖書は、自分は愛されていながらも人を愛することが難しいということもそのまま認めていて良いのだと示しているのです。イエスさまにやっていただく以外にはないのです。イエスさまが喜んでやって下さるのですから・・。

 イエスさまはペテロにこのように伝えようとされたのだと考えられます。「わたしはあなたを批判していません。そのことを知ってほしいと思います。わたしがあなたをアガパオーの愛で愛していることは今も変わりません。だから、あなたは、もっと自分を赦して、素のままの自分を受け入れてほしい。アガパオーの愛を目指すのではなく、今の自分に正直に、フィレオーでいいのですよ」と・・。 


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