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「愚かな者とともに死ぬのか」

  • 佐々木 優
  • 2023年11月12日
  • 読了時間: 2分

2023年11月12日(日)

テキスト:伝道者の書2:12~17(旧約聖書1,140頁)

 

 ソロモンは、神様が知恵の心と判断する心をお与えになったが故に、彼の知的優秀さは後代までの語りぐさとなったほどの人物だった。そんなソロモンから見ると、ほとんどの人間の生き方は愚かに見えたかもしれない。

<13節:「私は見た。光が闇にまさっているように、知恵は愚かさにまさっていることを。」>

 ソロモンは、知恵は人間が歩く時の「光」のようなものであり、限界はあるもののやはり知恵は欠くことのできないものであるという理解をしているのであろう。

<14節:「知恵のある者は頭に目があるが、愚かな者は闇の中を歩く。」>

 「愚かな者」とは、邪悪が楽しみ(旧約聖書箴言10:23)であるような者のことであり、「知恵のある者」は、自分の人生の見通しをつけることができるという点で優れていると述べる。「しかし私は、すべての者が同じ結末に行き着くことを知った。」(14節)

 すべての人間に死はおとずれるということがわかったと述べる。

15節:「私は心の中で言った。『私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、なぜ、私は並外れて知恵ある者であったのか。』私は心の中で言った。『これもまた空しい』と。」>

 ソロモンは生きていることにしか希望がないと考えていたのであろう。すべての人間に死がおとずれ、死んで終わってしまうとすれば、神様から授かった知恵も死ということに対して無力であるならば、その知恵が何の益になるのか?これもまた空しいと述べている。

16節:「事実、知恵のある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、一切は忘れられてしまう。なぜ、知恵のある者は愚かな者とともに死ぬのか。」>

 この地上で、いかに賞賛を受けても、時が経つとすべてが忘れ去られてしまうということのみならず、愚かに見える者とともに同じく死んでいなくなる。そのように考えるとソロモンには「私は生きていることを憎んだ。日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだからだ。確かに、すべては空しく、風を追うようなものだ。」(17節)という思いが湧き出てくるのである。

 私たちも神様から知恵を頂いている。しかし、ソロモンほどの知恵ではないであろう。しかし、死んだらすべての終わりだと思っていたとしたら、そして、邪悪が楽しみであるような者と同じ結末だと思ったとしたら、それをどのように感じるだろうか・・・。

 邪悪が楽しみであるような者と自分は違うと思っているのではないだろうか・・・。そうなのだろうか・・・。

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