「同情し涙を流す神」
- 佐々木 優
- 2017年7月8日
- 読了時間: 2分
2017年7月9日(日)
テキスト:ヨハネの福音書11:28~37 (新約聖書202頁)
〇次女のマリヤも姉のマルタ同様に、弟ラザロを亡くし、失意のどん底にあった。母親代わりを務めてきた姉のマルタは泣きたい気持ちをこらえ、気丈にイエス様と接していたのかもしれないが、マリヤは泣き伏せっていたのかもしれない。(「マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。」(31節))
「マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。』」(32節)
マリヤは泣きながらこの言葉を絞り出したのであろう。マリヤにもマルタ同様、イエス様が何故かけつけてくれなかったのかという、やりきれない思いがあったのであろう。
33~35節「そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。『彼をどこに置きましたか。』彼らはイエスに言った。『主よ。来てご覧ください。』イエスは涙を流された。」
○イエス様はこの後すぐにラザロを生き返らせることを知っていたにもかかわらず、何故、涙を流されたのだろうか。悲しんでいる人々に対し、これからラザロを生き返らせるから、もう悲しまなくていいということを伝え、それが理解されれば、悲しむ人々の悲しみは収まり、結果、イエス様ご自身も涙を流すこともなかったのではないか(いつもありのままの姿でいられるイエス様に男の涙は恥ずかしいというものはないのであろう)。しかし、愛するマルタ・マリヤが悲しみのどん底にあり、マリヤが泣き続けている姿に、おもわず涙を流されたのであろう。
〇ローマ人への手紙12章15節には「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」ということばがある。イエス様は私たちの悲しみ苦しみに、まず、同情される御方なのである。同情し、そして、励まそうとされる御方なのである。この御方が私たちと共に歩んで下さっている神なのである。