「各々の性格に寄り添って下さる主」
- 佐々木 優
- 2022年5月14日
- 読了時間: 4分
2022年5月15日(日)
テキスト:ヨハネの福音書20:24~29(新約聖書228頁)
24~25節:十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
トマスはこのように言ったが、その真意はその言葉通り、「その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」という意味で言ったのではないように思う。他の弟子たちの復活目撃証言を信じていないということではなく、ただ、現実に自分の目で見なければ、自分の中では100%信じたという域には行かないんだということを言いたかったのではないか。また、イエス様が来られた時に自分だけその場に居合わせなかった、あるいは、悲嘆にくれ、弟子仲間に会うことすらできなかったのかもしれないが、イエス様に会えなかった残念な気持ち、寂しさやら、様々な思いもこの表現の中には含まれているように思う。イエス様も最初から弟子たち全員が揃っている時に復活の姿を現したかったのではないかと思うが、なるべく早く、復活の姿を弟子たちに現す必要があることをご存知のイエス様は、復活の日の夕方には、トマスは居合わすことができなかったが復活の姿を現されたのであろう。
26節:八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
「平安があなたがたにあるように」という言葉はユダヤの日常的な挨拶であり、「神があなたがたにあらゆるよいものを備えて下さるように」という意味であるが、イエス様はトマスが居合わすことができなかった時に復活の姿を現された時と同じ現れ方で、そして、同じことばをトマスにかけてあげたかったのではないか。イエス様はトマスが悲嘆にくれ、弟子仲間と共に復活のイエス様に会うことができなかったのかもしれないトマスの様々な思いを知っておられ、そして、その思いに寄り添うように語りかけて下さっているように思える。
27節:それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
イエス様はトマスが言った「その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」という言葉の中にある複雑な様々な思いを、そしてトマスという人がどういうタイプの人間であるかを知っているということをトマスに伝えるために、あえて、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。」と言われたのではないか(トマスよ、あなたが言ったことを実行しなさいということではなく)。そして、そのことを伝えた後に、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われたことによって、トマスは「私の主、私の神よ。」(28節)と応えていくことに繋がっていったのではないか。トマスはイエス様の叱責ではなく、イエス様の深い愛に導かれるように信仰告白に導かれたように思う。
29節:イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
トマスとの一連のやりとりによって、結果、「見ないで信じる人たちは幸いです。」というイエス様のことばが後代の「見ずにイエス様を神であると信じる者」に残されることになった。
かつてトマスは、イエス様の友人ラザロが病気であるとの知らせが届き、イエス様がユダヤに行こうと言われた時、ついこの間、イエス様を石打ちにして殺そうとしていた場所に戻るのですかと他の弟子たちがしりごみする中、「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」(ヨハネ11:16)と、何のためらいもなく言った。また、イエス様がこの世を去って父のもとへ行くと言われた時(ヨハネ14:1~6)には、その意味が分からなかった故、率直に、「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」と語り、その結果、イエス様のことば、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」を引き出すことになった。トマスは分からないことを分かっているようなふりをする人物ではなかったのであろう。
イエス様はトマスという人がどのような人であるのかをよく知っておられ、そして、トマスに必要な寄り添い方をされ、その心に触れて下さるのである。そして私たち各々にも。