「人からの評価を求めないで生きる」
- 佐々木 優
- 2022年9月24日
- 読了時間: 3分
2022年9月25日(日)
テキスト:マルコの福音書12:38~40 (新約聖書94頁)
イエス様は民衆と弟子たちに「律法学者たちに気をつけなさい。」と語られた。
そして、律法学者たちの見せかけの宗教行為を述べられた。
「長い衣」は特権階級のしるしであり、「広場であいさつされること」これは単なるあいさつではなく、「先生」と言われたり、「わが主よ」と言われて敬意を払われることである。「会堂で上席に、宴会で上座に座ること」会堂の上席は一段高くなっていて、出席者の注目の的となった。また宴会では最長老のラビ(先生と呼ばれていた者)が上座を占めることになっていた。「やもめたちの家を食い尽くし」律法学者たちは、ラビを支えることがやもめたちの最も敬虔な行為であると教えたり、やもめに与えられた財産分与の裁定を助けて、実は本人が受ける以上の利益を得るなど、さまざまなことをしていた。「見栄を張って長く祈ります」これも、人からの誉れを求めての行為であった。
なぜ、律法学者たちは、このように見せかけの宗教行為でうわべを飾るだけの人間になってしまったのだろうか・・。
人は、誰かに認められている、受け入れられているという実感を求めて生きてしまう者ではないだろうか・・。本来、神様は人間を、神様に受け入れられているという安心で心が満たされるように造られた。しかし、罪を犯した後の人間は、人の中にある罪故に、神様に受け入れられているという安心の代替えに、人からの評価を求めて生きる者となっているのかもしれない。
神であるイエス様は、このような人間の実態をご存じであり、人が人からの評価を気にせずに生きて欲しいと願っておられるはずである。律法学者たちの実態にも憐みの心を向けておられたに違いないと思う。では、なぜ、「律法学者たちに気をつけなさい」と言われたのであろうか・・。
それは、律法学者たちの教えを受けていた人々が、その教えによって、律法学者たちと同じような人間になっていき、最終的には、助けを必要としている弱者(やもめたちの家)を利用し、食い物にするような人間になってはいけないと注意喚起しているのであろう。そして、そのような人たちは、「より厳しい罰を受け」るからである。人が天国ではない世界に行く時に、その世界において、「より厳しい罰を受け」るからである。
私たちは「誰からの評価を求めて生きているのだろうか」
私たちが神様に受け入れられているという確信は、イエス様の身代わりの十字架に表された神様の愛を見れば持てるのである。私たちは神様からの評価を求めて生きる必要のない者とされている。当然、人からの評価を求めて生きる必要のない者とされている。