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「主に愛され続けていたイスカリオテのユダ」

  • 佐々木 優
  • 2017年10月28日
  • 読了時間: 4分

2017年10月29日(日)

テキスト:ヨハネの福音書13:1~11 (新約聖書207頁)

 

1節「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」

 この聖書箇所における「世にいる自分のもの」とは、イエス様の弟子たちのことを指している。イエス様が「その愛を残るところなく示された」対象の中には、この後、イエス様を裏切るイスカリオテのユダも含まれている。


〇イスカリオテのユダは、この後、イエス様を祭司長、律法学者たちに引き渡す役目を果たしてしまう。イエス様はそのことを知っておられた(「しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」──イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである──」ヨハネ6:64)。しかし、そのような裏切り行為をさせるために、神様がイスカリオテのユダを地上に誕生させたのでもなく、弟子として選んだのでもないと言える。天地万物の創造の時、すべてのものを造り終えた神様が、再度、それらすべてのものを見られた。と、創世記1:31に記されている。神様が、お造りになったものを改めてご覧になったということは、出来栄えを確かめたわけではない。神様がお造りになったものには失敗がないからである。「神はお造りになったすべてのものを見られた。」ということは、どこかに問題がありはしないかと調べたということではなく、神様が心を込めてお造りになったものに、改めて深い関心を寄せてくださったということを示している。お造りになったすべてのものをご覧になった神様は、「見よ。それは非常に良かった。」と語られた。それは、「なんと愛おしい存在であろうか」という思いを表されたことばであった。人間に命を与えられる時の神様の思いは、その後の人類においても同じであり、神様は常に「なんと愛おしい存在であろうか」と一人一人に深い愛の思いを寄せておられるのである。それは、イスカリオテのユダに命を与えた時にも同様であり、イエス様はイスカリオテのユダも愛し続けておられたのである。


〇イスカリオテのユダには全ての人間同様に自由意志が与えられていた。ユダはイエス様を裏切るような行動をする自由も、しない自由も選ぶことができたが、悪魔の働きかけに乗ってしまい(2節「夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた」)、イエス様を裏切る行動をとってしまう。しかし、イエス様を裏切るような行動をとってしまうのはイスカリオテのユダだけではない。他の十一弟子は、後に起こるイエス様の捕縛に際してイエス様を見捨てて逃げてしまう。ペテロは自分の捕縛を恐れイエス様のことを三度知らないと言ってしまう。 


○マタイの福音書27:3~5には「そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、『私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして』と言った。しかし、彼らは、『私たちの知ったことか。自分で始末することだ』と言った。それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。」とある。ユダは、イエス様が正しいお方であることを認め、その方を裏切った自分の罪を心から後悔した。そして、もう、これは死んでお詫びするしかないと思って自殺した。あるいは、自殺することしか思いつかないような精神状態、急性の心の病的な状態により自殺したのではないか。しかし、イスカリオテのユダは決していい加減な男ではないと言えるのではないか。自分の犯した罪に気づくと、出来る限りのことをして罪を償おうとした。まず、祭司長、長老たちのところに言って、「わたしは間違っていた。罪のない人をあなたがたに売り渡してしまった」と真正直に告白している。そして裏切りの代償として受け取った銀貨三十枚を返そうとした。これは大変に勇気のいることであり、プライドを捨てた行動であり、大変に恥ずかしいことであったと思われる。受け取った銀貨三十枚を返せば、今からでもイエス様が解放されるのではないか、解放して欲しいと願ったのであろう。しかし、それが叶わないことを知った時、生きていられなくなったのではないか。


○ユダは内面を人に見せるような人ではなかったように思われる。ユダがイエス様に自分の内面を見せながら生きていたならば・・・と思う。ユダはイエス様に愛され続けていた。

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