「主が共におられるから死を恐れません」
- 佐々木 優
- 2024年1月27日
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2024年1月28日(日)
テキスト:詩篇23篇4節前半 (旧約聖書954頁)
詩篇23:4前半「たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。」
①「死の陰の谷」とは
河村従彦師は、このように註解しておられます。「元々のことばでは、深い闇、暗黒の谷と読むこともできることばだそうです。このことばが語ろうとしているニュアンスは、死そのものについて言っているよりは、生きている間ずっとその影が付きまとう、あるいは、人間が死を意識できるということなのではないかと思います。人間は神様によって非常に高度な存在として創造され、死を意識する機能を持ち合わせています。限界があることをイメージできるというのはおそらく人間だけが持つ高度な機能です。」
この詩篇の著者ダビデは、老年になって自身の生涯を回顧した時、生きている間ずっと、深い闇、暗黒の谷のような影が付きまとっていたことを思い出したのでしょうか・・。だとしますと、特に、ダビデが命の危険にさらされていた時の経験(ダビデの先の王サウル王、そして息子アブサロムに命を狙われた)のことを思い出したのではないでしょうか・・。
そして、自身が羊飼いであった時の経験から、良い羊飼いは、羊の幸せのため、すばらしい山頂に行き着くために、危険な場所(両側にそそり立つ崖、昼間の2、3時間しか光があたらないような暗いかげの中、くずれた崖にひそんでいる狼等の獣・・・)を通る必要があったことも併せて回顧していたのかもしれません。
②「わざわい」とは
ダビデがイメージした「わざわい」とは、何でしょうか・・
ダビデは命を狙われていた時に自分の死を意識したでしょう。「旧約時代において、イスラエル人は死後の世界を、人類に共通する墓であるシェオル(新改訳「よみ」)における非常に実体の薄い、影のような存在である、と考えた。そこは暗やみで、何もしない場所であり、神をほめたたえることもなく、富める者も貧しい者も、善良な者も邪悪な者も、すべてそこに行く。何か良いことへの希望が言い表されることは、ごくまれであり、復活に対する明白な言及は、ただ、イザヤ書26:19とダニエル書12:2に見いだされるのみである。ユダヤ教の主流の信仰において、復活が特定の教理になるのは、中間時代になってからである。」(『わかりやすい旧約時代の生活ハンドブック』ジョン・ビムソン著、後藤敏夫訳、164頁)
ダビデは自分の死を意識した時、このような死後の世界を意識したと思われます。
③聖書が語る死とは
〇肉体の生命の停止
第一には、死は肉体の生命の停止です(マタイ10:28、ルカ12:4~5等)。また、死は肉体とたましい(または霊)の分離を意味します。「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。」(伝道者の書12:7)とあります。(その他、創世記2:7、3:19、ヤコブ2:26等)これらの箇所で言われていることは、死とは肉体における生命の停止であり、存在そのものの終止ではないということです。生と死は聖書によれば存在と不存在ではなく、存在の2つの状態のことです。死は異なった存在様態への移行であり、消えてなくなることではありません。
〇霊的な、永遠の死
肉体の死とは別に、聖書はもう1つの死、霊的な、永遠の死について語っています。肉体の死はたましいの肉体からの分離ですが、霊的な死は神様からのたましい分離であり、永遠の死は、この分離状態が永遠に続くことを意味します。
④「私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから」
人間は死を意識できる者であり、生きている間ずっと、深い闇、暗黒の谷のような影が付きまとっているように感じるかもしれません。しかし、それと共に天国を求めるのが人間なのです。そして、イエス様が共にいて下さると心に受けとめる者は死を恐れるだけではないと聖書は約束しています。イエス様が私の罪の身代わりとなり十字架で死に、よみがえられたと信じる者は死は恐れだけではなくなり希望を見出せるものへと変わったのです。イエス様がどこまでも共におられるというのが私たちにとっての詩篇23篇なのです。