「一緒に生きましょうという杯」
- 佐々木 優
- 2024年2月17日
- 読了時間: 3分
2024年2月18日(日)
テキスト:詩篇23篇5節後半 (旧約聖書954頁)
この詩篇の著者ダビデは、老年になって自身の生涯を回顧してこの詩を記したと考えられますが、老年になって何故、詩を記したくなるほどに自分の生涯を回顧したのでしょうか・・。回顧することが今を生きる力と将来を生きる力となったからではないでしょうか・・。ダビデの生涯は若き頃は羊飼いを職とする者、サウル王に仕える頃は戦いに明け暮れる日々(たくさんの人を殺したでしょう)、戦いに勝利をおさめ続けた結果、サウル王の妬みを買い、逃亡生活。王様の地位に就き、安定の王国になると権力を用いて人妻を奪う姦淫事件、多くの妻、そばめを持つことによる家庭崩壊とその影響で息子アブサロムを失うという苦しみ・・。そんな自分の生涯を良き羊飼いなる神様が自分を養って下さっていた。万事休すと思った時も神様が守って下さっていた・・。そんな詩が詩篇23篇なのだと思います。
5節「私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。」本日は後半部分「杯はあふれています」の意味を覚え、5節全体から思いめぐらしたいと思います。
「杯」ということば自体はそれほど稀なものではなく、日常生活で飲む時に使われたカップでした。しかし、聖書が「杯」ということばを使う時には少し違うニュアンスがあるそうです。3つくらいにまとめて理解しておくことが大切だということです。
第一に、分け前、運命など、悲しみや苦しみのニュアンス。第二に、神様の民が味わうことができる祝福と喜び。第三に、運命を共にする者が同時に飲み干す時に分かち合う苦しみや祝福です。詩篇23篇の文脈は、批判と攻撃の中で注がれる神様の恵みについて語られている箇所ですので、5節全体はこのような意味になるそうです。
「神様は敵が批判や攻撃を加えて来る時、敵のやり方とは正反対に、敵のやり方とは違って、そういう時こそ豊かな養いを与え、あなたには資格がある、大丈夫、誰よりもわたしがそのことを分かっていると言って下さいます。その時、神様の民としての祝福と喜びが溢れてきます。」
また、新約時代、初代教会時代には、イエス様ご自身が杯を差し出されたことを重く受け止め、新しい契りを結ぶという意味付けがされました。
私たちにおいて「杯」は、イエス様と共に分かち合うものなのです。その「杯」は、わたしの「杯」を受け取って、人生、わたしと一緒にやりませんか?という意味がある「杯」なのです。その「杯」を受け取る時、そこには、罪の赦しと、自分が抱えてきた問題の解決と、イエス様が共に歩んで下さり、共に天国まで導いて下さるということが内包されているのです。その「杯」を受け取っても人生には悲しみ苦しみがあります。しかし、イエス様と共に歩む兄弟姉妹と共に悲しみ苦しみを分かち合い、何よりも、イエス様が共に悩み苦しみ、私たちの悲しみ苦しみを分かち合って下さるというのです。そして、分かち合いによって「杯」の恵みはさらに豊かにされ、溢れていくというのが本日のみことばです。
イエス様は「一緒に生きましょう」と「杯」を差し出して下さっているのです。