「イスカリオテ・ユダと同じである私が」
- 佐々木 優
- 2024年10月6日
- 読了時間: 6分
2024年10月6日(日)
テキスト:ルカの福音書22:19~21、Ⅰコリント11:25~29(新約聖書165頁、343頁)
本日の聖書箇所から聖餐の意味を覚えたいと思います。
第一コリント11章25節26節。
11:25 食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。
聖餐には3つくらいの意味がある。1つ目「新しい契約に与かる」(25節)。2つ目「告げ知らせる」(26節)。これは、聖餐に与かることそれ自体が宣教あるいは証しになるということ。3つ目に「キリストの来臨を待ち望む」(26節)。聖餐は過去の内省に留まりません。キリストの来臨を待ち望む信仰の表現です。
聖餐の意義について2つのことを付け加ると、第一に、「聖餐はことばを介さない恵み」だということ。ことばを使って与えられる恵みは、礼拝、賛美、ことばで書かれている聖書のみことば。ところが聖餐だけは別で言語を介しません。聖餐を一緒に祝うことで恵みと祝福をダイレクトに受けることができる。第二に「聖餐は時と空間を超えることです」神さまは時と空間を超えておられる方です。ですから私たちの信仰も時と空間を超えることができる可能性があります。聖餐も同じです。私たちは信仰によって時と空間を超えイエスさまの最後の晩餐、最初の聖餐式に参加できるのです。この地上での聖餐に参加するとパンとぶどう液が配られます。司式をするのは牧師であったり司祭だったりします。しかし真の司式者は牧師でも司祭でもなくイエスさまなのです。パンとぶどう液をイエスさまから私たちは頂くことができるというとです。世界で最初の聖餐式はイエスさまが司式をしてくださいました。
ルカ22章19~21節
22:19 それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
22:20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。
22:21 しかし見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓の上にあります。
聖餐にはユダも参加していました。イエスさまはユダにもパンとぶどう酒を差し出されました。私たちは聖餐に与かろうとすると1つの問いに向き合うことになります。イエスさまが聖餐を司式されるために来て下さり、私を裏切る者の手がわたしとともにありますと言われたら、私たちはそれにどう答えるだろうか・・私は大丈夫ですとこういう答え方をした人がいました。しかし結局イエスさまを裏切ります。ペテロもユダと同じでした。イエスさまの恵みがわかるというのはこれが分かることです。自分もユダと変わらない。啖呵を切ったペテロも結局ユダと同じ、私もユダと同じ、このことが分かることです。最初の聖餐式ではみんなが一堂にかえし、ペテロもそこにいて、イスカリオテ・ユダもその中に入っていてイエスさまからパンを受け取った。
ヨハネの福音書13章27節にはこのように書かれています。
13:27「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」
ユダは最後の晩餐でイエスさまからパンを受け取ります。その後に自分のした事の意味を知って大泣きに泣きます。そして銀貨を返しに行きます。裏切ってしまって後で大泣きに泣いた人物がもう1人います。ペテロです。ペテロも同じなのです。そして逃げてしまいます。これは私たちの姿です。銀貨を返しに行くか、逃げてしまうか、そんなことをやるしかない情けない私だということです。イエスさまの聖餐式にはユダも招かれていました。そして最後の晩餐の席でパンが配られました。さて第一コリントに戻ります。ここで1つ問題になることがあります。
第一コリント11章27節~29節。
11:27 したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
11:28 だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
11:29 みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。
ここに、「ふさわしくないままで」と書かれていますが、かなりはっきりした表現だと思います。このみことばは聖餐式を前に私たちを真剣にさせます。場合によっては聖餐を受けることをためらう理由になりますが、このみことばの意味は少し文脈を見ておく必要があります。第一コリント11:21をご覧いただきたいと思います。
11:21 というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。
コリントの教会は混乱していました。当時の聖餐は普通の愛餐、夕食などと一緒になされたということです。
各自、自分の食事を持ち寄りまして、経済的に豊かな者が温かい配慮をして、貧しい者を助けるようなそんなことをしていたということですが、ところが我先にという表現が物語るように、強い者がエゴを通す、搾取するような場になっていたようです。それでパウロは教会のあるべき姿に戻ることが必要ではないかという必死の問題提起をし、その文脈の中でイエスさまの聖餐のことを引用されたということです。ですからこのように見ていきますと、このふさわしくないという表現は、ふさわしくないものは参加してはいけないということを言いたいのではないことが分かります。全然別の問題です。ふさわしくないとはどういうことか、このみことばの前後を見てみますと、答えが3つくらいある。1つ目に「主の愛餐・聖餐の意味を全くわきまえない」。2つ目に、「兄弟に対して全く心配りをしない」。そして3つ目に、「自分中心な思いだけで教会の愛餐に参加する」。つまり私たちがイメージするような聖餐に参加していい悪いだとかそういうことではなくて、教会は本来どういうものなのか、それをもう一度考えませんかという問題提起なのです。もし今までの自分を悔いて聖餐に与かる許可を神さまから頂こうとするならばこれは律法主義への逆戻りです。大切なのは神さまに対してはありのままであり続けることです。イエスさまの聖餐のパンをいただく時、聖餐に与かれる唯一の資格は資格がないという資格なのです。
ペテロを赦し愛し抜くイエスさま・・ユダを赦しそのまま受容するイエスさま。そんなイエスさまが私たちにも聖餐のパンとぶどう液を差し出して下さるのです。