「イエス・キリストのご降誕は十字架のため」
- 佐々木 優
- 2022年12月24日
- 読了時間: 3分
2022年12月25日(日)
テキスト:ヘブル人への手紙2:17 (新約聖書439頁)
イエス・キリストの二性一人格論論争に関して、451年に開かれたカルケドン公会議において、イエス・キリストという方について以下なような決議がなされた。「神性によれば御父と同質、人性によれば私たちと同質」「二つの本性において混同されず、変わることなく、分割されず、分離されない」
ヨハネの福音書1:1「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」ヨハネの福音書1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
「ことば」とは、イエス・キリストのことである。そのことば(イエス・キリスト)は、神とともにおり、同時に神そのものであった。そのような御方が、一人の完全な人間となって私たちの間に来てくださった。このことばを書いたイエス様の弟子のヨハネは、三年余りイエス様と寝食を共にしたが、そのヨハネがイエス様を「父のみもとから来られた(神の)ひとり子」と理解し、その栄光を地上で目撃したと記した。ヘブル人への手紙2:17には、「したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。」とある。「すべての点で兄弟たちと同じように」なられた。同じようになるとは、まさに、神であり神の御子である方が完全に一人の人間となられたということである。イエス・キリストは人間となる必要があった。それは、罪を犯し、救いを必要としているのが人間だからである。人間が罪を犯したので、人間が罪の償いをしなければならないのであるが、すでに自分で罪を犯している人が、他の人の罪を償うことはできないのである。罪は神様に対する借金のようなもので、自分自身で借金のある人が、他の人の借金を肩代わりすることができるはずはない。よって、罪の償いをすることができるのは、罪を犯したことのない者だけである。しかし、そのような人はどこにもいない故に、神の御子イエス・キリストが罪のない人間とならなければならなかったのである。そして、私たちの罪によって引き起こされた神の怒りをなだめるために十字架にかかられたのである。イエス・キリストは神であると共に、人間なのである。とはいえ、半神半人なのではなく、100%神であり、100%人間なのである。
聖書には三名の御方が神と呼ばれている。父なる神、子なる神(イエス)、聖霊なる神であるが、この三者は人格(位格)において三つに区別できるが、本質においては、同じ一人の神であって、互いに上下の差異はない。本質において一つでありながら、位格において三つであるこのような神のあり方を三位一体と呼んでいる。イエス・キリストの二性一人格も同じように、私たちの理解力をはるかに越えている。しかし、神は人間と同じ存在ではない。人間が経験的に知ることが出来ないのである。しかし、聖書のことばを学ぶ時、私たちは、イエス・キリストをこのように理解する以外にないと受け止めるのである。Ⅰコリント2:9には、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と記されている。
私たちの理解をはるかに超えているが、神であるイエス・キリストは私たちの罪のため十字架にかかるために人間の姿をとってこの地上に来て下さったのである。