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「イエスさまの方からマリアを探し声をかけられた」

  • 佐々木 優
  • 2024年4月21日
  • 読了時間: 5分

2024年4月21日(日)

ヨハネ20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」

 マグダラのマリアはガリラヤ湖の南西に位置したマグダラの出身でイエスさまによって癒されました。それ以来一貫してイエスさまと行動を共にします。遊女であったという説がありますが、ルカ7章の罪深い女とは違う人物で分けて考える必要があります。

 イエスさまはイエスさまのよみがえりの証言をマグダラのマリアに託されました。聖書で「使徒」という表現を使いますが、これのもともとのことばの意味は「送り出す」「遣わす」という意味でそこから派生しています。ですから使徒は復活の証言を託され、遣わされた人たちという意味です。もしそうだとすると、実質的に最初の使徒に任命されたのは、ペテロでもなくヨハネでもなく、もちろんパウロでもなくマグダラのマリアだったということになります。マグダラのマリアはよみがえりのイエスさまのことばを受け、復活を証言し始めます。最初の使徒になりました。

 マグダラのマリアはイエスさまを探しました。イエスさまを失って悲しみに打ちひしがれ、その寂しさをなんとか埋めようとします。夜が明けるのを待ちかねて墓に行っています。この20章17節「すがりつく」ということばが出てきますが、これは、ただ触るという意味ではなく、非常に強い、抱きつくというそういうニュアンスのことばであり、しがみついて離さなかったという感じになります。それに対してイエスさまはどういう受け止め方をして下さったのでしょうか?

 まず第一に「イエスさまがマリアを探し、ご自分から声をかけられた」ということです。マリアはイエスさまを探しましたが方向は逆でした。イエスさまがマリアを追いかけられました。

 第二に「イエスさまの神の国コミュニティと同様に、個を大切にして下った」ということです。「女の方」という言い方がされています。これは成人女性への尊敬の情を込めた、自然な丁寧な呼び方でした。更に、個人名でマリアと呼ばれました。この呼び方は、アラム語です。日常で使っていた非常に親しみのある言葉です。ちなみに20章の1節と11節は、これはギリシャ語になっています。で、それに対してマリアは「ラボニ」と応えています。この「ラボニ」もアラム語で「ラビ」の強調形で、「私の先生」というような意味があるようです。(この言い方は新約聖書に2回しか出てきませんが、あと一回はマルコ10:51

 3番目に「イエスさまがマリアを必要としておられた」ということです。イエスさまはマリアを名前で呼ばれました。名前で呼ぶというのは相手のことに本当に関心を持っている時です。名前で呼ぶということは相手のことを必要としている時です。マリアは自分がイエスさまを必要としていると思って追いかけました。しかし本当はそうではなく、イエスさまがマリアを必要としておられました。イエスさまは私たち一人一人を、イエスさまの神の国コミュニティのメンバーとして必要としておられて、何々さんと固有名詞で呼ばれます。

 四番目に「恵みの方向性を示された」ということです。イエスさまはわたしにすがりついてはいけませんとたしなめられました。どうしてだろう、冷たすぎると考えるかもしれませんが、ここに二つの意味があるのではと考えられるそうです。

 一つは、新しい恵みの世界は、まったく違う展開があるということを示されたのではないか・・。

 もう一つは、よみがえりのイエスさまに触れる経験は、瞬間で十分であり、「触れた」もうそれだけで十分で、あとは恵みに生かされていくだけであるということなのではないか・・。

 マリアは二度振り返っています。20章14節でマリアは実際にイエスさまを見ています。しかしイエスさまであることが分かりませんでした。16節でもう一度マリアはイエスさまを見ています。そこではすぐにイエスさまであることが分かりました。何故こんな違いがあったのか・・。14節ではマリアが探しています。16節ではイエスさまが声をかけておられます。これは象徴的な風景かもしれませんが、イエスさまの恵みがどういうものであるかが表現されているということです。イエスさまの恵みは、こちらが努力するだけでは達することのできない世界で、次元が違うのだということです。イエスさまの恵みは人間の努力と引き換えに到達できるものではないということなのです。 新しい恵みの世界は立派な人間になれと命令してくる世界ではありません。立派に生きよ、真面目に生きよ、これは福音書時代の律法主義で終わりです。イエスさまの恵みを一番妨げるのは、皮肉なことに私たちの立派でありたいという思いであったりするのです。

 マリアは恵みを頂いて気づいたのではないか・・。「1.イエスさまがすでにすぐ側におられること」「2.自分が探す以前に、イエスさまが近づいて下さったこと」「3.自分は、よみがえりのイエスさまのいのちに生かされている者であること」「4.自分なりの生き方をすればよいこと」

 悲しみの中にあったマリアにイエスさまは生き方を提示されました。

 大切なものを失った悲しみの中にいるマグダラのマリアに、イエスさまが、イエスさまの方から探して出会って下さった。そしてその後の生き方が自然によみがえりの証人だったのであり、最初の使徒となったということです。


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